礼拝説教 2008年10月19日 「神の約束に生きる」(ガラテヤ4:21-31)

2008.11.13

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(イントロ)

 今日から、クリスマスに入るまで、石田和男先生が今年語って来られたガラテヤ書の残りの部分を取り扱いたいと思います。ガラテヤ人への手紙は、パウロの手紙の中でも非常にユニークな手紙です。パウロの手紙は、いつも神様を褒め称える言葉で始まり、手紙を受け取る人々のために祈っていることを伝える挨拶の言葉が記されています。しかし、この手紙は、いきなり、ガラテヤの教会のクリスチャンたちに、彼らの信仰が間違っていることを伝えています。ガラテヤの教会はパウロの伝道の働きによって生まれました。パウロは新しい教会を建てあげてから、しばらく教会にとどまりますが、できるだけ早くその教会のリーダーを立てて、彼は新しい場所への伝道に出発していました。パウロは、ガラテヤ教会がある程度かたちが出来上がったのを見て、次の伝道の地に出発していたのですが、その後、ガラテヤ教会に、パウロが教えた福音と異なる福音を伝えるユダヤ人クリスチャンが入り込んで、ガラテヤ教会の信徒たちの信仰が揺れていたのです。パウロは、この事態に強い危機感を感じました。彼らが間違った福音を信じるなら、パウロの働きがまったく無意味になってしまうからです。彼は、手紙の中で、いろいろな挨拶をする時間がありません。ガラテヤ人への手紙はパウロがガラテヤ教会に緊急に書き送った警告の手紙だったのです。

 ユダヤ人クリスチャンたちがガラテヤの教会の人々に教えていた間違った福音とは何だったのでしょうか。それは旧約聖書の律法を守らなければ罪が赦されず、罪からの救いがないという教えでした。ユダヤ人は、子供のころから徹底的に旧約聖書に記された神の律法を教え込まれました。律法とは、神様がモーセを通して人間に与えた守らなければならない規則書でした。しかし、この律法は、私たちがどんなにがんばっても完璧に守ることはできません。神様が私たち人間に律法を与えられたのは、私たちが律法を完璧に守ることができない者であることをはっきりと認識するためでした。罪の性質は、簡単に言えば、自分が神のようになりたいという心です。誰からも命令されたくない、誰からも指図されたくない。自分は自分のしたいように行動するという自己中心の生き方です。最初の人間アダムとエバが、神様の命令を守らずに自分のやりたいように行動した結果、その後に生まれてきたすべての人類は、いわば、遺伝子の中に罪の性質が刻み込まれてしまったため、誰もが、親から教えられなくても、自己中心な性質を持ってうまれ、自己中心な考え、行動に束縛されてしまったのです。今日の、私たちが住む社会は本当に住みにくくなってしまいましたが、その根本的な原因は何かと言うと、一人一人が、このような自分画神にようになりたいという心、罪を持っているからなのです。私たちは罪に支配されてしまって自由を失いました。しなければならないとわかっていることができず、してはならないとわかっていることをやってしまうのです。人間は、自分の力では絶対に、この罪の性質から開放されないことを示すために存在するのが律法です。パウロはローマ書で次のように言っています。「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」また、ガラテヤ書3章24節では、パウロは次のように書いています。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」養育係とは、主イエスの時代、裕福な家庭には子供の養育係がいました。養育係りは召使いで、その家庭の子供を学校まで連れて行き、また帰りには迎えに行くという責任を持っていました。養育係りは、決して子供を教えません。子供を教える学校まで安全に連れて行くことが仕事なのです。律法は、決して人を罪から救い出して、人を自由にすることはできません。律法は、私たちに罪の意識を与えさせて、そして、私たちに自分が罪の支配から救い出されるためにはイエス・キリストの十字架が必要であることを教えることが、その目的なのです。パウロはガラテヤ教会の人々を愛していました。ところが、彼らが正しい福音から迷い出てしまったので、パウロは何とかして彼らをキリスト信仰へ立ち返らせるために産みの苦しみをしています。19節で、彼はこう言いました。「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。」パウロは手紙の中でかなり厳しい口調でガラテヤ教会の人々を叱ったので、できれば、穏やかに彼らに話したかったのですが、彼の状況では、ガラテヤに行くことはできなかったようです。


 パウロが教えている福音は次のようなものです。人間は自分で自分の罪を処理することができないのですが、そんな自分の罪をどうすることもできない私たち人間のために、神様が解決の道を備えてくださいました。その解決方法とは、罪が全くない神であるイエスが私たちの身代わりに十字架の上で罪の刑罰を受けてくださることによって、私たちがもはや罪の刑罰を受けなくてもよいようにしてくださいました。神様が私たちを愛しているので、罪に縛られている私たちを自由にするために、非常に大きな犠牲を払ってくださったのです。これを神様の恵みと言います。言い換えれば、神様が私たちに一方的な愛を表してくださったということです。これが、神様の恵みによる救いです。私たちは、罪から救われるために自分でできることは何一つありません。ただ、主イエスの十字架が自分のためであったことを感謝し、それを信じ受け入れることだけdす。ところが、ガラテヤ教会に入り込んでいた偽教師は、彼らに、「神の恵みだけでは不十分で、彼らは旧約聖書の律法に記されている様々な規則を守らないと罪からの救いはない。」と教えていたのです。もし、律法の規則を完全にまもらないと救われないとするならば、救われる人は一人もいません。なぜなら、ヤコブ書に書かれているように(2章10節)「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となる」からです。そして、主イエスの十字架は不必要なものになってしまいます。このことをガラテヤ教会の人々に徹底的に教えるため、パウロは旧約聖書の出来事を用いて、律法に生きる生き方と神の恵みによって生きる生き方を比べています。

 パウロが4章の22節から31節までで述べているのはアブラハムに生まれた二人の息子のことであり、また、二人の息子を産んだ二人の女性のことが書かれています。神様はアブラハムが75歳の時に、彼に男の子が生まれて、その男の子からひとつの国民が生まれると約束されました。ところが、神様の計画では、アブラハムに約束を与えてからその約束が実現するまでに25年という長い期間を置いていました。ところが、アブラハムも妻のサラも25年という長い期間を待つことができず、神様の約束が与えられてから10年経ったときに、妻サラがアブラハムに自分の女奴隷のハガルという女性を与えて、彼女によって約束の子供を得ようとしました。これは、神様が行われたことではなく、アブラハムと妻サラが人間的な方法で行ったことでした。女奴隷ハガルが産んだ息子は、当然、奴隷です。女奴隷ハガルは律法を表すために用いられています。奴隷が産んだ子は奴隷であるように、律法は人を奴隷のように束縛するものです。しかも、彼女から生まれた子はイシュマエルですが、イシュマエルについて、神様は次のように言われました。「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」(創世記16章12節)イシュマエルは母親のハガルでさえもコントロールできない人物になると神様は言われました。そのように、律法は、私たちのうちにある罪に対して何もすることができません。それを変えることも、なくすこともできないのです。


 一方、神様は、アブラハムが99歳になったときに、アブラハムに現れ、翌年にサラが男の子を産むことを約束されました。そして、生まれてくる男の子の名前をイサクとつけるように言われました。サラはイサクが生まれるまでは、不妊の女、子供を産まない女性でした。人間的には、サラが年を取って子供を産むことは不可能なことでしたが、全能の神には不可能なことは何一つありません。約束の通り、1年後にサラに男の子が生まれ、二人は神様に言われたように「イサク」という名前をつけました。これは「笑い」という意味です。二人には大きな喜びがあたえられました。

 ガラテヤ4章26節には「上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。」と書かれていますが、これはどういう意味でしょうか。私たちが自分の罪を認め、そしてイエス・キリストの十字架によって罪が赦されることを信じる者は、信仰によって新しく生まれた者です。主イエスは、ユダヤ人教師のニコデモとの対話の中で、「誰でも新しく生まれなければ神の国、天国に入ることはできない。」と言われましたが、ここで「新しく生まれる」と訳されている言葉は、「上から生まれなければ」という意味です。イエス・キリストを信じるクリスチャンは、みな、新しく生まれた者であり、上から生まれた者です。つまり神の霊の働きによって新しい人となったのです。そして、ここで「上にあるエルサレム」と言われているのは、もちろん、天国のことを指すのですが、私たちは、霊によって新しく生まれた者として、上にあるエルサレムに住む者となりました。だから、パウロがピリピ書で言っているように、私たちの国籍は天、つまり上にあるエルサレムにあるのです。天にあるエルサレムに住む人は、律法の束縛から自由にされました。27節でイザヤ書54章1節の言葉が引用されていますが、特にここで「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。」と言われていますが、これはもともと、預言者イザヤが、のちにイスラエル民族がバビロンという国に滅ぼされて、ほとんどの人がバビロンに強制的に連れて行かれたときのことを預言した言葉です。バビロンに連行されて失望の中に生きていたイスラエルの民を励ますための言葉でした。イスラエル民族がバビロンに連行されてしまうというのはイスラエルという国、民族にとって国が消滅してしまうかもしれない大変な出来事でした。彼らをとおして働いておられた神様の計画もだめになってしまうような出来事でした。しかし、そのような出来事も神の計画をとどめることはできません。だから、不妊の女のように悲しみと失望の中にいた人々に神様が喜べと言っているのです。その言葉をパウロはアブラハムの妻サラに当てはめて引用しています。サラが子供を産めなかったのは神様の計画を妨げるもののように見えましたが、神様が約束したことは必ず成就します。バビロンに連行されたイスラエルの民はやく70年後に自由になりました。バビロンがペルシャ帝国によって滅ぼされたからです。それと同じように、主イエスを信じるクリスチャンは、律法の支配から自由にされるのです。クリスチャンは自由な女サラから生まれたイサクと同じ立場に置かれているからです。


 イシュマエルは、自分の力によってわざを行っていこうとする人間の代表です。その結果は人間的にはいろいろなものを生み出すとしても、彼らのうちに救いはありません。イシュマエルも後に大いに繁栄し12人の息子が与えられ、それぞれが国を建てるような人間になりましたが、彼らの子孫からは救い主キリストは生まれませんでした。また、30節にあるように、彼らは神の家族から追い出され、神の遺産を受け継ぐくことはありません。
 一方、イサクはクリスチャンの代表です。私たちは自分の力で救いを得たのではなく、上から生まれたのです。神様の一方的な恵みによって新しく生まれたのです。神様からの、自分が受ける資格がないほどの素晴らしい恵み、天国の国籍をいただくとき、私たちは神様への感謝を持って生きる者となります。そして、罪と滅びから救い出してくださった神様を命の恩人として敬い、感謝と愛の心から神様の言葉に従って生きる者となりました。これがクリスチャンです。私たちは、しっかりと主イエスを見つめて生きているでしょうか。主に対して心を開いて生きているでしょうか。そうならば、神様があなたの内に働いて、神様の前に実を結ぶ人生を歩むことができるでしょう。しかし、自分の生き方を自分で決めようとして、自分の行いによって神から認められることを求めて生きているでしょうか。その時、人は、自由を失い、自分の自我と感情の奴隷となって、イシュマエルが破壊的な生き方をしたように、破壊的な方向へ進んでしまいます。律法から自由にしてくださった主イエスとの愛と尊敬を持ちながら、自由になった者の生き方をしていきましょう。