礼拝説教 2008年9月21日 『心を騒がしてはならない』(ヨハネ14章1〜6節)

2008.09.24

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(イントロ)

 ヨハネの福音書の14章は主イエスの言葉で始まっています。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」これは主イエスが十字架にかかる前日、木曜日に弟子たちに言われた言葉です。その週の日曜日、主イエスと弟子たちは、城壁に囲まれたエルサレムの街中に入りました。そのときは、エルサレムの城壁の外に集まっていた群集が、まるで王様を待っていたかのように、彼らを熱狂的に出迎えました。その様子を見て、弟子たちは、自分たちまでがヒーローになったように感じていたと思います。それからわずか5日後の木曜日に主イエスは彼らにどきっとするような言葉を言われました。ヨハネ13章33節「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」主イエスが弟子たちを残して、ひとりでどこかへ行かれるということです。しかも、その後で、主イエスは、弟子たちのリーダー格で、いつも勇敢に行動していたペテロに、「あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われました。このような主イエスの言葉を聞いた弟子たちは、ここの中で、さまざまなことを考えていました。主イエスが言われた言葉の真意は何なのか、彼らには理解できなかったからです。そこで、主イエスは、14章全体を通して、心を騒がしている弟子たちに、6つのすばらしい約束について語ることによって、彼らの心に平安を与えようとしておられます。その6つの約束とは、(1)主イエスを信じる者は天国に行くこと(2)7-11節:主イエスを信じる者は父なる神を知ることができること(3)12-15節:主イエスを信じる者は神に祈るという特権が与えられていること(4)16-18節:主イエスを信じる者には聖霊が与えられていること(5)19-24節:主イエスを信じる者は父なる神の愛を受けていること(6)主イエスを信じる者には、主が平安を与えてくださること、この6つです。その最初の約束が今日読んだ箇所ですが、主は、弟子たちに語られたように、私たちにも、はっきりと、主イエスを信じる人は天国に行くことを保証しておられます。今日は、その約束について学びたいと思います。


1. 主イエスが私たちのために永遠の場所を備えてくださる

 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。(2節)

 主イエスは、天国は宗教的な理想の場所でもなく、人が希望的にイメージしている場所でもなく、実際に存在する場所として語っておられます。聖書は天国のことをさまざまな言葉で呼んでいます。第一ペテロ1章では天国は「消えて行くことのない資産」と言われています。第二ペテロ1章では「イエス・キリストの永遠の御国」と書かれています。日本語では御国と訳されていますが、原語では「王国」です。つまり、イエス・キリストが永遠に支配する国という意味です。またヘブル人への手紙11章16節には次のような言葉があります。「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」ここでは、天国が故郷とか都と呼ばれています。そして主イエスご自身はヨハネの福音書の14章で、天国を私の父の家と呼びました。神のひとり子であるイエスにとって、天国は自分の親の家というわけです。誰にとっても、一番身近で安心できる場所は親の家ではないでしょうか。私はもともと関西育ちで、両親も大阪に住んでいましたが、私たちがこちらに引っ越してきて、親も埼玉に越して来ました。そうなると、私は、大阪に行く理由がなくなってしまいました。親がいないからです。そのように、親の家は、私たちにとって一番大切な場所だと言えます。

 私たちは、意識している意識していないにかかわらず、天国という場所があることを願っています。C.S.ルイスという人は、このことについて、次のように言っています。「人の心の奥底に、天国に対する願いがひそかに刻まれています。これは言葉で表せない願いであり、また消し去ることのできない願いです。私たちは、この願いを友達や妻と出会う前から、仕事を選ぶ前から持っており、また、もはや妻や友達や仕事のことを考えることができなくなる死の床につくまで、その願いを持っている。」そのような願いを持っている私たちに対して、主イエスは言われたのです。「私たちの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」主イエスが、私たちのために永遠に住む場所を準備してくださるのです。私たちの肉体が衰えるとき、私たちにさまざまな問題や困難が押し寄せるとき、主イエスは、私たちのために永遠に住む場所を準備しておられるのです。この世界がどのように荒れ狂っても、今、この世で生活している状況の中にどんな問題があっても、私たちには私たちのための場所が用意されているのです。心理学者によると、子供のときに家庭が安定していて自分の家で安心して生活した子供は、大人になってから、その人がどこへ行っても、そこがその人の家になるそうです。しかし、反対に、子供時代に家庭が安定していなくて、家にいても安心することができなかった子供は、大きくなってから、どこにいても本当のくつろぎや安らぎを味わえないそうです。永遠の住まいとして自分の家があるということを知って生きるときに、その確信が大きな力になります。

 しかも、その永遠の家は、主イエスご自身が私たちのために準備してくださるのです。私たちが、家にゲストを迎えるときは、それなりの準備をします。大切な人が来るときほど、家をきれいに掃除して、片付けて、時にはきれいな花を飾ったりします。それは、そのゲストが家に来たときに、心地よくすごしてほしいという気持ちがあるからです。主イエスは、私たちを天国に迎えるために、私たちの家を用意して待っていてくださるのです。よく、聖書は、この世での生活を旅に例えています。この世にあっては、私たちは旅人なのです。旅行はとても楽しいものですが、もしも、旅行が終わったあとに帰る家がなかったらどうなるでしょうか。楽しい旅行が終わって、家に帰って来たとき、荷物を置いて自分の家で腰を下ろしたときに、ほっとします。そして、「やっぱり家が一番いいな」と感じます。私たちの、この世での人生はとても大切なものですが、必ず、その人生の旅は終わるときが来ます。そのときに、大切なことは、帰るべき家があるかないかです。家があることがわかっていれば、旅行中に何も心配する必要がありませんから、心いっぱいに旅を楽しむことができます。しかし、帰るべき家がないときに旅行をしても、旅行が終わってからのことが心配で、十分に旅行を楽しむことができません。だからこそ、私たちがこの世で生きるときに、永遠の家を持っているという確信を持って生きることが非常に大切なのです。主イエスは言われました。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。


2. 主イエスが私たちを迎えに来てくださる

 主イエスは、まさにこれから十字架にかかろうとしておられた時に、弟子たちにはっきりと約束されました。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」主イエスは、これから十字架にかかろうとしておられたのですが、ご自身で、十字架で死んだ後に三日目に復活されること、そして、その後に天に上げられることを知っておられました。そして、世の終わりのときには、もう一度この世に来られることを預言しておられます。主イエスが最初にこの世に来られた目的は、自己中心な私たちの心の罪が赦される道を開くために十字架にかかって私たちの身代わりになることでした。そして、2回目は、この世の本当の支配者として、主イエスを信じるクリスチャンたちを迎えるために来られるのです。主イエスは、この世の支配者であり、人間の歴史を支配する方でもあります。私たちは、明日この世界がどうなるのか、明日自分がどうなるのか分かりませんので、将来に対して不安を感じます。しかし、主イエスにはそのような不安はまったくありませんでした。それは、この世界の歴史は、主イエスのご計画の通りに進んでいるからでした。私たちの世界は、ただ意味もなく進んでいるのではありません。この世界は終りに向かって進んでいます。その終わりは、主イエスがクリスチャンを天国に迎えるという歴史の完成に向かって進んでいます。だから、私たちは何も心を騒がす必要がないのです。

 ところで、主イエスは、なぜ、主イエスを救い主と信じるクリスチャンを迎えに来られるのでしょうか。3節で主イエスは言われました。「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」天国の情景は、黙示録の中にイエスの弟子の一人ヨハネによって詳しく書かれています。ヨハネは幻の中で天国を見るのですが、そのあまりの素晴らしさに、どう言葉で表現したらよいのか分かりませんでした。彼は自分のできる限りの想像力と表現力を使って書いたのですが、それでも、彼の天国の描写は不十分です。それほど、天国は素晴らしく、神々しいほどに輝いている場所です。しかし、天国が本当に素晴らしいのは、美しいからではありません。素晴らしいからではありません。天国がなぜ素晴らしい場所であるかというと、そこは主イエスがおられる場所だからです。私たちが誰かを本当に愛するようになると、その人と一緒にいたいと思います。一緒に生活をすることによって、喜びに満ちた新しい生活が始まります。人間という言葉自体が、人という漢字と間という漢字でできています。つまり、私たちは、他の人と関係をもって生きるときに本当に生きていることになるのです。私たちがどんなに素晴らしい建物の家に住んだとしても、ベルサイユ宮殿のような絢爛豪華で巨大な宮殿に住んだとしても、そこに他の人との愛の交わりがなかったら、その生活は空しくさびしいものです。しかし、心から愛する人と一緒に生活するならば、家がどんなに狭くても、関係ありません。愛があるからです。主イエスは、この世界を支配する方であり、歴史を支配する方です。その主イエスが、私のような罪深い小さな者に向かって、「わたしがいるところにあなたをおらせるために、私はあなたを迎えに来る。」と言われるのです。主は、「わたしがいるところに、あなたにもいてほしいのだ。」と私に向かって言ってくださるのです。何と光栄なことではないでしょうか。今、私たちは、この世にあっては、主イエスとの交わりはぼんやりとしています。主イエスがはっきりと見えていないからです。私たちは、私たちのためにいのちさえ惜しまずに捧げてくださった方、十字架の苦しみを自ら進んで受けてくださった方にお会いする時が必ず来るのです。いのちの恩人である方と顔と顔とを合わせて見るかのようにともに過ごすことができるとは、なんと素晴らしいことではないでしょうか。


3. 主イエスを信頼して生きる

 主イエスは弟子たちに何度も自分がどこへ行こうとしているかを語られましたが、弟子たちは主イエスの言葉を理解しませんでした。私たちのために天国に場所を備えるためには、十字架の道を進まなければならないことが、弟子たちには分らなかったのです。トマスは確信を持ちたかったので、主イエスに言いました。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。」それに対して主イエスが言われた言葉が有名な6節の言葉です。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」主イエスは「わたしは道です」と言われました。ユダヤ人は自分たちが神が教える道を進まなければならないことを知っていました。ですから、ダビデは詩篇の中で繰り返して、「主よ私に道を教えてください」と訴えています。主イエスは、「私はあなたに道を教える」とは言われませんでした。私が道だと言われたのです。主イエスは、私たちに遠くから「右に曲がれ」「左に曲がれ」と指図するのではありません。主が私たちと一緒に歩んでくださるのです。主ご自身が道ですから、道についてあれこれ教える必要はありません。私たちの手を握って導いてくださり、強めてくださるのです。また、主は「私は真理です」と言われました。この世界には、さまざな真理があり、それを教える人、真理を語る人はいます。しかし、主イエスは真理そのものです。ユダヤ人にとっては、真理とは、ただ、正しいこと、本当であることではありません。神の目に正しいことを意味します。神の目に正しい真理を実際に生きることのできる人は誰もいません。私たちは、この真理である方と一緒に永遠に生きる者とされるのです。また、主イエスは「わたしはいのちです」と言われました。英語では、いのちはlifeですが、これはいのちとも、生活とも訳せる言葉です。つまり、いのちとは「生きることすべて」を意味します。私たちの心臓が動いていることも生きていることですが、それが本当に価値のある生きることではありません。誰かを愛するようになると人は次のように言うでしょう。「あなたと出会って、初めて生きることが喜びになった。」その人は、愛する人との出会いによって、本当にいきること、本当のいのちを味わったのです。主イエスは、私たちにその本当のいのち、本当の生きること、本当に生きていることが喜びであり、価値がある人生を与えてくれます。主イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」心を騒がさずに生きる唯一の道は、主イエスとともに生きる人生です。




Anne Graham Lotz, daughter of evangelist Billy Graham and his wife, Ruth, was interviewed on CNN in December of 2001. She was asked about those who died on September 11th. If they were not saved by accepting Christ, the reporters wanted to know, would they go to heaven? She replied:

In my little book, Heaven: My Father's House I tell about people who want to visit my father's home in western North Carolina. They drive up the long drive and come to the gate. They knock on the gate and say: "Billy Graham, let us in. We've read your books; we've watched you on TV; we've written to you; and we want to come to your house."

And my father says: "Depart from me, I don't know you. You're not a member of my family, and you've not made any arrangements to come."

But when I drive up that same driveway and knock on the gate, I say, "Daddy, this is Anne, and I've come home." The gate is thrown right open, and I go inside, because I'm the father's child.

Jesus said that heaven is his Father's house, speaking of God. Because heaven is God's house, he has the right to decide who comes in and who stays out. He says he will welcome anyone inside his home, anyone can come, but they have to be born again into his family through faith in Jesus Christ.

That gives us a wonderful hope, that when the time comes―whether death comes as a thief in the night as it did for those in the [World Trade Center] towers, or comes as an angel of mercy after a long illness―we can be assured that at the end of the journey, we'll step right into our Father's arms. We'll be welcomed there, because we're our Father's child.