礼拝説教 2008年9月28日 『死は新しい生の始まり』(2列王記2章1ー15節)
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(イントロ)
預言者エリヤは、自分の思っていたように状況が変わらないために、神様に対して無意識のうちに反抗して、神様から遠く離れようとシナイ半島の南にあるシナイ山まで逃げていました。そんなエリヤに向かって神様はたずねました。神様は、新しい使命を与えました。それは、隣の国シリアの新しい王としてハザエルを任命すること、北イスラエルの新しい王にエフーを任命すること、そしてエリヤの後継者となる預言者としてエリシャを任命することでした。この3人は、エリヤが任命する時は、それほど影響力のある人間ではありませんでした。ハザエルはベン・ハダテ王に仕える人間でありました。エフーは軍隊のリーダーであり、エリシャは農夫でした。しかし、エフーとエリシャがそれぞれ自分に与えられた任務を実行した時に、北イスラエルのバア信仰はほとんど根絶やしにされました。エリヤは、自分の力で国の霊的な状態を変えられると思い込んでいたために、北イスラエルのアハブ王や女王イゼベルがバアル礼拝をやめないことで、失望していました。しかし、神様は、彼が知らないところで働いておられたのです。神様の計画は、エリヤの時代にすべてが完成するのではなく、その次の世代に完成することでありました。
エリヤは、神様からの使命を受けて、すぐに神様の命令通り、自分がいるべき場所へ帰りました。そして、畑を耕しているエリシャを見つけたので、エリヤは何も言わずに、自分の外套をエリヤにかけました。この外套は、預言者だけが着る特別なものだった思われます。エリヤが自分の外套をエリシャに着せたことは、エリシャがエリヤの後継者として預言者に召されたことを意味するものでした。このことをエリシャはすぐに悟りました。それで、彼は家に帰り家族に別れを告げるために宴会を開いて、それから、彼は仕事も家も捨ててエリヤに従って来ました。このようにして、エリシャがエリヤの弟子となり、約2年間、二人はともに働き、エリシャはエリヤから多くの教えを受けたと思います。そんな時、神様はエリヤに彼が天に召される時が来たことを知らされました。エリヤが天に召される前に、エリヤはエリシャと一緒に、いくつかの場所を訪れました。神様は、二人が一緒に歩いてこれらの場所へ行くように、導かれましたが、このことにはどんな目的があったのでしょうか。
1. 過去を振り返る
エリヤとエリシャが訪れた場所は、ギルガル、ベテル、エリコ、そしてヨルダン川の東側でした。これらの場所は、イスラエルの歴史において非常に重要な場所でした。エリヤは、天に召される前に、これらの場所をエリシャと一緒に訪れたいと思いました。彼は、それぞれの場所に残された信仰の記録を思い出すことを通して、エリシャに信仰に関する教えを与えると同時に、自分自身も信仰が強められることを求めていたのだと思います。私たちは、過去に自分が体験した信仰の恵みを思い出すことによって、私たちは信仰が強められます。現在、自分が置かれている状況が厳しく苦しいものだと、信仰の確信が揺らぎやすくなります。そんな時に、私たちは過去を振り返ることが必要なのです。
ギルガルは、かつて、イスラエルの民が、神様の働きによって、エジプトの苦しみから脱出して約束に地、現在のイスラエルに入って行きましたが、その時、イスラエルの民がヨルダン川を渡って最初にキャンプをした場所がギルガルでした。そこで、イスラエルの人々は神様ともう一度新しい契約を結びました。そのような歴史的な背景から、ギルガルは新しい時代の出発点を象徴していると言えます。エリヤは、ギルガルを出発地とすることで、アハブとイゼベルのために霊的な暗黒時代を通っていた北イスラエル王国が新しい時代に入るべきであることをエリシャに伝えようとしたのではないでしょうか。
次に、二人はベテルに行きました。ベテルはギルガルから西に25キロ行ったところにある町です。創世記を見ると、アブラハムもヤコブもベテルで神を礼拝しています。特に、ヤコブは、自分の父親をだまし、兄を裏切って、勝手に長男が受けるはずの祝福の祈りを受けたことで、兄エサウが激怒してヤコブを殺そうとしました。そのため、ヤコブは母親に助けられて叔父ラバンのところへ逃げていくのですが、その途中、このベテルでヤコブは夢を見て、その夢が神様から与えられたものであることを悟りました。彼は自分の兄から命を狙われて叔父の家に向かって孤独な旅をしていたのですが、実は、彼は一人ではなく、神様がヤコブとともにおられたのです。夢をとおしてそのことを知ったヤコブはその町をベテル「神の家」と名づけました。エリヤは、まもなく自分がこの世から取り去られることを知っていましたが、族長ヤコブが見た夢をとおして、エリヤは、自分も一人ではないことを思い出していました。そのことが、エリヤに新しい確信と平安を与えたに違いありません。
次に、二人はエリコに行きました。エリコもイスラエルの歴史において重要な町でした。エジプトを脱出して約束の地に入ったイスラエルの民が戦いにおいて最初に大勝利を収めたのがエリコでした。その勝利は、エリコを囲んでいた巨大な城壁の周りを6日間1度回って、7日目には7度回って、7度目に大声を上げるという、非常に変わった方法でなされました。この経験をとおして、イスラエルの民は、神様の命令がどんなにばかげているように思えても、その命令に従えば勝利を得ることができることを学びました。しかし、エリコは同時に敗北の地でもありました。エリコを劇的な方法で滅ぼして大勝利を経験した後、イスラエルの民は大きな罪を犯しました。エリコの人々から奪い取った戦利品はすべて処分して、絶対に自分のものにしてはなりませんでしたが、アカンという人が、勝手に一部を自分のものにしていました。そのことが神様の怒りを招きました。そのために、彼らはエリコという大きな街を劇的に滅ぼしたのですが、次の小さな町アイでは、敗北してしまいます。エリコでは、エリヤは何を学んだのでしょうか。それは、自分がするべきことはただ神様を信頼して、神様の命令に従って歩むことでした。それが勝利の秘訣です。しかし、神の命令を忘れて自分勝手な行動をすると、どんなに大勝利を経験した者でも敗北を味わうということもエリヤは思い出しました。
さらに二人は、東に進んでヨルダン川に来ました。イスラエルの民がエジプトから脱出するときに、神様はモーセを用いて、紅海の海の水を分けて道を作ってくださいました。人々は海の中の乾いた道を通ってエジプトから逃れることができました。それから40年後、彼らが約束の国入るときに、彼らの前には増水したヨルダン川がありました。このときも、神様がヨルダン川のの水を分けて道を作ってくださったので、イスラエルの民は、川の中にできた乾いた道を通って約束の国に入りました。ヨシュアは、この奇跡を忘れないために、川の真ん中と岸辺に2本の記念碑を建てました。この奇跡を思い出して、エリヤは、神にとって不可能なことが何一つないことを再確認しました。そして、神様はエリヤにそのことを思い出させるだけでなく、エリヤに働いて、彼を用いて同じ奇跡を行われました。
私たちも、このエリヤのように、過去を振り返ることが必要ではないでしょうか。今、目の前にあることだけを見ていると、かつてのイゼベルの脅迫に動揺したエリヤのように、信仰が揺らいでしまいます。そのような時こそ、私たちの目を神様に向けなければなりません。へブル書12章2節に次のような言葉があります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」主イエスは、信仰の創始者であり完成者だと言われています。この見るという言葉には「信頼する」という意味が含まれています。私たちは主イエスを見上げることによって救われました。イスラエルの民が神に対して罪を犯したときに、神は彼らの間に毒蛇を送られました。蛇にかまれた人々は死にかけたので、彼らは神に助けを求めました。すると神は指導者モーセに青銅の蛇を作らせ、それを旗ざおにつけて高く掲げるように命じました。そして青銅の蛇を見た人々は救われたのです。主イエスを見上げて生きるというのは1回きりの行為ではありません。私たちが毎日行うべき信仰の姿勢です。主イエスはいつも父なる神を信頼し、父なる神に向かって祈りをささげておられました。だからこそ、主は十字架の苦しみにまで耐えることができたのです。父なる神を見上げておられた主イエスは、その後復活することを知っておられました。それをヘブル書は主イエスが「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに」十字架の苦しみと辱めを耐えられたと書いています。主イエスは十字架の後、三日目に復活し、その後天に帰り父なる神の右に座すことを確信しておられました。その確信が主イエスにとっては、十字架の辱めを耐える力を与えるほどの喜びでした。私たちは、主イエスを信じる信仰があっても、この世ではさまざまな悩みや困難を経験します。しかし、私たちにも、主イエスの十字架によって、永遠のいのちという希望が与えられているのですから、いつも、周りの状況を見るのではなく、主イエスを見上げることが大切なのです。
2. 新しい時代に向かって
ヨルダン川を渡った後、エリヤは後継者のエリヤに尋ねました。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは次のように答えました。「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」旧約聖書の律法によると、長男は他の兄弟が受ける遺産の2倍のものを受ける権利を持っていました。べテルにもエリコにも預言者学校があり、預言者の仲間が数多くいましたが、エリシャは、自分がエリヤの長男だと考えていました。しかも、エリシャはエリヤから2倍の財産を求めているのではありません。彼が求めたのは、エリヤが持っていた紙への信仰、神に忠実に仕える姿勢、神の御心に従う心、そして彼に注がれていた聖霊の力でした。このようなものを求めるということは、エリシャはエリヤからゆだねられた働きに生きることを決意していたのです。彼はエリヤが始めた働きを、神様に助けられ、導かれながら続けることを決心していました。彼の要求に対してエリヤは「あなたはむずかしい注文をする」と答えています。なぜ難しいかと言うと、霊的な祝福を与えることは人間エリヤにはできないからです。それは神ご自身の働きです。しかし、エリヤはエリシャに言いました。「もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」その後、二人はなおしばらく一緒に歩いていましたが、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行きました。エリシャは確かにエリヤが天に上げられるのを見たのです。神はエリシャの願いを聞き入れました。そして、彼がエリヤの後を継いで預言者の働きをするために必要な霊的力をエリシャにお与えになりました。エリヤは敬愛する恩師エリヤを失って悲しみましたが、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいます。エリヤのことを「イスラエルの戦車と騎兵たち」と呼びました。彼の言葉が意味するのは、神とともに働く一人の人間はイスラエルの軍全体の力に匹敵するのだということです。このエリヤに与えられていた霊的な賜物が、今はエリシャに与えられました。このようにして、神様は、ご自身の働きをご自身の計画どおりに続けられるのです。周りがどんなに暗黒の時代であっても、神の計画が変わることは決してないのです。
エリヤが、生きているままに天に引き上げられたことは、どのような意味があるのでしょうか。エリヤの時代のユダヤ人は死んだ後のことについてほとんど何も知りませんでした。エリヤが引き上げられたことは、肉体が死んだ後に行く世界があることをはっきり示しています。聖書の中にはエリヤを含めて生きたままで天に引き上げられた者が3人います。創世記に登場するエノクとエリヤと主イエスです。生きたまま彼らが引き上げられたからには、かならず目的地があるはずです。そうでないと引き上げられる意味がありません。私たちの肉体はいつか朽ち果てるときが来ますが、私たちの霊は朽ち果てることがありません。私たちの霊は神とともに生きるところ、神と顔と顔を合わせてみることができる世界へと引き上げられるのです。
エリヤのように生きたまま天に引き上げられることをTranslationと言います。面白いなと思いました。普通はこの言葉は翻訳や通訳という意味で用いられます。私も時々通訳を頼まれますが、英語から日本語に置き換える作業です。耳で聞いた英語を頭の中で日本語に置き換えて、口から日本語にして出す作業です。しかも、翻訳をする作業にあまり時間を置くことはできません。ベストは、聞いたらすぐに口から出すことです。英語から日本語へ移す作業に中間の時間というのはありません。それと同じように、主イエスを信じるクリスチャンも、形は違いますが、Translationを経験するのです。この世での肉体をともなう生活から、一瞬にして、霊の世界へと移されるのです。それは、ちょうどドアを通るようなものです。今の世界からドアを通って向こうへ行くと、そこは神様とともに生きる世界に入っているのです。ちょうど、ナルニア国物語でこどもたちがたんすを通ってナルニア国へ入るようなものです。私たちは、誕生という一つの行いによって、この世に入って来ました。今度は、肉体の死という一つの行いによって神の世界に入るのです。主イエスが十字架にかかる前にヨハネ、ヤコブ、ペテロと共に山に登りましたが、突然、3人の弟子たちが見ている前で主イエスが栄光の姿に変わり、同時に、モーセとエリヤが彼らの前に現れました。エリヤもモーセも生きていたのです。今も神とともに生きています。私たちも、やがて、この世を去るときを迎えるのですが、それはTranslationであることを覚えていてください。私たちは、この世を去るだけでなく、目的地に一瞬に移されるのです。そして、そこに行けば、これまで一緒に信仰生活をした友達にも再会することができます。石田先生にも本田先生にも会うことができて、じっくりお話を聞くことができることでしょう。
次のような話を読みました。2001年9月11日ロンドンからシカゴへの929便には200人の乗客が乗っていました。カナダの海岸線が近づいてきたときに、パイロットがアメリカで非常事態が発生したので、カナダの大西洋岸のニューファンドランド州の空港に着陸するとアナウンスしました。シカゴの新聞によると、その便には、家族、新婚夫婦、結婚式に出席する人々、ビジネスの人など様々な人が乗っていました。空港に着陸後、彼らは20時間機内で過ごしました。その空港には約40の飛行機が着陸していましたが、数千人にのぼる乗客は、さらにその町に4日滞在して後ようやく、自分たちの目的地に向かいました。このような非常事態の中で一緒に時間を過ごした彼らは、連帯感を持ち互いに助け合うようになっていました。翌2002年の6月、929便に乗っていた200人が再会の時を持ちました。彼らは、他の人には理解できない経験を共有していました。一人の人が次のように言いました。「私は、自分の体験を家族や友達にも話しました。でも、やっぱりここで皆に再会して、はじめて本当にお互いの気持ちを理解しあえるのを感じました。929便に乗った人々はわずか数日を共にしただけですが、このような心の絆を持っています。それなら、地上で同じ信仰を与えられた私たちが、天国で主イエスとともに、信仰の仲間と再会するときには、どれほど素晴らしいことを体験できることでしょう。信仰を与えてくださり、信仰を完成してくださる主イエスから目を離さずに、天国の希望をしっかり握って歩み続けましょう。
(イントロ)
預言者エリヤは、自分の思っていたように状況が変わらないために、神様に対して無意識のうちに反抗して、神様から遠く離れようとシナイ半島の南にあるシナイ山まで逃げていました。そんなエリヤに向かって神様はたずねました。神様は、新しい使命を与えました。それは、隣の国シリアの新しい王としてハザエルを任命すること、北イスラエルの新しい王にエフーを任命すること、そしてエリヤの後継者となる預言者としてエリシャを任命することでした。この3人は、エリヤが任命する時は、それほど影響力のある人間ではありませんでした。ハザエルはベン・ハダテ王に仕える人間でありました。エフーは軍隊のリーダーであり、エリシャは農夫でした。しかし、エフーとエリシャがそれぞれ自分に与えられた任務を実行した時に、北イスラエルのバア信仰はほとんど根絶やしにされました。エリヤは、自分の力で国の霊的な状態を変えられると思い込んでいたために、北イスラエルのアハブ王や女王イゼベルがバアル礼拝をやめないことで、失望していました。しかし、神様は、彼が知らないところで働いておられたのです。神様の計画は、エリヤの時代にすべてが完成するのではなく、その次の世代に完成することでありました。
エリヤは、神様からの使命を受けて、すぐに神様の命令通り、自分がいるべき場所へ帰りました。そして、畑を耕しているエリシャを見つけたので、エリヤは何も言わずに、自分の外套をエリヤにかけました。この外套は、預言者だけが着る特別なものだった思われます。エリヤが自分の外套をエリシャに着せたことは、エリシャがエリヤの後継者として預言者に召されたことを意味するものでした。このことをエリシャはすぐに悟りました。それで、彼は家に帰り家族に別れを告げるために宴会を開いて、それから、彼は仕事も家も捨ててエリヤに従って来ました。このようにして、エリシャがエリヤの弟子となり、約2年間、二人はともに働き、エリシャはエリヤから多くの教えを受けたと思います。そんな時、神様はエリヤに彼が天に召される時が来たことを知らされました。エリヤが天に召される前に、エリヤはエリシャと一緒に、いくつかの場所を訪れました。神様は、二人が一緒に歩いてこれらの場所へ行くように、導かれましたが、このことにはどんな目的があったのでしょうか。
1. 過去を振り返る
エリヤとエリシャが訪れた場所は、ギルガル、ベテル、エリコ、そしてヨルダン川の東側でした。これらの場所は、イスラエルの歴史において非常に重要な場所でした。エリヤは、天に召される前に、これらの場所をエリシャと一緒に訪れたいと思いました。彼は、それぞれの場所に残された信仰の記録を思い出すことを通して、エリシャに信仰に関する教えを与えると同時に、自分自身も信仰が強められることを求めていたのだと思います。私たちは、過去に自分が体験した信仰の恵みを思い出すことによって、私たちは信仰が強められます。現在、自分が置かれている状況が厳しく苦しいものだと、信仰の確信が揺らぎやすくなります。そんな時に、私たちは過去を振り返ることが必要なのです。
ギルガルは、かつて、イスラエルの民が、神様の働きによって、エジプトの苦しみから脱出して約束に地、現在のイスラエルに入って行きましたが、その時、イスラエルの民がヨルダン川を渡って最初にキャンプをした場所がギルガルでした。そこで、イスラエルの人々は神様ともう一度新しい契約を結びました。そのような歴史的な背景から、ギルガルは新しい時代の出発点を象徴していると言えます。エリヤは、ギルガルを出発地とすることで、アハブとイゼベルのために霊的な暗黒時代を通っていた北イスラエル王国が新しい時代に入るべきであることをエリシャに伝えようとしたのではないでしょうか。
次に、二人はベテルに行きました。ベテルはギルガルから西に25キロ行ったところにある町です。創世記を見ると、アブラハムもヤコブもベテルで神を礼拝しています。特に、ヤコブは、自分の父親をだまし、兄を裏切って、勝手に長男が受けるはずの祝福の祈りを受けたことで、兄エサウが激怒してヤコブを殺そうとしました。そのため、ヤコブは母親に助けられて叔父ラバンのところへ逃げていくのですが、その途中、このベテルでヤコブは夢を見て、その夢が神様から与えられたものであることを悟りました。彼は自分の兄から命を狙われて叔父の家に向かって孤独な旅をしていたのですが、実は、彼は一人ではなく、神様がヤコブとともにおられたのです。夢をとおしてそのことを知ったヤコブはその町をベテル「神の家」と名づけました。エリヤは、まもなく自分がこの世から取り去られることを知っていましたが、族長ヤコブが見た夢をとおして、エリヤは、自分も一人ではないことを思い出していました。そのことが、エリヤに新しい確信と平安を与えたに違いありません。
次に、二人はエリコに行きました。エリコもイスラエルの歴史において重要な町でした。エジプトを脱出して約束の地に入ったイスラエルの民が戦いにおいて最初に大勝利を収めたのがエリコでした。その勝利は、エリコを囲んでいた巨大な城壁の周りを6日間1度回って、7日目には7度回って、7度目に大声を上げるという、非常に変わった方法でなされました。この経験をとおして、イスラエルの民は、神様の命令がどんなにばかげているように思えても、その命令に従えば勝利を得ることができることを学びました。しかし、エリコは同時に敗北の地でもありました。エリコを劇的な方法で滅ぼして大勝利を経験した後、イスラエルの民は大きな罪を犯しました。エリコの人々から奪い取った戦利品はすべて処分して、絶対に自分のものにしてはなりませんでしたが、アカンという人が、勝手に一部を自分のものにしていました。そのことが神様の怒りを招きました。そのために、彼らはエリコという大きな街を劇的に滅ぼしたのですが、次の小さな町アイでは、敗北してしまいます。エリコでは、エリヤは何を学んだのでしょうか。それは、自分がするべきことはただ神様を信頼して、神様の命令に従って歩むことでした。それが勝利の秘訣です。しかし、神の命令を忘れて自分勝手な行動をすると、どんなに大勝利を経験した者でも敗北を味わうということもエリヤは思い出しました。
さらに二人は、東に進んでヨルダン川に来ました。イスラエルの民がエジプトから脱出するときに、神様はモーセを用いて、紅海の海の水を分けて道を作ってくださいました。人々は海の中の乾いた道を通ってエジプトから逃れることができました。それから40年後、彼らが約束の国入るときに、彼らの前には増水したヨルダン川がありました。このときも、神様がヨルダン川のの水を分けて道を作ってくださったので、イスラエルの民は、川の中にできた乾いた道を通って約束の国に入りました。ヨシュアは、この奇跡を忘れないために、川の真ん中と岸辺に2本の記念碑を建てました。この奇跡を思い出して、エリヤは、神にとって不可能なことが何一つないことを再確認しました。そして、神様はエリヤにそのことを思い出させるだけでなく、エリヤに働いて、彼を用いて同じ奇跡を行われました。
私たちも、このエリヤのように、過去を振り返ることが必要ではないでしょうか。今、目の前にあることだけを見ていると、かつてのイゼベルの脅迫に動揺したエリヤのように、信仰が揺らいでしまいます。そのような時こそ、私たちの目を神様に向けなければなりません。へブル書12章2節に次のような言葉があります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」主イエスは、信仰の創始者であり完成者だと言われています。この見るという言葉には「信頼する」という意味が含まれています。私たちは主イエスを見上げることによって救われました。イスラエルの民が神に対して罪を犯したときに、神は彼らの間に毒蛇を送られました。蛇にかまれた人々は死にかけたので、彼らは神に助けを求めました。すると神は指導者モーセに青銅の蛇を作らせ、それを旗ざおにつけて高く掲げるように命じました。そして青銅の蛇を見た人々は救われたのです。主イエスを見上げて生きるというのは1回きりの行為ではありません。私たちが毎日行うべき信仰の姿勢です。主イエスはいつも父なる神を信頼し、父なる神に向かって祈りをささげておられました。だからこそ、主は十字架の苦しみにまで耐えることができたのです。父なる神を見上げておられた主イエスは、その後復活することを知っておられました。それをヘブル書は主イエスが「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに」十字架の苦しみと辱めを耐えられたと書いています。主イエスは十字架の後、三日目に復活し、その後天に帰り父なる神の右に座すことを確信しておられました。その確信が主イエスにとっては、十字架の辱めを耐える力を与えるほどの喜びでした。私たちは、主イエスを信じる信仰があっても、この世ではさまざまな悩みや困難を経験します。しかし、私たちにも、主イエスの十字架によって、永遠のいのちという希望が与えられているのですから、いつも、周りの状況を見るのではなく、主イエスを見上げることが大切なのです。
2. 新しい時代に向かって
ヨルダン川を渡った後、エリヤは後継者のエリヤに尋ねました。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは次のように答えました。「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」旧約聖書の律法によると、長男は他の兄弟が受ける遺産の2倍のものを受ける権利を持っていました。べテルにもエリコにも預言者学校があり、預言者の仲間が数多くいましたが、エリシャは、自分がエリヤの長男だと考えていました。しかも、エリシャはエリヤから2倍の財産を求めているのではありません。彼が求めたのは、エリヤが持っていた紙への信仰、神に忠実に仕える姿勢、神の御心に従う心、そして彼に注がれていた聖霊の力でした。このようなものを求めるということは、エリシャはエリヤからゆだねられた働きに生きることを決意していたのです。彼はエリヤが始めた働きを、神様に助けられ、導かれながら続けることを決心していました。彼の要求に対してエリヤは「あなたはむずかしい注文をする」と答えています。なぜ難しいかと言うと、霊的な祝福を与えることは人間エリヤにはできないからです。それは神ご自身の働きです。しかし、エリヤはエリシャに言いました。「もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」その後、二人はなおしばらく一緒に歩いていましたが、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行きました。エリシャは確かにエリヤが天に上げられるのを見たのです。神はエリシャの願いを聞き入れました。そして、彼がエリヤの後を継いで預言者の働きをするために必要な霊的力をエリシャにお与えになりました。エリヤは敬愛する恩師エリヤを失って悲しみましたが、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいます。エリヤのことを「イスラエルの戦車と騎兵たち」と呼びました。彼の言葉が意味するのは、神とともに働く一人の人間はイスラエルの軍全体の力に匹敵するのだということです。このエリヤに与えられていた霊的な賜物が、今はエリシャに与えられました。このようにして、神様は、ご自身の働きをご自身の計画どおりに続けられるのです。周りがどんなに暗黒の時代であっても、神の計画が変わることは決してないのです。
エリヤが、生きているままに天に引き上げられたことは、どのような意味があるのでしょうか。エリヤの時代のユダヤ人は死んだ後のことについてほとんど何も知りませんでした。エリヤが引き上げられたことは、肉体が死んだ後に行く世界があることをはっきり示しています。聖書の中にはエリヤを含めて生きたままで天に引き上げられた者が3人います。創世記に登場するエノクとエリヤと主イエスです。生きたまま彼らが引き上げられたからには、かならず目的地があるはずです。そうでないと引き上げられる意味がありません。私たちの肉体はいつか朽ち果てるときが来ますが、私たちの霊は朽ち果てることがありません。私たちの霊は神とともに生きるところ、神と顔と顔を合わせてみることができる世界へと引き上げられるのです。
エリヤのように生きたまま天に引き上げられることをTranslationと言います。面白いなと思いました。普通はこの言葉は翻訳や通訳という意味で用いられます。私も時々通訳を頼まれますが、英語から日本語に置き換える作業です。耳で聞いた英語を頭の中で日本語に置き換えて、口から日本語にして出す作業です。しかも、翻訳をする作業にあまり時間を置くことはできません。ベストは、聞いたらすぐに口から出すことです。英語から日本語へ移す作業に中間の時間というのはありません。それと同じように、主イエスを信じるクリスチャンも、形は違いますが、Translationを経験するのです。この世での肉体をともなう生活から、一瞬にして、霊の世界へと移されるのです。それは、ちょうどドアを通るようなものです。今の世界からドアを通って向こうへ行くと、そこは神様とともに生きる世界に入っているのです。ちょうど、ナルニア国物語でこどもたちがたんすを通ってナルニア国へ入るようなものです。私たちは、誕生という一つの行いによって、この世に入って来ました。今度は、肉体の死という一つの行いによって神の世界に入るのです。主イエスが十字架にかかる前にヨハネ、ヤコブ、ペテロと共に山に登りましたが、突然、3人の弟子たちが見ている前で主イエスが栄光の姿に変わり、同時に、モーセとエリヤが彼らの前に現れました。エリヤもモーセも生きていたのです。今も神とともに生きています。私たちも、やがて、この世を去るときを迎えるのですが、それはTranslationであることを覚えていてください。私たちは、この世を去るだけでなく、目的地に一瞬に移されるのです。そして、そこに行けば、これまで一緒に信仰生活をした友達にも再会することができます。石田先生にも本田先生にも会うことができて、じっくりお話を聞くことができることでしょう。
次のような話を読みました。2001年9月11日ロンドンからシカゴへの929便には200人の乗客が乗っていました。カナダの海岸線が近づいてきたときに、パイロットがアメリカで非常事態が発生したので、カナダの大西洋岸のニューファンドランド州の空港に着陸するとアナウンスしました。シカゴの新聞によると、その便には、家族、新婚夫婦、結婚式に出席する人々、ビジネスの人など様々な人が乗っていました。空港に着陸後、彼らは20時間機内で過ごしました。その空港には約40の飛行機が着陸していましたが、数千人にのぼる乗客は、さらにその町に4日滞在して後ようやく、自分たちの目的地に向かいました。このような非常事態の中で一緒に時間を過ごした彼らは、連帯感を持ち互いに助け合うようになっていました。翌2002年の6月、929便に乗っていた200人が再会の時を持ちました。彼らは、他の人には理解できない経験を共有していました。一人の人が次のように言いました。「私は、自分の体験を家族や友達にも話しました。でも、やっぱりここで皆に再会して、はじめて本当にお互いの気持ちを理解しあえるのを感じました。929便に乗った人々はわずか数日を共にしただけですが、このような心の絆を持っています。それなら、地上で同じ信仰を与えられた私たちが、天国で主イエスとともに、信仰の仲間と再会するときには、どれほど素晴らしいことを体験できることでしょう。信仰を与えてくださり、信仰を完成してくださる主イエスから目を離さずに、天国の希望をしっかり握って歩み続けましょう。

