礼拝説教 2008年9月7日 成功の後の失敗 (第一列王記19章1−8節)
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(イントロ)
預言者エリヤがバアルの預言者450人がどちらの神が本当の神であるのかを実証するために対決したという出来事はエリヤにとって生涯でもっとも輝かしい日となりました。バアルの預言者たち450人が6時間も祈ったり叫んだり体を傷つけたりしても何も起こりませんでした。ところがエリヤが祈ると、たちまち天から火が下りました。おそらく、稲妻が落ちて来たのだと思います。祭壇の上に載せられた生贄の動物だけでなく、祭壇そのものが燃え尽きてしまいました。このようにして、エリヤはバアルの預言者450人と対決してイスラエルの神だけが真実の神であることを劇的な方法で証明しました。これを見たイスラエルの人々は、それまでイスラエルの神とバアルの神の間でどっちつかずの信仰をしていましたが、彼らの信仰の目が開かれました。その後、エリヤが祈ると、3年間雨がまったく降らなかった地に、天から雨が降ってきました。エリヤはアハブ王に洪水の災害に会わないよう直ちにイズレエルにある王宮へ行くように強く勧めました。そして、エリヤは当時の習慣に従って、アハブ王が乗った車の前を、彼らがイズレエルに着くまで走りとおしました。エリヤが預言していたように、激しい雨が降ってきましたので、エリヤはずぶぬれになっていました。恐らく、イズレエルの町のどこかの宿屋に泊まったことと思います。一方、アハブ王は冬の間滞在している王宮に戻りました。王宮には妻イゼベルが待っていたはずです。彼女は、バアルの預言者450人とエリヤの対決の結果を聞きたくてうずうずしていたことでしょう。しかし、彼女がアハブ王から聞いた話は、予想とはまったく逆でした。イゼベルは、バアルの預言者たちがエリヤとの対決に敗れ450人全員処刑されたことを聞きました。彼女は激しい憤りを感じてすぐに行動に出ました。19章の2節には次のように書かれています。「イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
イゼベルはエリヤを殺すと脅迫したのです。アハブ王はカルメル山の頂で、イスラエルの神が真実の神であることを自分の目で確かに見たはずです。イゼベルもアハブ王の報告を聞いて、イスラエルの神が真実の神であることを認めなければならなかったのですが、二人とも、どのように明白な証拠を見せられても、神の前に悔い改めることをする気持ちがまったく無く、むしろ神と対決する道を選びました。イゼベルは、エリヤのところへ使者を遣わして24時間いないにエリヤを殺すと脅迫しました。ただ、イゼベルは王の軍隊を使ってエリヤを殺すこともできましたが、もし、エリヤがその場で殺されると殉教者になります。ただでさえ、イスラエルの人々は、エリヤの祈りの直後に天から火が下った場面を目撃して、エリヤが偉大な預言者であることを認めていました。そのエリヤが殉教者になると、人々はエリヤを英雄とみなし、アハブとイゼベルは極悪人となります。ですから、イゼベルはエリヤを殺すことは考えていなかったと思います。むしろ、イスラエルの人々は、エリヤの神が真実の神であると考えるようになっていましたので、彼らはエリヤから、これからイスラエルの神を信仰していくためにどのようにすればよいのかを教えてもらいたいと思っていたはずです。イスラエルの民が神への信仰に立ち返るためにはどうしてもエリヤがそこにいなければなりませんでした。もし、エリヤがイゼベルの脅迫に恐れを感じて、逃げて行けば、イスラエルの民は自分たちの指導者がいなくなって、どうしたらよいかわからず、結局、バアルの神に頼るようになるだろう、これがイゼベルのねらいであったと思います。
イスラエルの民にはエリヤはどうしても必要な存在だったのですが、イゼベルから脅迫のメッセージが彼に届いたとき、19章の3節によると、エリヤは「恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去ってしまいました。彼は、一日前には450人の預言者との対決で劇的な勝利を収めた人間です。それなのに、次の日に、イゼベルの脅迫状が届くと、彼は、恐れて、臆病者のように逃げてしまいました。それまでエリヤはいつも神を見つめ、神への信仰をしっかり持っていましたが、このときは自分の周りの状況を見ていました。「自分が一人で、イゼベルには王の軍隊がいる。」私たちは、神への信仰が薄れると、神の導きを求めることをやめて、自分の考えに従って生きるようになります。エリヤも、それまでは、いつもまず神様からの命令があって、彼はいつもその命令に従って行動していました。ところが、いまでは、神様の声を聞かずに、自分で計画を立てて、自分の力で困難から逃れようと努力しています。クリスチャンが神の御心を求めるのをやめて自分勝手な道を選ぶ時、人は必ずつまずきます。愚かなことをするようになります。エリヤは、一人の若者を連れて、夜の間に、イズレエルから逃げ出しました。彼はイゼベルからできるだけ遠くへ離れるために、北イスラエルから南ユダへ入り、しかも南ユダ王国の南の端にあるベエルシェバまで、一気に逃げて行きました。ベエルシェバはイズレエルから十分に遠く離れた場所であり、ここは、アハブ王の支配化にある場所ではありませんでした。ですから、彼はベエルシェバにいれば十分に安全だったのですが、それでも、恐怖心に襲われたエリヤは、そこでも、安心することができませんでした。彼は、若者をそこに残してさらに南の荒野の中へ入って行きました。聖書は、私たちにとって一番安全なときは神様とともにいる時であると宣伝しています。人間の力で何とかしようとしても、本当に動かない、揺るがない平安を得ることはできません。そこは厳しい暑さの砂漠地帯です。地面も焼けるような暑さです。そこには彼を助けるカラスもいないし、ケリテ川の水もありません。また、彼を助けてくれたザレパテのやもめもいません。逃げても逃げても彼を助ける人も場所もなく、そしてどんなに遠くへ逃げても、彼の心に平安はありませんでした。疲れ果てたエリヤは、とうとう倒れてしまい、そして神様に向かってつぶやいたのです。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」彼は自分の死を願って神に向かってこう言ったと聖書は書いています。彼は、自分のいのちを守るために、イゼベルの手から逃れるために、こんな遠くの地まで来ているのに、今は、自分の死を願っているというのです。しかし、なぜ、エリヤはこんなに弱い人になってしまったのでしょうか。前日には、バアルの預言者450人を相手にして、勇敢に戦ったエリヤだったのに。彼は、いつも自分は神の前に立っていると確信していたエリヤだったのに、どうして、彼は神様に「もう十分です」などと叫んだのでしょうか。今日は、大勝利の後に、なぜエリヤがこのように変わってしまったのか、その原因を考えたいと思います。
1. 心身の疲れ
エリヤはザレパテという町でやもめの家族と平穏な生活をしていましたが、神様の命令によりアハブ王に会いに行き、そして、その後、バアルの預言者450人と対決するという大きな出来事に巻き込まれました。バアルの預言者が祈っているのを見ていたとき、自分が力いっぱい祈ったとき、バアルの預言者を処刑したとき、そして、バアル王が乗った車の前を全速力で30キロほど走ったとき、彼はどれほどの疲れを感じていたでしょうか。肉体の疲れだけではありません。1人が450人を相手にして戦う、しかもイスラエルの神の栄光を汚すことは絶対にできません。彼の心にはどれほどの緊張とプレッシャーが重くのしかかっていたことでしょう。イズレエルの町に到着して、アハブ王と別れた後、ほとんど休む時間もいままに、イゼベルからの脅迫状を受け取ったのです。イゼベルは、エリヤがバアルの預言者との対決で、緊張とプレッシャーで、神経がすり減っていたのを見抜いていたのかもしれません。エリヤは新約聖書のヤコブの手紙によると、私たちと同じ普通の人間でした。彼は心も体も疲れ果てていました。そんな時にイゼベルの脅迫の手紙が届いたので、それを読んだエリヤは、一瞬にして、恐怖の虜になってしまいました。一瞬の心の隙でした。彼は、たちまち、それまで3年間体験していた神様の特別な働きや特別な守りのことなどすっかり忘れてしまいました。彼の祈りに答えて神が天から火を降らせてくださったことも、祈りに答えて雨を降らせてくださったことも、彼がカルメル山の頂からイズレエルまで王の戦車の前を走っていたときに神の力を感じていたことも、すべてがどこかへ飛んで行ってしまいました。私たちが神様から目を離して、自分が置かれている状況を見ると、すぐに自分の考えや感情に支配されてしまいます。彼はすぐに急いで逃亡の旅に出かけていました。そして、彼が、必死でイゼベルから逃げて、荒野に入ったときには、彼の体も心も完全に限界に達していました。彼は、ついに、そこで倒れてしまいました。今まで必死でがんばって来たのですが、もう頑張りが効かないほど疲れていたからです。そのような状態では信仰を働かせることもできません。自分のことを考えるだけで精一杯です。それで、エリヤは神様に向かって「もう十分です。いのちをとってください。」と思わず神様に叫んだのでした。
2. エリヤの自己憐憫
体の疲れと、空腹感と、敗北感に襲われていたエリヤはうつ状態になっていたのではないでしょうか。エリヤには大きな期待があったと思います。カルメル山での対決に大勝利を収めたときに、彼は、すべての人がイスラエルの神の前に悔い改めて、イスラエルの神への信仰に立ち返るはずだときたいしていたと思います。ところがアハブ王もイゼベルも悔い改めるどころか、むしろ彼を脅迫しています。彼は、自分が期待していたような結果が得られないために、大きな挫折を味わっていたと思います。大勝利を味わったのに、その後、自分が願っているような結果がえられないために、彼は自分を敗北者、失敗者とみなしています。でも、この挫折感というのは、見方を変えると、それは私たちの心の中にあるプライドが原因なのです。自分が人々からどのように評価されるのか、そのことが非常に大事なことになっています。それで、彼は神様に向かって「私は先祖たちにまさっていませんから。」とふてくされて神に話しています。神様はエリヤに先祖たちに優る人になってほしいとは思っておられないのです。私たちに対しても神様は同じ気持ちだと思います。私たちは、とくに先祖や他の人に勝るひとになる必要はありません。むしろ、神様が私たちに願っておられることは、私たちが神の言葉を聞くことであり、神を見ることであり、神に信頼することです。イザヤ書45章に次のような言葉があります。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」神様が私たちに向かって、「神を見上げて救いを得なさい。」と愛の命令をしておられます。多くの人は神様を見上げないで、弱い自分、いやしい自分、あるいは周りの人、周りの状況、人間的な知恵や方法を見ているために、本当の平安や、本当の救いを経験できないのです。そして、自分の苦しい状況、困難な状況を嘆き、その怒りを他人や神にぶつけます。かつて、モーセの時代に、神に反抗したイスラエルの民の中に火の蛇が送られたため、その蛇にかまれた人は死につつありました。その時に神様はモーセに命令して青銅で造られた蛇を旗竿につけさせ、蛇の像を高く掲げるように命令して、言われました。「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」蛇にかまれた人は、ただ神様が言われる命令に従って青銅の蛇を見れば、命が助かりました。主イエスは、高くあげられた青銅の蛇にたとえられます。どんな人でも、どんな状況であっても、主イエスを見上げる人、主イエスを信頼する人は救われます。不思議に平安な心に包まれます。
エリヤは神を見ずに、周りの状況ばかりを見ていました。それで、彼は、自分が孤独だと思いんでいました。イスラエルの国に、正しい信仰を持っているのは自分だけだと思いこんでいたのです。10節に、エリヤと神様の会話が記されていますが、エリヤは神様に向かって「わたしだけが残りました。」と言っています。イゼベルがイスラエルの預言者たちを殺していたのですが、エリヤは、イスラエルのすべての人がアハブ王とイゼベルに支配されて、神を礼拝しないで偶像を拝んでいると思っていたのです。しかし、実際には、神様の言葉によると、神様以外の偶像を礼拝しない人を7000人残しておられたのです。明らかに、彼らはエリヤの力強い働きの影響を受けていたはずです。
3. 神様のお取り扱い
心や体が疲れているときに一番必要なことは休息であり、睡眠です。イエス様も弟子たちが一日中忙しく働いているのをご覧になって、次のように言われました。「さあ、あなたがただけで寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」イエス様は、弟子たちがこれ以上休まずに働き続けるとつぶれてしまうことが分かっていたからです。エリヤも、このとき、つぶれる寸前でした。そして、神様はエリヤのために食事と水を用意してくださいました。5節には「御使い」と書かれ、7節には「主の使い」と書かれていますが、旧約聖書の中で「主の使い」と書かれている場合、人となってこの世に来られる前の御子イエスであるとみなされています。エリヤは、このあと、シナイ山に行こうとしています。この山は今エリヤがいるところからさらに400キロ近く歩かなければなりません。そのためには体力が必要ですが、体力がつくように主イエスがエリヤのために働いてくださったのです。神様は私たちを愛しておられ、また、いつも私たちのことを見ておられます。私たちが、いつ、どこで助けを必要とするかを、知っておられます。それはちょうど親が子供がいつ助けを必要とするのかを知っているのと同じです。私たちが自分の力だけでは進むことができないような時に、神様は助けを与えてくださいます。私たちが必要な食べ物を用意してくださるのです。イザヤ書40章31節にはすばらしい約束が書かれています。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」ある人が「待ち望む」とは、神以外のものを全く捨てて、神だけにより頼み、神の前に静まり、神を信頼して待ち望むことであると言っています。これは祈りの姿勢です。私たちが神の約束を信じて祈るときに、主が助けを与え、新しい力を与えてくださいます。エリヤがシナイ山まで400キロ近くを歩くことができたように、走っても疲れず、歩いても歩き続けても倒れない力を与えてくださいます。
近代の宣教の父と言われたウィリアム・ケアリーという人はこう言いました。「私は歩くことができる。私に与えられた才能はどこまでも歩き続けることができるということだ。私の働きの多くはその才能から来ている。」40キロの道を歩くときでも、最初は一歩歩くことから始まります。偉大なる信仰者の多くは高く飛ぶ力を持つ人ではなく、どこまで歩き続けることのできる人でした。主を待ち望む者に神様は新しい力を与えてくださいますが、それは、いつも高く昇る力とは限りません。より早く走る力とも限りません。長く歩く力でもあるのです。でも、これは素晴らしい力です。私たちが歩き続けるならば、必ず目的地に着くことができます。疲れ果てて死にたいと神様に訴えたエリヤに、神様は400キロを歩き続ける力を与えてくださいました。私たちも、自分を見ないで、主を待ち望むときに、新しい力、より長く歩き続ける力を与えてくださいます。
(イントロ)
預言者エリヤがバアルの預言者450人がどちらの神が本当の神であるのかを実証するために対決したという出来事はエリヤにとって生涯でもっとも輝かしい日となりました。バアルの預言者たち450人が6時間も祈ったり叫んだり体を傷つけたりしても何も起こりませんでした。ところがエリヤが祈ると、たちまち天から火が下りました。おそらく、稲妻が落ちて来たのだと思います。祭壇の上に載せられた生贄の動物だけでなく、祭壇そのものが燃え尽きてしまいました。このようにして、エリヤはバアルの預言者450人と対決してイスラエルの神だけが真実の神であることを劇的な方法で証明しました。これを見たイスラエルの人々は、それまでイスラエルの神とバアルの神の間でどっちつかずの信仰をしていましたが、彼らの信仰の目が開かれました。その後、エリヤが祈ると、3年間雨がまったく降らなかった地に、天から雨が降ってきました。エリヤはアハブ王に洪水の災害に会わないよう直ちにイズレエルにある王宮へ行くように強く勧めました。そして、エリヤは当時の習慣に従って、アハブ王が乗った車の前を、彼らがイズレエルに着くまで走りとおしました。エリヤが預言していたように、激しい雨が降ってきましたので、エリヤはずぶぬれになっていました。恐らく、イズレエルの町のどこかの宿屋に泊まったことと思います。一方、アハブ王は冬の間滞在している王宮に戻りました。王宮には妻イゼベルが待っていたはずです。彼女は、バアルの預言者450人とエリヤの対決の結果を聞きたくてうずうずしていたことでしょう。しかし、彼女がアハブ王から聞いた話は、予想とはまったく逆でした。イゼベルは、バアルの預言者たちがエリヤとの対決に敗れ450人全員処刑されたことを聞きました。彼女は激しい憤りを感じてすぐに行動に出ました。19章の2節には次のように書かれています。「イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
イゼベルはエリヤを殺すと脅迫したのです。アハブ王はカルメル山の頂で、イスラエルの神が真実の神であることを自分の目で確かに見たはずです。イゼベルもアハブ王の報告を聞いて、イスラエルの神が真実の神であることを認めなければならなかったのですが、二人とも、どのように明白な証拠を見せられても、神の前に悔い改めることをする気持ちがまったく無く、むしろ神と対決する道を選びました。イゼベルは、エリヤのところへ使者を遣わして24時間いないにエリヤを殺すと脅迫しました。ただ、イゼベルは王の軍隊を使ってエリヤを殺すこともできましたが、もし、エリヤがその場で殺されると殉教者になります。ただでさえ、イスラエルの人々は、エリヤの祈りの直後に天から火が下った場面を目撃して、エリヤが偉大な預言者であることを認めていました。そのエリヤが殉教者になると、人々はエリヤを英雄とみなし、アハブとイゼベルは極悪人となります。ですから、イゼベルはエリヤを殺すことは考えていなかったと思います。むしろ、イスラエルの人々は、エリヤの神が真実の神であると考えるようになっていましたので、彼らはエリヤから、これからイスラエルの神を信仰していくためにどのようにすればよいのかを教えてもらいたいと思っていたはずです。イスラエルの民が神への信仰に立ち返るためにはどうしてもエリヤがそこにいなければなりませんでした。もし、エリヤがイゼベルの脅迫に恐れを感じて、逃げて行けば、イスラエルの民は自分たちの指導者がいなくなって、どうしたらよいかわからず、結局、バアルの神に頼るようになるだろう、これがイゼベルのねらいであったと思います。
イスラエルの民にはエリヤはどうしても必要な存在だったのですが、イゼベルから脅迫のメッセージが彼に届いたとき、19章の3節によると、エリヤは「恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去ってしまいました。彼は、一日前には450人の預言者との対決で劇的な勝利を収めた人間です。それなのに、次の日に、イゼベルの脅迫状が届くと、彼は、恐れて、臆病者のように逃げてしまいました。それまでエリヤはいつも神を見つめ、神への信仰をしっかり持っていましたが、このときは自分の周りの状況を見ていました。「自分が一人で、イゼベルには王の軍隊がいる。」私たちは、神への信仰が薄れると、神の導きを求めることをやめて、自分の考えに従って生きるようになります。エリヤも、それまでは、いつもまず神様からの命令があって、彼はいつもその命令に従って行動していました。ところが、いまでは、神様の声を聞かずに、自分で計画を立てて、自分の力で困難から逃れようと努力しています。クリスチャンが神の御心を求めるのをやめて自分勝手な道を選ぶ時、人は必ずつまずきます。愚かなことをするようになります。エリヤは、一人の若者を連れて、夜の間に、イズレエルから逃げ出しました。彼はイゼベルからできるだけ遠くへ離れるために、北イスラエルから南ユダへ入り、しかも南ユダ王国の南の端にあるベエルシェバまで、一気に逃げて行きました。ベエルシェバはイズレエルから十分に遠く離れた場所であり、ここは、アハブ王の支配化にある場所ではありませんでした。ですから、彼はベエルシェバにいれば十分に安全だったのですが、それでも、恐怖心に襲われたエリヤは、そこでも、安心することができませんでした。彼は、若者をそこに残してさらに南の荒野の中へ入って行きました。聖書は、私たちにとって一番安全なときは神様とともにいる時であると宣伝しています。人間の力で何とかしようとしても、本当に動かない、揺るがない平安を得ることはできません。そこは厳しい暑さの砂漠地帯です。地面も焼けるような暑さです。そこには彼を助けるカラスもいないし、ケリテ川の水もありません。また、彼を助けてくれたザレパテのやもめもいません。逃げても逃げても彼を助ける人も場所もなく、そしてどんなに遠くへ逃げても、彼の心に平安はありませんでした。疲れ果てたエリヤは、とうとう倒れてしまい、そして神様に向かってつぶやいたのです。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」彼は自分の死を願って神に向かってこう言ったと聖書は書いています。彼は、自分のいのちを守るために、イゼベルの手から逃れるために、こんな遠くの地まで来ているのに、今は、自分の死を願っているというのです。しかし、なぜ、エリヤはこんなに弱い人になってしまったのでしょうか。前日には、バアルの預言者450人を相手にして、勇敢に戦ったエリヤだったのに。彼は、いつも自分は神の前に立っていると確信していたエリヤだったのに、どうして、彼は神様に「もう十分です」などと叫んだのでしょうか。今日は、大勝利の後に、なぜエリヤがこのように変わってしまったのか、その原因を考えたいと思います。
1. 心身の疲れ
エリヤはザレパテという町でやもめの家族と平穏な生活をしていましたが、神様の命令によりアハブ王に会いに行き、そして、その後、バアルの預言者450人と対決するという大きな出来事に巻き込まれました。バアルの預言者が祈っているのを見ていたとき、自分が力いっぱい祈ったとき、バアルの預言者を処刑したとき、そして、バアル王が乗った車の前を全速力で30キロほど走ったとき、彼はどれほどの疲れを感じていたでしょうか。肉体の疲れだけではありません。1人が450人を相手にして戦う、しかもイスラエルの神の栄光を汚すことは絶対にできません。彼の心にはどれほどの緊張とプレッシャーが重くのしかかっていたことでしょう。イズレエルの町に到着して、アハブ王と別れた後、ほとんど休む時間もいままに、イゼベルからの脅迫状を受け取ったのです。イゼベルは、エリヤがバアルの預言者との対決で、緊張とプレッシャーで、神経がすり減っていたのを見抜いていたのかもしれません。エリヤは新約聖書のヤコブの手紙によると、私たちと同じ普通の人間でした。彼は心も体も疲れ果てていました。そんな時にイゼベルの脅迫の手紙が届いたので、それを読んだエリヤは、一瞬にして、恐怖の虜になってしまいました。一瞬の心の隙でした。彼は、たちまち、それまで3年間体験していた神様の特別な働きや特別な守りのことなどすっかり忘れてしまいました。彼の祈りに答えて神が天から火を降らせてくださったことも、祈りに答えて雨を降らせてくださったことも、彼がカルメル山の頂からイズレエルまで王の戦車の前を走っていたときに神の力を感じていたことも、すべてがどこかへ飛んで行ってしまいました。私たちが神様から目を離して、自分が置かれている状況を見ると、すぐに自分の考えや感情に支配されてしまいます。彼はすぐに急いで逃亡の旅に出かけていました。そして、彼が、必死でイゼベルから逃げて、荒野に入ったときには、彼の体も心も完全に限界に達していました。彼は、ついに、そこで倒れてしまいました。今まで必死でがんばって来たのですが、もう頑張りが効かないほど疲れていたからです。そのような状態では信仰を働かせることもできません。自分のことを考えるだけで精一杯です。それで、エリヤは神様に向かって「もう十分です。いのちをとってください。」と思わず神様に叫んだのでした。
2. エリヤの自己憐憫
体の疲れと、空腹感と、敗北感に襲われていたエリヤはうつ状態になっていたのではないでしょうか。エリヤには大きな期待があったと思います。カルメル山での対決に大勝利を収めたときに、彼は、すべての人がイスラエルの神の前に悔い改めて、イスラエルの神への信仰に立ち返るはずだときたいしていたと思います。ところがアハブ王もイゼベルも悔い改めるどころか、むしろ彼を脅迫しています。彼は、自分が期待していたような結果が得られないために、大きな挫折を味わっていたと思います。大勝利を味わったのに、その後、自分が願っているような結果がえられないために、彼は自分を敗北者、失敗者とみなしています。でも、この挫折感というのは、見方を変えると、それは私たちの心の中にあるプライドが原因なのです。自分が人々からどのように評価されるのか、そのことが非常に大事なことになっています。それで、彼は神様に向かって「私は先祖たちにまさっていませんから。」とふてくされて神に話しています。神様はエリヤに先祖たちに優る人になってほしいとは思っておられないのです。私たちに対しても神様は同じ気持ちだと思います。私たちは、とくに先祖や他の人に勝るひとになる必要はありません。むしろ、神様が私たちに願っておられることは、私たちが神の言葉を聞くことであり、神を見ることであり、神に信頼することです。イザヤ書45章に次のような言葉があります。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」神様が私たちに向かって、「神を見上げて救いを得なさい。」と愛の命令をしておられます。多くの人は神様を見上げないで、弱い自分、いやしい自分、あるいは周りの人、周りの状況、人間的な知恵や方法を見ているために、本当の平安や、本当の救いを経験できないのです。そして、自分の苦しい状況、困難な状況を嘆き、その怒りを他人や神にぶつけます。かつて、モーセの時代に、神に反抗したイスラエルの民の中に火の蛇が送られたため、その蛇にかまれた人は死につつありました。その時に神様はモーセに命令して青銅で造られた蛇を旗竿につけさせ、蛇の像を高く掲げるように命令して、言われました。「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」蛇にかまれた人は、ただ神様が言われる命令に従って青銅の蛇を見れば、命が助かりました。主イエスは、高くあげられた青銅の蛇にたとえられます。どんな人でも、どんな状況であっても、主イエスを見上げる人、主イエスを信頼する人は救われます。不思議に平安な心に包まれます。
エリヤは神を見ずに、周りの状況ばかりを見ていました。それで、彼は、自分が孤独だと思いんでいました。イスラエルの国に、正しい信仰を持っているのは自分だけだと思いこんでいたのです。10節に、エリヤと神様の会話が記されていますが、エリヤは神様に向かって「わたしだけが残りました。」と言っています。イゼベルがイスラエルの預言者たちを殺していたのですが、エリヤは、イスラエルのすべての人がアハブ王とイゼベルに支配されて、神を礼拝しないで偶像を拝んでいると思っていたのです。しかし、実際には、神様の言葉によると、神様以外の偶像を礼拝しない人を7000人残しておられたのです。明らかに、彼らはエリヤの力強い働きの影響を受けていたはずです。
3. 神様のお取り扱い
心や体が疲れているときに一番必要なことは休息であり、睡眠です。イエス様も弟子たちが一日中忙しく働いているのをご覧になって、次のように言われました。「さあ、あなたがただけで寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」イエス様は、弟子たちがこれ以上休まずに働き続けるとつぶれてしまうことが分かっていたからです。エリヤも、このとき、つぶれる寸前でした。そして、神様はエリヤのために食事と水を用意してくださいました。5節には「御使い」と書かれ、7節には「主の使い」と書かれていますが、旧約聖書の中で「主の使い」と書かれている場合、人となってこの世に来られる前の御子イエスであるとみなされています。エリヤは、このあと、シナイ山に行こうとしています。この山は今エリヤがいるところからさらに400キロ近く歩かなければなりません。そのためには体力が必要ですが、体力がつくように主イエスがエリヤのために働いてくださったのです。神様は私たちを愛しておられ、また、いつも私たちのことを見ておられます。私たちが、いつ、どこで助けを必要とするかを、知っておられます。それはちょうど親が子供がいつ助けを必要とするのかを知っているのと同じです。私たちが自分の力だけでは進むことができないような時に、神様は助けを与えてくださいます。私たちが必要な食べ物を用意してくださるのです。イザヤ書40章31節にはすばらしい約束が書かれています。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」ある人が「待ち望む」とは、神以外のものを全く捨てて、神だけにより頼み、神の前に静まり、神を信頼して待ち望むことであると言っています。これは祈りの姿勢です。私たちが神の約束を信じて祈るときに、主が助けを与え、新しい力を与えてくださいます。エリヤがシナイ山まで400キロ近くを歩くことができたように、走っても疲れず、歩いても歩き続けても倒れない力を与えてくださいます。
近代の宣教の父と言われたウィリアム・ケアリーという人はこう言いました。「私は歩くことができる。私に与えられた才能はどこまでも歩き続けることができるということだ。私の働きの多くはその才能から来ている。」40キロの道を歩くときでも、最初は一歩歩くことから始まります。偉大なる信仰者の多くは高く飛ぶ力を持つ人ではなく、どこまで歩き続けることのできる人でした。主を待ち望む者に神様は新しい力を与えてくださいますが、それは、いつも高く昇る力とは限りません。より早く走る力とも限りません。長く歩く力でもあるのです。でも、これは素晴らしい力です。私たちが歩き続けるならば、必ず目的地に着くことができます。疲れ果てて死にたいと神様に訴えたエリヤに、神様は400キロを歩き続ける力を与えてくださいました。私たちも、自分を見ないで、主を待ち望むときに、新しい力、より長く歩き続ける力を与えてくださいます。

