礼拝説教 2008年6月15日 「わたしに聞きなさい」(イザヤ書48章12-19節)
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(イントロ)
神様が私たちの顔に耳を二つ創ったのに口は一つしか創らなかったのは、私たちがしゃべることよりも、聞くことを神様が望まれたからだと言われます。しかし、私たちの耳はどのように使われているのでしょうか。サンフランシスコのある医療センターが平均年齢22歳のポップス系のミュージシャン43人の聴力を測定したところ、2割の若者の耳が70歳の人の聴力しかないことが分かったそうです。ロックコンサートやディスコで流れる音楽は130デシベルにも達するそうで、そのレベルはジェット機のエンジンの音と同じだそうです。そのような音にいつも触れていると私たちの耳の聴力は大きな被害を受けます。あまりもうるさい音ばかりを聞いていると耳はだめになってしまいます。また、何を聞くかによって行動にも影響を受けることがあります。ずいぶん前のことですが、フランスで「暗い日曜日」というシャンソンが非常にはやったのですが、その歌を聴いて自殺したと思われる人が数多く出たために、この歌は放送禁止になってしまいました。その歌の内容は、ある日曜日に自分の恋人が死んで、その悲しみを嘆き、最後は自殺することを決意するというものだったそうです。このことから分かることは、私たちにとって何を聞くのかということが非常に大切な問題であるということです。今日の箇所、イザヤ書48章では、神様が私たちに向かって繰り返して「聞きなさい」と命令しておられます。
(1)神の呼びかけ
神様が、ユダヤ人たちをバビロンに奴隷として連れて行くという厳しい状況に導かれたのは、彼らの心が神から離れていたからでした。彼らは、自分たちは神によって選ばれた特別な民族であることを誇りに思っていました。聖書の神は自分たちの神であると口では告白していました。そして、エルサレムという神の都に住んでいれば必ず神様によって守られると思い込んでいました。ところが、彼らの心は神様だけを信頼するのではなく、自分たちに与えられた土地を頼りにし、エルサレムという神の都に住んでいることを頼りにし、また、そこには神の神殿があることを頼りにして、自分たちは安全だと思っていたのです。しかし、そんな彼らの心は神から遠く離れていると、神様は見抜いておられました。表面的には神を信頼しているように見えても、実際には、彼らは神からもらったものを頼りにして、神ご自身を頼りにしていたのではなかったのです。それで神様は48章の2節で「確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神――その名は万軍の主――に寄りかかっている。」と言われたのです。そして、ユダヤ人たちの心がどれほど頑固であるかもよく知っておられました。4節には「あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱 、額は青銅だと知っている」と言っておられます。私たちが便りとしなければならないのは、神様からいただいたいろいろな祝福ではありません。私たちはただ神様ご自身に頼らなければならないのです。
イスラエルの民は、神様の愛に対して裏切るようなことを続けていました。そのために、神様はバビロンに強制的に連れて行くという罰を与えられたのですが、しかし、大切なことは、神様はイスラエルの民と一度結んだ約束を決して変えることがないという事実です。神の言葉に従おうとしないイスラエルの民を見て、神様は何を感じられたでしょうか。しかし、それでも、神様は彼らとの契約を変えることはありませんでした。9節で「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押えて、あなたを断ち滅ぼさなかった。」と言われているとおりです。そして11節では「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」と言われました。神様が私たちの罪をゆるし、私たちを救ってくださるのは、私たちがよい人間になったからではありません。私たちの内に神様の愛と許しを受けるだけの価値があるのでもありません。ただ、神様がそうすることを願ってくださったからです。神様が、私たちの祈りに答えて様々な働きをしてくださいますが、それはすべて、神様がそうしたいと願ってくださったからなのです。私たちは、イスラエルの民と同じで、神様を喜ばせるものを何ももっていません。むしろ、頑な心で何度も神様に背を向けて、神様に逆らってきたような者です。しかし、それでも、神様は「わたしのためにこれを行う」と言ってくださいます。その神様が、イスラエルの民に向かって、また同時に私たちに向かっても、「わたしに聞け。」と繰り返し訴えておられます。それなのに、私たちは、神様に耳を傾けて、神様の言葉を聞き、それに従う心があるのでしょうか。私たちの耳は本当によくできています。私たちの周りには様々な音がありますが、その中で自分が聞きたいこと、関心があることだけを聞き取ることができるのです。補聴器はそのような技術がないので、周囲にある音を全部拾ってしまうので、賑やかな場所では補聴器を付けて話をするのは非常に難しいです。私たちに向かって「わたしに聞け」と神様が迫っておられるのに、私たちは神様に無関心で耳を傾けていないことがないでしょうか。
(2)私により頼みなさい
12節で神様は「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。」と言われました。イスラエルの民に向かって、「あなたたちはわたしが呼び出した民だ。」と言われたのです。つまり、私が最初にあなたたちに働きかけたのだということです。そして、彼らに向かって、イスラエルの神がどのような神であるかを語っておられます。第一に言われたのは「わたしははじめであり、終わりである。」です。つまり、イスラエルの神は永遠の神です。はじめであり、終わりであるかたです。つまりこの世の始まったときから終わるときまで、ずっと神としての権威と力を持っておられる方です。そして、私たちに対する神様の愛は決して変わることのない永遠の愛です。第二に、神様は「わたしの手が地の基を定めた」と言われました。神様は、この世とその中にあるすべてのものを創り出した方です。私たちが住んでいるこの世界の土台は神様の手によって創られました。また、神様は「わたしの右の手が天を引き延ばした。とも言われました。わたしたちの頭上に広がる広大な宇宙も、神様の右の手が創り出したのです。神様の右の手で造られた宇宙は、一秒の狂いもなく正確に動いています。なぜ、宇宙の星が、ばらばらの動きをせず、また、途中で止まったりすることもなく、永遠に変わらずに、同じ動きを続けているのでしょうか。よく考えればとても不思議なことです。神様の右の掌で、こられのすべての業がなされたのです。だとすれば、もし神様が両手をいっぱいに広げて働かれたとしたら、どれほど大きな働きになるでしょうか。これほど力に満ちた神様だからこそ、私たちを救うことができるのです。詩篇121篇1節では詩篇の記者が次のように言いました。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」私たちを助けるのは、神様が創られた山ではなく、山を創られた神様なのです。私たちは、神様ご自身よりも、神様が創られたものにより頼むことが多いのではないでしょうか。分かりやすい目に見える力や、財産や自分の能力を、神のように頼ってしまうのです。しかし、本当に私たちがしんらいしなければならないのは、そのようなものを創られた神、詩篇121篇の言葉を借りれば、「まどろむことも、眠ることもいない」神様です。 神様はこの世界を創られただけではありません。13節の言葉によれば、神様が、創られた世界の中にあるものに呼びかけるとそれらはすべて立ち上がるのです。そのころバビロンにいたイスラエルの民は、自分の故郷に帰ることができるなどとは夢にも思っていませんでした。それほど、バビロンは強い国で勢力に満ちていたからです。イスラエルの民の目には希望は全くないように見えましたが、実際には神様が働いておられました。14節を読みましょう。「あなたがた、みな集まって聞け。だれがこれらの事を告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける。主の御腕はカルデヤ人に向かう。」神様はイスラエルの民が何も知らない時に、のちのペルシャ王クロスを選んで、バビロンを滅ぼす働きを着々と進めておられたのです。
(3)本当の幸いを与えてくださる神
私たちが信じている神様は力ある神様というだけではありません。17節を読みましょう。「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」神様は私たちに益になることを教えてくださる方です。その教えは時には私たちにとってはつらい場合もあります。人間の親も子供に益となることを教えようとします。しかし、人間の親は、すぐに考え方が変わったり、途中で投げ出したりするかも知れません。しかし、神様は違います。われわれがよりよく成長するために一番益となることを教えてくださいます。私たちにとって一番の益となることは、キリストの姿に似た者となることです。そのために必要なことを教えてくださるのです。私たちは、自分が幸いな人生を生きるためには、周りの状況が自分の願う通りになることが必要だと考えます。しかし、周りの状況は絶えず変わります。いつどうなるか分かりません。ですから、神様は、むしろ、私たちがどのような状況にも対処できるように、私たちの内側が変わることが必要であることを教えてくださるのです。教えるだけではありません。神様は、私たちにとって人生の教師であるだけではなく、私たちの導き手、ガイドにもなってくださいます。神様は私たちを教えて、私たちの目を開いてくださるだけではありません。ガイドとなって、私たちと一緒に行くべき道を歩んでくださるのです。車にナビがついていると、知らない場所に行ったときに非常に助けになります。行くべき道を教えるだけでなく、道を間違えたら、正しい道に戻るまで導き続けてくれます。そのように、神様は私たちと人生をともに歩んで、行くべき道をともに歩いてくださいます。
18節には次のように書かれています。「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。」神様は、私たちに愛をもって教え、また、道を導いてくださいますが、私たちは、神様の教え、神様の導きに耳を傾けなければなりません。神の言葉に聞き従う心をきちんと持っているならば、私たちの幸せは川のようにゆったりと流れるでしょう。また、私たちは、いつも神の前に正しい者として生きることができます。川のように、海の波のように、決して途中でなくなったり消えたりしないで、繰り返して押し寄せて、私たちを満たしてくれます。預言者イザヤは59章に次のような言葉を残しています。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」私たちはイスラエルの民の過ちを繰り返すことなく、いつも喜んで神の声に聴き従う者でなければなりません。
(イントロ)
神様が私たちの顔に耳を二つ創ったのに口は一つしか創らなかったのは、私たちがしゃべることよりも、聞くことを神様が望まれたからだと言われます。しかし、私たちの耳はどのように使われているのでしょうか。サンフランシスコのある医療センターが平均年齢22歳のポップス系のミュージシャン43人の聴力を測定したところ、2割の若者の耳が70歳の人の聴力しかないことが分かったそうです。ロックコンサートやディスコで流れる音楽は130デシベルにも達するそうで、そのレベルはジェット機のエンジンの音と同じだそうです。そのような音にいつも触れていると私たちの耳の聴力は大きな被害を受けます。あまりもうるさい音ばかりを聞いていると耳はだめになってしまいます。また、何を聞くかによって行動にも影響を受けることがあります。ずいぶん前のことですが、フランスで「暗い日曜日」というシャンソンが非常にはやったのですが、その歌を聴いて自殺したと思われる人が数多く出たために、この歌は放送禁止になってしまいました。その歌の内容は、ある日曜日に自分の恋人が死んで、その悲しみを嘆き、最後は自殺することを決意するというものだったそうです。このことから分かることは、私たちにとって何を聞くのかということが非常に大切な問題であるということです。今日の箇所、イザヤ書48章では、神様が私たちに向かって繰り返して「聞きなさい」と命令しておられます。
(1)神の呼びかけ
神様が、ユダヤ人たちをバビロンに奴隷として連れて行くという厳しい状況に導かれたのは、彼らの心が神から離れていたからでした。彼らは、自分たちは神によって選ばれた特別な民族であることを誇りに思っていました。聖書の神は自分たちの神であると口では告白していました。そして、エルサレムという神の都に住んでいれば必ず神様によって守られると思い込んでいました。ところが、彼らの心は神様だけを信頼するのではなく、自分たちに与えられた土地を頼りにし、エルサレムという神の都に住んでいることを頼りにし、また、そこには神の神殿があることを頼りにして、自分たちは安全だと思っていたのです。しかし、そんな彼らの心は神から遠く離れていると、神様は見抜いておられました。表面的には神を信頼しているように見えても、実際には、彼らは神からもらったものを頼りにして、神ご自身を頼りにしていたのではなかったのです。それで神様は48章の2節で「確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神――その名は万軍の主――に寄りかかっている。」と言われたのです。そして、ユダヤ人たちの心がどれほど頑固であるかもよく知っておられました。4節には「あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱 、額は青銅だと知っている」と言っておられます。私たちが便りとしなければならないのは、神様からいただいたいろいろな祝福ではありません。私たちはただ神様ご自身に頼らなければならないのです。
イスラエルの民は、神様の愛に対して裏切るようなことを続けていました。そのために、神様はバビロンに強制的に連れて行くという罰を与えられたのですが、しかし、大切なことは、神様はイスラエルの民と一度結んだ約束を決して変えることがないという事実です。神の言葉に従おうとしないイスラエルの民を見て、神様は何を感じられたでしょうか。しかし、それでも、神様は彼らとの契約を変えることはありませんでした。9節で「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押えて、あなたを断ち滅ぼさなかった。」と言われているとおりです。そして11節では「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」と言われました。神様が私たちの罪をゆるし、私たちを救ってくださるのは、私たちがよい人間になったからではありません。私たちの内に神様の愛と許しを受けるだけの価値があるのでもありません。ただ、神様がそうすることを願ってくださったからです。神様が、私たちの祈りに答えて様々な働きをしてくださいますが、それはすべて、神様がそうしたいと願ってくださったからなのです。私たちは、イスラエルの民と同じで、神様を喜ばせるものを何ももっていません。むしろ、頑な心で何度も神様に背を向けて、神様に逆らってきたような者です。しかし、それでも、神様は「わたしのためにこれを行う」と言ってくださいます。その神様が、イスラエルの民に向かって、また同時に私たちに向かっても、「わたしに聞け。」と繰り返し訴えておられます。それなのに、私たちは、神様に耳を傾けて、神様の言葉を聞き、それに従う心があるのでしょうか。私たちの耳は本当によくできています。私たちの周りには様々な音がありますが、その中で自分が聞きたいこと、関心があることだけを聞き取ることができるのです。補聴器はそのような技術がないので、周囲にある音を全部拾ってしまうので、賑やかな場所では補聴器を付けて話をするのは非常に難しいです。私たちに向かって「わたしに聞け」と神様が迫っておられるのに、私たちは神様に無関心で耳を傾けていないことがないでしょうか。
(2)私により頼みなさい
12節で神様は「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。」と言われました。イスラエルの民に向かって、「あなたたちはわたしが呼び出した民だ。」と言われたのです。つまり、私が最初にあなたたちに働きかけたのだということです。そして、彼らに向かって、イスラエルの神がどのような神であるかを語っておられます。第一に言われたのは「わたしははじめであり、終わりである。」です。つまり、イスラエルの神は永遠の神です。はじめであり、終わりであるかたです。つまりこの世の始まったときから終わるときまで、ずっと神としての権威と力を持っておられる方です。そして、私たちに対する神様の愛は決して変わることのない永遠の愛です。第二に、神様は「わたしの手が地の基を定めた」と言われました。神様は、この世とその中にあるすべてのものを創り出した方です。私たちが住んでいるこの世界の土台は神様の手によって創られました。また、神様は「わたしの右の手が天を引き延ばした。とも言われました。わたしたちの頭上に広がる広大な宇宙も、神様の右の手が創り出したのです。神様の右の手で造られた宇宙は、一秒の狂いもなく正確に動いています。なぜ、宇宙の星が、ばらばらの動きをせず、また、途中で止まったりすることもなく、永遠に変わらずに、同じ動きを続けているのでしょうか。よく考えればとても不思議なことです。神様の右の掌で、こられのすべての業がなされたのです。だとすれば、もし神様が両手をいっぱいに広げて働かれたとしたら、どれほど大きな働きになるでしょうか。これほど力に満ちた神様だからこそ、私たちを救うことができるのです。詩篇121篇1節では詩篇の記者が次のように言いました。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」私たちを助けるのは、神様が創られた山ではなく、山を創られた神様なのです。私たちは、神様ご自身よりも、神様が創られたものにより頼むことが多いのではないでしょうか。分かりやすい目に見える力や、財産や自分の能力を、神のように頼ってしまうのです。しかし、本当に私たちがしんらいしなければならないのは、そのようなものを創られた神、詩篇121篇の言葉を借りれば、「まどろむことも、眠ることもいない」神様です。 神様はこの世界を創られただけではありません。13節の言葉によれば、神様が、創られた世界の中にあるものに呼びかけるとそれらはすべて立ち上がるのです。そのころバビロンにいたイスラエルの民は、自分の故郷に帰ることができるなどとは夢にも思っていませんでした。それほど、バビロンは強い国で勢力に満ちていたからです。イスラエルの民の目には希望は全くないように見えましたが、実際には神様が働いておられました。14節を読みましょう。「あなたがた、みな集まって聞け。だれがこれらの事を告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける。主の御腕はカルデヤ人に向かう。」神様はイスラエルの民が何も知らない時に、のちのペルシャ王クロスを選んで、バビロンを滅ぼす働きを着々と進めておられたのです。
(3)本当の幸いを与えてくださる神
私たちが信じている神様は力ある神様というだけではありません。17節を読みましょう。「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」神様は私たちに益になることを教えてくださる方です。その教えは時には私たちにとってはつらい場合もあります。人間の親も子供に益となることを教えようとします。しかし、人間の親は、すぐに考え方が変わったり、途中で投げ出したりするかも知れません。しかし、神様は違います。われわれがよりよく成長するために一番益となることを教えてくださいます。私たちにとって一番の益となることは、キリストの姿に似た者となることです。そのために必要なことを教えてくださるのです。私たちは、自分が幸いな人生を生きるためには、周りの状況が自分の願う通りになることが必要だと考えます。しかし、周りの状況は絶えず変わります。いつどうなるか分かりません。ですから、神様は、むしろ、私たちがどのような状況にも対処できるように、私たちの内側が変わることが必要であることを教えてくださるのです。教えるだけではありません。神様は、私たちにとって人生の教師であるだけではなく、私たちの導き手、ガイドにもなってくださいます。神様は私たちを教えて、私たちの目を開いてくださるだけではありません。ガイドとなって、私たちと一緒に行くべき道を歩んでくださるのです。車にナビがついていると、知らない場所に行ったときに非常に助けになります。行くべき道を教えるだけでなく、道を間違えたら、正しい道に戻るまで導き続けてくれます。そのように、神様は私たちと人生をともに歩んで、行くべき道をともに歩いてくださいます。
18節には次のように書かれています。「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。」神様は、私たちに愛をもって教え、また、道を導いてくださいますが、私たちは、神様の教え、神様の導きに耳を傾けなければなりません。神の言葉に聞き従う心をきちんと持っているならば、私たちの幸せは川のようにゆったりと流れるでしょう。また、私たちは、いつも神の前に正しい者として生きることができます。川のように、海の波のように、決して途中でなくなったり消えたりしないで、繰り返して押し寄せて、私たちを満たしてくれます。預言者イザヤは59章に次のような言葉を残しています。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」私たちはイスラエルの民の過ちを繰り返すことなく、いつも喜んで神の声に聴き従う者でなければなりません。

