礼拝説教 2009年10月18日『人はなぜ殺人を犯すのか』(マタイ5章21-26節)
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(イントロ)
前回の箇所では、主イエスは次のように言われました。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」天国に入るために求められているのは義、つまり、神の目に正しいと見える性質と生活です。しかも、その義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければならないと言われました。当時のユダヤ社会では、律法学者は聖書を教える最高の教師、パリサイ人は聖書の教えを守る信者の模範と見られていたので、この言葉は人々を驚かせました。ところが、実際の生活では、彼らが聖書の律法を守っていたのは、表面的なものであり、また律法の一部だけであったのです。旧約聖書の律法には大きく分けると3つの種類がありました。宗教の儀式に関するもの、市民生活に関するもの、そして心、モラルに関するものです。
律法学者やパリサイ人たちは、これらの律法の中で宗教の儀式に関する律法を守ることに特にこだわっていました。また、他の律法についても、外面的な行いのことだけを考えていました。主イエスがエルサレムの神殿で弟子たちを教えておられたときに、一人のパリサイ人が入ってきて得意げに祈りをささげました。このパリサイ人がそのときに祈ったのは、「私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫するものでなく、ことに、この取税人のようではないことを感謝します。私は、週に2度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」という祈りでした。この祈りから分かることは、この人は神に向かって祈ってはいますが、彼が考えていることは、自分の社会における自分の評価でした。彼は「他の人々のように悪いことはしていません」(ルカ18:11,12)と言いました。彼が祈っていた時、そばで一人の取税人が祈っていたのですが、同時の取税人は集めた税金の一部を盗んだり、人々に不当に税金を取り立ててましたので、ユダヤの社会ではもっとも嫌われていた人々でした。
彼は、このように祈って、他人と比べて自分が正しい人間だと自己満足していました。また、週に2回断食していること、十分の一の献金を捧げていることを祈りの中で言っているのは、自分が宗教の儀式を守っていることを自慢していただけで、彼らの思いは神様に向かうのではなく、いつも自分の向いていました。ある時主イエスはパリサイびとについてこう言われました。「わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。」(ルカ11:42)このように、律法学者やパリサイ人は、聖書の教えの中心である、神の前での自分を見ることをしないで、他の人間の前での自分の評判ということばかりを考えていたために、主イエスは彼らの生き方を厳しく批判しておられるのです。
マタイの福音書の5章から7章は山上の説教と呼ばれる、主イエスの教えがまとめられている箇所ですが、ここで、主イエスが教えておられるのは天国、神の国の国民、つまり、クリスチャンとはどのように生きるものであるのかを教えておられます。最初の8つの幸いの教えは、クリスチャンの本質的な特徴を現す教えであり、地の塩・世の光の教えは、クリスチャンのこの世に対する責任を教えるものです。そして、5章の後半は、クリスチャンと旧約聖書の教え、律法の教えとの関係に関する説教です。旧約聖書から6つの律法を引用して、律法学者やパリサイ人たちの間違った考え方を示すとともに、律法の本当の意味を教えておられます。そのため、主は、この箇所で繰り返して言われました。「昔の人々に、『〜〜』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」このように言うことによって、主イエスは、当時の律法学者やパリサイ人たちの間違った考え方を訂正して、律法の本当の意味を教えられたのです。
ここで興味深いのは、主イエスが「あなたは律法を読んでいる」とは言われずに「立法を聞いている」と言われた点です。当時は、印刷された聖書はありませんでした。手で書き写した聖書だけですから、数が非常に少なく、会堂に置いてあるだけで、私たちのようにいつでも聖書を読むことはできませんでした。人々は、会堂に言ったときに、礼拝の中で読まれる聖書の言葉を聞くだけでした。しかし、当然のことながら、人々は、聖書の言葉だけでなく、その聖書の教えの説明を一緒に聞いていましたが、その説明が、律法学者やパリサイ人によって行われる説明でした。人々は、そこで語られる説明が絶対的な聖書の教え、神の教えてと思い込んでいたのです。律法学者やパリサイ人たちは、律法の解釈として、数多くの規則を作り、それで人々に重荷を与えていました。しかし、主イエスは、律法をとおして神が人間に教えようとしておられる本当の意味を教えられました。
(1)人を殺すとは(21-22節)
私たちの人生で最も難しいものであり、同時に最も大切なもの、また最も楽しいものは人間関係です。私たち人間は一人では生きていけません。人と言う感じは二人の人間が支えている形をしていますし、人間という言葉自体が人の間に生きる者という意味を持つように思います。このことは人間の歴史のはじめから同じでした。5章の後半で主イエスが取り上げられた6つの律法は、いずれも人間関係に関係しているものです。聖書は、人間にとって最も大切なのが、神との関係であり、次に大切なのは、周りの人との関係だと教えています。ですから、主イエスも、クリスチャンにとって最も大切な神の命令は、第一に、全力で神を愛すること、つまり神との関係を正しくすることであり、第二に隣人を自分自身のように愛すること、すなわち、周囲の人々と正しい関係を持つことであると教えられました。その第一の教えが殺人に関する教えでした
「。『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』とあなたがたは聞いています。」と主イエスは言われました。これはモーセの十戒の6番目の戒めであり、また、旧約聖書には殺人を犯した者は罰として死ななければならないことが繰り返し教えられています。創世記の9章6節には「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちにおつくりになったから。」と書かれています。、聖書は、神が創られた人、神が愛しておられる人を殺すことは、神ご自身に攻撃することに等しいと教えています。しかし、主イエスはこの戒めをずっと深い戒めにされました。それは、22節で、「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでも裁きを受けなければなりません」と言われたことから分かります。人を殺すという行為は、心の中にある問題が外に現れた結果にすぎません。律法学者やパリサイひとたちは、外側に現れた結果だけを問題にしていましたが、神様は、私たちの心の中を見ておられるのです。人を殺さないからといって、人は神の前に正しいとされるわけではありません。
主イエスは、心の中で他人に向かって腹を立てる人は殺人を犯す人と同じ心を持っており、状況によっては、人を殺す可能性を持っていることを明らかにしておられます。怒りがすべて悪いわけではありません。主イエス自身も怒りを表すことがありました。しかし、主イエスの怒りは、罪に対する怒り、不正に対する怒りでした。しかし、私たちは、罪や不正に対して怒ることもありますが、それ以上に、私たちは他の人たちから言われた言葉、他の人たちから無礼なことや屈辱的なことを言葉や行いで受けると、相手の人間に対してすぐに腹をたてます。。それらの怒りは、すべて、私たちが心の中に持っている、自我、あるいはプライドが傷つけられたことによります。主イエスの教えは、他の人に対して怒ることや憎しみを持つことを禁じておられるのです。
怒りはまず心の中に生まれるのですが、心にあった怒りが言葉となって口に現れます。そして、それが行動に移されるのです。このことは旧約聖書に出てくるイスラエルの最初の王、サウル王にみられました。サウル王は、彼の後を継いで2代目の王になるダビデを繰り返して殺そうとしましたが、そのきっかけになったのが、ダビデが戦争で大勝利をおさめ人々から称賛されたことでした。第一サムエル18章6節から11節までを読みましょう。最初に、ダビデがペリシテという敵を打ち破って戦地から帰ってきました。それを人々は大喜びで迎えたので、ダビデは一躍民主のヒーローになりました。その時人々は、「サウルは千人を殺したが、ダビデは一万人を殺した」と口々に叫びました。サウル王は、この言葉を聞いたときに、まず非常に怒り、不満に思いました。次に、彼は自分の怒りを言葉で表しました。「私は千人を殺す規模の戦いをし、ダビデは一万人を殺せる規模の戦いをしただけだ。彼が何をしようと、王はこの私だ。」
サウル王にとって、民衆が自分のよりも若いダビデを自分以上にほめたたえていることが彼のプライドを傷つけたのです。心の思いが口から言葉になって出ると、次は行動に移ります。サウルは、王のために竪琴を演奏していたダビデを殺そうと、彼に向って槍を投げつけたのです。聖書の律法は、人間が制定したものではなく、神様が制定されたものですから、私たちは、神様に向かって自分の言動について責任を負わなければなりません。だからこそ、主イエスは、表に現れた行為だけではなく、心の中の考えや動機を問題にされたのです。なぜなら、人に向かって「能なし」とか「ばか者」という人は、殺人を犯す可能性を十分に持っているのです。
人を「能なし」とか「ばか者」と呼ぶことは、言葉による暴力です。肉体を殺すことがなくても心を殺す力があります。これらの言葉は、神様が創った隣人、神様が自分自身のように愛することを命じておられる隣人の頭と心を軽蔑し、その人の人格を破壊することです。だから、そこには肉体を殺した人と同じ刑罰が伴うのです。22節に「最高議会に引き渡されます」とありますが、これはイスラエルの国会にあたるものでサンヘドリンと呼ばれるものです。主イエスを十字架につけることを決めたのもサンヘドリンでした。ゲヘナとは地獄を意味する言葉ですが、もともとはエルサレムの南にあるヒンノムの谷を表す言葉でした。ヒンノムの谷は、町の汚物やゴミや引き取り手のない死体が投げ込まれる場所でした。あまりにも不潔で、匂いがひどいので、一日中火が燃えており、谷からは煙が上っていました。においを消すためでした。ですから、ゲヘナとは、役に立たないものや悪いものを滅ぼす場所と考えれられていました。人が心の怒りをそのままにし、それを言葉に表すことは、すでに殺人を犯したことと同じだと主イエスは教えておられるのです。
(2)和解しなさい(23-26節)
主イエスは、殺人に至る怒りや憎しみを持つ人々に対して具体的な解決方法を示すために2つの例えを用いて説明されました。主イエスは「隣人に対して憎しみを持つな、怒るな」という消極的な命令をするのではなく、積極的に人と和解することを命じておられます。2つ例えのひとつは礼拝に関係するものです。ユダヤ人の男性が神に礼拝をささげる時は、いけにえとしてささげる動物を持って、神殿に入って行きます。いけにえを捧げることも律法で定められていましたが、主イエスは、宗教的な義務としていけにえを捧げることよりも、隣人と和解することのほうがはるかに大切であることを示されました。私たちは、自分を正当化するために、礼拝に出ることや、奉仕をすることなど、敬虔な信者の生活をしようとします。しかし、そのような行いは表面的にどれほど信仰的に見えても、心の中に人への怒りと憎しみを持ったままでは、その礼拝はまったく空しいもので、神様に受けいられることのない礼拝なのです。
どんなに熱心な教会生活を送っても、そのことによって私たちの心が清められるわけではありません。神様の前に受け入れられる義を持つために必要なことは、神と人の前でへりくだることです。人間関係でトラブルが生じるとき、100%どちらか一方が悪いということはあり得ません。どちらにも問題があるのです。私たちは、自分の過ちよりも相手の過ちのほうがよく見えますから、相手から和解を求めることを待つことが多いですが、主イエスは、私たちから和解を求めに行くように命じておられます。
第二の例えは裁判に関係するものです。裁判がおこなわれるときは、原告と被告がいるわけですが、訴えているという事実は、お互いに自分が正しく相手が悪いと思っています。そして、自分の権利を守ることにこだわり、相手の権利については考えません。しかし、私たちが特に、教会の中での人間関係において、自分の立場、自分の正しさ、自分の権利にしがみついていることは、結局、自分が神様から裁かれることになることをこの箇所は示しています。むしろ、自分が損をすることがあっても、人と和解することが大切であること、しかも、それをできるだけ早くすることを命じておられます。この生き方こそが、律法学者やパリサイ人の義にまさる義なのです。私たちには自分の力でできないことですが、神により頼み、神の愛を深く味わうときに、神様がそれをする力を与えてくださいます。そして、このような生き方は他の人の利益のためだけでなく、実は、自分自身にとっても益をもたらすものなのです。
かつて、イギリスのエジンバラにアレクサンダー・ワイトという偉大な説教者がいました。彼については次のようなことが言われていたそうです。「ワイトを見よ。彼の周りのあひるは皆白鳥になる。」ワイトは、いつも自分と接する人が心の中に持っている一番良いものを見て、そしてそれを引き出すことができた人だそうです。彼は、いつもそのようにして周りの人と関係を築いていました。その結果、彼の周りの人々が変えられて行きました。私たちが周りの人と生きるときに、私たちの生き方によって、周りの人をがーガーとうるさいアヒルにしてしまうこともあります。しかし、また、私たちの生き方によって周りの人を白鳥のように美しくすることもできるのです。同じ人生を生きるなら、周りにアヒルよりも白鳥が集まっているほうが良いのです。怒りと憎しみで人を殺すのではなく、十字架の主イエスの愛を分かちあうことによって、愛に満ちた社会をつくる人でありたいものです。
(イントロ)
前回の箇所では、主イエスは次のように言われました。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」天国に入るために求められているのは義、つまり、神の目に正しいと見える性質と生活です。しかも、その義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければならないと言われました。当時のユダヤ社会では、律法学者は聖書を教える最高の教師、パリサイ人は聖書の教えを守る信者の模範と見られていたので、この言葉は人々を驚かせました。ところが、実際の生活では、彼らが聖書の律法を守っていたのは、表面的なものであり、また律法の一部だけであったのです。旧約聖書の律法には大きく分けると3つの種類がありました。宗教の儀式に関するもの、市民生活に関するもの、そして心、モラルに関するものです。
律法学者やパリサイ人たちは、これらの律法の中で宗教の儀式に関する律法を守ることに特にこだわっていました。また、他の律法についても、外面的な行いのことだけを考えていました。主イエスがエルサレムの神殿で弟子たちを教えておられたときに、一人のパリサイ人が入ってきて得意げに祈りをささげました。このパリサイ人がそのときに祈ったのは、「私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫するものでなく、ことに、この取税人のようではないことを感謝します。私は、週に2度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」という祈りでした。この祈りから分かることは、この人は神に向かって祈ってはいますが、彼が考えていることは、自分の社会における自分の評価でした。彼は「他の人々のように悪いことはしていません」(ルカ18:11,12)と言いました。彼が祈っていた時、そばで一人の取税人が祈っていたのですが、同時の取税人は集めた税金の一部を盗んだり、人々に不当に税金を取り立ててましたので、ユダヤの社会ではもっとも嫌われていた人々でした。
彼は、このように祈って、他人と比べて自分が正しい人間だと自己満足していました。また、週に2回断食していること、十分の一の献金を捧げていることを祈りの中で言っているのは、自分が宗教の儀式を守っていることを自慢していただけで、彼らの思いは神様に向かうのではなく、いつも自分の向いていました。ある時主イエスはパリサイびとについてこう言われました。「わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。」(ルカ11:42)このように、律法学者やパリサイ人は、聖書の教えの中心である、神の前での自分を見ることをしないで、他の人間の前での自分の評判ということばかりを考えていたために、主イエスは彼らの生き方を厳しく批判しておられるのです。
マタイの福音書の5章から7章は山上の説教と呼ばれる、主イエスの教えがまとめられている箇所ですが、ここで、主イエスが教えておられるのは天国、神の国の国民、つまり、クリスチャンとはどのように生きるものであるのかを教えておられます。最初の8つの幸いの教えは、クリスチャンの本質的な特徴を現す教えであり、地の塩・世の光の教えは、クリスチャンのこの世に対する責任を教えるものです。そして、5章の後半は、クリスチャンと旧約聖書の教え、律法の教えとの関係に関する説教です。旧約聖書から6つの律法を引用して、律法学者やパリサイ人たちの間違った考え方を示すとともに、律法の本当の意味を教えておられます。そのため、主は、この箇所で繰り返して言われました。「昔の人々に、『〜〜』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」このように言うことによって、主イエスは、当時の律法学者やパリサイ人たちの間違った考え方を訂正して、律法の本当の意味を教えられたのです。
ここで興味深いのは、主イエスが「あなたは律法を読んでいる」とは言われずに「立法を聞いている」と言われた点です。当時は、印刷された聖書はありませんでした。手で書き写した聖書だけですから、数が非常に少なく、会堂に置いてあるだけで、私たちのようにいつでも聖書を読むことはできませんでした。人々は、会堂に言ったときに、礼拝の中で読まれる聖書の言葉を聞くだけでした。しかし、当然のことながら、人々は、聖書の言葉だけでなく、その聖書の教えの説明を一緒に聞いていましたが、その説明が、律法学者やパリサイ人によって行われる説明でした。人々は、そこで語られる説明が絶対的な聖書の教え、神の教えてと思い込んでいたのです。律法学者やパリサイ人たちは、律法の解釈として、数多くの規則を作り、それで人々に重荷を与えていました。しかし、主イエスは、律法をとおして神が人間に教えようとしておられる本当の意味を教えられました。
(1)人を殺すとは(21-22節)
私たちの人生で最も難しいものであり、同時に最も大切なもの、また最も楽しいものは人間関係です。私たち人間は一人では生きていけません。人と言う感じは二人の人間が支えている形をしていますし、人間という言葉自体が人の間に生きる者という意味を持つように思います。このことは人間の歴史のはじめから同じでした。5章の後半で主イエスが取り上げられた6つの律法は、いずれも人間関係に関係しているものです。聖書は、人間にとって最も大切なのが、神との関係であり、次に大切なのは、周りの人との関係だと教えています。ですから、主イエスも、クリスチャンにとって最も大切な神の命令は、第一に、全力で神を愛すること、つまり神との関係を正しくすることであり、第二に隣人を自分自身のように愛すること、すなわち、周囲の人々と正しい関係を持つことであると教えられました。その第一の教えが殺人に関する教えでした
「。『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』とあなたがたは聞いています。」と主イエスは言われました。これはモーセの十戒の6番目の戒めであり、また、旧約聖書には殺人を犯した者は罰として死ななければならないことが繰り返し教えられています。創世記の9章6節には「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちにおつくりになったから。」と書かれています。、聖書は、神が創られた人、神が愛しておられる人を殺すことは、神ご自身に攻撃することに等しいと教えています。しかし、主イエスはこの戒めをずっと深い戒めにされました。それは、22節で、「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでも裁きを受けなければなりません」と言われたことから分かります。人を殺すという行為は、心の中にある問題が外に現れた結果にすぎません。律法学者やパリサイひとたちは、外側に現れた結果だけを問題にしていましたが、神様は、私たちの心の中を見ておられるのです。人を殺さないからといって、人は神の前に正しいとされるわけではありません。
主イエスは、心の中で他人に向かって腹を立てる人は殺人を犯す人と同じ心を持っており、状況によっては、人を殺す可能性を持っていることを明らかにしておられます。怒りがすべて悪いわけではありません。主イエス自身も怒りを表すことがありました。しかし、主イエスの怒りは、罪に対する怒り、不正に対する怒りでした。しかし、私たちは、罪や不正に対して怒ることもありますが、それ以上に、私たちは他の人たちから言われた言葉、他の人たちから無礼なことや屈辱的なことを言葉や行いで受けると、相手の人間に対してすぐに腹をたてます。。それらの怒りは、すべて、私たちが心の中に持っている、自我、あるいはプライドが傷つけられたことによります。主イエスの教えは、他の人に対して怒ることや憎しみを持つことを禁じておられるのです。
怒りはまず心の中に生まれるのですが、心にあった怒りが言葉となって口に現れます。そして、それが行動に移されるのです。このことは旧約聖書に出てくるイスラエルの最初の王、サウル王にみられました。サウル王は、彼の後を継いで2代目の王になるダビデを繰り返して殺そうとしましたが、そのきっかけになったのが、ダビデが戦争で大勝利をおさめ人々から称賛されたことでした。第一サムエル18章6節から11節までを読みましょう。最初に、ダビデがペリシテという敵を打ち破って戦地から帰ってきました。それを人々は大喜びで迎えたので、ダビデは一躍民主のヒーローになりました。その時人々は、「サウルは千人を殺したが、ダビデは一万人を殺した」と口々に叫びました。サウル王は、この言葉を聞いたときに、まず非常に怒り、不満に思いました。次に、彼は自分の怒りを言葉で表しました。「私は千人を殺す規模の戦いをし、ダビデは一万人を殺せる規模の戦いをしただけだ。彼が何をしようと、王はこの私だ。」
サウル王にとって、民衆が自分のよりも若いダビデを自分以上にほめたたえていることが彼のプライドを傷つけたのです。心の思いが口から言葉になって出ると、次は行動に移ります。サウルは、王のために竪琴を演奏していたダビデを殺そうと、彼に向って槍を投げつけたのです。聖書の律法は、人間が制定したものではなく、神様が制定されたものですから、私たちは、神様に向かって自分の言動について責任を負わなければなりません。だからこそ、主イエスは、表に現れた行為だけではなく、心の中の考えや動機を問題にされたのです。なぜなら、人に向かって「能なし」とか「ばか者」という人は、殺人を犯す可能性を十分に持っているのです。
人を「能なし」とか「ばか者」と呼ぶことは、言葉による暴力です。肉体を殺すことがなくても心を殺す力があります。これらの言葉は、神様が創った隣人、神様が自分自身のように愛することを命じておられる隣人の頭と心を軽蔑し、その人の人格を破壊することです。だから、そこには肉体を殺した人と同じ刑罰が伴うのです。22節に「最高議会に引き渡されます」とありますが、これはイスラエルの国会にあたるものでサンヘドリンと呼ばれるものです。主イエスを十字架につけることを決めたのもサンヘドリンでした。ゲヘナとは地獄を意味する言葉ですが、もともとはエルサレムの南にあるヒンノムの谷を表す言葉でした。ヒンノムの谷は、町の汚物やゴミや引き取り手のない死体が投げ込まれる場所でした。あまりにも不潔で、匂いがひどいので、一日中火が燃えており、谷からは煙が上っていました。においを消すためでした。ですから、ゲヘナとは、役に立たないものや悪いものを滅ぼす場所と考えれられていました。人が心の怒りをそのままにし、それを言葉に表すことは、すでに殺人を犯したことと同じだと主イエスは教えておられるのです。
(2)和解しなさい(23-26節)
主イエスは、殺人に至る怒りや憎しみを持つ人々に対して具体的な解決方法を示すために2つの例えを用いて説明されました。主イエスは「隣人に対して憎しみを持つな、怒るな」という消極的な命令をするのではなく、積極的に人と和解することを命じておられます。2つ例えのひとつは礼拝に関係するものです。ユダヤ人の男性が神に礼拝をささげる時は、いけにえとしてささげる動物を持って、神殿に入って行きます。いけにえを捧げることも律法で定められていましたが、主イエスは、宗教的な義務としていけにえを捧げることよりも、隣人と和解することのほうがはるかに大切であることを示されました。私たちは、自分を正当化するために、礼拝に出ることや、奉仕をすることなど、敬虔な信者の生活をしようとします。しかし、そのような行いは表面的にどれほど信仰的に見えても、心の中に人への怒りと憎しみを持ったままでは、その礼拝はまったく空しいもので、神様に受けいられることのない礼拝なのです。
どんなに熱心な教会生活を送っても、そのことによって私たちの心が清められるわけではありません。神様の前に受け入れられる義を持つために必要なことは、神と人の前でへりくだることです。人間関係でトラブルが生じるとき、100%どちらか一方が悪いということはあり得ません。どちらにも問題があるのです。私たちは、自分の過ちよりも相手の過ちのほうがよく見えますから、相手から和解を求めることを待つことが多いですが、主イエスは、私たちから和解を求めに行くように命じておられます。
第二の例えは裁判に関係するものです。裁判がおこなわれるときは、原告と被告がいるわけですが、訴えているという事実は、お互いに自分が正しく相手が悪いと思っています。そして、自分の権利を守ることにこだわり、相手の権利については考えません。しかし、私たちが特に、教会の中での人間関係において、自分の立場、自分の正しさ、自分の権利にしがみついていることは、結局、自分が神様から裁かれることになることをこの箇所は示しています。むしろ、自分が損をすることがあっても、人と和解することが大切であること、しかも、それをできるだけ早くすることを命じておられます。この生き方こそが、律法学者やパリサイ人の義にまさる義なのです。私たちには自分の力でできないことですが、神により頼み、神の愛を深く味わうときに、神様がそれをする力を与えてくださいます。そして、このような生き方は他の人の利益のためだけでなく、実は、自分自身にとっても益をもたらすものなのです。
かつて、イギリスのエジンバラにアレクサンダー・ワイトという偉大な説教者がいました。彼については次のようなことが言われていたそうです。「ワイトを見よ。彼の周りのあひるは皆白鳥になる。」ワイトは、いつも自分と接する人が心の中に持っている一番良いものを見て、そしてそれを引き出すことができた人だそうです。彼は、いつもそのようにして周りの人と関係を築いていました。その結果、彼の周りの人々が変えられて行きました。私たちが周りの人と生きるときに、私たちの生き方によって、周りの人をがーガーとうるさいアヒルにしてしまうこともあります。しかし、また、私たちの生き方によって周りの人を白鳥のように美しくすることもできるのです。同じ人生を生きるなら、周りにアヒルよりも白鳥が集まっているほうが良いのです。怒りと憎しみで人を殺すのではなく、十字架の主イエスの愛を分かちあうことによって、愛に満ちた社会をつくる人でありたいものです。

