礼拝説教 2009年11月1日 『目が犯す罪』(マタイ5章27〜30節)

2009.11.03

2009年礼拝説教一覧へ戻る

(イントロ)

主イエスは、5章の後半でユダヤ人がとても大切に考えていた律法に対する新しい教えを述べておられます。ユダヤ人にとっては、律法という言葉は4つの意味を持っていました。

1)旧約聖書の時代にモーセが神から受けた十戒、
2)旧約聖書の最初の5つの書物はモーセが書いたと言われていますが、その5つの書物を意味する場合もあります。
3)旧約聖書全体を律法と呼ぶこともあります。

しかし、主イエスの時代に、律法学者やパリサイ人たちが「律法」と呼んでいたのは、これらの旧約聖書よりも、

4)旧約聖書の教えから彼らが作りだした数多くの細かい規則のことでした。

旧約聖書の律法は、モーセの十戒がその典型的なものですが、具体的な細かな規則ではなく、広い意味の原則が教えられています。もともとは、その原則的な律法に基づいて、一人ひとりが自分の生活の中でそれを適用して生活することが、律法が与えられた目的でありました。しかし、後のユダヤ人たちは、原則的な律法だけでは満足しなくなり、律法学者と呼ばれる人々が現れて、律法の原則から非常に多くの細かい規則を作り上げました。長い間、これらの規則は文字にされずに、律法学者たちの記憶によって次の世代に受け継がれて行ったのですが、3世紀の中頃に、それらの規則をまとめたものが創られて、ミシュナと呼ばれました。それらは英語の本にすると800ページにもなる膨大なものとなっていました。このような規則がイエスの時代にはありましたので、その当時のユダヤ人にとって、神に仕えて生きるということは、これらの何千にも及ぶ細かい規則を守って生きることだったのです。


 それに対して、主イエスご自身は、たびたび、そのような細かな規則を破られ、また、そのような規則について厳しく批判されました。神様が私たち人間に律法を与えられたのは、そのような細かい規則に縛られて生きることではなかったからです。律法学者やパリサイ人たちは、もともとは神の前に正しく生きようとする心を持っていたと思われます。その思いは決して間違っていないのですが、彼らは細かな規則を作ってそれを守ることによって自分が正しい人間だと思い込むようになり、そして、自分たちと同じように規則を守らない人々を裁き、見下すようになって行ったのです。そのような態度は、律法の精神とはまったく異なるものでした。主イエスが教えようとされた律法の精神はどういうものだったのでしょうか。

ある時、一人の律法学者が主イエスに「律法の中で、一番大切なものは何ですか。」と尋ねました。(マルコ12:28-31)すると、主イエスは一番大切な戒めは「心を尽し、思いを尽し、知性を尽し、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」二番目に大切な戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」この二つより大切な命令は他にはありません。このように答えられました。これをモーセの十戒に当てはめれば、第一に神を畏れ敬う心を持つことであり、第二に自分の周りの人々を大切にすることだと言えます。モーセの十戒は最初の4つが神様に関する戒めです。それは、まとめて言えば、神様と神様の名前を畏れ敬うことであり、神様が決められた特別の日である安息日に対して恐れ敬う心を持つことです。後半の6つは人間関係に関する戒めですが、すべて他の人を尊敬する心につながります。両親を尊敬する心、他の人の命を尊重する心。他人の持ち物を尊重する心、他の人の人格を大切にする心、真実と他の人の名誉を尊重する心、そして不当は欲望に立ち向かう自分自身を大切にする心です。ですから、私たちは、何よりもまず、私たちを愛し、私たちの罪を許してくださった神様を心から愛すること、そして、その神様が創られた他の人を愛する心を持つことが、律法をとおして神様が私たちに求めておられることなのです。


(1)情欲の目で見ること

 27節から、主イエスはモーセの十戒に対する新しい基準の、2番目の実例を示されました。主イエスは言われました。「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがは聞いています。」「姦淫してはならない」というのはモーセの十回の7番目の戒めそのものです。ユダヤ教では、姦淫、つまり、結婚という枠組みを踏み越えて男女がセックスすることを意味しますが、これを非常に重大な罪と見なしていましたので、姦淫を犯した者は殺されなければなりませんでした。しかし、主イエスは、姦淫という行為をする人だけが神の前に罪人なのではないことを教えられました。28節で主は言われました。「だれでも情欲をいだいで女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯してしまったのである。」ここで見ると訳されているギリシャ語は、その形から、見続けていること、何度も繰り返して見ていることを意味します。つまり、偶然にちらっと見るというのではなく、心の中に何かの目的を持って繰り返し見ることを意味するかたちです。私たちは、美しい人、女性であっても男性であっても、美しさに見とれること、印象付けられることはあるでしょう。主イエスがここで言われたことは、そのようなことを意味するのではありません。心の中にある情欲を行動に移すことを考えて相手の人を見ることです。その目の動きは、その人の心の中にある情欲を表しています。私たちの心は土みたいなもので、その中に罪の種が入り込むと、やがて、罪の目が伸びてくるのです。そのような時に、人が考えているのは、自分の情欲を満たしたい、自分の欲望を行動に移したい、つまり自分のことだけを考えています。相手の人の人格を尊重することなどまったく頭にありません。相手の人の心、相手の人の生活、相手の人の人格を無視して、ただ自分中心な心だけが働いているのです。

 この罪に陥った人物として有名なのが3000年前のイスラエル王ダビデです。イスラエルがあもん人と戦争をしていたときのことです。彼の軍隊は戦場で自分のいのちをかけて闘っていましたが、ダビデ王はエルサレムの宮殿にいました。ある暖かい夕暮れ時、彼は何もすることがなかったのか屋上に出て街の様子を眺めていました。その時、一人の女性が自宅の庭で水浴びをしている姿が彼の目をとらえました。その人はとても美しい女性でした。彼の目はその女性にくぎ付けになりました。心の中に情欲が生まれていました。彼は国の王様ですから、なんでも自分の願いを実現することができます。彼は部下にその女性を調べさせました。すると部下は「あれはウリヤの妻、バテシェバです。」と答えました。その部下は、ダビデの下心を見抜いていたのでしょう。「あの女性は結婚していて、主人がいるのですよ。」と暗に、ダビデの思いをとどめさせようとしましたが、ダビデは、すでに心の中で姦淫を犯してしまっていたのです。もう、そのダビデを思いとどまらせることは不可能でした。


(2)目を捨てなさいとは

 イエスは、私たちが姦淫の罪を犯すことがないために、非常に厳しい言葉を言われました。29節、30節を読みましょう。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」ここで「つまずかせる」と訳されているギリシャ語は「スキャンダロン」という言葉で、この言葉から英語の「スキャンダル」という言葉が生まれました。この言葉は、もともと動物を罠にかけて捕まえるときに、動物をおびき寄せるために棒きれに動物が好きな食べ物をつけておくのですが、その棒をスキャンダロンと呼んだそうです。動物は、その餌を食べようとすると罠にはまって、命を落とすことになります。もし、私の目がスキャンダロンになると、その目のために私は罠にはまって命を落とすことになります。もし、私の手がスキャンダロンになると、その手のために私は罠にはまって命を落とすことになります。そういうものを捨ててしまえと主イエスは言われましたが、これはどういう意味なのでしょうか。先ほども言いましたように、私たちは、何かに目を留めることによって罪を犯してしまうのですが、実は、なぜ何かに目を留めるかと言えば、私たちの心の中に、見てはならないものを見ようとする心があるからです。ですから、いくら、目をえぐりだしても、何もなりません。イギリスの著名な説教者であうジョン・ストット牧師はこの点について次のように説明しました。

「もし、あなたの目があなたに罪を犯させるなら、つまりあなたの目が見るものから誘惑が来るのだから、目をえぐりだしなさい。つまり、見るなということです。また、もしあなたの手や足があなたに罪を犯させる場合は、あなたの手が行うこと、あるいはあなたの足が出かけて行く場所から誘惑が来るのだから、そのような行為はするな。そのような場所には行くなということです。」

 人が罪を犯す場合、その時は一時の楽しみを味わいますが、その後に恐ろしい結果が待ち構えています。スポルジョンは罪について次のように言っています。「神様は、神の民が罪を犯してもうまく行くことをお許しにならない。」罪を犯すと、人は、自分の体も、精神も、信仰もすべてをだめにしてしまいます。ダビデの場合がその典型です。彼はウリヤという忠実な部下を裏切りました。姦淫には偽りが伴います。だれもがその事実を隠そうとするからです。自分の妻や夫を裏切ることであり、相手の人の妻や夫、あるいは親や子供を裏切ることです。ダビデは不倫相手のバテシェバが妊娠したために、それを必死になって隠そうとしますが、結局かれはバテシェバの夫ウリヤを死に追いやってしまいます。一時のはかない楽しみを味わうために、彼は自分も他人をも滅ぼしてしまいました。詩篇32篇には、彼が罪を犯した後のことが書かれています。「私は、黙っていたときには、一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏の日照りで渇ききったからです。」彼は、体も心も信仰も、すべてが弱弱しい男になってしまったのです。彼が罪を犯す前は、非常に力も勢いもありましたが、罪を犯したのち、彼はただ苦しみに耐えかねていました。


(3)きよい生活を保つために

 聖書は、クリスチャンを神の手から奪い取ろうとする霊的な存在、つまり目に見えない存在があることを教えており、その存在をサタンと呼んでいます。サタンは、神に反逆すると同時に、神を信じるクリスチャンを滅ぼそうとして、この世で様々な働きをしています。サタンの目的はクリスチャンを滅ぼすことですから、さまざまなかたちで私たちを誘惑してきます。私たちは、自分をきよく保つために、サタンの攻撃から自分を守らなければなりません。そのために必要なのは、自分を守る武具を身につけることです。エペソ人への手紙6章には神の武具について書かれています。エペソ人への手紙の6章14節から18節までを読みましょう。第一の武具は「真理の帯」です。真理とは、私たちが信じている聖書の教えの真理です。私たちは、聖書を読み、礼拝で説教を聞き、また信仰の書物を読みながら、聖書の真理を吸収して行きますが、まず、何よりも、聖書の教えが真理であることをしっかりと確信しなければなりません。これがきよい信仰生活の土台です。第二に胸には正義の胸当てです。これは神様との真実の関係を表していると思います。

私たちは罪人ですが、主イエスが十字架で私たちの身代わりとなって死んでくださったことにより、私たちにキリストの義を着せてくださいました。そして、私たちは神様の子供として神様と親しく交わることが許されました。正義の胸当ては、私たちが主イエスの十字架が自分のためであったことを信じ、罪が赦されたことを感謝して神とともに生活を始めたのです。神と共に生きることが私たちを守ります。もちろん、私たちは、時には失敗して罪を犯してしまいます。その時に大切なことは、すぐに神様に告白して謝ることです。神様は私たちと霊的な親子の関係を回復してくださいます。第三の武具は「平和の福音の備え」です。いつでもイエスキリストの福音を人々の伝えることができるように備えていなさい。いつでも福音を携えて出ていけるように平和の福音の靴を履いていなさい。ということです。人々に福音を伝えることは勇気が要ります。人は私たちをクリスチャンとしてみますから、私たちは自分がクリスチャンとしてふさわしい生活をしているか責任を負わなければなりません。でもこの生き方が私たちを罪から守るのです。第四の武具は信仰の大盾です。信仰の盾によって、私たちは「悪い者が放つ火の矢を消すことができます。」信仰の反対は、神様への疑いです。サタンは私たちが神様に対して疑いの心を持つように、働きます。エバが食べてはいけないという木の実を食べたときも、サタンはまずエバが神様に対して疑いの心を持つように仕向けました。信仰とは、神様が約束してくださったことを、何があっても、どこまでも信じ抜くことです。第五の武具は「救いの兜」です。主イエスの十字架によって救われたことを、決して忘れず、いつもそのことを誇りとして生きることです。主イエスは、私のような罪深い者のために、ご自分のいのちを捨てられました。そのことを感謝し、そのことだけを自分の誇りとして生きるとき、私たちは、神様を裏切ることはできません。神様が喜ぶ生き方をしようと思うはずです。第六の武具は「御霊の与える剣である、神の言葉」です。私たちを守るのは聖書の言葉、聖書の約束です。詩篇119篇9節には次のように書かれています。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従って、それを守ることです。」神の言葉はサタンに対する攻撃にもなります。

 神の武具について述べた後、パウロはエペソ6章18節で「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも祈りなさい。」と言いました。私たちがサタンに対してできる攻撃は祈りだけです。讃美歌の中に「サタンは最も弱いクリスチャンがひざまずく姿を見る時、恐ろしさに震えあがる」という歌詞の歌があるそうです。クリスチャンの祈りはただひとりの祈りではありません。私たちが力と心を合わせて祈ることが大切です。私たちは、皆、サタンの誘惑や攻撃にさらされています。私たちは、お互いに祈りによって支え合うことが必要です。そのようにして、勝利の信仰生活、きよい生活の道を、ともに、まっすぐ進んで行きましょう。