礼拝説教 2009年3月29日 「あなたを神から遠ざけるもの」(イザヤ書59章)
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預言者イザヤのユダヤ人に対する言葉は、繰り返して、イスラエルの人々の心が神様から離れてしまっているということでした。彼らは、神様を信じる信仰から外れて、他の神々を拝み、また、周りの人々に対しても不正を働いている人が数多くいたようです。その結果、彼らの生活にはかみの守りや祝福がなく、様々な困難に出くわしました。それで、彼らは自分が経験している苦しみを神様に訴えて、救いと助けを求めたのですが、彼らに対して神様の力が働きませんでした。それで、彼らは神様に対して不満を抱きました。彼らが神様に向かって祈っても、答えが得られないのは、神様の手が短いからだ、つまり神様には自分の祈りに答えるだけの力がないと考えたり、あるいは、神様の耳が遠くて聞こえないから、つまり、神様が私たちの祈りを聞くことに疲れ果ててたからだ、そのような考えを持つようになったのです。しかし、神様は力のない方でしょうか。神様は、祈りを聞くことに飽きるような方なのでしょうか。先週読みましたイザヤ書58章9節には、「あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。」と書かれています。神様は、いつでも私たちの祈りは答えられなかったのでしょうか。その理由が59章2節に記されています。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」イスラエルの人々の祈りが聞かれなかったのは、神様に原因があるのではなく、彼ら自身にあったのです。彼らの中に働いていた罪が彼らと神様を社団してしまったのです。罪とは、人間を神から引き離してしまう、とても恐ろしいものなのです。詩篇の66篇18節には次のように書かれています。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」私たちは、クリスチャンになった後も、洗礼を受けた後も、常に、正直に自分の罪を認め告白する姿勢を持っておかなければなりません。誰も、100%神様の基準に達するほど正しい生活をすることはできないからです。ヨハネは彼がクリスチャンに宛てて書いた手紙の中で、「もし、あなたが罪がないと言うのなら、あなたは自分を欺いており、あなたのうちに真理はない」と言いました。ですから、罪を犯したときに、私たちがしなければならないことは、神様の前に正直に自分の罪を認めることであり、また、それを悔い改めることです。悔い改めは、ただ単に、罪を告白することではありません。悔い改めは、神様が罪と認めることを今後は行わないと決心して、神様の命令に従うことです。イスラエル王ダビデは国王でした。その地位と権力を使えば、何でも自分の好きなように行動することができました。しかし、彼は詩篇の19篇で「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」と祈っています。もし、私たちが悔い改めることを拒み続けたり、罪の行いを続けて行くならば、私たちは自分と神様の間に大きな壁を築くことになります。そのため、私たちがどんなに祈っても、私たちの生活の中に神様の力が働かないのです。私たちは自分が言葉や行いで犯してしまったすべての罪を覚えておくことは不可能です。ただ、私たちは、いつでも神様の前に素直に自分の罪の認め、その罪を悔い改める姿勢を持っておかなければならないのです。
3節以下には、イスラエルの人々が犯していた様々な罪が描かれています。彼らは、手を上げて神を礼拝し、その口で神に祈りと賛美をささげていました。しかし、神様が見たのは、彼らの手は血で汚れ指は咎で汚れ、彼の口は偽りと不正によって汚れていたのです。これでは、神様が彼らの祈りに答えられないのは当然です。イザヤは4〜6節で次のように述べています。「59:4正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者ものなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。」ここで、イザヤはイスラエルの民を例えで表現しています。1)「害毒をはらみ、悪意を産む」、これは、罪を出産する妊婦の姿に例えています。2)「まむしの卵をかえし、くもの巣を織る」、イスラエルの人々は、たまごをふかして毒蛇の赤ちゃんを撒き散らすマムシや、巣をはるクモのようなものでした。彼らが生み出すものは、人々を滅ぼすもので、クモの巣は体を覆う衣服にもならず、哀れな虫たちを捕らえて殺してしまうものです。イスラエルの民だけでなく、罪を犯している人々は、自分たちに益になることをしないだけでなく、他の人々を陥れるような生き方をしていました。
イスラエルの民の口は偽りと不正に満ちていましたが、今の世の中も、まさにその状態です。政治家も、ビジネス人も、だれもが金の奴隷になって、自分が利益を得るためには、偽りや不正を行うことを全くためらっていないのです。聖書は「金銭を愛することあらゆる悪の根である」と書かれていますが、まったく真実を語っている言葉です。私たちが偽りと不正に生きるときに、自分がいったいどこに向かって進んでいるのか、自分自身を見失ってしまいます。9節から11節を読むと、その状態は、ちょうどたそがれ時に薄暗い中で道を進むようなものだと教えています。「公儀は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。」これは罪びとの姿を描いている言葉です。罪びとは、1)正しい道から離れてしまっています。2)光がない人生です。3)目が見えない状態で歩いています。4)つまずきます。5)まるで死人のような生き方をしています。罪に満ちた人生は、光がないために、自分がどこに向かって進んでいるのか分かりません。大切なものが見えません。そして、命の元気さがないのです。
このような私たちが住むこの世界をご覧になる時、神様は何を見出されるのでしょうか。14節には次のように書かれています。「こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。」今日の社会では、公正、正義、真理、正直、これらの言葉は価値のないもののように思えます。このようなものを目指して生きる人は、この世では利益を得ることができない、そのような社会になっているのです。こんな姿を見た神様は、ご自身が創った世界が、このように堕落しているのを見てどれほど心を痛められたかと思います。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」神様は、確かに、私たちの世界を見て心を痛められました。しかし、また、神を求める人、神に向かってとりなしの祈りをささげる人がいないのを見て驚かれました。しかし、神様の心はそこで終わるのではありません。神様は、このような世界に住む私たち、罪を持つ人間が互いに苦しめ合って、傷つけ合って、苦しんでいる様子を見て、救い出そうと思ってくださるのです。人間にできないことを、ご自分がしようと決意されました。16節の終わりの「ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」という言葉は、神様がご自分の救いの計画を宣言しておられる言葉なのです。言い換えると、「もし、この世界に救いをもたらすことのできる人間が一人もいないのであれば、力強い私の腕をもって、私自身の義、正しさをもって救い出すこと、つまり、私が、人間の世界に下って、彼らの一人となって救い出すのだ。」という宣言だと思います。神様は全能の力を持っておられる力の神です。しかし、神が私たちの罪の世界を救い出す方法は、その腕を十字架にくぎで刺しとおすという方法でしか、達成することができないのです。私たちは、人生に苦しみや悲しみが多いのは、社会が悪い、政治が悪い、教育が悪い、隣に住んでいる人が悪い、といろいろな理由を考えますが、聖書の教えは違います。それらのものにも確かに問題があります。しかし、一番の問題は、私たち自身なのです。自己中心で、自分が神のようになって生きて行きたいという心、つまり罪の心を持つ自分がまず変えられなければ、周りがいくら変わっても本当の解決にはなりません。まず、神様は、私たちが受けなければならない罪の刑罰を受けるという道を選ばれました。私たちの心は、修行を積むことや、知識を増やすことや、経験を積むことや、悟りを開くことでは、完全には変えることができません。聖書は、人の心は神の偉大な愛に触れることによって変えられると教えます。聖書は人間の罪を借金にたとえています。もし、私たちがサラ金に借金があるとすると、いつも取りたての人が家に来たり電話をかけてきたりして、金を返せと返済を迫ります。返すことができないと、私たちは、本当に恐ろしくなり、どうしたらよいか分からなくなります。人間が本当に人間らしく生きることができないのは、罪に縛られて、逃れられなくて苦しんでいるからです。そんな時に、誰かが、その借金を全部肩代わりしてくれるとしたらどうでしょうか。これまで本当に悩み苦しんでいたことから、完全に開放されるのです。どんな大きな平安を感じることでしょう。そして、自分のために大きな犠牲を払って借金の肩代わりをしてくれた人には、感謝の気持ちしかないと思います。クリスチャンは、正しい生き方をするようになった人ではありません。誰一人、完全に正しい生き方などできません。クリスチャンは、イエス様が十字架で受けられたあの恐ろしいほどの苦しみは、実は、私の肩代わりをするためだったのだ。私が苦しまなくてもよいように、キリストが身代わりにその刑罰を受けてくれたのだと知って、その愛を受け取って、そこに喜びを見出した人のことなのです。
神様は、こんな罪深い人間を見ても、なお、私たちを救い出そうと思ってくださいました。そして、20、21節には約束の言葉が書かれています。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――主の御告げ。――これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」と主は仰せられる。」神様は、誰でも、罪を悔い改め、罪から離れる者の所に来てくださいます。また、いつも私たちとともにおられるという約束を宣言しておられます。キリストは2000年前には、地上で私たちと同じような姿で存在しておられました。もし、2000年前に私たちがイスラエルに生きていたら、自分の目でイエスさまとお会いできたかもしれません。もしそれが実現したなら、言葉に表せないほどの素晴らしい経験に違いありません。しかし、主がいつまでも私たちと同じ姿で存在されていたら、私たちはいつも主イエスとともにいることはできません。限られた時間に、主イエスがおられるところまで、行かなければ会うことはできません。しかし、今は違います。主イエスは、今、肉眼では見えませんが、聖霊というすがたで、私たちと永遠にともにいてくださるのです。私たちがどこにいても、どのよう状況に置かれていても、私たちが何をしていても、いつも私たちとともにおられるという約束を神様がここでも宣言されました。
預言者イザヤのユダヤ人に対する言葉は、繰り返して、イスラエルの人々の心が神様から離れてしまっているということでした。彼らは、神様を信じる信仰から外れて、他の神々を拝み、また、周りの人々に対しても不正を働いている人が数多くいたようです。その結果、彼らの生活にはかみの守りや祝福がなく、様々な困難に出くわしました。それで、彼らは自分が経験している苦しみを神様に訴えて、救いと助けを求めたのですが、彼らに対して神様の力が働きませんでした。それで、彼らは神様に対して不満を抱きました。彼らが神様に向かって祈っても、答えが得られないのは、神様の手が短いからだ、つまり神様には自分の祈りに答えるだけの力がないと考えたり、あるいは、神様の耳が遠くて聞こえないから、つまり、神様が私たちの祈りを聞くことに疲れ果ててたからだ、そのような考えを持つようになったのです。しかし、神様は力のない方でしょうか。神様は、祈りを聞くことに飽きるような方なのでしょうか。先週読みましたイザヤ書58章9節には、「あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。」と書かれています。神様は、いつでも私たちの祈りは答えられなかったのでしょうか。その理由が59章2節に記されています。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」イスラエルの人々の祈りが聞かれなかったのは、神様に原因があるのではなく、彼ら自身にあったのです。彼らの中に働いていた罪が彼らと神様を社団してしまったのです。罪とは、人間を神から引き離してしまう、とても恐ろしいものなのです。詩篇の66篇18節には次のように書かれています。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」私たちは、クリスチャンになった後も、洗礼を受けた後も、常に、正直に自分の罪を認め告白する姿勢を持っておかなければなりません。誰も、100%神様の基準に達するほど正しい生活をすることはできないからです。ヨハネは彼がクリスチャンに宛てて書いた手紙の中で、「もし、あなたが罪がないと言うのなら、あなたは自分を欺いており、あなたのうちに真理はない」と言いました。ですから、罪を犯したときに、私たちがしなければならないことは、神様の前に正直に自分の罪を認めることであり、また、それを悔い改めることです。悔い改めは、ただ単に、罪を告白することではありません。悔い改めは、神様が罪と認めることを今後は行わないと決心して、神様の命令に従うことです。イスラエル王ダビデは国王でした。その地位と権力を使えば、何でも自分の好きなように行動することができました。しかし、彼は詩篇の19篇で「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」と祈っています。もし、私たちが悔い改めることを拒み続けたり、罪の行いを続けて行くならば、私たちは自分と神様の間に大きな壁を築くことになります。そのため、私たちがどんなに祈っても、私たちの生活の中に神様の力が働かないのです。私たちは自分が言葉や行いで犯してしまったすべての罪を覚えておくことは不可能です。ただ、私たちは、いつでも神様の前に素直に自分の罪の認め、その罪を悔い改める姿勢を持っておかなければならないのです。
3節以下には、イスラエルの人々が犯していた様々な罪が描かれています。彼らは、手を上げて神を礼拝し、その口で神に祈りと賛美をささげていました。しかし、神様が見たのは、彼らの手は血で汚れ指は咎で汚れ、彼の口は偽りと不正によって汚れていたのです。これでは、神様が彼らの祈りに答えられないのは当然です。イザヤは4〜6節で次のように述べています。「59:4正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者ものなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。」ここで、イザヤはイスラエルの民を例えで表現しています。1)「害毒をはらみ、悪意を産む」、これは、罪を出産する妊婦の姿に例えています。2)「まむしの卵をかえし、くもの巣を織る」、イスラエルの人々は、たまごをふかして毒蛇の赤ちゃんを撒き散らすマムシや、巣をはるクモのようなものでした。彼らが生み出すものは、人々を滅ぼすもので、クモの巣は体を覆う衣服にもならず、哀れな虫たちを捕らえて殺してしまうものです。イスラエルの民だけでなく、罪を犯している人々は、自分たちに益になることをしないだけでなく、他の人々を陥れるような生き方をしていました。
イスラエルの民の口は偽りと不正に満ちていましたが、今の世の中も、まさにその状態です。政治家も、ビジネス人も、だれもが金の奴隷になって、自分が利益を得るためには、偽りや不正を行うことを全くためらっていないのです。聖書は「金銭を愛することあらゆる悪の根である」と書かれていますが、まったく真実を語っている言葉です。私たちが偽りと不正に生きるときに、自分がいったいどこに向かって進んでいるのか、自分自身を見失ってしまいます。9節から11節を読むと、その状態は、ちょうどたそがれ時に薄暗い中で道を進むようなものだと教えています。「公儀は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。」これは罪びとの姿を描いている言葉です。罪びとは、1)正しい道から離れてしまっています。2)光がない人生です。3)目が見えない状態で歩いています。4)つまずきます。5)まるで死人のような生き方をしています。罪に満ちた人生は、光がないために、自分がどこに向かって進んでいるのか分かりません。大切なものが見えません。そして、命の元気さがないのです。
このような私たちが住むこの世界をご覧になる時、神様は何を見出されるのでしょうか。14節には次のように書かれています。「こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。」今日の社会では、公正、正義、真理、正直、これらの言葉は価値のないもののように思えます。このようなものを目指して生きる人は、この世では利益を得ることができない、そのような社会になっているのです。こんな姿を見た神様は、ご自身が創った世界が、このように堕落しているのを見てどれほど心を痛められたかと思います。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」神様は、確かに、私たちの世界を見て心を痛められました。しかし、また、神を求める人、神に向かってとりなしの祈りをささげる人がいないのを見て驚かれました。しかし、神様の心はそこで終わるのではありません。神様は、このような世界に住む私たち、罪を持つ人間が互いに苦しめ合って、傷つけ合って、苦しんでいる様子を見て、救い出そうと思ってくださるのです。人間にできないことを、ご自分がしようと決意されました。16節の終わりの「ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」という言葉は、神様がご自分の救いの計画を宣言しておられる言葉なのです。言い換えると、「もし、この世界に救いをもたらすことのできる人間が一人もいないのであれば、力強い私の腕をもって、私自身の義、正しさをもって救い出すこと、つまり、私が、人間の世界に下って、彼らの一人となって救い出すのだ。」という宣言だと思います。神様は全能の力を持っておられる力の神です。しかし、神が私たちの罪の世界を救い出す方法は、その腕を十字架にくぎで刺しとおすという方法でしか、達成することができないのです。私たちは、人生に苦しみや悲しみが多いのは、社会が悪い、政治が悪い、教育が悪い、隣に住んでいる人が悪い、といろいろな理由を考えますが、聖書の教えは違います。それらのものにも確かに問題があります。しかし、一番の問題は、私たち自身なのです。自己中心で、自分が神のようになって生きて行きたいという心、つまり罪の心を持つ自分がまず変えられなければ、周りがいくら変わっても本当の解決にはなりません。まず、神様は、私たちが受けなければならない罪の刑罰を受けるという道を選ばれました。私たちの心は、修行を積むことや、知識を増やすことや、経験を積むことや、悟りを開くことでは、完全には変えることができません。聖書は、人の心は神の偉大な愛に触れることによって変えられると教えます。聖書は人間の罪を借金にたとえています。もし、私たちがサラ金に借金があるとすると、いつも取りたての人が家に来たり電話をかけてきたりして、金を返せと返済を迫ります。返すことができないと、私たちは、本当に恐ろしくなり、どうしたらよいか分からなくなります。人間が本当に人間らしく生きることができないのは、罪に縛られて、逃れられなくて苦しんでいるからです。そんな時に、誰かが、その借金を全部肩代わりしてくれるとしたらどうでしょうか。これまで本当に悩み苦しんでいたことから、完全に開放されるのです。どんな大きな平安を感じることでしょう。そして、自分のために大きな犠牲を払って借金の肩代わりをしてくれた人には、感謝の気持ちしかないと思います。クリスチャンは、正しい生き方をするようになった人ではありません。誰一人、完全に正しい生き方などできません。クリスチャンは、イエス様が十字架で受けられたあの恐ろしいほどの苦しみは、実は、私の肩代わりをするためだったのだ。私が苦しまなくてもよいように、キリストが身代わりにその刑罰を受けてくれたのだと知って、その愛を受け取って、そこに喜びを見出した人のことなのです。
神様は、こんな罪深い人間を見ても、なお、私たちを救い出そうと思ってくださいました。そして、20、21節には約束の言葉が書かれています。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――主の御告げ。――これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」と主は仰せられる。」神様は、誰でも、罪を悔い改め、罪から離れる者の所に来てくださいます。また、いつも私たちとともにおられるという約束を宣言しておられます。キリストは2000年前には、地上で私たちと同じような姿で存在しておられました。もし、2000年前に私たちがイスラエルに生きていたら、自分の目でイエスさまとお会いできたかもしれません。もしそれが実現したなら、言葉に表せないほどの素晴らしい経験に違いありません。しかし、主がいつまでも私たちと同じ姿で存在されていたら、私たちはいつも主イエスとともにいることはできません。限られた時間に、主イエスがおられるところまで、行かなければ会うことはできません。しかし、今は違います。主イエスは、今、肉眼では見えませんが、聖霊というすがたで、私たちと永遠にともにいてくださるのです。私たちがどこにいても、どのよう状況に置かれていても、私たちが何をしていても、いつも私たちとともにおられるという約束を神様がここでも宣言されました。

