礼拝説教 2009年6月21日 「私たちを慰める神」(イザヤ書66章9-14節)
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(1)神が望む礼拝と神が嫌う礼拝
イザヤ書の最後の章66章は、まず礼拝に関する神様の言葉が記されています。クリスチャンにとって最も大切なことは、私たちを罪から救い神の子どもにして下さり、永遠の命を約束してくださった神様を礼拝することです。ところが、私たちは、礼拝をささげるときに、つい、外面的なものにこだわることがあります。66章1節には次のように書かれています。「主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。」当時のユダヤ人は、エルサレムにあった神殿を誇りに思っていました。イザヤが生きていた時代はBC8世紀で、まだエルサレムがバビロンによって破壊される前のことでしたので、エルサレムにはソロモン王が建てた壮麗な神殿がその姿を誇っていました。総大理石、内側は金で覆われていた立派な建物でした。立派な建物を建てることが悪いのではありませんが、私たちは、どうしても目に見えるもの、目に見える行為を自慢にしてしまうのです。神を礼拝するとは、私たちが神様のために自分が何かをすることではありません。ところが、人間は、立派な会堂を建てることで神様を礼拝していると思ったり、自分が神様のためにたくさんの献金をすることで神様から褒められようとしたりします。立派な会堂を建てることも、たくさんの献金をすることも、奉仕をすることも、上手に讃美歌を歌うことも、それらは皆、その行い自体はすばらしいことです。ところが、私たちがこれらのことが礼拝だと思ったり、あるいは、それらの行いによって神様を喜ばせようとしたり、あるいは、それらの行いによって人からの称賛を得ようとしたりすると、それらは、礼拝とは言えないものになってしまいます。もし、私たちが礼拝に義務感を持って出席したり、忙しい生活の中で自分が礼拝に出るために時間をささげているのだ、などと考えることも本当の礼拝とはかけ離れています。
それでは、神様が求める本当の礼拝とは何でしょうか。それは、2節の最後のところに記されています。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」神様が求めている礼拝者とは、へりくだって心砕かれた人であり、神様のことばにおののく人です。わたしたちは、礼拝に来るときにへりくだって心砕かれているでしょうか。神様の言葉に対して恐れおののくほどの気持ちを持っているでしょうか。ダビデ・ソロモンよりも350年ほど後に南ユダ王国にヨシアという名前の王様がいました。南ユダ王国は400年足らず続き、20人の王さまがいますが、聖書はその中で善い王と認めているのは8人で、その中でもヨシア王は最もすぐれた王と見なされていました。ところが、ヨシア王の時代、エルサレムの神殿にあったはずの聖書がなくなっていました。それは、今日の教会の中に聖書がないのと同じことで、とんでもないことだったのですが、当時のユダヤ人は、それほどまでに神様の言葉に無関心だったのです。それが、ヨシヤ王の時に、なくなっていた聖書が発見されました。ヨシヤ王は、聖書の言葉を部下に読ませて、その言葉を聞きました。ヨシア王は、神の言葉を聞くと、自分たちの生活があまりにも神の律法から外れていたので、神の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて悲しみを表しました。そのヨシア王の神の言葉に対する姿勢を見て、ユダヤ人のうえに災いを振らせようとしていた神様は、その裁きを思いとどまりました。
主イエスもヨハネの福音書14章23節で次のように言われました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」私たちは神を愛すると言いますが、神を愛する人とは、すなわち神の言葉を守る人です。神を愛すると告白しても、もし私たちが神の言葉を守らないのであれば、その人は本当に神を愛する人とは言えません。私たちは、いったい、神様の言葉にどれほどの恐れとおののきを感じているでしょうか。もし、私たちが神様の言葉に恐れおののき、み言葉を守るならば、たくさんの祝福が約束されています。父なる神様が私たちを特別に愛してくださいます。そして、「私たちはその人のところに来る」と言われましたが、私たちとは、父、子、聖霊の三位一体の神がその人のところに来て、ともに住んでくださいます。私たちは、イエスキリストを救い主と信じる信仰を持った時に、神様が私たちのところに来てくださいますが、ここで言われているのは、そのような人のうえには神様が特別に親しい交わりを持ってくださり、特別な神の力を注いでくださることを意味しています。ある人は次のように言いました。「信仰によって救われた人は天国に行きますが、神の言葉を恐れてみ言葉に従う人のところには、天国が来てくださる。」のだと。
それに対して、神様が嫌う礼拝とはどんな礼拝なのでしょうか。3節には次のように書かれています。「 牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。」ここで、「牛を屠る者」「羊をいけにえにする者」「穀物のささげ者をささげる者」「乳香をささげる者」と書かれていますが、これらはすべて旧約聖書の律法の中に礼拝をおこなう場合に命令されていることがらです。当時のユダヤ人は、確かに、聖書の律法が命じている礼拝行為は行っていましたが、彼らは表面的に儀式を行っているだけで、心は異邦人、偶像礼拝を行っている人と同じでした。3節に書かれている「人を打ち殺す者」「犬をくびり殺す者」「豚の血をささげる者」「偶像をほめたたえる者」これらはすべて、イスラエルの神が忌み嫌う偶像礼拝です。3節の言葉は私たちに対する警告の言葉です。私たちが信仰生活として、礼拝に出席し、祈り、献金をし、讃美歌を歌っていても、その心が、神以外のものを愛し、自分の気持ちや欲望のままに行動するならば、それらの行いは、表面的にどれほど敬虔なものに見えても、神の目には、おぞましい偶像礼拝と同じなのです。そのような人には、神様の祝福はそそがれません。それどころか、4節を見ると、神はそのような人には恐怖をもたらすと言われます。しかし、それは神に責任があるのではなく、私たちに責任があります。4節で神様が言われた言葉に目をとめてください。「わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。」
(2)み言葉におののく者が受ける祝福
5節で神は言われました。「主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。」自分の道を歩む人が多い時代ですが、神様の眼は、真面目に主の言葉に従おうとしている少数の人々をしっかり見ておられます。ここで神様が見ておられるのは2種のグループの人々です。一方は神を真実に礼拝する人々です。もう一方は、彼らの仲間で、その仲間がみ言葉に従おうとする人々をからかい、嘲笑しています。私たちがみ言葉に真剣に従おうとすると、それを邪魔したり、それを笑いものにする人がいるというのです。しかも、同じ信仰の仲間がそうするのです。私たちは、本当に気をつけなければなりません。み言葉に対する私たちの姿勢がいい加減だと、私たちは他の人の信仰につまずきを与える者、他の人の信仰を妨害する者になってしまいます。しかし、み言葉におののく人は何も恐れる必要がありません。信仰を妨害する人がどんなに敬虔そうな言葉や知恵に満ちているように思得る言葉を言っても、神様はすべてを見抜いておられます。信仰仲間の人につまずきを与える人は、恥を見ると書かれています。神様は、人の罪を見逃すことはないのです。ですから、私たちは、人が何と言おうと、たとえ信仰の仲間から何かを言われたとしても、み言葉に畏れつつ従うことを決してやめてはなりません。なぜなら、そのような人には素晴らしい約束があるからです。
ひとつは、神様からの慰めです。10節、11節を読みましょう。「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。あなたは、彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。」み言葉に対して真剣に生きる者には神からのさまざまな祝福が注がれますが、ここでは、神様の慰めが語られています。私たちの神は、父なる神です。父親が子供を愛し養うように、父なる神は、み言葉におののく者を愛し、また養ってくださいます。私たちの父なる神は父親が子供を愛するように、私たちを愛されるだけではなく、母親が子どもを愛し、守るように神様は私たちを愛し、また、守ってくださいます。赤ちゃんがお母さんの乳を飲んで満足すると、泣いていたのも忘れて安らかに眠ります。私たちも、母親なる神様の祝福に満ち足りるとき、心は平安に満ち、安らかに眠ることができます。私たちが信じる神は、私たちの父親として働く神であるだけでなく、私たちの母親としても働かれる神です。母親が子供を愛するように私たちを愛し、母親が泣いている子供を慰めるように、私たちを慰めてくださいます。12節には次のように書かれています。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」母親なる神様は、私たちに、川のような繁栄を与えると約束されています。このとき神はエジプトのナイル川のような大河を考えていたと思います。ナイルはエジプトの賜物と言われますが、毎年決まった季節に水があふれて洪水が起こります。この洪水が川の両側にとても豊かな土壌を作り出し、ナイル川の沿岸地帯は緑にあふれています。しかし、ナイル川の両岸以外はほとんどの場所が乾燥して砂漠のようになっています。川が流れるところにいのちの水がわき出でています。そのように、神のみ言葉を恐れおののく者には、このような祝福が約束されています。
また13節では、神は言われました。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」イザヤ書にはこのほかにも神を母親のように描いている箇所が他にもあります。49章15節では、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」と書かれています。母親が自分が産んだ赤ちゃんのことを忘れないように、神様は私たち一人一人のことを忘れることは決してありません。そして、その神が私たちを慰めてくださいます。私たちは他の人から慰められることを求めますが、いつもいつも十分な慰めが得られるかどうかは分かりません。私たちは、この世の人々から慰めを受けることができなくても、何も心配する必要はありません。神ご自身が私たちを慰め、また私たちの将来を心配してくださるのです。
(1)神が望む礼拝と神が嫌う礼拝
イザヤ書の最後の章66章は、まず礼拝に関する神様の言葉が記されています。クリスチャンにとって最も大切なことは、私たちを罪から救い神の子どもにして下さり、永遠の命を約束してくださった神様を礼拝することです。ところが、私たちは、礼拝をささげるときに、つい、外面的なものにこだわることがあります。66章1節には次のように書かれています。「主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。」当時のユダヤ人は、エルサレムにあった神殿を誇りに思っていました。イザヤが生きていた時代はBC8世紀で、まだエルサレムがバビロンによって破壊される前のことでしたので、エルサレムにはソロモン王が建てた壮麗な神殿がその姿を誇っていました。総大理石、内側は金で覆われていた立派な建物でした。立派な建物を建てることが悪いのではありませんが、私たちは、どうしても目に見えるもの、目に見える行為を自慢にしてしまうのです。神を礼拝するとは、私たちが神様のために自分が何かをすることではありません。ところが、人間は、立派な会堂を建てることで神様を礼拝していると思ったり、自分が神様のためにたくさんの献金をすることで神様から褒められようとしたりします。立派な会堂を建てることも、たくさんの献金をすることも、奉仕をすることも、上手に讃美歌を歌うことも、それらは皆、その行い自体はすばらしいことです。ところが、私たちがこれらのことが礼拝だと思ったり、あるいは、それらの行いによって神様を喜ばせようとしたり、あるいは、それらの行いによって人からの称賛を得ようとしたりすると、それらは、礼拝とは言えないものになってしまいます。もし、私たちが礼拝に義務感を持って出席したり、忙しい生活の中で自分が礼拝に出るために時間をささげているのだ、などと考えることも本当の礼拝とはかけ離れています。
それでは、神様が求める本当の礼拝とは何でしょうか。それは、2節の最後のところに記されています。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」神様が求めている礼拝者とは、へりくだって心砕かれた人であり、神様のことばにおののく人です。わたしたちは、礼拝に来るときにへりくだって心砕かれているでしょうか。神様の言葉に対して恐れおののくほどの気持ちを持っているでしょうか。ダビデ・ソロモンよりも350年ほど後に南ユダ王国にヨシアという名前の王様がいました。南ユダ王国は400年足らず続き、20人の王さまがいますが、聖書はその中で善い王と認めているのは8人で、その中でもヨシア王は最もすぐれた王と見なされていました。ところが、ヨシア王の時代、エルサレムの神殿にあったはずの聖書がなくなっていました。それは、今日の教会の中に聖書がないのと同じことで、とんでもないことだったのですが、当時のユダヤ人は、それほどまでに神様の言葉に無関心だったのです。それが、ヨシヤ王の時に、なくなっていた聖書が発見されました。ヨシヤ王は、聖書の言葉を部下に読ませて、その言葉を聞きました。ヨシア王は、神の言葉を聞くと、自分たちの生活があまりにも神の律法から外れていたので、神の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて悲しみを表しました。そのヨシア王の神の言葉に対する姿勢を見て、ユダヤ人のうえに災いを振らせようとしていた神様は、その裁きを思いとどまりました。
主イエスもヨハネの福音書14章23節で次のように言われました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」私たちは神を愛すると言いますが、神を愛する人とは、すなわち神の言葉を守る人です。神を愛すると告白しても、もし私たちが神の言葉を守らないのであれば、その人は本当に神を愛する人とは言えません。私たちは、いったい、神様の言葉にどれほどの恐れとおののきを感じているでしょうか。もし、私たちが神様の言葉に恐れおののき、み言葉を守るならば、たくさんの祝福が約束されています。父なる神様が私たちを特別に愛してくださいます。そして、「私たちはその人のところに来る」と言われましたが、私たちとは、父、子、聖霊の三位一体の神がその人のところに来て、ともに住んでくださいます。私たちは、イエスキリストを救い主と信じる信仰を持った時に、神様が私たちのところに来てくださいますが、ここで言われているのは、そのような人のうえには神様が特別に親しい交わりを持ってくださり、特別な神の力を注いでくださることを意味しています。ある人は次のように言いました。「信仰によって救われた人は天国に行きますが、神の言葉を恐れてみ言葉に従う人のところには、天国が来てくださる。」のだと。
それに対して、神様が嫌う礼拝とはどんな礼拝なのでしょうか。3節には次のように書かれています。「 牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。」ここで、「牛を屠る者」「羊をいけにえにする者」「穀物のささげ者をささげる者」「乳香をささげる者」と書かれていますが、これらはすべて旧約聖書の律法の中に礼拝をおこなう場合に命令されていることがらです。当時のユダヤ人は、確かに、聖書の律法が命じている礼拝行為は行っていましたが、彼らは表面的に儀式を行っているだけで、心は異邦人、偶像礼拝を行っている人と同じでした。3節に書かれている「人を打ち殺す者」「犬をくびり殺す者」「豚の血をささげる者」「偶像をほめたたえる者」これらはすべて、イスラエルの神が忌み嫌う偶像礼拝です。3節の言葉は私たちに対する警告の言葉です。私たちが信仰生活として、礼拝に出席し、祈り、献金をし、讃美歌を歌っていても、その心が、神以外のものを愛し、自分の気持ちや欲望のままに行動するならば、それらの行いは、表面的にどれほど敬虔なものに見えても、神の目には、おぞましい偶像礼拝と同じなのです。そのような人には、神様の祝福はそそがれません。それどころか、4節を見ると、神はそのような人には恐怖をもたらすと言われます。しかし、それは神に責任があるのではなく、私たちに責任があります。4節で神様が言われた言葉に目をとめてください。「わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。」
(2)み言葉におののく者が受ける祝福
5節で神は言われました。「主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。」自分の道を歩む人が多い時代ですが、神様の眼は、真面目に主の言葉に従おうとしている少数の人々をしっかり見ておられます。ここで神様が見ておられるのは2種のグループの人々です。一方は神を真実に礼拝する人々です。もう一方は、彼らの仲間で、その仲間がみ言葉に従おうとする人々をからかい、嘲笑しています。私たちがみ言葉に真剣に従おうとすると、それを邪魔したり、それを笑いものにする人がいるというのです。しかも、同じ信仰の仲間がそうするのです。私たちは、本当に気をつけなければなりません。み言葉に対する私たちの姿勢がいい加減だと、私たちは他の人の信仰につまずきを与える者、他の人の信仰を妨害する者になってしまいます。しかし、み言葉におののく人は何も恐れる必要がありません。信仰を妨害する人がどんなに敬虔そうな言葉や知恵に満ちているように思得る言葉を言っても、神様はすべてを見抜いておられます。信仰仲間の人につまずきを与える人は、恥を見ると書かれています。神様は、人の罪を見逃すことはないのです。ですから、私たちは、人が何と言おうと、たとえ信仰の仲間から何かを言われたとしても、み言葉に畏れつつ従うことを決してやめてはなりません。なぜなら、そのような人には素晴らしい約束があるからです。
ひとつは、神様からの慰めです。10節、11節を読みましょう。「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。あなたは、彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。」み言葉に対して真剣に生きる者には神からのさまざまな祝福が注がれますが、ここでは、神様の慰めが語られています。私たちの神は、父なる神です。父親が子供を愛し養うように、父なる神は、み言葉におののく者を愛し、また養ってくださいます。私たちの父なる神は父親が子供を愛するように、私たちを愛されるだけではなく、母親が子どもを愛し、守るように神様は私たちを愛し、また、守ってくださいます。赤ちゃんがお母さんの乳を飲んで満足すると、泣いていたのも忘れて安らかに眠ります。私たちも、母親なる神様の祝福に満ち足りるとき、心は平安に満ち、安らかに眠ることができます。私たちが信じる神は、私たちの父親として働く神であるだけでなく、私たちの母親としても働かれる神です。母親が子供を愛するように私たちを愛し、母親が泣いている子供を慰めるように、私たちを慰めてくださいます。12節には次のように書かれています。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」母親なる神様は、私たちに、川のような繁栄を与えると約束されています。このとき神はエジプトのナイル川のような大河を考えていたと思います。ナイルはエジプトの賜物と言われますが、毎年決まった季節に水があふれて洪水が起こります。この洪水が川の両側にとても豊かな土壌を作り出し、ナイル川の沿岸地帯は緑にあふれています。しかし、ナイル川の両岸以外はほとんどの場所が乾燥して砂漠のようになっています。川が流れるところにいのちの水がわき出でています。そのように、神のみ言葉を恐れおののく者には、このような祝福が約束されています。
また13節では、神は言われました。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」イザヤ書にはこのほかにも神を母親のように描いている箇所が他にもあります。49章15節では、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」と書かれています。母親が自分が産んだ赤ちゃんのことを忘れないように、神様は私たち一人一人のことを忘れることは決してありません。そして、その神が私たちを慰めてくださいます。私たちは他の人から慰められることを求めますが、いつもいつも十分な慰めが得られるかどうかは分かりません。私たちは、この世の人々から慰めを受けることができなくても、何も心配する必要はありません。神ご自身が私たちを慰め、また私たちの将来を心配してくださるのです。

