礼拝説教 2009年6月14日 『すべてを新しくする神』(イザヤ書65章17節ー25節)
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(イントロ)
イザヤ書の63章と64章には預言者イザヤの熱い祈りが記されています。64章の冒頭に「ああ」という言葉があることから分かるように、預言者イザヤは神様に向かって心を注ぎだして祈っています。64章の最後の所では神様に訴えるような祈りを捧げています。「私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」イザヤは、当時のユダヤ人が神様の命令に背いて、偶像礼拝の罪に陥っていたことを知っていました。そして、イザヤは、エルサレムがバビロンによって滅ぼされたのは、ユダヤ人の罪に対する神様の裁きであると確信していたのです。しかし、彼は、神様によりすがるように祈りました。「あなたは、どうして黙っておられるのですか。どうして、私たちをこのように苦しみに遭わせるのですか。」神様は決して私たちの祈りを無視する方ではありません。祈りに答えない愛のないお方ではありませんが、時として、私たちがもっと真剣に祈るようにと、答えを遅らせる場合があります。しかし、神様は、民が祈る時にいつまでも黙っていることのできないお方です。それで、65章からは、イザヤの祈りに対する神の答えが記されているのです。
(1)求める者を喜んでくださる神
65章1節に「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」という言葉が書かれています。神様が言われた言葉です。この日本語の訳はもともとのへブル語の言葉を十分に言い表していないように思います。最初の、「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ」という部分は、へブル語をそのままに訳すと、「私を尋ね求めなかった者たちに対して、私に近づくことを許した」という意味になります。また、「わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた」という箇所は、へブル語のままに訳すと「わたしを捜さなかった者たちに、わたしは自分を現した」となります。ここで、神様を尋ね求めなかった者、神様を捜さなかった者は誰を意味するのでしょうか。ある人は、神によって選ばれて特別な神様の働きを受けたユダヤ人ではない人々、つまり異邦人を表すと解釈します。しかし、ここでは、むしろ、ユダヤ人とか異邦人とかということではなく、本当は神様を求めなければならないのに、神様を求めようとせず、神様を捜さなければならないのに、神様を捜さずに、自分勝手な生き方をしている人を指しています。3節と4節には、当時のユダヤ人がどれほど罪の生活に陥っていたのかが分かります。3節に「この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき」と書かれているように、彼らは、罪を詫びる姿勢がまったくなく公然と偶像にいけにえを捧げて礼拝しています。4節には「墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ」と書かれています。「墓地にすわり見張り小屋に宿る」というのは、偶像をまつった神殿に泊まることを意味し、また、豚の肉を食べるとありますが、聖書では「豚の肉」は汚れた食べ物なので、食べることが禁じされていました。つまり、当時のユダヤ人は神様が嫌うことばかり行っていたのです。そのような、深い罪の生活に陥って人が、神様を捜し求めるときに、神様は喜んで近づくことをお赦しになり、また、そのような人に向かって、神様が共におられることを現してくださるということなのです。ですから、口語訳聖書では、1節は次のように訳されています。「わたしはわたしを求めなかった者に/問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に/見いだされることを喜んだ。」私は、自分が嫌うようなことをする人が近づくことを喜びとは思えません。そのような人に自分自身を現したいとは思えません。しかし、神様の私たちに対する愛は、どこまでも限界がありません。喜んでくださるのです。
それだけではなく、1節の最後には「わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。」と書かれています。神様は、天においても地においても一切の権威が与えられている方です。天の御座の中央に王様のように座っておられる方です。しかし、そのような神様は、私たちが神様を呼び求めるまで、天の高い所で待っておられるのではありません。神様がさきに私たちに近付いてくださいます。神様は天の御座を離れて、御子イエスとなって人間が住む、罪と悪に汚れた世界に下ってくださいました。それだけではなく、いまでも、神様は聖霊として、私たちのところに来てくださいます。罪に汚れた私たちが神の所に来ることを心から願っておられるので、「わたしはここにいる」「わたしはここにいる」と私たちを捜し求め、私たちに近付くようにと招いておられるのです。普通、権威のある人、高い地位にある人が、いやしい人のところまでわざわざやって来て、「わたしがここにいるのだ」とご自分を現すことなどしませんが、神様は私たちを捜し求めておられるのです。そして、私たちが神様のもとへ戻ってくることを何よりもおおきな喜びとしてくださるのです。
ルカの福音書15章に3つのたとえ話がありますが、その中に10枚の銀貨のたとえ話があります。ある婦人が銀貨を10枚持っていましたが、その中の1枚がなくなってしまいました。その銀貨は貧しい婦人にとっては非常に大切なものだったので、婦人は必死になってその銀貨を探します。当時のユダヤの家は窓が小さくて中は薄暗かったため、銀貨を探すのは大変なことでした。見つけるのが大変なだけ、見つかったときの喜びは非常に大きいのです。彼女は、なくなった銀貨が見つかったことがあまりにも嬉しかったので、近所の人や友達にも一緒に喜んでくださいと言ったという話です。銀貨は、それだけで価値があるのですが、大切なことは、銀貨は持主の手の中にある時に初めてお金としての価値を発揮することができるということです。この婦人がなくした銀貨は部屋の片隅に入り込んでしまいました。すると、どんなにその銀貨に大きな価値があるとしても、持ち主の手の中にない限り、何の価値もなく、何の役にも立ちません。しかし、その銀貨が持ち主の手に戻ると、持ち主は、その銀貨を使っていろいろなことができます。その銀貨が価値を十分に発揮することができるのです。私たち人間は神様によって創られた者です。私たちは神様のものです。私たちの所有者は神様なのです。だから、私たちが神様の手の中にある時に、私たちは自分に与えられた価値を十分に発揮することができるのです。神様は、私たち一人一人が、自分の価値を十分に発揮して生きることを願って、私たちが見つかるまで探し続けてくださるお方なのです。
(2)すべてを新しくする神
先週の火曜日に東京の渋谷教会で「家族の救い」をテーマにした集会が開かれました。講師の佐藤彰牧師がピリピ4章からクリスチャンが周りの人々に神を信じて生きることの素晴らしさを伝えるためにどのように生きるべきかという点について4つのポイントをあげられました。1)いつもキリストにあって喜んで生きること、2)寛容な心で生きること、3)いつも感謝を持って祈ること、4)つねに平安の中を生きること。人は、私たちが聖書から説教してもなかなか聞く耳を持っていません。しかし、私たちがこのような生き方を実践すれば、その生活が人々に神の愛を告げることになるのです。4つめのポイントは平安の中に生きることですが、クリスチャンが平安に生きることができるのは、自分たちの人生のゴールがどのようになるのかはっきりと知っていることにあると思います。新約聖書に多くの手紙を書き残している使徒パウロは世界で最初の宣教師として計り知れないほど大きな働きをした人ですが、彼は自分の弱さをよく知っていました。ですから自分のことをもろくて壊れやすい土の器だと言いました。第二コリント4章を見ると、彼が様々な試練を経験していることが分かります。8,9節には次のように書かれています。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」なぜ、このような生き方をすることができたのでしょうか。彼は、自分の人生の中で一時的なものといつまでも続くものとをはっきり区別して知っていたからです。この地上の生活での艱難は一時的なものであり、軽いものです。しかし、私たちを待つ未来には、輝かしい栄光があふれているのです。この世のものはどんなに素晴らしいものでも一時的なものであって、永遠に存在するものはありません。しかし、主イエスを信じる者はひとりとして滅びることなく、永遠のいのちが約束されています。だから、クリスチャンにとって死は、滅びでも終わりでもありません。新しい生活への入口なのです。イザヤは、65章の後半で、イエスが再臨された後、1000年間の間、イエスがこの世界を支配される時の姿を描いています。17節で神様は預言者イザヤを通して次のように言われました。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」この世界は、いま罪と悪に満ち溢れています。さまざまな事件が起こり、多くの人がいろいろな苦しみや悩み、痛みを経験しています。しかし、神様は、現実がどれほど厳しいものであっても、神様がこの世界をまったく新しい世界に作り替えしてくださることを約束しておられます。「先のことは思い出されず、心に上ることもない」と言う言葉が付け加えられています。私たちがこの世でどれほど、悲しいこと、悔しいこと、辛いことを経験するとしても、クリスチャンは、そのようなもので心を騒がせる必要はありません。私たちの過去も現在も未来もすべては神様の御手に握られているからです。23節には「彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。」と書かれていますし、24節では「 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」と神ご自身が言われました。このように、私たちは、現在も未来も神様によって保障されているのですから、何を思い煩うことがあるでしょうか。たとえ、私たちの外なる人、つまり体が日一日と衰えていったとしても、何も恐れる必要はありません。
私たちの内なる人、つまり私たちの信仰、私たちの神様との交わりは一日一日新しくされていくのです。そのことを知っていたら、私たちは、たとえ、いま試練を経験しているとしても、時が来れば、必ず、神様が働いてくださって、すべてのことを私たちの益になるものにしてくださいます。
(イントロ)
イザヤ書の63章と64章には預言者イザヤの熱い祈りが記されています。64章の冒頭に「ああ」という言葉があることから分かるように、預言者イザヤは神様に向かって心を注ぎだして祈っています。64章の最後の所では神様に訴えるような祈りを捧げています。「私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」イザヤは、当時のユダヤ人が神様の命令に背いて、偶像礼拝の罪に陥っていたことを知っていました。そして、イザヤは、エルサレムがバビロンによって滅ぼされたのは、ユダヤ人の罪に対する神様の裁きであると確信していたのです。しかし、彼は、神様によりすがるように祈りました。「あなたは、どうして黙っておられるのですか。どうして、私たちをこのように苦しみに遭わせるのですか。」神様は決して私たちの祈りを無視する方ではありません。祈りに答えない愛のないお方ではありませんが、時として、私たちがもっと真剣に祈るようにと、答えを遅らせる場合があります。しかし、神様は、民が祈る時にいつまでも黙っていることのできないお方です。それで、65章からは、イザヤの祈りに対する神の答えが記されているのです。
(1)求める者を喜んでくださる神
65章1節に「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」という言葉が書かれています。神様が言われた言葉です。この日本語の訳はもともとのへブル語の言葉を十分に言い表していないように思います。最初の、「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ」という部分は、へブル語をそのままに訳すと、「私を尋ね求めなかった者たちに対して、私に近づくことを許した」という意味になります。また、「わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた」という箇所は、へブル語のままに訳すと「わたしを捜さなかった者たちに、わたしは自分を現した」となります。ここで、神様を尋ね求めなかった者、神様を捜さなかった者は誰を意味するのでしょうか。ある人は、神によって選ばれて特別な神様の働きを受けたユダヤ人ではない人々、つまり異邦人を表すと解釈します。しかし、ここでは、むしろ、ユダヤ人とか異邦人とかということではなく、本当は神様を求めなければならないのに、神様を求めようとせず、神様を捜さなければならないのに、神様を捜さずに、自分勝手な生き方をしている人を指しています。3節と4節には、当時のユダヤ人がどれほど罪の生活に陥っていたのかが分かります。3節に「この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき」と書かれているように、彼らは、罪を詫びる姿勢がまったくなく公然と偶像にいけにえを捧げて礼拝しています。4節には「墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ」と書かれています。「墓地にすわり見張り小屋に宿る」というのは、偶像をまつった神殿に泊まることを意味し、また、豚の肉を食べるとありますが、聖書では「豚の肉」は汚れた食べ物なので、食べることが禁じされていました。つまり、当時のユダヤ人は神様が嫌うことばかり行っていたのです。そのような、深い罪の生活に陥って人が、神様を捜し求めるときに、神様は喜んで近づくことをお赦しになり、また、そのような人に向かって、神様が共におられることを現してくださるということなのです。ですから、口語訳聖書では、1節は次のように訳されています。「わたしはわたしを求めなかった者に/問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に/見いだされることを喜んだ。」私は、自分が嫌うようなことをする人が近づくことを喜びとは思えません。そのような人に自分自身を現したいとは思えません。しかし、神様の私たちに対する愛は、どこまでも限界がありません。喜んでくださるのです。
それだけではなく、1節の最後には「わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。」と書かれています。神様は、天においても地においても一切の権威が与えられている方です。天の御座の中央に王様のように座っておられる方です。しかし、そのような神様は、私たちが神様を呼び求めるまで、天の高い所で待っておられるのではありません。神様がさきに私たちに近付いてくださいます。神様は天の御座を離れて、御子イエスとなって人間が住む、罪と悪に汚れた世界に下ってくださいました。それだけではなく、いまでも、神様は聖霊として、私たちのところに来てくださいます。罪に汚れた私たちが神の所に来ることを心から願っておられるので、「わたしはここにいる」「わたしはここにいる」と私たちを捜し求め、私たちに近付くようにと招いておられるのです。普通、権威のある人、高い地位にある人が、いやしい人のところまでわざわざやって来て、「わたしがここにいるのだ」とご自分を現すことなどしませんが、神様は私たちを捜し求めておられるのです。そして、私たちが神様のもとへ戻ってくることを何よりもおおきな喜びとしてくださるのです。
ルカの福音書15章に3つのたとえ話がありますが、その中に10枚の銀貨のたとえ話があります。ある婦人が銀貨を10枚持っていましたが、その中の1枚がなくなってしまいました。その銀貨は貧しい婦人にとっては非常に大切なものだったので、婦人は必死になってその銀貨を探します。当時のユダヤの家は窓が小さくて中は薄暗かったため、銀貨を探すのは大変なことでした。見つけるのが大変なだけ、見つかったときの喜びは非常に大きいのです。彼女は、なくなった銀貨が見つかったことがあまりにも嬉しかったので、近所の人や友達にも一緒に喜んでくださいと言ったという話です。銀貨は、それだけで価値があるのですが、大切なことは、銀貨は持主の手の中にある時に初めてお金としての価値を発揮することができるということです。この婦人がなくした銀貨は部屋の片隅に入り込んでしまいました。すると、どんなにその銀貨に大きな価値があるとしても、持ち主の手の中にない限り、何の価値もなく、何の役にも立ちません。しかし、その銀貨が持ち主の手に戻ると、持ち主は、その銀貨を使っていろいろなことができます。その銀貨が価値を十分に発揮することができるのです。私たち人間は神様によって創られた者です。私たちは神様のものです。私たちの所有者は神様なのです。だから、私たちが神様の手の中にある時に、私たちは自分に与えられた価値を十分に発揮することができるのです。神様は、私たち一人一人が、自分の価値を十分に発揮して生きることを願って、私たちが見つかるまで探し続けてくださるお方なのです。
(2)すべてを新しくする神
先週の火曜日に東京の渋谷教会で「家族の救い」をテーマにした集会が開かれました。講師の佐藤彰牧師がピリピ4章からクリスチャンが周りの人々に神を信じて生きることの素晴らしさを伝えるためにどのように生きるべきかという点について4つのポイントをあげられました。1)いつもキリストにあって喜んで生きること、2)寛容な心で生きること、3)いつも感謝を持って祈ること、4)つねに平安の中を生きること。人は、私たちが聖書から説教してもなかなか聞く耳を持っていません。しかし、私たちがこのような生き方を実践すれば、その生活が人々に神の愛を告げることになるのです。4つめのポイントは平安の中に生きることですが、クリスチャンが平安に生きることができるのは、自分たちの人生のゴールがどのようになるのかはっきりと知っていることにあると思います。新約聖書に多くの手紙を書き残している使徒パウロは世界で最初の宣教師として計り知れないほど大きな働きをした人ですが、彼は自分の弱さをよく知っていました。ですから自分のことをもろくて壊れやすい土の器だと言いました。第二コリント4章を見ると、彼が様々な試練を経験していることが分かります。8,9節には次のように書かれています。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」なぜ、このような生き方をすることができたのでしょうか。彼は、自分の人生の中で一時的なものといつまでも続くものとをはっきり区別して知っていたからです。この地上の生活での艱難は一時的なものであり、軽いものです。しかし、私たちを待つ未来には、輝かしい栄光があふれているのです。この世のものはどんなに素晴らしいものでも一時的なものであって、永遠に存在するものはありません。しかし、主イエスを信じる者はひとりとして滅びることなく、永遠のいのちが約束されています。だから、クリスチャンにとって死は、滅びでも終わりでもありません。新しい生活への入口なのです。イザヤは、65章の後半で、イエスが再臨された後、1000年間の間、イエスがこの世界を支配される時の姿を描いています。17節で神様は預言者イザヤを通して次のように言われました。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」この世界は、いま罪と悪に満ち溢れています。さまざまな事件が起こり、多くの人がいろいろな苦しみや悩み、痛みを経験しています。しかし、神様は、現実がどれほど厳しいものであっても、神様がこの世界をまったく新しい世界に作り替えしてくださることを約束しておられます。「先のことは思い出されず、心に上ることもない」と言う言葉が付け加えられています。私たちがこの世でどれほど、悲しいこと、悔しいこと、辛いことを経験するとしても、クリスチャンは、そのようなもので心を騒がせる必要はありません。私たちの過去も現在も未来もすべては神様の御手に握られているからです。23節には「彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。」と書かれていますし、24節では「 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」と神ご自身が言われました。このように、私たちは、現在も未来も神様によって保障されているのですから、何を思い煩うことがあるでしょうか。たとえ、私たちの外なる人、つまり体が日一日と衰えていったとしても、何も恐れる必要はありません。
私たちの内なる人、つまり私たちの信仰、私たちの神様との交わりは一日一日新しくされていくのです。そのことを知っていたら、私たちは、たとえ、いま試練を経験しているとしても、時が来れば、必ず、神様が働いてくださって、すべてのことを私たちの益になるものにしてくださいます。

