礼拝説教 2009年5月31日(イザヤ書63章)

2009.06.23

説教一覧へ戻る


(1)イザヤの幻
 イザヤ書63章は、預言者イザヤが見た幻から始まっています。幻を見たイザヤは次のような質問をしています。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」まず、イザヤが言っている「エドム」「ボツラ」とは何のことでしょうか。エドムはイスラエルの南にある国の名前で、ボツラはエドムの首都でした。エドムは、長い間、イスラエルの敵であり、イスラエルはエドムの侵入に何度も悩まされていました。エドムの国の歴史は創世記に出てくるアブラハムの孫であり、イサクの息子であるヤコブとエサウとの間の争いにまでさかのぼります。この二人は双子で、エサウが兄でヤコブが弟ですが、神様はヤコブをイサクの跡継ぎとして選んでおられました。エサウは弟に長男の権利を奪われて彼を殺そうとしたために、ヤコブは長い間、自分お親元を離れて、おじのところで暮らさなければなりませんでした。このエサウが、外国人の娘と結婚してエドムという国が生まれました。その後の歴史の中で、エドムは絶えずイスラエルに敵対し、たえずイスラエルを悩ませました。そのため、エドムは、神の民に悪を行う罪に満ちたこの世の代表となりました。カトリック教会の偉大な神学者であるアウグスチヌスは「神の国」とい書物を書きましたが、彼は、人間を神の国と地の国の二つのグループに分けて考えました。神の国とは神を愛するすべての人を表し、地の国は自分を愛し神を信じない人々を表しています。この世のすべての人間は、神の国か地の国のどちららかに住んでいるのです。ですから、この幻では、エドムとは地の国を現しています。あなたは、神の国と地の国のどちらに属しているでしょうか。ただ、教会に来ているだけでは、どちらの国属しているかは決まりません。あなたが、自分の意思で神を第一として生きるのか、自分を第一として生きるのかを、一人一人が決断しなければならないのです。
 つぎに、このエドムから、つまり地の国から、深紅の衣を着て来る人は誰なのでしょうか。その深紅の衣は、2節では、「その衣は赤く、酒ぶねを踏む者のようだ」と書かれています。ワインを造るために酒ぶねの中でブドウの実を踏む者の衣はブドウの汁が飛び散って赤く染まってしまいます。なぜ、この人が着ている衣はそのように赤いしみがついているのでしょうか。イザヤがこのことをたずねると、答えが返ってきました。3節に書かれています。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」この人はひとりで酒ぶねを踏んでいました。この地の人間の中に、この人と同じことができる人は一人もいませんでした。昔、ぶどう酒は大きな酒ぶねの中にぶどうが入れられ、人々がブドウを足で踏みつぶして作りました。踏みつぶされてでたブドウの汁は酒ぶねの小さな穴から流れ出て、外にある入れ物に集められていました。そのとき、ブドウを踏み潰す人々の服はブドウの汁が飛び散って赤くなっていました。主イエスは、神の敵たちとの戦いに勝利をしたときに衣服に血が染まっていたのです。これは主イエスがこの世の人々を裁く姿を現しています。人間が作った法律も、道徳も、人々の罪を取り除くことはできず、私たちをただしく裁くこともできません。ただ、主イエスだけが、私たちを正しく裁かれるのです。主イエスは今から2000年前に、私たちを罪から救う救い主として、私たちの身代わりとなって十字架にかかるために来られました。主イエスが最初にこの世に来られたときには、ルカの福音書4章19節が記しているように、主イエスは「主の恵みの年を告げ知らせために。」この世に来られました。そして、イザヤ63章1節で主イエスの言葉が記録されていますが主イエスは「正義を語り、救うに力強い者」です。この世の英雄は人を滅ぼすのに力強く、国を征服するのに力強い者ですが、主イエスは私たちを救うのに全能の力を持っておられます。悪魔は人間以上の力を持っていて人間を縛り付けますが、私たちの救い主は悪魔よりもはるかに強い力を持っている方です。救うのに力強い者ですから、主イエスは、ご自分のところに来るすべての人を救うことがおできになるのです。その人がどんな人であっても、どんな過去を持っていても、主イエスに近づいてくる人すべての人を救う力を持っておられます。
 しかし、やがて、必ず、主イエスが私たちをさばくためにこの世に来られる日が来ます。4節に「わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。」と書かれています。主イエスは、今もなお、一人でも多くの人が罪を悔い改めて神を信じる人が現れるのを、忍耐強く待っておられます。第二ペテロ3章9節には次のような言葉が記されています。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」主は誰一人として滅びることを願っておられません。一人でも多くの人が救われるように、人々を悔い改めに導いておられます。そのために、忍耐をして今も待っておられます。しかし、神様の計画は必ず実行されます。神様が決められた時に、裁き主としての主イエスがもう一度この世に来られます。主イエスの再臨です。このときは、主イエスを信じる人々にとっては、救いが完成する日ですが、主イエスを信じない人には大いなるさばきの日です。日本ではクリスチャンの数は少ないですが、聖書が良い教えを語る本であることはたくさんの人が認めています。しかし、自分に理解できないことや信じたくないことが書かれている部分については信じようとしません。しかし、聖書がある部分だけ真実で、他の部分が偽りということはありえません。聖書の言葉を信じるなら、聖書のすべての部分が真実であると信じなければなりません。人がなんと言おうと、今の状況がどのようなものであれ、神様の計画は必ず実現します。ですから、すべての人は、自分で救い主を信じるか、信じないかを決めなければならないのです。

(2)神様の恵みを思い出す
 預言者イザヤは、主イエスが再び来られるまで、平安な心で待つことができるように、私たちが、今までの神様が行ってくださったさまざまな恵みの働きを思い出すようにと、導いています。私たちも、信仰を持っていても、時として不安に襲われたり、疑いを感じたりするときがあります。そのようなとき、私たちは、神様から受けたさまざまな恵みを思い出すことが大切です。7節でイザヤは次のように言いました。「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」ダビデも、詩篇139篇の中で「神様の恵みや愛の働きは、数えようとしても、それは砂よりも多い」と述べています。しかし、神様はイザヤだけに働く神ではありません。ダビデにだけ働く神ではありません。すべての人のために働いてくださる方です。あなたも、振り返って考えて見れば神様からたくさんの恵みを受けたことを思い出すはずです。神様は、反抗しつづけたイスラエルの民を忍耐強く導かれました。同じように、神様は、失敗だらけの私たちを、忍耐強く、導いてくださっています。
 8節には「主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。」と書かれています。神様が、私たちを見て、私たちを愛してくださり、私たちを自分の民、自分の子供となるように選んでくださいました。そして、私たちのために救い主となってくださいました。主イエスは、私たちの救い主となるために、十字架の上でご自分の命をささげてくださいました。ここに神様の愛があるのです。9節には、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」と書かれています。昔イスラエルの民がエジプトで苦しんでいたとき、神様は彼らの苦しみを自分の苦しみとして、彼ら友に悩んでおられました。また、キリストの弟子たちを迫害していたサウロ(後のパウロ)に向かっては、「「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」とたずねられました。パウロが迫害していたのは当時のクリスチャンたちでしたが、神様は彼らの苦しみをご自分の苦しみとして味わっておられたので、「なぜわたしを迫害するのか」と言われたのです。主イエスは教会の頭です。教会はその体であり、わたしたちはその体を作り上げる一つ一つの部分です。主イエスの思いは、そのからだの隅々にまで及んでいます。私たちのすべてをご存知です。私たちの心の中も全部知っておられます。そして、わたしたちを背負い、抱えて運んでくださったのです。私たちには、このようにすばらしい神様がともにおられるのです。私たちは、たとえ、この世の中で孤独を感じることがあっても、嘆く必要はありません。私たちを愛し、私たちを哀れんで、私たちを背負って運んでくださる方がおられるからです。

(3)聖霊の働き
 ところが、イスラエルの民は、生活が順調に行っている間は、神様の恵みになれてしまって神の働き、大いなるみ業を忘れて自分勝手な生き方をしていました。そんなイスラエルの民の信仰の目をさますために、神様はイスラエルと戦い、彼らに苦しみを与えました。その苦しみの中で、ようやく彼らは神様の恵みの業を思い出したのです。ですから、試練というのは、それ自体は決してよいものではありませんが、後から振り返ると、試練のときが信仰が深まっていることが多いのです。12,13節は出エジプトの出来事について触れています。モーセが手を海の上に広げたときに紅海の水が分かれて、イスラエルの民が歩けるように海の底に道が現れました。その後、モーセがふたたび海のうえに手を広げると、水の流れが元に戻ったので、エジプトの軍隊は滅びました。それは恐ろしい光景であったでしょう。荒れ狂う海の中でエジプトの戦士や馬たちが死んでいきました。そのような大変なことが起こっている只中で、イスラエルの民には聖霊が働いていました。14節には次のように書かれています。「家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。」 羊飼いが丘の上から羊の群れを導いて谷にくだり、緑の草原や憩いの川のほとりで休ませるように、神様の霊がイスラエルの人々を導いて平安を与えてくださいました。私たちの周りにも、心を惑わすような事件や出来事が数多くあります。そのようなものに取り囲まれて生きています。しかし、その中で、主の霊が与えられて、谷を降りていく羊のように、私たちを休ませてくださいます。私たちは、これからも、聖霊の働きの中で安らぎ、神を感謝し、神に絶えず祈りつつ、平安と喜びを持って歩み続けたいものです。
 リビングライフの中に2人の有名な人物の最期のときの姿が書かれていました。一人はサルトルです。彼は20世紀を代表する最も優れた哲学者で、宗教、とくにキリスト教を厳しく批判しました。彼は老年に肺水腫症という病気にかかり、医者は彼にいのちが残り少ないことを告げました。するとサルトルは医者に罵声を浴びせてものを投げつけたそうです。彼の医者に対する悪態は死ぬまで続きました。病院側は偉大な哲学者が死を前にして普通の人よりもひどく反抗し、あがく姿に驚き、彼の名誉を守るために面会を制限したほどでした。彼はそれほど死を恐れていたのです。彼の死後、あるフランスの地方新聞の記者が言いました。「さばきの神に会うという事実が彼を恐怖に追い込み、あれほどまでに自分の死を拒んだのだ。」もう一人は19世紀に中国で宣教師として働いたハドソン・テーラーです。彼は中国に行った当初は大変苦労しましたが、中国人と同じようになって働き、多くの人をキリストに導きました。彼が天に召されたとき、彼の友人たちは次のような言葉を残しました。「彼は平安が何であるかを見せてくれる生きた教科書でした。天の銀行から毎日の糧として、神がくださる平安を受け取っているようでした。とても深刻な問題が起きたときでも、彼にはイエス・キリストの平安がありました。彼は焦ったり、声を荒立てたり、不満を言うことはめったにありませんでした。彼はすべての英知に勝る神からの平安を知っており、また、その平安がないと生きていけないことも知っていました。」
 あなたは、どちらの人生を歩みたいでしょうか。14節をもう一度読みましょう。「家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。」