礼拝説教 2009年5月24日 「あなたは黙ってはならない」(イザヤ62章)

2009.06.23

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 イザヤ62章1節は次のような言葉で始まります。「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、」この言葉を語った「わたし」とは預言者イザヤのことですが、実際には、イザヤのうちに宿っている主イエスが持っておられる熱い思いが彼の口を通して現れたものと考えられます。シオンのためにと言われていますが、シオンとは何をさすのでしょうか。シオンとは本来神の都であるエルサレムを意味する言葉ですが、そこから、エルサレムの住民を指すようになり、さらには、天国や、天国に入る神の民を意味するようになりました。預言者イザヤが活躍した時代、今からおよそ2700年前、神様によって特別に選ばれた民、ユダヤ人たちは本当の信仰からかなり離れた生活を送っていました。旧約聖書の、出エジプト記、民数記などを読むと、イスラエルの人々は、今と違って、目に見える神の姿を見、体験していました。しかしながら、それでも、彼らに危険や苦しみが襲うと、すぐに神様を疑い、人間が作った偶像の神を拝んでいました。ですから、神様にとって、イスラエルの民は悩みの種であったのです。しかし、そのようなシオンに向かって、主イエスは「私は黙っていない。」と宣言しています。しかも、「シオンの義が朝日のように光りを放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」と言っています。神様は、どんな思いでイスラエルの民を見ていたことでしょうか。神様の命令に従わず、神様の約束に信頼せずに、人間的な力に頼ったり、偶像の神に頼ったりしているイスラエルの民をどのような思いで見ておられたことでしょうか。でも、これは、イスラエルの民だけでなく、すべての人間を指していると言えるでしょう。すべての人は、神によって創られた一人一人であり、神様にとっては、一人一人の存在が喜びです。しかし、肝心の私たちは、神とともに生きることを喜ばずに、自分勝手は道を歩んでいます。神様の心の嘆きはどれほどのものであったでしょうか。しかしながら、そのような神様に対して反抗や不信仰を繰り返しているユダヤの人々のために、主は黙っていないと言われました。つまり、彼らのために主イエスは祈り続けておられるのです。これは、私たちに関して言うならば、主イエスは、救われた人々の群れである教会のために祈り続けておられます。主イエスは、十字架のうえで「完了した」と言われました。罪のない主イエスが全人類の罪を背負って十字架で罪の刑罰を受けられたことによって、神の正しさのレベルに達することのできない私たちでさえも、罪が許され神の子供となる道が開かれました。そして、死んで葬られ、三日目目に死人のうちより蘇って、それから天に帰られました。使徒信条の告白では、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。」となっています。普通、「座す」という言葉は、神様が6日間働いて7日目には休まれたように、働きを完了して休むという意味があります。しかし、私たちの主イエスは、ただ休んでいるだけではありません。天国の中心にある神の御座から、今もなお、しゅイエスの声が聞こえてくるのです。「わたしはシオンのために黙ってはいない。休んではいない。」という主イエスの声が聞こえてきます。新約聖書のへブル人への手紙の中に、「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」という言葉が記されています。今もなお、主イエスは祈っておられます。祈りを休むことはありません。何を求めているのか、それは、クリスチャンたちの義が朝日のように光りを放ち、クリスチャンの救いがたいまつのように燃えるまで、主イエスは私たちのために熱心に祈っておられるのです。クリスチャンの義、つまり、クリスチャンの正しさは、自分の行いによって与えられるものではありません。私たちは、主イエスの十字架を信じるときに、神様が私たちに、その義を与えてくださるのです。これは、ただ単に、罪が赦されて義とされたということだけではなく、救われた結果、神と共に生きることによって与えられた内面の性質を表す言葉です。主イエスは、私たちがただ救われただけ満足しておられません。私たちの心と生活が朝日のように輝いているように、また、たいまつのように燃え続けているようにと私たちの信仰の成長を求めて祈っておられるのです。朝日の輝きは本当に美しいですね。また、たいまつには油がしっかり染み込んでいるために、雨にぬれても火は消えないそうです。イザヤの時代は、イスラエルの民は神様に反逆を繰り返したために罰としてバビロンに捕えられていました。そのような人々のために、主イエスは熱心に祈られました。そして、今も、天国において、父なる神の右の座についておられる主イエスは、私たちのために熱心の祈っておられるのです。

 だから、私たちも、他の人々の救いのために熱心に祈らなければならないではないでしょうか。1節はシオンのためにという言葉がありますが、これは神様の心を表しています。神様は、ご自分の民のために働いておられました。私たちは、いったい何のために生きているのでしょうか。神様がシオンのために生きられたのであれば、私たちもシオンのために生きるべきです。主の祈りの中に、「御心の天に成るごとく、地にもなりますように」という祈りがありますが、神様の御心とは、すべての人が神を信じて神の民となることです。神の民になるとは本当に栄光に満ちたことです。2-4節には、次のように書かれています。「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。」2節には、神の民は新しい名で呼ばれると書かれていますが、ユダヤ人にとって名前は単なる名前ではなく、その人そのものを意味しました。ですから、神様から新しい名前で呼ばれるとは、クリスチャンは、神様を信じたことによって神様と新しい関係に入ったことを意味しています。そして、3節によると、私たちは、神様の手の中にある輝かしい冠であり王のかぶり物です。私たちは神様の手の中にしっかりと握られています。イザヤの時代のイスラエルの民はバビロンとの戦争に負けて、戦争捕虜としてバビロンに連れていかれました。バビロンの人々からは軽蔑されていました。その生活はつらいものでした。しかし、周りの人々からどんなに軽蔑されて、ひどい扱いをされたとしても、彼らは神様の手の中では輝きに満ちた冠として扱われるのです。私たちも、この世の中でどのように軽蔑され、辱められたとしても、神様は、私たちを美しい冠のように扱ってくださいます。そして、イスラエルの民は、神様に対する罪のために見捨てられ、バビロンによって滅ぼされて国はすっかり荒れ果てていました。しかし、神様は、そのようなイスラエルのために向かって、「あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。」と約束されました。そして、「あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。」と言われました。「わたしの喜びは、彼女にある」と訳されている言葉は、へブル語で「ヘフツィ・バハ」というのですが、実は、これはイザヤの時代の王様であったヒゼキヤの王妃の名前でもありました。「私の喜びは彼女にある」言い換えると「あなたは私の喜び」ということです。神様は、もはや、私たちを荒れ果てて者と呼ばれずに、むしろ、あなたは私にとって皇后陛下のような喜びであると言ってくださいます。また、「夫のある国」と訳されている言葉はへブル語で「ベウラ」と言います。ベウラとは「配偶者」という意味です。結婚とは、一度結ばれたら死ぬまで続く関係です。神様は、私をもはや見捨てられた者ではなく、私を愛して下さり、私を配偶者に選んでくださり、そして永遠に私たちと共に住んでくださるのです。クリスチャンとは、実は、このように、深く、広く、高い神様の愛によって神様と結ばれた者、それほどまでに光栄に満ちた存在であることを、私たちは忘れてはなりません。

 6節と7節では、私たちに対する神様の命令が記されています。「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。」イザヤの時代、町は城壁で囲まれており、城壁には見張りの塔がついていました。そして敵の襲撃に備えて見張り人が置かれていました。見張り人には多くの責任がありました。彼らはいつも目を覚ましていなければなりませんでした。彼らは、周囲の状況をしっかりと見ていなければなりませんでした。そして危険がないかどうかを見なければなりません。そして、危険が迫ったときには大きな声で知らせなければなりません。イスラエルの見張りにはとくに大きな声で叫んだそうです。神様は、私たち一人一人を見張り人として任命されました。そして、見張り人には「決して黙っていてはならない」と命令しておられます。神様は、私たちが、城壁の見張り人のように、絶えず、目を覚まして、祈る者であることを願っておられます。神様は、私たちに、「私が働くのをやめさせるな。私がいつも働いているために、祈り続けなさい」と命じておられるのです。イエス様も同じように熱心に祈ることの大切さを教えられました。ルカの福音書18章1-5節に不正な裁判官のたとえ話が書かれています。まったく血も涙もない、思いやりもまったくなひどい裁判官のところに一人のまずしいやもめが裁判を頼みに何度も何度もやってきます。最初は相手にしていなかったのですが、やもめがあまりにもしつこいので疲れ果ててしまいました。それで心の中で思いました。「どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」彼は彼女のために正しいことをしてあげたいとは思っていなかったのですが、正しくないこと、つまりかのじょの訴えを聞かないでいるよりも、正しいこと、つまり彼女の訴えを聞いてあげるほうが楽だから、やってやろうと決心しました。そのような不正な裁判官でも、しつこく頼み続ければ動いてくれる。まして、天の父なる神様は、私たちの祈りを喜んで聞いてくださるはずなのです。私たちは願いどおりに事が運ばないと、すぐに神様を疑ってしまいます。祈っても神様は聞いてくれないと思い込んで祈ることをやめてしまいます。そして失望します。そんな私たちの弱さを知っておられる主はこのたとえをもって、私たちに、どんな時も祈り続けるようにと励ましておられます。祈りには、歴史を変えるほどの力があります。全能者である神様を動かすからです。初代教会のクリスチャンたちは、皇帝ネロのころから激しい迫害を受けるようになりました。そしてその迫害はその後200年以上続きました。その間、すべてのクリスチャンは祈り続けたことでしょう。迫害が終わるように。しかし、大部分のクリスチャンは、その祈りの答えを見ることなく天に召されました。しかし、彼らの祈りは決して無駄ではなかったのです。312年、コンスタンチヌスがローマ皇帝になるための最後の戦いに出発するときに、彼は空に光輝く十字架の幻を見ました。そして、同時に「これによって、この勝利に勝て」という文字も見えました。そして、彼はその戦いに勝利してローマ皇帝の座について、その次の年、313年に、キリスト教を公認するミラノ勅令を出しました。これは、多くの血を流して殉教したクリスチャンの血と涙の祈りの結果に違いありません。神様が、神様が選ばれた時に、働いて、ついに迫害が終わったのです。

 キャンパスクルセードという大学生への伝道の働きを始めたビル・ブライトという人が、最近天に召されましたが、彼が死ぬ1年ほど前にクリスチャン雑誌のインタービューを受けました。その中で彼は次のように語っています。
質問「あなたの今の状況はどのようなものですか。」」
ビル「私の肺はその機能の60%を失い、だんだんと弱っています。いつか、終わりの日が来ることでしょう。でもそれで良いと思います。私の人生は本当に素晴らしいものでしたから。でも、私の病気の治療法がないと言われた時から、私は神様ともっと親しい関係に入りました。ヤコブもパウロも苦しむ時に喜んでいると言っていますが、私は、その時初めて彼らの言葉の意味が真実であることを知りました。」
質問「あなたはクリスチャンたちにどんな言葉を残したいですか。」
ビル「ラオデキヤ教会のようにならないで、信仰の目をさましましょう。エペソ教会のようにならないで、最初の愛に帰りましょう。そして、この世界で最も喜びに満ちた知らせを、地球上のすべての人に知らせましょう。」