礼拝説教 2009年4月26日 「神との平和を持つ人」(ローマ5章1−11節)
説教一覧へ戻る
今日は、ローマ人への手紙5章1節から11節の箇所を通して、イエス・キリストを神として信じるということが私たちにどのような結果をもたらすのかを学びたいと思います。5章1節は「ですから」とか「そういう訳ですから」という言葉で始まっています。ということは、この手紙を書いたパウロが今日の箇所で言おうとしていることは、それまで彼が述べてきたことの続きとして書いていることが分かります。では、ローマ人への手紙の4章で、パウロは何について述べていたのでしょうか。パウロは4章で、旧約聖書の人物アブラハムを例に取り上げて、私たちは信仰によって神から正しい人として認めてもらうことができるということを教えています。聖書が私たちに伝えるメッセージを福音と言いますが、これは「良い知らせ」という意味です。それでは聖書が私たちに伝えようとしている良い知らせとは何でしょうか。それは、私たち人間は神様によって創られた素晴らしい者にも関わらず、私たちが神を神として敬うことをしないで、自分が一番大切な存在、自分を神として生きようとする心を持っているのですが、それを聖書は罪と呼びます。その罪のために神と私たちは断絶状態にあったのですが、「神様との関係を回復する道がありますよ」というのが福音のメッセージです。私たちは、人間と言われるぐらいですから、多くの人との間でいろいろな関係を持って生きています。人間社会の中で、誰かとの関係が断絶している状態で生きるというのは決して楽しいことではありません。兄弟同士が遺産をめぐって争ったり、夫婦が離婚を求める裁判で互いに非難しあったり、友達だと思っていた人から裏切られたり、人間関係が壊れるとき、人は非常に大きな傷を受け、また人に与えます。人間関係においてこのように関係が壊れることが大きな傷をもたらすのであれば、この世界のすべてのものを創り支配しておられる神様と私たちの関係が壊れたら、それは、どれほど大きな問題なのか、それは私たちの理解を超えています。しかし、神と敵対して生きることがどれだけ恐ろしいことであるかということがはっきりわかる時が来ます。それは私たちが死ぬ時です。聖書には、「私たち人間には一度死ぬことと、死んだ後に神の裁きを受けることが定まっている」と教えています。私たちは、いつ自分に死が訪れるか、予想できません。私たちは、いつ死が訪れても良いように準備ができているでしょうか。皆さんは、十分な準備ができないままに、試験を受けなければならない、発表をしなければならないというような経験をしたことがありますか。私は1年間、アメリカの神学校で学びましたが、アメリカの神学校の学びはかなり大変で、決められた日に課題を提出しなければならないことが何回もあって、本当に大きなプレッシャーを受けました。私は、教会の方々のサポートを受けて留学していましたから、あまり悪い成績は取れないというプレッシャーもあって、1年間の学びはとても大変でした。レポート提出の期日が迫っているのに、まだ何もできていないとなると、すごくつらいものがありました。(アメリカの学生の場合は、こういう時には急に病気になるという手を使うのですが、留学の滞在期間が限られている留学生にはその方法は使えません)私たちは、準備ができていないときに、焦ったり、パニックになったり、不安に襲われたりと、さまざまな経験をします。しかし、準備ができていれば、何も焦ることなく、落ち着いた日々を過ごすことができます。今日の聖書の箇所には、私たちに、いつ、死が訪れても、焦ることなく、落ち着いて過ごすために、とても大切な良い知らせが書かれています。
(1)神との平和
1節に「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」と書かれています。ここで「信仰によって義と認められた」とありますが、「認められた」という言葉は、新約聖書の言葉、ギリシャ語では過去に一度だけ行われたことを現す形が使われています。つまり、信仰によって私たちが神様の目で、神の子どもとなるのに合格という評価が与えられるのは1回きりのことで、その結果は決して変わることがありません。また、パウロは「私たちは神との平和を持っています」と断言していますが、これも、ギリシャ語の使い方としては非常に強い力を込めて言われた言葉であることが分かります。パウロが言ったかったことは、私たちは、天国に行ったときに、神様との平和を持つであろうということではなく、今、自分がいるところで、地上ですでに神様の平和与えられているということです。私たちは、人間関係において争いがあると、決して楽しいことではありませんが、あまり深く関わらなくても済むならば、それほど大変な問題ではありません。しかし、もし私たちがこの世界全体を支配しておられる神様と敵対関係に入るなら、それほど恐ろしいことはありません。主イエスはマタイの福音書で「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言われました。他人が私たちにできる最も大きな悪は、私たちの肉体を殺すことです。しかし、人間は他人の肉体は殺せても、目に見えないいのち、すなわち、魂を殺すことは絶対にできません。しかし、神様は、私たちの肉体だけでなく魂をも滅ぼすことのできるお方です。この神様と敵対関係を持つことは本当に恐ろしいことなのです。しかし、私たちが自分の罪を認め、主イエスの十字架の死は私の罪の刑罰を身代わりに受けてくださったのだと信じるならば、その信仰が私たちと神様との関係を回復させ、私たちは神様と平和な関係、親子の関係を持つ者となるのです。この関係の回復をもたらすのは私たちの行いの結果ではありません。私たちの信仰を受け入れてくださる神様が行われることです。
このことを理解するためには、一つのことをはっきりと理解しておかなければなりません。それは、信仰によって神の目に受けいられてクリスチャンとなった私たちには2つの面があるということです。一つは、主イエスキリストの十字架によって実現したことですが、私たちが、信仰によって神に受け入れられたという立場はすでに完了しています。この立場は決して変わることがありません。コロサイ人への手紙3章3節に「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」という言葉がありますが、この神のうちに隠されているという言葉の意味は、キリストとともに神のうちにしっかりと守られている、大事なものとしてしっかりと保管されているという意味です。しかし、同時に、私たちは、信仰によって古い自分に死んで新しい人としての生活を始めましたが、クリスチャンとしての生活の中では、日々キリストにあって成長するという面があります。神のこどもになったという立場はこれからも変わることは絶対にありませんが、神の子どもとして生きるときに、私たちは、時には失敗もし落ち込むこともあります。しかし、神様の目に私たちの価値は変わることがありません。神との平和を持つ私たちは、神様の目に高価で尊いものとして扱われているのです。あるアメリカの説教者が説教の中で、100ドル紙幣を出して聴衆に尋ねました。「この100ドルがほしい人は手を挙げてください。」するとほとんどの人が手を上げました。ほしい人にはこの100ドル紙幣をあげますが、その前にこの紙幣を手の中でまるめてくしゃくしゃにします。このくしゃくしゃの100ドル紙幣をほしい人は手を挙げてください。」するとやはりほとんどの人が手を上げました。つぎに説教者はその100ドル紙幣を床に落として靴で踏みつけました。そしてその汚れてしわくちゃの紙幣を拾い上げてから、聴衆に尋ねました。「この100ドルをほしい人は手を挙げてください。」するとやはりほとんどの人が手を挙げました。すると説教者は言いました。「皆さん、よく聞いてください。みなさんは、100ドル紙幣がしわくちゃになっても靴で踏みつけられて汚れても、やはり100ドルをほしいと思いましたね。それは、紙幣がしわくちゃでも泥で汚れても100ドルという価値は減らないからです。私たちは、人生の中でいろいろなことを経験し、時には間違った道を選んでしまって、あの紙幣のように汚れてしまったり、しわくちゃになったりすることがあります。そんな時、私たちは、自分が神様の前にまったく価値のない人間のように感じることがあります。しかし、何が起こったとしても、また将来何が起こるとしても、神様の眼に私たちの価値は変わることがありません。汚れていても綺麗でも、しわくちゃでもしわ一つなくても、神様の眼には私たちは非常に高価で尊い者として見てくださるのです。これが信仰による義認ということの意味です。
そのような私たちは、ローマ人の手紙5章2節では、「いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」と書かれています。英語の聖書では、「この恵みに信仰によって導き入れられた」という箇所は「キリストによってこの恵みにアクセスできる者となった」と訳されています。神の子として神の家族の一員になるという素晴らしい恵みに入ることができるようになったのは、キリストが私たちの罪が許されるために十字架にかかってくださったからだという意味です。かつて、ユダヤ人たちは神の近くに行くことなど絶対にできないと考えていました。旧約聖書の時代、ユダヤ人たちは、もし神の姿を見るとその場で死んでいました。そのために、エルサレムの神殿の一番奥にある至聖所と呼ばれる場所の前には、2頭の牛が引っ張っても引き裂けることがないと言われた分厚いカーテンで仕切られていました。そこに入ることが許されるのはユダヤ教のトップである大祭司が、しかも年に一度だけのことでした。大祭司以外は誰も至聖所の中に入ることはできませんでした。しかしながら、主イエスが十字架で死なれたときに、不思議なことが起こりました。至聖所の前に架けられていた分厚いカーテンが上から下に向かって真っ二つに引き裂けたのです。それは、イエスの十字架が起きる前は、誰も神に近付くことはできませんでしたが、イエスの十字架の後は、誰もが神のおられるところへ行くことができるようになりました。日本語で、導き入れられたと訳されていますが、アクセスを意味するギリシャ語の言葉に、誰かが誰かをある場所に案内して入れるという意味があるからです。アクセスというと、自分で近づくように思いますが、ギリシャ語(prosagein)は、ある人が、他のある人を権威を持つ人々のいるところに案内するという意味を持っています。私たちは自分の力、自分の権威で神との交わりという恵みの場所に入るのではありません。主イエスが私たちの神様とともに生きるという恵みに満ちた生活に、私たちの前に立って、私たちを導き入れてくださったのです。そして、私たちは、その恵みの中に立っているとパウロは言いましたが、「立つ」と言う言葉には「ずっといつまでもそこにいる」という意味が含まれています。私たちが神様に罪をゆるされて神の子として生活するためには、私たちの信仰が必要ですが、私たちを神と共に生きるという恵みに入れる力と権威を持っておられるのは神様です。そして神様は、私たちがいつまでも神とともに生きるという恵みの中にいることができるように、私たちのために働いてくださいます。私たちは神様との平和を持っており、その神様との交わりにはいつでも主イエスが私たちを導き入れてくださいます。神との平和によって、私たちの過去はすべて清算されました。そして、神との交わりにいつでもアクセスできるということは、私たちの現在の生活にも神様が働いてくださることを表しています。また、神と共に生きる恵みの中で、2節に「私たちは神の栄光を望んで大いに喜んでいる」と書かれています。主イエスが十字架と復活の出来事が起こる前に繰り返して、そのことを弟子たちに話しておられましたが、弟子たちはなかなか信じることができませんでした。しかし、神様の約束は必ず成就します。イエスの十字架と復活もその通りに起きました。主イエスは、それだけではなく、「私は再びこの世に来る」とも約束されました。神様の約束は必ず実現します。ですから、将来、いつか神様が栄光をいっぱいに受けて再びこの世界に来られます。将来の神様の栄光を待ち望む時に、私たちの未来も何も心配することがありません。このように、主イエスの十字架と復活は、私たちの過去も現在も未来もすべてを含めて、一切の思い煩いから解放して、一人ではなく神と共に生きる恵みへと私たちを導きいれてくださいました。
(2)患難をも喜ぶ人生
パウロは3節で大胆にも、「患難さえも喜んでいます。」と告白しています。クリスチャンは神との平和を持っています。この関係が崩れることはありません。しかし、主イエスご自身が言われたように、私たちがこの世でクリスチャンとして生きるときに、苦しいこともあります。聖書は、信じればすべてなんでも人生バラ色と言った安っぽい約束はしません。それは真実ではないからです。むしろ主は、この罪と汚れに満ちたこの世でクリスチャンが生きると、いろいろな患難に出くわすと言われました。英語では患難のことをtribulationというのですが、これはラテン語から来ている言葉です。ラテン語にtribulumという言葉があるのですが、これは木製の道具を意味する言葉です。昔、小麦を脱穀するのに、この道具がつかわれました。Tribulumu とは、小麦の粒を叩いて、そとのからと中の麦の粒を引き離すための道具です。麦の粒を叩くことによって良い部分の麦の粒が外に現れて、不要な外側の殻の部分を取り除きます。このように、私たちの生活の中で起きる患難は、私たちの中の良い部分を引き出し、私たちの中の悪いものを取り除く働きをするのです。
パウロはこの患難がもたらす良いものとして次のように述べています。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」練られた品性と訳されている言葉は、ギリシャ語では、火によって精錬された金属を意味することばです。いろいろな不純物が混ざった金属も、火で溶かされると、不純物がすべて取り除かれて、純粋な金属になります。私たちが患難に直面するときに、私たちの性質の本当の部分が現れてきます。実は、私たちは患いを経験するまで、自分が本当にどういう性質なのか分からないのです。私たちは自分自身をいろいろなもので覆い隠しているからです。また、患難は決して無駄には終わりません。パウロが5節で言っています。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」このような試練、患難を乗り越える力が私たちに与えられています。それは聖霊をとおして与えられた神の愛です。聖霊とは、復活された主イエスが、聖霊という私たちの目には見えませんが、人格を持った存在として、私たちの心を神に近づける働きをします。私たちに神の言葉や約束を思い出させたり、祈りの中で何かを教えてくれたり、心の中に神の愛を豊かに注いでくれたりと、本当に、私たちが信仰生活を続けるためにあらゆる助けを与えてくれます。この聖霊が私たちに神の愛を豊かに注いでくれるのです。人は、教理や教えよりも、愛によって動かされます。しかも神様が私たちに注がれる愛は、人間の愛とはまったく異なっています。8節にそのことが書かれています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」神様が私たちを愛されるのは、私たちがそれにふさわしい人間だからではありません。神を無視し、神に背を向けている私たちのために、自分の命を捨てるという愛を示してくださったのです。主イエスご自身が言われましたが、「人が自分の友人のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。」神様に愛されているのかどうか確信が持てない人は、ぜひ8節を繰り返し読んでください。
神様は、私たちがまだ神様に反抗していた時からすでに私たちを愛しておられました。それなら、いま、主イエスを救い主として信じてクリスチャンになった私たちを愛さないはずがありません。そして、私たちが神と共に信仰生活を着実に歩めるように、いつでも私たちを助けてくださいます。
今日は、ローマ人への手紙5章1節から11節の箇所を通して、イエス・キリストを神として信じるということが私たちにどのような結果をもたらすのかを学びたいと思います。5章1節は「ですから」とか「そういう訳ですから」という言葉で始まっています。ということは、この手紙を書いたパウロが今日の箇所で言おうとしていることは、それまで彼が述べてきたことの続きとして書いていることが分かります。では、ローマ人への手紙の4章で、パウロは何について述べていたのでしょうか。パウロは4章で、旧約聖書の人物アブラハムを例に取り上げて、私たちは信仰によって神から正しい人として認めてもらうことができるということを教えています。聖書が私たちに伝えるメッセージを福音と言いますが、これは「良い知らせ」という意味です。それでは聖書が私たちに伝えようとしている良い知らせとは何でしょうか。それは、私たち人間は神様によって創られた素晴らしい者にも関わらず、私たちが神を神として敬うことをしないで、自分が一番大切な存在、自分を神として生きようとする心を持っているのですが、それを聖書は罪と呼びます。その罪のために神と私たちは断絶状態にあったのですが、「神様との関係を回復する道がありますよ」というのが福音のメッセージです。私たちは、人間と言われるぐらいですから、多くの人との間でいろいろな関係を持って生きています。人間社会の中で、誰かとの関係が断絶している状態で生きるというのは決して楽しいことではありません。兄弟同士が遺産をめぐって争ったり、夫婦が離婚を求める裁判で互いに非難しあったり、友達だと思っていた人から裏切られたり、人間関係が壊れるとき、人は非常に大きな傷を受け、また人に与えます。人間関係においてこのように関係が壊れることが大きな傷をもたらすのであれば、この世界のすべてのものを創り支配しておられる神様と私たちの関係が壊れたら、それは、どれほど大きな問題なのか、それは私たちの理解を超えています。しかし、神と敵対して生きることがどれだけ恐ろしいことであるかということがはっきりわかる時が来ます。それは私たちが死ぬ時です。聖書には、「私たち人間には一度死ぬことと、死んだ後に神の裁きを受けることが定まっている」と教えています。私たちは、いつ自分に死が訪れるか、予想できません。私たちは、いつ死が訪れても良いように準備ができているでしょうか。皆さんは、十分な準備ができないままに、試験を受けなければならない、発表をしなければならないというような経験をしたことがありますか。私は1年間、アメリカの神学校で学びましたが、アメリカの神学校の学びはかなり大変で、決められた日に課題を提出しなければならないことが何回もあって、本当に大きなプレッシャーを受けました。私は、教会の方々のサポートを受けて留学していましたから、あまり悪い成績は取れないというプレッシャーもあって、1年間の学びはとても大変でした。レポート提出の期日が迫っているのに、まだ何もできていないとなると、すごくつらいものがありました。(アメリカの学生の場合は、こういう時には急に病気になるという手を使うのですが、留学の滞在期間が限られている留学生にはその方法は使えません)私たちは、準備ができていないときに、焦ったり、パニックになったり、不安に襲われたりと、さまざまな経験をします。しかし、準備ができていれば、何も焦ることなく、落ち着いた日々を過ごすことができます。今日の聖書の箇所には、私たちに、いつ、死が訪れても、焦ることなく、落ち着いて過ごすために、とても大切な良い知らせが書かれています。
(1)神との平和
1節に「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」と書かれています。ここで「信仰によって義と認められた」とありますが、「認められた」という言葉は、新約聖書の言葉、ギリシャ語では過去に一度だけ行われたことを現す形が使われています。つまり、信仰によって私たちが神様の目で、神の子どもとなるのに合格という評価が与えられるのは1回きりのことで、その結果は決して変わることがありません。また、パウロは「私たちは神との平和を持っています」と断言していますが、これも、ギリシャ語の使い方としては非常に強い力を込めて言われた言葉であることが分かります。パウロが言ったかったことは、私たちは、天国に行ったときに、神様との平和を持つであろうということではなく、今、自分がいるところで、地上ですでに神様の平和与えられているということです。私たちは、人間関係において争いがあると、決して楽しいことではありませんが、あまり深く関わらなくても済むならば、それほど大変な問題ではありません。しかし、もし私たちがこの世界全体を支配しておられる神様と敵対関係に入るなら、それほど恐ろしいことはありません。主イエスはマタイの福音書で「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言われました。他人が私たちにできる最も大きな悪は、私たちの肉体を殺すことです。しかし、人間は他人の肉体は殺せても、目に見えないいのち、すなわち、魂を殺すことは絶対にできません。しかし、神様は、私たちの肉体だけでなく魂をも滅ぼすことのできるお方です。この神様と敵対関係を持つことは本当に恐ろしいことなのです。しかし、私たちが自分の罪を認め、主イエスの十字架の死は私の罪の刑罰を身代わりに受けてくださったのだと信じるならば、その信仰が私たちと神様との関係を回復させ、私たちは神様と平和な関係、親子の関係を持つ者となるのです。この関係の回復をもたらすのは私たちの行いの結果ではありません。私たちの信仰を受け入れてくださる神様が行われることです。
このことを理解するためには、一つのことをはっきりと理解しておかなければなりません。それは、信仰によって神の目に受けいられてクリスチャンとなった私たちには2つの面があるということです。一つは、主イエスキリストの十字架によって実現したことですが、私たちが、信仰によって神に受け入れられたという立場はすでに完了しています。この立場は決して変わることがありません。コロサイ人への手紙3章3節に「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」という言葉がありますが、この神のうちに隠されているという言葉の意味は、キリストとともに神のうちにしっかりと守られている、大事なものとしてしっかりと保管されているという意味です。しかし、同時に、私たちは、信仰によって古い自分に死んで新しい人としての生活を始めましたが、クリスチャンとしての生活の中では、日々キリストにあって成長するという面があります。神のこどもになったという立場はこれからも変わることは絶対にありませんが、神の子どもとして生きるときに、私たちは、時には失敗もし落ち込むこともあります。しかし、神様の目に私たちの価値は変わることがありません。神との平和を持つ私たちは、神様の目に高価で尊いものとして扱われているのです。あるアメリカの説教者が説教の中で、100ドル紙幣を出して聴衆に尋ねました。「この100ドルがほしい人は手を挙げてください。」するとほとんどの人が手を上げました。ほしい人にはこの100ドル紙幣をあげますが、その前にこの紙幣を手の中でまるめてくしゃくしゃにします。このくしゃくしゃの100ドル紙幣をほしい人は手を挙げてください。」するとやはりほとんどの人が手を上げました。つぎに説教者はその100ドル紙幣を床に落として靴で踏みつけました。そしてその汚れてしわくちゃの紙幣を拾い上げてから、聴衆に尋ねました。「この100ドルをほしい人は手を挙げてください。」するとやはりほとんどの人が手を挙げました。すると説教者は言いました。「皆さん、よく聞いてください。みなさんは、100ドル紙幣がしわくちゃになっても靴で踏みつけられて汚れても、やはり100ドルをほしいと思いましたね。それは、紙幣がしわくちゃでも泥で汚れても100ドルという価値は減らないからです。私たちは、人生の中でいろいろなことを経験し、時には間違った道を選んでしまって、あの紙幣のように汚れてしまったり、しわくちゃになったりすることがあります。そんな時、私たちは、自分が神様の前にまったく価値のない人間のように感じることがあります。しかし、何が起こったとしても、また将来何が起こるとしても、神様の眼に私たちの価値は変わることがありません。汚れていても綺麗でも、しわくちゃでもしわ一つなくても、神様の眼には私たちは非常に高価で尊い者として見てくださるのです。これが信仰による義認ということの意味です。
そのような私たちは、ローマ人の手紙5章2節では、「いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」と書かれています。英語の聖書では、「この恵みに信仰によって導き入れられた」という箇所は「キリストによってこの恵みにアクセスできる者となった」と訳されています。神の子として神の家族の一員になるという素晴らしい恵みに入ることができるようになったのは、キリストが私たちの罪が許されるために十字架にかかってくださったからだという意味です。かつて、ユダヤ人たちは神の近くに行くことなど絶対にできないと考えていました。旧約聖書の時代、ユダヤ人たちは、もし神の姿を見るとその場で死んでいました。そのために、エルサレムの神殿の一番奥にある至聖所と呼ばれる場所の前には、2頭の牛が引っ張っても引き裂けることがないと言われた分厚いカーテンで仕切られていました。そこに入ることが許されるのはユダヤ教のトップである大祭司が、しかも年に一度だけのことでした。大祭司以外は誰も至聖所の中に入ることはできませんでした。しかしながら、主イエスが十字架で死なれたときに、不思議なことが起こりました。至聖所の前に架けられていた分厚いカーテンが上から下に向かって真っ二つに引き裂けたのです。それは、イエスの十字架が起きる前は、誰も神に近付くことはできませんでしたが、イエスの十字架の後は、誰もが神のおられるところへ行くことができるようになりました。日本語で、導き入れられたと訳されていますが、アクセスを意味するギリシャ語の言葉に、誰かが誰かをある場所に案内して入れるという意味があるからです。アクセスというと、自分で近づくように思いますが、ギリシャ語(prosagein)は、ある人が、他のある人を権威を持つ人々のいるところに案内するという意味を持っています。私たちは自分の力、自分の権威で神との交わりという恵みの場所に入るのではありません。主イエスが私たちの神様とともに生きるという恵みに満ちた生活に、私たちの前に立って、私たちを導き入れてくださったのです。そして、私たちは、その恵みの中に立っているとパウロは言いましたが、「立つ」と言う言葉には「ずっといつまでもそこにいる」という意味が含まれています。私たちが神様に罪をゆるされて神の子として生活するためには、私たちの信仰が必要ですが、私たちを神と共に生きるという恵みに入れる力と権威を持っておられるのは神様です。そして神様は、私たちがいつまでも神とともに生きるという恵みの中にいることができるように、私たちのために働いてくださいます。私たちは神様との平和を持っており、その神様との交わりにはいつでも主イエスが私たちを導き入れてくださいます。神との平和によって、私たちの過去はすべて清算されました。そして、神との交わりにいつでもアクセスできるということは、私たちの現在の生活にも神様が働いてくださることを表しています。また、神と共に生きる恵みの中で、2節に「私たちは神の栄光を望んで大いに喜んでいる」と書かれています。主イエスが十字架と復活の出来事が起こる前に繰り返して、そのことを弟子たちに話しておられましたが、弟子たちはなかなか信じることができませんでした。しかし、神様の約束は必ず成就します。イエスの十字架と復活もその通りに起きました。主イエスは、それだけではなく、「私は再びこの世に来る」とも約束されました。神様の約束は必ず実現します。ですから、将来、いつか神様が栄光をいっぱいに受けて再びこの世界に来られます。将来の神様の栄光を待ち望む時に、私たちの未来も何も心配することがありません。このように、主イエスの十字架と復活は、私たちの過去も現在も未来もすべてを含めて、一切の思い煩いから解放して、一人ではなく神と共に生きる恵みへと私たちを導きいれてくださいました。
(2)患難をも喜ぶ人生
パウロは3節で大胆にも、「患難さえも喜んでいます。」と告白しています。クリスチャンは神との平和を持っています。この関係が崩れることはありません。しかし、主イエスご自身が言われたように、私たちがこの世でクリスチャンとして生きるときに、苦しいこともあります。聖書は、信じればすべてなんでも人生バラ色と言った安っぽい約束はしません。それは真実ではないからです。むしろ主は、この罪と汚れに満ちたこの世でクリスチャンが生きると、いろいろな患難に出くわすと言われました。英語では患難のことをtribulationというのですが、これはラテン語から来ている言葉です。ラテン語にtribulumという言葉があるのですが、これは木製の道具を意味する言葉です。昔、小麦を脱穀するのに、この道具がつかわれました。Tribulumu とは、小麦の粒を叩いて、そとのからと中の麦の粒を引き離すための道具です。麦の粒を叩くことによって良い部分の麦の粒が外に現れて、不要な外側の殻の部分を取り除きます。このように、私たちの生活の中で起きる患難は、私たちの中の良い部分を引き出し、私たちの中の悪いものを取り除く働きをするのです。
パウロはこの患難がもたらす良いものとして次のように述べています。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」練られた品性と訳されている言葉は、ギリシャ語では、火によって精錬された金属を意味することばです。いろいろな不純物が混ざった金属も、火で溶かされると、不純物がすべて取り除かれて、純粋な金属になります。私たちが患難に直面するときに、私たちの性質の本当の部分が現れてきます。実は、私たちは患いを経験するまで、自分が本当にどういう性質なのか分からないのです。私たちは自分自身をいろいろなもので覆い隠しているからです。また、患難は決して無駄には終わりません。パウロが5節で言っています。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」このような試練、患難を乗り越える力が私たちに与えられています。それは聖霊をとおして与えられた神の愛です。聖霊とは、復活された主イエスが、聖霊という私たちの目には見えませんが、人格を持った存在として、私たちの心を神に近づける働きをします。私たちに神の言葉や約束を思い出させたり、祈りの中で何かを教えてくれたり、心の中に神の愛を豊かに注いでくれたりと、本当に、私たちが信仰生活を続けるためにあらゆる助けを与えてくれます。この聖霊が私たちに神の愛を豊かに注いでくれるのです。人は、教理や教えよりも、愛によって動かされます。しかも神様が私たちに注がれる愛は、人間の愛とはまったく異なっています。8節にそのことが書かれています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」神様が私たちを愛されるのは、私たちがそれにふさわしい人間だからではありません。神を無視し、神に背を向けている私たちのために、自分の命を捨てるという愛を示してくださったのです。主イエスご自身が言われましたが、「人が自分の友人のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。」神様に愛されているのかどうか確信が持てない人は、ぜひ8節を繰り返し読んでください。
神様は、私たちがまだ神様に反抗していた時からすでに私たちを愛しておられました。それなら、いま、主イエスを救い主として信じてクリスチャンになった私たちを愛さないはずがありません。そして、私たちが神と共に信仰生活を着実に歩めるように、いつでも私たちを助けてくださいます。

