礼拝説教 2007年12月2日「正しい人ヨセフ」(マタイ1章18-25節)
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ある人が突然に、「私は救い主である。」と言い始めたら、人々は、その人が本当に救い主なのかどうか証拠を求めます。その人がどのようにして生まれたのか。救い主だと言うだけの資格を持っているのか、など、人々は尋ねるに違いありません。この福音書を書いたマタイは、一般の人々がそのような疑問を持っていることを知っていたので、イエスが本当に救い主であることを示すために、注意深くイエスの誕生について書いています。人間の社会では、王様であるためには、王様の家庭に生まれなければなりません。それで、マタイはイエスが救い主として生まれたことを証明するために2つの面からイエスの誕生を物語っています。
一つは人間的な観点から見たイエスの誕生です。ユダヤ人の社会では、今でも、系図が非常に大切です。彼らは自分たちのアイデンティティをはっきりと持っているからです。それでマタイは福音書の冒頭にイエスの系図を書いているのです。イエスの系図があるということは、一つには、救い主イエスが確かに人間の歴史の中に入って来られたことを示しています。もう一つの意味は、主イエスが神の預言によって生まれた救い主であることを証明しています。旧約聖書は1000年以上の期間にわたって数多くの人が書いた書物を集めたものですが、不思議とその中には統一したテーマがあります。それは「やがて救い主が来られる」というものです。旧約聖書には救い主に関する預言が数多く出てくるのですが、その中の一つに救い主は、かつてのイスラエル王ダビデの家系から生まれることが預言されていました。それで、マタイはダビデの家系から生まれたイエスの系図を記しています。ダビデ王は今から3000年前のイスラエル王、その後、イスラエルの歴史はイエスの時代までの1000年間、エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、など周囲の大国の支配を受けてきましたが、主イエスは聖書の預言どおりダビデの子孫として、今から2000年前に、ヨセフとマリアを通してこの世に生まれました。
また、この系図には神の愛が表れています。イエスの系図には4人の女性の名前が挙げられていますが、ユダヤ人の系図に女性の名前が記されることはひじょうに珍しいことなのです。系図には父親と息子の名前があげられるのが一般的です。しかも、その女性が、皆、ユダヤの社会では低く見られるような女性たちでした。中には非常に大きな罪を犯した女性も含まれています。救い主イエスは、このような世の中の人々を罪のさばきと罪の支配から救い出すためにお生まれになりました。
しかし、ダビデの家系から生まれた人は、イエス以外にも数多くいました。ですから、この系図だけでは、主イエスが確かに救い主であることの証拠にはなりません。それで、マタイは1章の18節から、イエスが、神の働きによってどのようにこの世にお生まれになったのかを記しています。
救い主イエスが、この世に来られたとき、いろいろな方法で来ることが可能だったと思いますが、成人した姿で現れることをしませんでした。この世のすべての権威と栄光と誉れに満ちておられたイエスは、旧約聖書のイザヤ書の預言では「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」というタイトルで呼ばれています。そのような方であれば、その栄光と力に満ちた姿のままでこの世に来ることがふさわしいように思われますが、母マリアの胎内に宿ることによって、私たちが生まれてくるときとまったく同じ状態で、この世に来られました。それは、主イエスは私たちの身代わりとなって十字架で死ぬためにこの世に来られたので、すべての点で私たちと同じコースをたどり、同じ体験をしなければならなかったのです。主イエスが十字架にかかられたのは、私たちの罪を赦すために、私たちの身代わりとなって罪の罰を受けるためでした。私たちの身代わりになるためには、私たちと同じコースを歩まなければなりません。第一、私たちの罪は、生れた後に、成長する中で私たちの中に入るものではありません。生れてくるときに、すでに罪の性質を持って生れて来るのです。だから、このようなややこしい方法が必要でした。
救い主は、神ご自身です。神がこの世に生れるのであれば、エルサレムにあった神殿で生れるのが自然のように思います。しかし、神様は、マリヤとヨセフというごく普通の二人の人を選び、彼らを通してこの世に来られました。18節に「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」と書かれています。ここに、「マリヤはヨセフの妻と決まっていた」と書かれていますが、当時のユダヤ人社会においては、婚約は結婚をほとんど同じ意味合いを持っていました。婚約の期間は1年間で、その間二人は一緒に生活をすることはありませんが、二人は夫と妻として扱われました。この婚約は一度決められると解消することはできず、この関係を切ることは離婚と同じだと考えられていました。そして一年間の婚約期間を終えると、結婚式が行われ、二人は正式に夫婦となりました。
ところが、マリヤは、婚約の期間中に救い主を身ごもりました。婚約期間中に、女性が妊娠した場合、女性は姦淫を犯したと見なされて、厳しい罰を受けなければなりません。最初、マリヤが救い主を身ごもることを御使いガブリエルがマリヤに知らせました。マリヤは、まだ10代半ばの若い娘でした。ごく普通の女性でした。身分が高いわけでもなく、特別な能力を持っていた女性でもありません。しかし、彼女は心から神を信じる信仰を持っていました。彼女の信仰のゆえに、彼女は神から選ばれて救い主をこの世に送り出す特別な使命をゆだねられました。それは、信仰者マリヤにとってはすばらしいことですが、婚約期間中のユダヤ人の女性としては、大きな試練でした。彼女はヨセフとのささやかな幸福を夢見ていましたが、突然、その夢は崩れ去りました。マタイの福音書にはヨセフは正しい人であったと書かれています。しかし、ヨセフがいくら正しい人であっても、マリヤが聖霊によって救い主をおなかに身ごもるなどという話を信じることができませんでした。マリヤは御使いからこの知らせを聞くと、すぐにヨセフにそのことを話したに違いありません。しかし、2000年前の人間にとっても、女性が聖霊の力によって妊娠するなんて信じることはできません。マリヤはいつもとても聖い生き方をしていた女性です。ヨセフはどれほど、悩み、驚き、苦しんだことでしょう。
ヨセフは正しい人でした。それだけに2重の問題に直面しました。一つは、彼は道徳的にも正しい人間でしたから、マリヤが妊娠したことが分かった以上、しかも、彼女の胎内にいるのは自分の子どもではありませんから、このまま、彼女と結婚することはできないと考えました。第二に、彼は正しい人で、彼女を愛していました。ですから、彼女を人々の目の前で恥さらしにすることがどうしても出来ません。聖書の記述では、ヨセフがマリヤにひどく腹を立てている様子は感じられません。婚約者である女性が自分の子どもではない子どもを身ごもることは、男性にとって大きな屈辱ですから、腹を立てるのも当然のことです。自分に恥をかかせたマリヤに対して復讐したいと思ったとしてもおかしくはない深刻な状況です。しかし、そんな中でも、ヨセフは自分が屈辱を受けたことなど考えていません。どうすれば、マリヤが一番恥をかかなくてもよいか、ヨセフはマリヤのことだけを考えていました。それで、19節「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」と書かれているのです。彼は、誰にも知られないように、マリヤとの婚約関係を切って、そしてしばらく彼女をどこかへ送り出そうと考えたのです。そうすれば、彼女は人の前で大きな恥をかかなくてもすみます。結婚式が行われませんから村の人は二人が分かれたことを知るでしょうが、その後のことは自分が全部責任を取ろうと決心したのでした。
その時、主の使いがヨセフの夢の中に現れました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」主の使いはヨセフに向かって「ダビデの子ヨセフ」と呼んでいます。イスラエルの人々は旧約聖書を知っていましたから、救い主がダビデの家系から生れるという預言を知っています。救い主が生れることをヨセフに伝えに来た御使いは、「旧約聖書の預言」を暗示しているようです。そして「その胎に宿っているのは聖霊によるのです。」と宣言しています。つまり、これは特別な方の誕生であり、超自然的な誕生であることを知らせています。そして続いて御使いは「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と言いました。マリヤの胎内に宿っているのは聖霊によって身ごもったいのちであり、また、その方は民を罪から救う方であると御使いが語るのを聞いて、ヨセフは、これは旧約聖書に預言されていてイスラエルの人々が長く待ち望んでいた救い主メシヤのことを言っていると気がついたに違いありません。
ここで、マタイはこの救い主の誕生は特別なものであり、旧約聖書の預言が成就したものであるという説明を加えています。23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」という言葉は、イザヤ書7章14節の引用です。イザヤは主イエスよりも700年前に働いた預言者です。そこに「インマヌエル」という名前が挙げられています。インマヌエルとは「神様がわたしたちと共におられる」という意味です。旧約聖書は、繰り返して、神様は私たちとともに歩んでくださるという約束について述べています。旧約聖書の時代、神様はイスラエルの民とともにおられました。モーセによって作られたテント式の幕屋も、ソロモンがエルサレムに建てた神殿も、本来、神様が共におられることのシンボルとして作られました。幕屋はヘブル語でミシュカンというのですが、これはシャーカンという言葉から作られた言葉です。シャーカンとは「住む」「とどまる」という意味です。また、シャーカンと言う言葉からシェキナーという言葉も生れました。神を信じる人々にいつも神の栄光がともにあることを表す言葉です。イエスは、外見は、普通の赤ちゃんと同じでしたが、神の栄光そのものであったのです。救い主イエスは、暗闇の中で生きている人々に救いを与えるだけでなく、ともに生きてくださるために、この世に来られた神の栄光そのもののお方です。
ここで、ヨセフは眠りから覚めました。それまで、マリヤのことで酷く悩んでいたヨセフでしたが、眠りから覚めるとすぐに主の命令に従っています。夢の中で御使いから聞いた言葉によって、彼の心の中の葛藤、悩み、苦しみはすっかり消えていました。むしろ、心の中は、驚きと、喜びと、平安に満ちていたでしょう。彼は、恐れずにマリヤを妻に迎えることを決心しました。そして、自分のような人間が救い主のお世話ができることを光栄に感じていたはずです。このことがあってからしばらくして、二人は結婚式を行い、正式の夫婦になりましたが、それまでの間、二人は純潔を守りました。そして、やがて、赤ちゃんが生れましたが、ヨセフは、御使いが命じたように、その赤ちゃんを「イエス」と名づけました。彼は、神様の命令に対して、どこまでも忠実に従いました。近所の人々の中には、二人のことを中傷した人がいたはずです。彼がいくら人々にマリヤの妊娠について説明しても、心が頑なな人は彼の言葉を信じようとはしなかったでしょう。しかし、彼は、自分がこのような大きな役割を与えられていることに感謝して、自分の責任を果たしました。その後のヨセフのことについては、ほとんど聖書は何も書いていません。イエスが生れた後、ヘロデ大王から逃れてエジプトに行ったこと、郷里のナザレに帰って住みついたこと、イエスが12歳になったときにエルサレムの神殿につれて行ったこと以外には何もわかりません。恐らく、ヨセフはイエスが神の子としての働きを始めるまえに死んだのだろうと思われます。彼は、本当に目立たない人です。仕事も大工ですから、ごく普通の人でした。しかし、神様から、救い主が赤ちゃんから大人に成長するまでのイエスの世話をするというとても名誉のある働きをゆだねられました。彼が神様からの使命を忠実に果たしたからこそ、イエスはこの世に生れることが出来たのだと言えると思います。
イエスは「主は救い」という意味です。また、「インマヌエル」とは私たちとともにおられる神と言う意味です。全知全能でありこのよのすべての権威と栄光と誉れに満ち満ちておられた方が私たちを救うために、そして私たちとともに生きてくださるために、わざわざ、マリヤの胎内に宿り、私たちとまったく同じ「生きる」ということを経験してくださいました。このことを感謝するとともに、正しい人ヨセフのように、主の命令には、心から従う者でありたいと思います。
ある人が突然に、「私は救い主である。」と言い始めたら、人々は、その人が本当に救い主なのかどうか証拠を求めます。その人がどのようにして生まれたのか。救い主だと言うだけの資格を持っているのか、など、人々は尋ねるに違いありません。この福音書を書いたマタイは、一般の人々がそのような疑問を持っていることを知っていたので、イエスが本当に救い主であることを示すために、注意深くイエスの誕生について書いています。人間の社会では、王様であるためには、王様の家庭に生まれなければなりません。それで、マタイはイエスが救い主として生まれたことを証明するために2つの面からイエスの誕生を物語っています。
一つは人間的な観点から見たイエスの誕生です。ユダヤ人の社会では、今でも、系図が非常に大切です。彼らは自分たちのアイデンティティをはっきりと持っているからです。それでマタイは福音書の冒頭にイエスの系図を書いているのです。イエスの系図があるということは、一つには、救い主イエスが確かに人間の歴史の中に入って来られたことを示しています。もう一つの意味は、主イエスが神の預言によって生まれた救い主であることを証明しています。旧約聖書は1000年以上の期間にわたって数多くの人が書いた書物を集めたものですが、不思議とその中には統一したテーマがあります。それは「やがて救い主が来られる」というものです。旧約聖書には救い主に関する預言が数多く出てくるのですが、その中の一つに救い主は、かつてのイスラエル王ダビデの家系から生まれることが預言されていました。それで、マタイはダビデの家系から生まれたイエスの系図を記しています。ダビデ王は今から3000年前のイスラエル王、その後、イスラエルの歴史はイエスの時代までの1000年間、エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、など周囲の大国の支配を受けてきましたが、主イエスは聖書の預言どおりダビデの子孫として、今から2000年前に、ヨセフとマリアを通してこの世に生まれました。
また、この系図には神の愛が表れています。イエスの系図には4人の女性の名前が挙げられていますが、ユダヤ人の系図に女性の名前が記されることはひじょうに珍しいことなのです。系図には父親と息子の名前があげられるのが一般的です。しかも、その女性が、皆、ユダヤの社会では低く見られるような女性たちでした。中には非常に大きな罪を犯した女性も含まれています。救い主イエスは、このような世の中の人々を罪のさばきと罪の支配から救い出すためにお生まれになりました。
しかし、ダビデの家系から生まれた人は、イエス以外にも数多くいました。ですから、この系図だけでは、主イエスが確かに救い主であることの証拠にはなりません。それで、マタイは1章の18節から、イエスが、神の働きによってどのようにこの世にお生まれになったのかを記しています。
救い主イエスが、この世に来られたとき、いろいろな方法で来ることが可能だったと思いますが、成人した姿で現れることをしませんでした。この世のすべての権威と栄光と誉れに満ちておられたイエスは、旧約聖書のイザヤ書の預言では「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」というタイトルで呼ばれています。そのような方であれば、その栄光と力に満ちた姿のままでこの世に来ることがふさわしいように思われますが、母マリアの胎内に宿ることによって、私たちが生まれてくるときとまったく同じ状態で、この世に来られました。それは、主イエスは私たちの身代わりとなって十字架で死ぬためにこの世に来られたので、すべての点で私たちと同じコースをたどり、同じ体験をしなければならなかったのです。主イエスが十字架にかかられたのは、私たちの罪を赦すために、私たちの身代わりとなって罪の罰を受けるためでした。私たちの身代わりになるためには、私たちと同じコースを歩まなければなりません。第一、私たちの罪は、生れた後に、成長する中で私たちの中に入るものではありません。生れてくるときに、すでに罪の性質を持って生れて来るのです。だから、このようなややこしい方法が必要でした。
救い主は、神ご自身です。神がこの世に生れるのであれば、エルサレムにあった神殿で生れるのが自然のように思います。しかし、神様は、マリヤとヨセフというごく普通の二人の人を選び、彼らを通してこの世に来られました。18節に「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」と書かれています。ここに、「マリヤはヨセフの妻と決まっていた」と書かれていますが、当時のユダヤ人社会においては、婚約は結婚をほとんど同じ意味合いを持っていました。婚約の期間は1年間で、その間二人は一緒に生活をすることはありませんが、二人は夫と妻として扱われました。この婚約は一度決められると解消することはできず、この関係を切ることは離婚と同じだと考えられていました。そして一年間の婚約期間を終えると、結婚式が行われ、二人は正式に夫婦となりました。
ところが、マリヤは、婚約の期間中に救い主を身ごもりました。婚約期間中に、女性が妊娠した場合、女性は姦淫を犯したと見なされて、厳しい罰を受けなければなりません。最初、マリヤが救い主を身ごもることを御使いガブリエルがマリヤに知らせました。マリヤは、まだ10代半ばの若い娘でした。ごく普通の女性でした。身分が高いわけでもなく、特別な能力を持っていた女性でもありません。しかし、彼女は心から神を信じる信仰を持っていました。彼女の信仰のゆえに、彼女は神から選ばれて救い主をこの世に送り出す特別な使命をゆだねられました。それは、信仰者マリヤにとってはすばらしいことですが、婚約期間中のユダヤ人の女性としては、大きな試練でした。彼女はヨセフとのささやかな幸福を夢見ていましたが、突然、その夢は崩れ去りました。マタイの福音書にはヨセフは正しい人であったと書かれています。しかし、ヨセフがいくら正しい人であっても、マリヤが聖霊によって救い主をおなかに身ごもるなどという話を信じることができませんでした。マリヤは御使いからこの知らせを聞くと、すぐにヨセフにそのことを話したに違いありません。しかし、2000年前の人間にとっても、女性が聖霊の力によって妊娠するなんて信じることはできません。マリヤはいつもとても聖い生き方をしていた女性です。ヨセフはどれほど、悩み、驚き、苦しんだことでしょう。
ヨセフは正しい人でした。それだけに2重の問題に直面しました。一つは、彼は道徳的にも正しい人間でしたから、マリヤが妊娠したことが分かった以上、しかも、彼女の胎内にいるのは自分の子どもではありませんから、このまま、彼女と結婚することはできないと考えました。第二に、彼は正しい人で、彼女を愛していました。ですから、彼女を人々の目の前で恥さらしにすることがどうしても出来ません。聖書の記述では、ヨセフがマリヤにひどく腹を立てている様子は感じられません。婚約者である女性が自分の子どもではない子どもを身ごもることは、男性にとって大きな屈辱ですから、腹を立てるのも当然のことです。自分に恥をかかせたマリヤに対して復讐したいと思ったとしてもおかしくはない深刻な状況です。しかし、そんな中でも、ヨセフは自分が屈辱を受けたことなど考えていません。どうすれば、マリヤが一番恥をかかなくてもよいか、ヨセフはマリヤのことだけを考えていました。それで、19節「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」と書かれているのです。彼は、誰にも知られないように、マリヤとの婚約関係を切って、そしてしばらく彼女をどこかへ送り出そうと考えたのです。そうすれば、彼女は人の前で大きな恥をかかなくてもすみます。結婚式が行われませんから村の人は二人が分かれたことを知るでしょうが、その後のことは自分が全部責任を取ろうと決心したのでした。
その時、主の使いがヨセフの夢の中に現れました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」主の使いはヨセフに向かって「ダビデの子ヨセフ」と呼んでいます。イスラエルの人々は旧約聖書を知っていましたから、救い主がダビデの家系から生れるという預言を知っています。救い主が生れることをヨセフに伝えに来た御使いは、「旧約聖書の預言」を暗示しているようです。そして「その胎に宿っているのは聖霊によるのです。」と宣言しています。つまり、これは特別な方の誕生であり、超自然的な誕生であることを知らせています。そして続いて御使いは「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と言いました。マリヤの胎内に宿っているのは聖霊によって身ごもったいのちであり、また、その方は民を罪から救う方であると御使いが語るのを聞いて、ヨセフは、これは旧約聖書に預言されていてイスラエルの人々が長く待ち望んでいた救い主メシヤのことを言っていると気がついたに違いありません。
ここで、マタイはこの救い主の誕生は特別なものであり、旧約聖書の預言が成就したものであるという説明を加えています。23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」という言葉は、イザヤ書7章14節の引用です。イザヤは主イエスよりも700年前に働いた預言者です。そこに「インマヌエル」という名前が挙げられています。インマヌエルとは「神様がわたしたちと共におられる」という意味です。旧約聖書は、繰り返して、神様は私たちとともに歩んでくださるという約束について述べています。旧約聖書の時代、神様はイスラエルの民とともにおられました。モーセによって作られたテント式の幕屋も、ソロモンがエルサレムに建てた神殿も、本来、神様が共におられることのシンボルとして作られました。幕屋はヘブル語でミシュカンというのですが、これはシャーカンという言葉から作られた言葉です。シャーカンとは「住む」「とどまる」という意味です。また、シャーカンと言う言葉からシェキナーという言葉も生れました。神を信じる人々にいつも神の栄光がともにあることを表す言葉です。イエスは、外見は、普通の赤ちゃんと同じでしたが、神の栄光そのものであったのです。救い主イエスは、暗闇の中で生きている人々に救いを与えるだけでなく、ともに生きてくださるために、この世に来られた神の栄光そのもののお方です。
ここで、ヨセフは眠りから覚めました。それまで、マリヤのことで酷く悩んでいたヨセフでしたが、眠りから覚めるとすぐに主の命令に従っています。夢の中で御使いから聞いた言葉によって、彼の心の中の葛藤、悩み、苦しみはすっかり消えていました。むしろ、心の中は、驚きと、喜びと、平安に満ちていたでしょう。彼は、恐れずにマリヤを妻に迎えることを決心しました。そして、自分のような人間が救い主のお世話ができることを光栄に感じていたはずです。このことがあってからしばらくして、二人は結婚式を行い、正式の夫婦になりましたが、それまでの間、二人は純潔を守りました。そして、やがて、赤ちゃんが生れましたが、ヨセフは、御使いが命じたように、その赤ちゃんを「イエス」と名づけました。彼は、神様の命令に対して、どこまでも忠実に従いました。近所の人々の中には、二人のことを中傷した人がいたはずです。彼がいくら人々にマリヤの妊娠について説明しても、心が頑なな人は彼の言葉を信じようとはしなかったでしょう。しかし、彼は、自分がこのような大きな役割を与えられていることに感謝して、自分の責任を果たしました。その後のヨセフのことについては、ほとんど聖書は何も書いていません。イエスが生れた後、ヘロデ大王から逃れてエジプトに行ったこと、郷里のナザレに帰って住みついたこと、イエスが12歳になったときにエルサレムの神殿につれて行ったこと以外には何もわかりません。恐らく、ヨセフはイエスが神の子としての働きを始めるまえに死んだのだろうと思われます。彼は、本当に目立たない人です。仕事も大工ですから、ごく普通の人でした。しかし、神様から、救い主が赤ちゃんから大人に成長するまでのイエスの世話をするというとても名誉のある働きをゆだねられました。彼が神様からの使命を忠実に果たしたからこそ、イエスはこの世に生れることが出来たのだと言えると思います。
イエスは「主は救い」という意味です。また、「インマヌエル」とは私たちとともにおられる神と言う意味です。全知全能でありこのよのすべての権威と栄光と誉れに満ち満ちておられた方が私たちを救うために、そして私たちとともに生きてくださるために、わざわざ、マリヤの胎内に宿り、私たちとまったく同じ「生きる」ということを経験してくださいました。このことを感謝するとともに、正しい人ヨセフのように、主の命令には、心から従う者でありたいと思います。

