礼拝説教 2009年3月22日 「わたしはここにいる」(イザヤ58章)
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イザヤ書58章は、神様のイザヤへの命令から始まっています。神様はイザヤに「せいいっぱい大声で叫べ」と言われました。何のためでしょうか。それは神の民であるユダヤ人たちに、彼らがそむきの罪を犯していることを次げ知らせるためでした。神様が角笛を吹くように大きな声をあげるようにイザヤに命じておられるところを見ると、当時のユダヤ人罪は非常に大きかったようです。ところで彼らの罪とは何だったのでしょうか。
(1)神様が喜ぶ断食とは
ユダヤ人たちは、自分が神に対して罪を犯しているなどとは夢にも思っていませんでした。2節を見ると、彼らが非常に熱心に宗教生活を送っていたことが分かります。「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」ユダヤ人たちは、毎日、神殿へ行き、聖書の教えを聞き、聖書の律法を守り、熱心に神を求めているように見えました。しかし、実際には、彼らの礼拝は表面的なものに過ぎず、彼らの心は神から遠く離れていたのです。神様は、私たちの外面を見られるのではなく、私たちの心を見ておられます。神様は、心のこもっていない礼拝や祈りをささげているユダヤ人たちに対して、彼らが願っているような働きをされませんでした。それで、彼らは神様に対して不平と不満を抱きました。3節に記された彼らの言葉がその様子を教えています。「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」ユダヤ人たちは、自発的に断食をしていました。断食は、自分の信仰がより深くなることを求めて行うものですが、彼らは、自分が断食しているということを神様に認めてもらいたかったようです。断食をすることによって、神様からほめられたい、神様から何か特別な祝福をもらいたいという気持ちがあったのです。しかし、神様は、そのような動機で行われた断食を祝福されませんでした。このことは、今日の私たちにもあてはまることと思います。私たちが、どんなに熱心に聖書を学んだとしても、どんなに熱心に祈りをささげたとしても、どんなに熱心に礼拝、伝道、奉仕を行っていても、もし、それが純粋に神様を感謝する心から行ったものでなければ、神様の祝福はないでしょう。そのような祈りは聞かれないでしょう。そうすると、私たちは、心の中で神への不満を抱き、神様が本当に自分を愛しておられるのだろうかと疑いを持つようになります。中には、神様に対して怒りを抱く人もいます。
そのような彼らの疑問に対して、神様は4,5節で反論しておられます。ユダヤ人たちは、確かに、表面的には宗教に熱心でしたが、実際には、彼らの生活には争いやけんかが絶えず、他の人を不当に扱っていました。彼らは、恐らく、断食をするときには、粗末な服装をして、頭から灰をかぶって、いかにも、神様の前に悔い改めているように見せかけていましたが、神様は、それが本当の断食なのかと彼らに問いただしておられます。それは、彼らが、どんなに熱心に断食をしていても、彼らの生活の中に、悔い改めの結果である実がなかったからです。それで、神様は6節と7節で、神様が願っておられる断食とはどのようなものであるかを教えておられます。断食を行うことは、霊的にも肉体的に多くのよい働きをします。しかし、断食がもたらす様々な良いものは、断食を行っている人にだけ与えられます。神様が求めている断食は、一つには、私たちが霊的に成長して、神様の前にもっと謙遜になることです。しかし、それ以上に、神様が求めておられるのは、ただ、食事を取らないという断食以上に、私たちの周りにいる人々のために良いものを分け与えることだと、神様ご自身が語っておられます。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」このような働きを神様は喜ばれるのです。一つは、しいたげられた人々に自由を与えること、人を縛っているくびきを砕くことです。私たちの周りにも、神様を知らずに生きているために、自分の罪や欲望で自由のない生き方をしている人がいないでしょうか。また、飢えた人にパンを分け与えることです。私たちの周りには、あまりにも貧しくて食べるものが無いという人はほとんどいないと思います。しかし、肉体的には満ち足りていても、神様を知らずに心の中に大きな飢え渇きを感じている人は非常に多いはずです。その人たちにいのちのパンであるイエス・キリストの愛を分かち与えることです。私たちの周りには住む家を持たない人はほとんどいないでしょう。しかし、神様を知らず、どこに進んでいったらよいか分からずにさまよっている人は非常に多いのです。クリスチャンである私たちは、神様から愛され、すべての罪を赦していただくような資格は何一つ持っていませんが、神様の一方的な愛によって、今のように喜びと希望を持って生きる人生を与えていただきました。私たちができることで、神様が一番お喜びになるのはどんなことでしょうか。それは、私たちの周囲の人々に自分が神様から受けた愛を分け与えることであり、人々を励まし、人々を愛し、人々に仕えることです。そして、それこそが神様が喜ぶ本当の断食なのです。
(2)本当の断食を行う人に与えられる神様の祝福
私たちが、神様が願っておられる断食を行う心を持って生きるならば、必ず神様の祝福が与えられます。たとえ、あなたの生活の中に傷となるものがあるとしても、神様はその傷を癒してくださいます。そして、預言者イザヤが言っているように、あなたの光が暁のように指し出でるときが来ます。神様はいつまでも、私たちを試練や苦しみの中にとどめておくことはありません。神様がご自身の栄光の光を私たちの祝福として与えてくださり、私たちを輝かせてくださるのです。また、8節に「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光があなたのしんがりとなられる」と書かれていますが、あなたの義とは、私たちの救い主イエス・キリストを指しています。第一コリント1章30節に「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」と書かれているとおりです。主イエスの誕生を預言したイザヤは、主イエスについて9章6節で次のように語っています。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」私たちの主は、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられる方です。主権は主イエスの肩にある。私たちは、生活の中でいろいろな重荷を肩に負って苦しんでいますが、その重荷を一切の権威を持っておられる主イエスがともに担ってくださいます。主は不思議な助言者です。英語ではワンダフルカウンセラー、私たちにとって素晴らしい相談相手になってくださる方です。すべてのことを知っておられる主が私たちの個人的な相談相手になってくださるとは、何と素晴らしいことでしょうか。また、主イエスは「力ある神」です。私たちは、十字架にかかるために一時的に低くなってくださった主イエスの姿を見ていますが、主イエスの本当のお姿は神と等しいお方です。また、びっくりするのですが、主イエスは「永遠の父」でもあられます。主イエスは、「私と父はひとつです」と言われました。三位一体の神ですから、御子イエスは私たちにとって父なる神でもあるのです。しかも永遠に私たちの父であられます。この世の父親はいつまでも生きているわけではありません。いつか必ず私たちの前からいなくなります。しかし、主イエスは、永遠に私たちの父親となってくださり、私たちから離れることもなく、私たちを見捨てることもありません。最後に、主イエスは「平和の君」です。十字架の死によって、私たちに神との平和を与えてくださった方であり、また、この地に平和を与えてくださる方です。この平和の君なる主イエスを自分の救い主としていつもともにいるならば、私たちの心にはいつもピースと喜びが満ちあふれます。
このような素晴らしい主イエスが、8節の言葉によると、私たちの、前を進むと同時に、私たちのしんがりともなってくださるのです。私たちが人生と言う旅路を歩いていくときに、いろいろな危険や災いが襲ってくるかも知れません。しかし、何が起ころうとも、主イエスご自身が私たちの前を進んでくださるだけでなく、私たちの後ろをも守っていてくださるのです。さらに、9節には次のように書かれています。「あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。」 3節では、当時のユダヤ人が「私たちは断食したのに、あなたがご覧にならなかったのですか」と不満を述べています。それは、彼らが断食したり祈りをしたりしても、神様の応答がなかったからです。しかし、9節は違います。私たちが、もし神様が願うような生き方をすれば、私たちが神様を呼ぶとすぐに神様の返事が聞こえるのです。子供は一人で不安になるときに、母親を探します。「お母さん」と叫びます。すると母親は「なーに、ここにいるのよ。」と答えます。子供の不安は、その一言ですっかり消え去ります。私たちも、この世で生きるときに、不安や恐れを感じるときがあります。どうしたらよいか分からず困り果てることもあります。しかし、9節は、私たちが神様を呼ぶとき、神様がすぐに「わたしはここにいる」と答えてくださると約束しています。これほど、私たちにとって安心なことはないのではないでしょうか。ただ、そのためには条件が書かれています。「あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら」これも、神様が求めておられる本当の断食でしょう。第一にくびきを除くことです。くびきとは、人を縛り付けるものです。私たちが他の人を縛り付けていることはないでしょうか。人を苦しめていることはないでしょうか。それらは取り除かなければなりません。第二に、うしろ指を指すことやつまらないおしゃべりを取り除くことです。うしろ指をさすとは、他の人を批判することです。また、つまらないおしゃべりとありますが、人間がゴシップをするとき、つまらないおしゃべりをするとき、たいてい決まって、その内容は他の人の悪口やうわさです。エペソ書4章29節でパウロは次のように言っています。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」私たちは、神様から与えていただいた口をどのように使っているでしょうか。つまらないおしゃべりに用いているでしょうか。それとも、必要なときに人の得を養うのに役立つ言葉を話して、聞く人に神様の恵みを分け与えているでしょうか。そして第三に自分のことだけを考えて生きるのではなく、飢えている人を見るならば、その人のために食べるものを与え、悩み苦しむ人を見れば、その人が満足するように働くことです。これを実行してみることです。自分のことばかり考えて生きているときには絶対に味わえない不思議な喜びや平安を感じるはずです。このような生き方をしている人は、3節に出てくるユダヤ人たちのように、神様に対する不満や不平を抱くことがありません。それは、11節に約束されているように、神様が私たちのために働いてくださるからです。「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」創世記に登場するヨセフは、兄たちのねたみによって外国へ奴隷として売り飛ばされ、その後は、濡れ衣を着せられて監獄に投げ込まれます。人間的には不幸の連続の人生です。しかし、不思議なことに、ヨセフが行うことがすべて、意外なほどに、うまく行きました。最終的には、召使の身分からエジプトの総理大臣にまで出世します。創世記は、彼がなぜこのように、すべての点で成功したのか、その理由として、いつも神ご自身がヨセフとともにいたと記しています。それと同じように、神様が願うような断食、つまり、神様が願うような生き方をする人には、絶えず神様の導きがあり、焼け付くような土地でも、満ち足りることができ、さらに、じぶんが満たされるだけでなく、周りの人に潤いや慰めを与えるオアシスのような人になると書かれています。つまり、神様の願うような生き方をする人は、その人自身が満ち足りるだけでなく、乾ききった世界の中で、人々に潤いを与えるような人へと変えられるのです。
礼拝説教 2009年3月22日 「わたしはここにいる」(イザヤ58章)
イザヤ書58章は、神様のイザヤへの命令から始まっています。神様はイザヤに「せいいっぱい大声で叫べ」と言われました。何のためでしょうか。それは神の民であるユダヤ人たちに、彼らがそむきの罪を犯していることを次げ知らせるためでした。神様が角笛を吹くように大きな声をあげるようにイザヤに命じておられるところを見ると、当時のユダヤ人罪は非常に大きかったようです。ところで彼らの罪とは何だったのでしょうか。
(1)神様が喜ぶ断食とは
ユダヤ人たちは、自分が神に対して罪を犯しているなどとは夢にも思っていませんでした。2節を見ると、彼らが非常に熱心に宗教生活を送っていたことが分かります。「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」ユダヤ人たちは、毎日、神殿へ行き、聖書の教えを聞き、聖書の律法を守り、熱心に神を求めているように見えました。しかし、実際には、彼らの礼拝は表面的なものに過ぎず、彼らの心は神から遠く離れていたのです。神様は、私たちの外面を見られるのではなく、私たちの心を見ておられます。神様は、心のこもっていない礼拝や祈りをささげているユダヤ人たちに対して、彼らが願っているような働きをされませんでした。それで、彼らは神様に対して不平と不満を抱きました。3節に記された彼らの言葉がその様子を教えています。「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」ユダヤ人たちは、自発的に断食をしていました。断食は、自分の信仰がより深くなることを求めて行うものですが、彼らは、自分が断食しているということを神様に認めてもらいたかったようです。断食をすることによって、神様からほめられたい、神様から何か特別な祝福をもらいたいという気持ちがあったのです。しかし、神様は、そのような動機で行われた断食を祝福されませんでした。このことは、今日の私たちにもあてはまることと思います。私たちが、どんなに熱心に聖書を学んだとしても、どんなに熱心に祈りをささげたとしても、どんなに熱心に礼拝、伝道、奉仕を行っていても、もし、それが純粋に神様を感謝する心から行ったものでなければ、神様の祝福はないでしょう。そのような祈りは聞かれないでしょう。そうすると、私たちは、心の中で神への不満を抱き、神様が本当に自分を愛しておられるのだろうかと疑いを持つようになります。中には、神様に対して怒りを抱く人もいます。
そのような彼らの疑問に対して、神様は4,5節で反論しておられます。ユダヤ人たちは、確かに、表面的には宗教に熱心でしたが、実際には、彼らの生活には争いやけんかが絶えず、他の人を不当に扱っていました。彼らは、恐らく、断食をするときには、粗末な服装をして、頭から灰をかぶって、いかにも、神様の前に悔い改めているように見せかけていましたが、神様は、それが本当の断食なのかと彼らに問いただしておられます。それは、彼らが、どんなに熱心に断食をしていても、彼らの生活の中に、悔い改めの結果である実がなかったからです。それで、神様は6節と7節で、神様が願っておられる断食とはどのようなものであるかを教えておられます。断食を行うことは、霊的にも肉体的に多くのよい働きをします。しかし、断食がもたらす様々な良いものは、断食を行っている人にだけ与えられます。神様が求めている断食は、一つには、私たちが霊的に成長して、神様の前にもっと謙遜になることです。しかし、それ以上に、神様が求めておられるのは、ただ、食事を取らないという断食以上に、私たちの周りにいる人々のために良いものを分け与えることだと、神様ご自身が語っておられます。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」このような働きを神様は喜ばれるのです。一つは、しいたげられた人々に自由を与えること、人を縛っているくびきを砕くことです。私たちの周りにも、神様を知らずに生きているために、自分の罪や欲望で自由のない生き方をしている人がいないでしょうか。また、飢えた人にパンを分け与えることです。私たちの周りには、あまりにも貧しくて食べるものが無いという人はほとんどいないと思います。しかし、肉体的には満ち足りていても、神様を知らずに心の中に大きな飢え渇きを感じている人は非常に多いはずです。その人たちにいのちのパンであるイエス・キリストの愛を分かち与えることです。私たちの周りには住む家を持たない人はほとんどいないでしょう。しかし、神様を知らず、どこに進んでいったらよいか分からずにさまよっている人は非常に多いのです。クリスチャンである私たちは、神様から愛され、すべての罪を赦していただくような資格は何一つ持っていませんが、神様の一方的な愛によって、今のように喜びと希望を持って生きる人生を与えていただきました。私たちができることで、神様が一番お喜びになるのはどんなことでしょうか。それは、私たちの周囲の人々に自分が神様から受けた愛を分け与えることであり、人々を励まし、人々を愛し、人々に仕えることです。そして、それこそが神様が喜ぶ本当の断食なのです。
(2)本当の断食を行う人に与えられる神様の祝福
私たちが、神様が願っておられる断食を行う心を持って生きるならば、必ず神様の祝福が与えられます。たとえ、あなたの生活の中に傷となるものがあるとしても、神様はその傷を癒してくださいます。そして、預言者イザヤが言っているように、あなたの光が暁のように指し出でるときが来ます。神様はいつまでも、私たちを試練や苦しみの中にとどめておくことはありません。神様がご自身の栄光の光を私たちの祝福として与えてくださり、私たちを輝かせてくださるのです。また、8節に「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光があなたのしんがりとなられる」と書かれていますが、あなたの義とは、私たちの救い主イエス・キリストを指しています。第一コリント1章30節に「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」と書かれているとおりです。主イエスの誕生を預言したイザヤは、主イエスについて9章6節で次のように語っています。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」私たちの主は、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられる方です。主権は主イエスの肩にある。私たちは、生活の中でいろいろな重荷を肩に負って苦しんでいますが、その重荷を一切の権威を持っておられる主イエスがともに担ってくださいます。主は不思議な助言者です。英語ではワンダフルカウンセラー、私たちにとって素晴らしい相談相手になってくださる方です。すべてのことを知っておられる主が私たちの個人的な相談相手になってくださるとは、何と素晴らしいことでしょうか。また、主イエスは「力ある神」です。私たちは、十字架にかかるために一時的に低くなってくださった主イエスの姿を見ていますが、主イエスの本当のお姿は神と等しいお方です。また、びっくりするのですが、主イエスは「永遠の父」でもあられます。主イエスは、「私と父はひとつです」と言われました。三位一体の神ですから、御子イエスは私たちにとって父なる神でもあるのです。しかも永遠に私たちの父であられます。この世の父親はいつまでも生きているわけではありません。いつか必ず私たちの前からいなくなります。しかし、主イエスは、永遠に私たちの父親となってくださり、私たちから離れることもなく、私たちを見捨てることもありません。最後に、主イエスは「平和の君」です。十字架の死によって、私たちに神との平和を与えてくださった方であり、また、この地に平和を与えてくださる方です。この平和の君なる主イエスを自分の救い主としていつもともにいるならば、私たちの心にはいつもピースと喜びが満ちあふれます。
このような素晴らしい主イエスが、8節の言葉によると、私たちの、前を進むと同時に、私たちのしんがりともなってくださるのです。私たちが人生と言う旅路を歩いていくときに、いろいろな危険や災いが襲ってくるかも知れません。しかし、何が起ころうとも、主イエスご自身が私たちの前を進んでくださるだけでなく、私たちの後ろをも守っていてくださるのです。さらに、9節には次のように書かれています。「あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。」 3節では、当時のユダヤ人が「私たちは断食したのに、あなたがご覧にならなかったのですか」と不満を述べています。それは、彼らが断食したり祈りをしたりしても、神様の応答がなかったからです。しかし、9節は違います。私たちが、もし神様が願うような生き方をすれば、私たちが神様を呼ぶとすぐに神様の返事が聞こえるのです。子供は一人で不安になるときに、母親を探します。「お母さん」と叫びます。すると母親は「なーに、ここにいるのよ。」と答えます。子供の不安は、その一言ですっかり消え去ります。私たちも、この世で生きるときに、不安や恐れを感じるときがあります。どうしたらよいか分からず困り果てることもあります。しかし、9節は、私たちが神様を呼ぶとき、神様がすぐに「わたしはここにいる」と答えてくださると約束しています。これほど、私たちにとって安心なことはないのではないでしょうか。ただ、そのためには条件が書かれています。「あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら」これも、神様が求めておられる本当の断食でしょう。第一にくびきを除くことです。くびきとは、人を縛り付けるものです。私たちが他の人を縛り付けていることはないでしょうか。人を苦しめていることはないでしょうか。それらは取り除かなければなりません。第二に、うしろ指を指すことやつまらないおしゃべりを取り除くことです。うしろ指をさすとは、他の人を批判することです。また、つまらないおしゃべりとありますが、人間がゴシップをするとき、つまらないおしゃべりをするとき、たいてい決まって、その内容は他の人の悪口やうわさです。エペソ書4章29節でパウロは次のように言っています。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」私たちは、神様から与えていただいた口をどのように使っているでしょうか。つまらないおしゃべりに用いているでしょうか。それとも、必要なときに人の得を養うのに役立つ言葉を話して、聞く人に神様の恵みを分け与えているでしょうか。そして第三に自分のことだけを考えて生きるのではなく、飢えている人を見るならば、その人のために食べるものを与え、悩み苦しむ人を見れば、その人が満足するように働くことです。これを実行してみることです。自分のことばかり考えて生きているときには絶対に味わえない不思議な喜びや平安を感じるはずです。このような生き方をしている人は、3節に出てくるユダヤ人たちのように、神様に対する不満や不平を抱くことがありません。それは、11節に約束されているように、神様が私たちのために働いてくださるからです。「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」創世記に登場するヨセフは、兄たちのねたみによって外国へ奴隷として売り飛ばされ、その後は、濡れ衣を着せられて監獄に投げ込まれます。人間的には不幸の連続の人生です。しかし、不思議なことに、ヨセフが行うことがすべて、意外なほどに、うまく行きました。最終的には、召使の身分からエジプトの総理大臣にまで出世します。創世記は、彼がなぜこのように、すべての点で成功したのか、その理由として、いつも神ご自身がヨセフとともにいたと記しています。それと同じように、神様が願うような断食、つまり、神様が願うような生き方をする人には、絶えず神様の導きがあり、焼け付くような土地でも、満ち足りることができ、さらに、じぶんが満たされるだけでなく、周りの人に潤いや慰めを与えるオアシスのような人になると書かれています。つまり、神様の願うような生き方をする人は、その人自身が満ち足りるだけでなく、乾ききった世界の中で、人々に潤いを与えるような人へと変えられるのです。
イザヤ書58章は、神様のイザヤへの命令から始まっています。神様はイザヤに「せいいっぱい大声で叫べ」と言われました。何のためでしょうか。それは神の民であるユダヤ人たちに、彼らがそむきの罪を犯していることを次げ知らせるためでした。神様が角笛を吹くように大きな声をあげるようにイザヤに命じておられるところを見ると、当時のユダヤ人罪は非常に大きかったようです。ところで彼らの罪とは何だったのでしょうか。
(1)神様が喜ぶ断食とは
ユダヤ人たちは、自分が神に対して罪を犯しているなどとは夢にも思っていませんでした。2節を見ると、彼らが非常に熱心に宗教生活を送っていたことが分かります。「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」ユダヤ人たちは、毎日、神殿へ行き、聖書の教えを聞き、聖書の律法を守り、熱心に神を求めているように見えました。しかし、実際には、彼らの礼拝は表面的なものに過ぎず、彼らの心は神から遠く離れていたのです。神様は、私たちの外面を見られるのではなく、私たちの心を見ておられます。神様は、心のこもっていない礼拝や祈りをささげているユダヤ人たちに対して、彼らが願っているような働きをされませんでした。それで、彼らは神様に対して不平と不満を抱きました。3節に記された彼らの言葉がその様子を教えています。「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」ユダヤ人たちは、自発的に断食をしていました。断食は、自分の信仰がより深くなることを求めて行うものですが、彼らは、自分が断食しているということを神様に認めてもらいたかったようです。断食をすることによって、神様からほめられたい、神様から何か特別な祝福をもらいたいという気持ちがあったのです。しかし、神様は、そのような動機で行われた断食を祝福されませんでした。このことは、今日の私たちにもあてはまることと思います。私たちが、どんなに熱心に聖書を学んだとしても、どんなに熱心に祈りをささげたとしても、どんなに熱心に礼拝、伝道、奉仕を行っていても、もし、それが純粋に神様を感謝する心から行ったものでなければ、神様の祝福はないでしょう。そのような祈りは聞かれないでしょう。そうすると、私たちは、心の中で神への不満を抱き、神様が本当に自分を愛しておられるのだろうかと疑いを持つようになります。中には、神様に対して怒りを抱く人もいます。
そのような彼らの疑問に対して、神様は4,5節で反論しておられます。ユダヤ人たちは、確かに、表面的には宗教に熱心でしたが、実際には、彼らの生活には争いやけんかが絶えず、他の人を不当に扱っていました。彼らは、恐らく、断食をするときには、粗末な服装をして、頭から灰をかぶって、いかにも、神様の前に悔い改めているように見せかけていましたが、神様は、それが本当の断食なのかと彼らに問いただしておられます。それは、彼らが、どんなに熱心に断食をしていても、彼らの生活の中に、悔い改めの結果である実がなかったからです。それで、神様は6節と7節で、神様が願っておられる断食とはどのようなものであるかを教えておられます。断食を行うことは、霊的にも肉体的に多くのよい働きをします。しかし、断食がもたらす様々な良いものは、断食を行っている人にだけ与えられます。神様が求めている断食は、一つには、私たちが霊的に成長して、神様の前にもっと謙遜になることです。しかし、それ以上に、神様が求めておられるのは、ただ、食事を取らないという断食以上に、私たちの周りにいる人々のために良いものを分け与えることだと、神様ご自身が語っておられます。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」このような働きを神様は喜ばれるのです。一つは、しいたげられた人々に自由を与えること、人を縛っているくびきを砕くことです。私たちの周りにも、神様を知らずに生きているために、自分の罪や欲望で自由のない生き方をしている人がいないでしょうか。また、飢えた人にパンを分け与えることです。私たちの周りには、あまりにも貧しくて食べるものが無いという人はほとんどいないと思います。しかし、肉体的には満ち足りていても、神様を知らずに心の中に大きな飢え渇きを感じている人は非常に多いはずです。その人たちにいのちのパンであるイエス・キリストの愛を分かち与えることです。私たちの周りには住む家を持たない人はほとんどいないでしょう。しかし、神様を知らず、どこに進んでいったらよいか分からずにさまよっている人は非常に多いのです。クリスチャンである私たちは、神様から愛され、すべての罪を赦していただくような資格は何一つ持っていませんが、神様の一方的な愛によって、今のように喜びと希望を持って生きる人生を与えていただきました。私たちができることで、神様が一番お喜びになるのはどんなことでしょうか。それは、私たちの周囲の人々に自分が神様から受けた愛を分け与えることであり、人々を励まし、人々を愛し、人々に仕えることです。そして、それこそが神様が喜ぶ本当の断食なのです。
(2)本当の断食を行う人に与えられる神様の祝福
私たちが、神様が願っておられる断食を行う心を持って生きるならば、必ず神様の祝福が与えられます。たとえ、あなたの生活の中に傷となるものがあるとしても、神様はその傷を癒してくださいます。そして、預言者イザヤが言っているように、あなたの光が暁のように指し出でるときが来ます。神様はいつまでも、私たちを試練や苦しみの中にとどめておくことはありません。神様がご自身の栄光の光を私たちの祝福として与えてくださり、私たちを輝かせてくださるのです。また、8節に「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光があなたのしんがりとなられる」と書かれていますが、あなたの義とは、私たちの救い主イエス・キリストを指しています。第一コリント1章30節に「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」と書かれているとおりです。主イエスの誕生を預言したイザヤは、主イエスについて9章6節で次のように語っています。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」私たちの主は、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられる方です。主権は主イエスの肩にある。私たちは、生活の中でいろいろな重荷を肩に負って苦しんでいますが、その重荷を一切の権威を持っておられる主イエスがともに担ってくださいます。主は不思議な助言者です。英語ではワンダフルカウンセラー、私たちにとって素晴らしい相談相手になってくださる方です。すべてのことを知っておられる主が私たちの個人的な相談相手になってくださるとは、何と素晴らしいことでしょうか。また、主イエスは「力ある神」です。私たちは、十字架にかかるために一時的に低くなってくださった主イエスの姿を見ていますが、主イエスの本当のお姿は神と等しいお方です。また、びっくりするのですが、主イエスは「永遠の父」でもあられます。主イエスは、「私と父はひとつです」と言われました。三位一体の神ですから、御子イエスは私たちにとって父なる神でもあるのです。しかも永遠に私たちの父であられます。この世の父親はいつまでも生きているわけではありません。いつか必ず私たちの前からいなくなります。しかし、主イエスは、永遠に私たちの父親となってくださり、私たちから離れることもなく、私たちを見捨てることもありません。最後に、主イエスは「平和の君」です。十字架の死によって、私たちに神との平和を与えてくださった方であり、また、この地に平和を与えてくださる方です。この平和の君なる主イエスを自分の救い主としていつもともにいるならば、私たちの心にはいつもピースと喜びが満ちあふれます。
このような素晴らしい主イエスが、8節の言葉によると、私たちの、前を進むと同時に、私たちのしんがりともなってくださるのです。私たちが人生と言う旅路を歩いていくときに、いろいろな危険や災いが襲ってくるかも知れません。しかし、何が起ころうとも、主イエスご自身が私たちの前を進んでくださるだけでなく、私たちの後ろをも守っていてくださるのです。さらに、9節には次のように書かれています。「あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。」 3節では、当時のユダヤ人が「私たちは断食したのに、あなたがご覧にならなかったのですか」と不満を述べています。それは、彼らが断食したり祈りをしたりしても、神様の応答がなかったからです。しかし、9節は違います。私たちが、もし神様が願うような生き方をすれば、私たちが神様を呼ぶとすぐに神様の返事が聞こえるのです。子供は一人で不安になるときに、母親を探します。「お母さん」と叫びます。すると母親は「なーに、ここにいるのよ。」と答えます。子供の不安は、その一言ですっかり消え去ります。私たちも、この世で生きるときに、不安や恐れを感じるときがあります。どうしたらよいか分からず困り果てることもあります。しかし、9節は、私たちが神様を呼ぶとき、神様がすぐに「わたしはここにいる」と答えてくださると約束しています。これほど、私たちにとって安心なことはないのではないでしょうか。ただ、そのためには条件が書かれています。「あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら」これも、神様が求めておられる本当の断食でしょう。第一にくびきを除くことです。くびきとは、人を縛り付けるものです。私たちが他の人を縛り付けていることはないでしょうか。人を苦しめていることはないでしょうか。それらは取り除かなければなりません。第二に、うしろ指を指すことやつまらないおしゃべりを取り除くことです。うしろ指をさすとは、他の人を批判することです。また、つまらないおしゃべりとありますが、人間がゴシップをするとき、つまらないおしゃべりをするとき、たいてい決まって、その内容は他の人の悪口やうわさです。エペソ書4章29節でパウロは次のように言っています。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」私たちは、神様から与えていただいた口をどのように使っているでしょうか。つまらないおしゃべりに用いているでしょうか。それとも、必要なときに人の得を養うのに役立つ言葉を話して、聞く人に神様の恵みを分け与えているでしょうか。そして第三に自分のことだけを考えて生きるのではなく、飢えている人を見るならば、その人のために食べるものを与え、悩み苦しむ人を見れば、その人が満足するように働くことです。これを実行してみることです。自分のことばかり考えて生きているときには絶対に味わえない不思議な喜びや平安を感じるはずです。このような生き方をしている人は、3節に出てくるユダヤ人たちのように、神様に対する不満や不平を抱くことがありません。それは、11節に約束されているように、神様が私たちのために働いてくださるからです。「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」創世記に登場するヨセフは、兄たちのねたみによって外国へ奴隷として売り飛ばされ、その後は、濡れ衣を着せられて監獄に投げ込まれます。人間的には不幸の連続の人生です。しかし、不思議なことに、ヨセフが行うことがすべて、意外なほどに、うまく行きました。最終的には、召使の身分からエジプトの総理大臣にまで出世します。創世記は、彼がなぜこのように、すべての点で成功したのか、その理由として、いつも神ご自身がヨセフとともにいたと記しています。それと同じように、神様が願うような断食、つまり、神様が願うような生き方をする人には、絶えず神様の導きがあり、焼け付くような土地でも、満ち足りることができ、さらに、じぶんが満たされるだけでなく、周りの人に潤いや慰めを与えるオアシスのような人になると書かれています。つまり、神様の願うような生き方をする人は、その人自身が満ち足りるだけでなく、乾ききった世界の中で、人々に潤いを与えるような人へと変えられるのです。
礼拝説教 2009年3月22日 「わたしはここにいる」(イザヤ58章)
イザヤ書58章は、神様のイザヤへの命令から始まっています。神様はイザヤに「せいいっぱい大声で叫べ」と言われました。何のためでしょうか。それは神の民であるユダヤ人たちに、彼らがそむきの罪を犯していることを次げ知らせるためでした。神様が角笛を吹くように大きな声をあげるようにイザヤに命じておられるところを見ると、当時のユダヤ人罪は非常に大きかったようです。ところで彼らの罪とは何だったのでしょうか。
(1)神様が喜ぶ断食とは
ユダヤ人たちは、自分が神に対して罪を犯しているなどとは夢にも思っていませんでした。2節を見ると、彼らが非常に熱心に宗教生活を送っていたことが分かります。「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」ユダヤ人たちは、毎日、神殿へ行き、聖書の教えを聞き、聖書の律法を守り、熱心に神を求めているように見えました。しかし、実際には、彼らの礼拝は表面的なものに過ぎず、彼らの心は神から遠く離れていたのです。神様は、私たちの外面を見られるのではなく、私たちの心を見ておられます。神様は、心のこもっていない礼拝や祈りをささげているユダヤ人たちに対して、彼らが願っているような働きをされませんでした。それで、彼らは神様に対して不平と不満を抱きました。3節に記された彼らの言葉がその様子を教えています。「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」ユダヤ人たちは、自発的に断食をしていました。断食は、自分の信仰がより深くなることを求めて行うものですが、彼らは、自分が断食しているということを神様に認めてもらいたかったようです。断食をすることによって、神様からほめられたい、神様から何か特別な祝福をもらいたいという気持ちがあったのです。しかし、神様は、そのような動機で行われた断食を祝福されませんでした。このことは、今日の私たちにもあてはまることと思います。私たちが、どんなに熱心に聖書を学んだとしても、どんなに熱心に祈りをささげたとしても、どんなに熱心に礼拝、伝道、奉仕を行っていても、もし、それが純粋に神様を感謝する心から行ったものでなければ、神様の祝福はないでしょう。そのような祈りは聞かれないでしょう。そうすると、私たちは、心の中で神への不満を抱き、神様が本当に自分を愛しておられるのだろうかと疑いを持つようになります。中には、神様に対して怒りを抱く人もいます。
そのような彼らの疑問に対して、神様は4,5節で反論しておられます。ユダヤ人たちは、確かに、表面的には宗教に熱心でしたが、実際には、彼らの生活には争いやけんかが絶えず、他の人を不当に扱っていました。彼らは、恐らく、断食をするときには、粗末な服装をして、頭から灰をかぶって、いかにも、神様の前に悔い改めているように見せかけていましたが、神様は、それが本当の断食なのかと彼らに問いただしておられます。それは、彼らが、どんなに熱心に断食をしていても、彼らの生活の中に、悔い改めの結果である実がなかったからです。それで、神様は6節と7節で、神様が願っておられる断食とはどのようなものであるかを教えておられます。断食を行うことは、霊的にも肉体的に多くのよい働きをします。しかし、断食がもたらす様々な良いものは、断食を行っている人にだけ与えられます。神様が求めている断食は、一つには、私たちが霊的に成長して、神様の前にもっと謙遜になることです。しかし、それ以上に、神様が求めておられるのは、ただ、食事を取らないという断食以上に、私たちの周りにいる人々のために良いものを分け与えることだと、神様ご自身が語っておられます。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」このような働きを神様は喜ばれるのです。一つは、しいたげられた人々に自由を与えること、人を縛っているくびきを砕くことです。私たちの周りにも、神様を知らずに生きているために、自分の罪や欲望で自由のない生き方をしている人がいないでしょうか。また、飢えた人にパンを分け与えることです。私たちの周りには、あまりにも貧しくて食べるものが無いという人はほとんどいないと思います。しかし、肉体的には満ち足りていても、神様を知らずに心の中に大きな飢え渇きを感じている人は非常に多いはずです。その人たちにいのちのパンであるイエス・キリストの愛を分かち与えることです。私たちの周りには住む家を持たない人はほとんどいないでしょう。しかし、神様を知らず、どこに進んでいったらよいか分からずにさまよっている人は非常に多いのです。クリスチャンである私たちは、神様から愛され、すべての罪を赦していただくような資格は何一つ持っていませんが、神様の一方的な愛によって、今のように喜びと希望を持って生きる人生を与えていただきました。私たちができることで、神様が一番お喜びになるのはどんなことでしょうか。それは、私たちの周囲の人々に自分が神様から受けた愛を分け与えることであり、人々を励まし、人々を愛し、人々に仕えることです。そして、それこそが神様が喜ぶ本当の断食なのです。
(2)本当の断食を行う人に与えられる神様の祝福
私たちが、神様が願っておられる断食を行う心を持って生きるならば、必ず神様の祝福が与えられます。たとえ、あなたの生活の中に傷となるものがあるとしても、神様はその傷を癒してくださいます。そして、預言者イザヤが言っているように、あなたの光が暁のように指し出でるときが来ます。神様はいつまでも、私たちを試練や苦しみの中にとどめておくことはありません。神様がご自身の栄光の光を私たちの祝福として与えてくださり、私たちを輝かせてくださるのです。また、8節に「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光があなたのしんがりとなられる」と書かれていますが、あなたの義とは、私たちの救い主イエス・キリストを指しています。第一コリント1章30節に「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」と書かれているとおりです。主イエスの誕生を預言したイザヤは、主イエスについて9章6節で次のように語っています。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」私たちの主は、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられる方です。主権は主イエスの肩にある。私たちは、生活の中でいろいろな重荷を肩に負って苦しんでいますが、その重荷を一切の権威を持っておられる主イエスがともに担ってくださいます。主は不思議な助言者です。英語ではワンダフルカウンセラー、私たちにとって素晴らしい相談相手になってくださる方です。すべてのことを知っておられる主が私たちの個人的な相談相手になってくださるとは、何と素晴らしいことでしょうか。また、主イエスは「力ある神」です。私たちは、十字架にかかるために一時的に低くなってくださった主イエスの姿を見ていますが、主イエスの本当のお姿は神と等しいお方です。また、びっくりするのですが、主イエスは「永遠の父」でもあられます。主イエスは、「私と父はひとつです」と言われました。三位一体の神ですから、御子イエスは私たちにとって父なる神でもあるのです。しかも永遠に私たちの父であられます。この世の父親はいつまでも生きているわけではありません。いつか必ず私たちの前からいなくなります。しかし、主イエスは、永遠に私たちの父親となってくださり、私たちから離れることもなく、私たちを見捨てることもありません。最後に、主イエスは「平和の君」です。十字架の死によって、私たちに神との平和を与えてくださった方であり、また、この地に平和を与えてくださる方です。この平和の君なる主イエスを自分の救い主としていつもともにいるならば、私たちの心にはいつもピースと喜びが満ちあふれます。
このような素晴らしい主イエスが、8節の言葉によると、私たちの、前を進むと同時に、私たちのしんがりともなってくださるのです。私たちが人生と言う旅路を歩いていくときに、いろいろな危険や災いが襲ってくるかも知れません。しかし、何が起ころうとも、主イエスご自身が私たちの前を進んでくださるだけでなく、私たちの後ろをも守っていてくださるのです。さらに、9節には次のように書かれています。「あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。」 3節では、当時のユダヤ人が「私たちは断食したのに、あなたがご覧にならなかったのですか」と不満を述べています。それは、彼らが断食したり祈りをしたりしても、神様の応答がなかったからです。しかし、9節は違います。私たちが、もし神様が願うような生き方をすれば、私たちが神様を呼ぶとすぐに神様の返事が聞こえるのです。子供は一人で不安になるときに、母親を探します。「お母さん」と叫びます。すると母親は「なーに、ここにいるのよ。」と答えます。子供の不安は、その一言ですっかり消え去ります。私たちも、この世で生きるときに、不安や恐れを感じるときがあります。どうしたらよいか分からず困り果てることもあります。しかし、9節は、私たちが神様を呼ぶとき、神様がすぐに「わたしはここにいる」と答えてくださると約束しています。これほど、私たちにとって安心なことはないのではないでしょうか。ただ、そのためには条件が書かれています。「あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら」これも、神様が求めておられる本当の断食でしょう。第一にくびきを除くことです。くびきとは、人を縛り付けるものです。私たちが他の人を縛り付けていることはないでしょうか。人を苦しめていることはないでしょうか。それらは取り除かなければなりません。第二に、うしろ指を指すことやつまらないおしゃべりを取り除くことです。うしろ指をさすとは、他の人を批判することです。また、つまらないおしゃべりとありますが、人間がゴシップをするとき、つまらないおしゃべりをするとき、たいてい決まって、その内容は他の人の悪口やうわさです。エペソ書4章29節でパウロは次のように言っています。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」私たちは、神様から与えていただいた口をどのように使っているでしょうか。つまらないおしゃべりに用いているでしょうか。それとも、必要なときに人の得を養うのに役立つ言葉を話して、聞く人に神様の恵みを分け与えているでしょうか。そして第三に自分のことだけを考えて生きるのではなく、飢えている人を見るならば、その人のために食べるものを与え、悩み苦しむ人を見れば、その人が満足するように働くことです。これを実行してみることです。自分のことばかり考えて生きているときには絶対に味わえない不思議な喜びや平安を感じるはずです。このような生き方をしている人は、3節に出てくるユダヤ人たちのように、神様に対する不満や不平を抱くことがありません。それは、11節に約束されているように、神様が私たちのために働いてくださるからです。「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」創世記に登場するヨセフは、兄たちのねたみによって外国へ奴隷として売り飛ばされ、その後は、濡れ衣を着せられて監獄に投げ込まれます。人間的には不幸の連続の人生です。しかし、不思議なことに、ヨセフが行うことがすべて、意外なほどに、うまく行きました。最終的には、召使の身分からエジプトの総理大臣にまで出世します。創世記は、彼がなぜこのように、すべての点で成功したのか、その理由として、いつも神ご自身がヨセフとともにいたと記しています。それと同じように、神様が願うような断食、つまり、神様が願うような生き方をする人には、絶えず神様の導きがあり、焼け付くような土地でも、満ち足りることができ、さらに、じぶんが満たされるだけでなく、周りの人に潤いや慰めを与えるオアシスのような人になると書かれています。つまり、神様の願うような生き方をする人は、その人自身が満ち足りるだけでなく、乾ききった世界の中で、人々に潤いを与えるような人へと変えられるのです。

