礼拝説教 2009年5月17日 教会の使命 イザヤ61章

2009.05.24

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 先週の母の日の礼拝では、岡村又男先生が、ヨハネの福音書3章16節の言葉を中心に、「母の愛から神の愛」というテーマでメッセージを語ってくださいました。ヨハネの福音書3章16節は聖書の中で、一つの節で福音の内容をすべて含んでいる、聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。先週の第三礼拝が終わった後、S君が私の所に来て突然「小西先生、僕は今日福音を見つけました」と言ったので、私は思わず「どこで見つけたの」と聞きました。すると彼は「原宿で」というので、どうして原宿に福音があるのか不思議だったので、そのわけを尋ねました。先日、原宿にアメリカのユニクロのようなお店で「フォーエヴァー21」というお店がオープンしました。ファッションセンスに長けているS君は、すぐにその店に行き、長い列を並んで買い物をしました。するとその店のビニールのショッピングバッグの底に、さりげなく英語でJohn3:16、つまり「ヨハネの福音書3章16節」という言葉が書かれていたのです。彼がインターネットで調べたところ、その会社の社長がクリスチャンだということでした。私は、この話を聞いて嬉しくなりました。このような形でビジネスのトップの人が信仰をはっきりと表明していることはすごいことだと思ったからです。 今日の箇所はイザヤ書61章ですが、61章は救い主イエスがどのような働きをするためにこの地上に来られるのか、救い主イエスの使命が何であるのかということが記されている箇所です。キリストの使命は、キリストが復活して天に帰られた後、今日に至るまで教会にゆだねられています。ですから、今日の箇所は私たちの教会にゆだねられた使命だと言えると思います。その使命は、一言でいえばキリストの福音をつたえることです。ヨハネ3章16節を知らせることです。福音という言葉は中国語からきている言葉で、「幸福な知らせ、良いニュース」という意味です。イエスキリストを信じる信仰には素晴らしい約束がいっぱいあります。だから良い知らせなのです。イザヤは、キリストが来られる何百年も前に、素晴らしい知らせの意味と、それを伝える使命について語っています。


(1)キリストの使命・教会の使命

 1節から3節には、救い主がどのような働きをするために私たちの世界に来られるのか、救い主キリストの使命について書かれています。この3節は、一つの長い文章ですが、その最初の部分に全体的な結論が書かれていて、そのあとに細かな点が述べられています。結論の部分は「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそがれた。それは、貧しい者に良い知らせを伝えるためである。」イスラエルの社会の中で最も尊敬されていた人は王様と祭司と預言者でした。そして彼らは皆、自分に委ねられた特別な働きをするときに、油を注がれました。それが任命のしるしでした。救い主と訳されるへブル語はメシヤですが、これは油を注がれた者という意味です。それがギリシャ語に翻訳されるとキリストになります。救い主イエス・キリストは私たちために王さまとなり、祭司となり、また預言者となるために父なる神様から聖霊という油を注がれました。そしてその働きの目的は何かというと、「貧しい者に良い知らせ、つまり、福音をつたえるためでした。」イエスさまがマタイの福音書の5章から7章にわたって山の上で説教を語っておられる記事が書かれていますが、その最初の部分でイエスは8つの幸福について語られましたが、第一の幸福が「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」でした。神様が最も心にかけておられる人、最も近づきたい人、最も助けたい人は、貧しい人、それも心の貧しい人です。ユダヤ人の考えの中では、「貧しさ」というのは、ただ経済的に困っているという意味に加えて、この世での権力や名誉がないこと、さらには、そのような力がないために他の人から踏みつけられること、そして、最後には、この世から見放されて、すべての希望を神にかける人という意味をも持つようになりました。旧約聖書の詩篇の中にも、「貧しい者」という表現が繰り返しでてきますが、それはひたすら神により頼む無力な人を意味していました。たとえば、10篇17節には「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて」とあり、また、149篇5節には「主はご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる」と書かれています。心の貧しい人、つまり、自分が無力であることを知ってひたすら神により頼む人が、一番天国に近いのです。天の御国はそのような人たちのためにあるからです。救い主イエスはそのような人のために良い知らせ、つまり福音を伝えるためにこの世に来られました。なぜ、良い知らせであるかというと、その知らせが人々を救うからです。

 イザヤ書1章から3節には、具体的に、救い主が私たちを救うためにどのようなことをされるのか、いろいろな働きが記されています。1)心の傷ついた者をいやすため、2)捕われ人には解放をあたえるため、3)囚人には釈放を告げるため、4)主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げるため、5)すべての悲しむ者を慰めるため、6)シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるため、と6つの働きが記されています。このような働きの背後にあるのは2節に書かれている「主の恵みの年」です。主の恵みの年に関しては、レビ記25章7節以下に記されています。ユダヤ人たちは7年ごとにサバチカルという休息の時を持ちました。それは6年間作物を栽培したら、7年目は土地を休ませるために何も植えません。そして、7回休息の年を過ごした後、50年目は「主の恵みの年」と呼ばれました。その年には、すべての借金は帳消しにされ、すべての土地は、元の所有者に返却され、奴隷は解放され、だれもが50年目から新しい生活をスタートできることになっていました。この主の恵みの年の状況は、預言者イザヤの時代には、バビロンに強制的に連れて行かれていたユダヤ人たちが解放されて、祖国に戻ったときにある意味において成就しました。しかし、この主の恵みの年は主イエスがこの世に来られて、十字架と復活によって、私たちに救いの道が供えられたときに、完全に成就したのです。イザヤの時代から2500年以上が過ぎていますが、文明がどんなに進歩しても人間の内面はほとんど変わっていません。自己中心の心、罪の心に満ちた人間の世界では、生きていくことは決して簡単なことではありません。ここに記されているように、私たちは、心傷ついた者であり、いろいろなものに心が奪われたり、欲望や悪習慣に束縛されていたり、こころの中にたくさんの悲しみを抱えて生きているのではないでしょうか。そのような人々にいやしを与え、解放を与え、慰めや喜びを与えるために、主イエスは私たちの世界に来てくださったのです。


(2)栄光を表す主が植えられた木

 3節で、主イエスを信じる人々は「義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう」と書かれています。クリスチャンは義の樫の木、すなわち神の基準の正しさを持つ者と見なされています。しかし、それはクリスチャンが自分の力で義の樫の木になったのではありません。なぜ義の樫の木と呼ばれるかというと、それは主が植えられた木であるからです。私たちは、主イエスを信じるときに、洗礼を受けますが、洗礼は信仰によってクリスチャンが古い人から新しい人に帰られたことを象徴的に表しています。洗礼では、私たちは、一度水の下に入りますが、それは私たちの古い人が十字架で私たちの身代わりとなって命を捨てられたイエスとひとつになってともに葬られたことを意味します。そして、洗礼では、そのあと水の中から出てきますが、それは主イエスが復活されたように、私たちも新しい人として出発することを意味します。私たちは義の樫の木になったのですが、最初は種にすぎません。新しい人、義の樫の木の種が土の中にまかれました。一度種は土の中で死にます。からが破れます。しかし、そこから新しい命が芽生えてきます。種には大きな木になるため、成長するために必要なものは全部入っています。そこから成長していくのです。しかし、その成長も、させてくださるのは神です。パウロもコリント教会に書き送った手紙の中で、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」と言っています。成長するには、光や空気や水が必要です。それらを神様が備えてくださっています。私たちが成長するために、私たちがするべきことは第一に祈りです。祈りは霊的な空気と言われます。祈りとは、神様とお話することです。神様と交わることを通して私たちは成長します。そして、第二にみ言葉を聞き、み言葉に従って生きることです。み言葉は私たちにとって光のようなものです。そして、樫の木が立派な木になるのには時間がかかります。木の成長がゆっくりしたものであるように、私たちも焦ることはありません。着実に一歩ずつ神の近付くものでありたいと思います。


(3)クリスチャンの喜び

 61章では、1節から9節までは神様が語っておられますが、10節と11節では預言者イザヤが神を信じる民を代表して、クリスチャンの喜びを語り神に感謝と賛美を捧げています。旧約聖書のネヘミヤ記に「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という言葉がありますが、イザヤは何を喜び、神に感謝をささげているでしょうか。第一に、神様は私たちに救いの衣を着せてくださいました。アダムとエバが罪を犯したときに自分のみじめな姿を隠すためにイチジクの葉で覆いました。しかし、イチジクの葉は人の罪を覆うことはできません。それで、その時に、神様は羊を殺して二人に羊の皮の衣を着せてくださいました。これは主イエスの十字架を表しています。私たちは自分で自分の罪を覆うことはできませんが、主イエスの十字架が私たちの罪を完全に覆ってくれるのです。第二に、神様は私たちに正義の外套をまとわせてくださいました。神様は私たちに救いの衣を着せてくださいますが、さらにその上に外套を着せてくださいます。「外套」と訳されている言葉は、結婚式で花婿が着る礼服を意味します。美しい礼服とは、神様の姿に似せられていく聖い生活を表しています。第三に、神様は、私たちに、花婿のように栄冠をかぶらせくださいます。これは、もとともはユダヤ教の祭司がその頭に帽子をかぶっているようにしてくださるという意味を表す表現です。ユダヤ教の祭司は白い帽子をかぶっていました。そしてその帽子の正面に純金のふだがついていました。そしてその札には「主への聖なるもの」という言葉が彫られていました。神様は私たちを神の祭司のようにしてくださり、その栄光の冠を私たちに与えてくださいます。最後に、神様は私たちを花嫁のように宝玉で飾ってくださいます。神様が私たちを飾ってくださる宝石はダイヤモンドやルビーではありません。第一ペテロ3章3,4節には次のように書かれています。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」


 11節には「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」と書かれています。私たちの社会は、罪があり、悲しみや憎しみや痛みで満ちています。神様が約束された素晴らしいものがまったく隠れているような時代です。しかし、私たちの教会の周りの木々も2か月前には、まったく緑のない枯れ木にすぎませんでした。しかし、春になって時が満ちると、次々に新しい芽が現れ、あっという間に緑一色になりました。そのように、今は、枯れ木しかないような私たちの周りも、必ず、神の働きが行われ、そして、やがては神の栄光が現れる時がくることを信じて、私たちは義の樫の木、栄光を表す主の植木として喜びに満ちて生活しましょう。私たちは、そのように生きるために、信仰によって救われたのですから。私が大阪から北本に引っ越して間もなくのころ、私たちの教会に特別講師として矢部とよこという名前の女性牧師の先生が来られました。当時は川口に住んでおられましたが、この先生は脊椎カリエスか何かの病気でいつもうつぶせの状態でいなければなりませんでした。教会に来ていただくときも南福音の救急車を借りて、ストレッチャーに乗せられて来られて、お話をされるときもストレッチャーの上でうつぶせになったままでお話をされました。私は、その時のメッセージの内容はまったく覚えていませんが、ただ、矢部先生の笑顔が本当に素敵でした。きっと毎日の生活ではいろいろ大変で苦しいこともあったと思いますが、本当に笑顔があふれていました。それは、矢部先生の力ではなく、まったく自分が無力であったことを知った先生がひたすら神様に頼って生きておられたからだと思います。その姿が多くの人に癒しや希望を与え、イエスキリストに導きました。私たちも、教会の使命、あるいは一人のクリスチャンとしての使命を果たすために、特別な能力や知識や経験は必要ではありません。矢部先生のように心の貧しい者としてひたすら神により頼んで生きる時、神様が私たちを神様の輝きで飾ってくださるのです。