礼拝説教 2009年5月3日 「神の栄光」イザヤ書60章

2009.05.24

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(イントロ)

 今日のテーマは神様の栄光です。今、私たちが住んでいる世界、生きている時代に神様の栄光が輝いているとは思えません。この世界は闇に包まれているようにさえ思えます。実は、イザヤ書60章に記されている言葉は、これから後に起こることの預言の言葉です。私たちは、今自分の眼の周りにある状況を見て、将来のことまであれこれ考えることが多いですが、神様が働かれる時には、今は想像もできないようなことが起きるのです。クリスチャンとして生きている私たちは、今の状況で将来を考えてはなりません。必ず、聖書の御言葉が実現する時が来るからです。今日のテーマの神の栄光も、将来、主イエスキリストがもう一度この世に来られる時の栄光です。旧約聖書では、神様の栄光は神の大きな働きの中に現れ、また、神がイスラエルの民の真ん中におられるときに栄光となって現れました。イスラエルの民がモーセの指示に従って、テント式の神殿、これは「会見の幕屋」と呼ばれていましたが、その幕屋が完成したときに、神の栄光がその幕屋を満たしました。イスラエルの民は、神の栄光が幕屋を覆うのを見ていましたので、彼らは、エジプトを脱出して神様が示す約束の国に向かって、非常に厳しい自然の中を旅していましたが、彼らは自分たちには全能の神がともにおられることをはっきりと知っていました。後に、ダビデ王、ソロモン王の時代になって、イスラエルの国の都がエルサレムに決まり、その後、ソロモン王がエルサレムに荘厳な神殿を建設します。それまでは移動式の会見の幕屋に神様がおられることが現れていましたが、ソロモン王が神殿の建設を完成して、神殿を神様に捧げるための儀式を行ったときに、神の栄光が神殿を満たしました。イスラエルの民にとって、西にはエジプト、東にはメソポタミアの強力な国々にはさまれた土地に定着したために、いつも人々は戦争の脅威にさらされていました。ですから、彼らにとって、神殿に神の栄光が満ちる様子を見た時に、どれほど、喜びと平安を感じたことでしょうか。このように、神の栄光とは、神様が私たちとともにおられて、私たちのために素晴らしい働きをしてくださることを意味しました。

 しかし、私たち人間は、人間としての栄光を求めがちです。私たちが栄光という言葉から考えることは、豊かな富を持つことや、社会的地位や影響力を持つことなどを考えます。しかし、聖書は、人間が求める栄光がどれほどもろいもの、消えやすいものであるかを繰り返し語っています。詩篇49篇16〜20節を読みましょう。
 「恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。」私たちは、この世での栄光を求めますが、聖書はこの世の栄光が頼りにならないものであることを繰り返し教えています。また、富を持つことは罪ではありませんが、私たちは、たいてい、財産が増えると罪を犯しやすくなるのです。それは、人は持てば持つほど、もっとたくさん持ちたくなるからです。韓国の前大統領が検察に出頭していましたが、近いうちに逮捕されるそうです。理由は不正な資金を受け取っていたからです。それもかなりの金額です。しかし、いくらこの世で裕福な生活をしていたとしても、死ぬ時は、豊かな人間も貧しい人間もまったく同じ状況で死を迎えます。死ぬ時は貧しい人も金持ちも皆裸です。私たちは、裸でこの世に生れ、そして裸でこの世を去って行きます。何も持って行くことはできません。その時に、人は気がつくのです。この世に宝を積むよりも、天に宝を積むべきであったことを。しかし、その時になって後悔しても、もはや手遅れです。

 聖書は、そのような人間的な栄光よりも、神に従って生きるほうが遙かに価値ある生き方であるかを教えています。詩篇62篇5-8節を読みましょう。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」この詩篇を書いたのは、イスラエルのダビデ王です。彼によって、イスラエルの国の領土は歴史上最大の大きさに広がりました。しかし、そのような人間としての栄光を極めたダビデも人生の晩年は心を痛めることが続きました。彼がこの詩篇62篇を書いたのは、彼が、自分の息子アブサロムから王座を奪われ、命を狙われたために、逃亡しなければならなかった、そんな状況の中で書かれた詩篇と言われています。彼の心は、激しく揺れていました。自分自身の息子から自分の地位を狙われ、殺されそうになったとは、どれほど辛く悲しい経験だったでしょうか。そんな時に、彼にとって支えになったのは何でしょうか。それは、ただ神を信頼して、神の御心に従って生きることでした。人間的には、ダビデは息子アブサロムよりも不利な状況にいましたが、しかし、彼は、神の力が人間の力にはるかに上回っていることを心から信じました。その確信が彼を勝利へと導きました。イザヤ書60章は、人間の栄光よりもはるかに勝っている神の栄光が、この世の終わりに私たちにもはっきりわかるような姿で、現れることを預言しています。この神の栄光は私たちに何をもたらすのでしょうか。」
 

(1)エルサレムの将来の栄光

 60章には、救い主が栄光とともにこの世に来られたときの様子が描かれています。これは、世の終わりに主イエスがこの世を支配するために来られることを予言した言葉です。主イエスの再臨の預言です。主イエスは今から2000年前に、私たちを罪の裁きから解放するため、つまり、私たちの身代わりになって十字架にかかるためにこの世に来られました。その時の様子をヨハネは次のように述べています。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」闇の中に輝く光として主イエスは来られたのです。私たちの世界は、最初の人間であるアダムとエバが罪を犯して以来、闇に覆われています。闇とは、神に敵対するすべてのものを含むものを表しています。闇は何とかして光を消そうとします。しかし、イエスの光にたいして闇は勝つことはできませんでした。闇とは、神の前に真実を隠そうとします。人は罪を犯すときにそれを隠そうとします。だから罪はすべてを明らかにする光を憎みます。また、闇の中にいると、私たちはどこへ向かって進んでいるのか分かりません。主イエスは言われました。「わたしは世の光です。わたしに従う者は闇の中を歩くことはありません。」しかし、そのような闇に覆われた私たちの世界に光として主イエスは来られました。それは、闇を滅ぼす光ですから、隠れたものを明らかにする光であり、また、進むべき道を示す導きの光としてこの世に来られましたが、人々は光である主イエスを受け入れようとしませんでした。しかし、主イエスを信じた者には、神の子供として生きる特権を与えてくださいました。

 聖書は、その主イエスが再びこの世に来られることを繰り返し預言しています。私たちのいのちに終わりがあるように、私たちの世界にも始まりがあったように、終わる時が来ます。その時に、主イエスは、再びこの世に来られます。1回目は、罪人を救い出すために、十字架の働きを完了させるために来られました。しかし、2回目は、この世を永遠に支配するために、この世で正義のさばきを行うために来られます。2回目は光と栄光に満ちた姿でこの世に来られます。イエス・キリストを信じるクリスチャンたちは、闇の世界の中で苦しみや迫害を受けてきました。しかし、それが終わる時、この世の罪と悪がすべて裁かれるときが来るのです。この世の栄光、この世の成功、この世の名誉は、もし神を無視しているものであれば、それらはすべて神によって滅ぼされてしまいます。しかし、主イエスを信じるもののうちには、主ご自身が光を照らしてくださいます。私たちに、主の光を照らしだす者として立ち上がれと命令しておられます。私たちの使命は、どんな時も、イエスの光を照らしだす者として立ち続けることなのです。


(2)神が与える永遠の祝福

 60章の終りの部分に、神を信じる者に約束されている永遠の祝福について述べられています。19節には次のように書かれています。「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。」太陽が明るく輝いていても、時間が来ると沈んでしまいます。月はいつも満月ではいられません。まったく光を放たなくなる時があります。太陽も月も神様によって創られたものです。創られたものが与える栄光や祝福は、決していつまでも続くことがありません。いつか、消えてしまったり、欠けてしまったりするのです。しかし、クリスチャンにとっては、太陽も月も必要ではなくなる時が来るのです。それは、私たちの救い主、また創造主である神様ご自身が私たちのための光となってくださる時が来ます。私たちは、イザヤが幻を見ていたように、神のご計画、特に、将来に関する計画、この世の終わりの時の計画をしっかりと見つめながら、毎日の生活をしなければなりません。周りの人々を見て生きるのではなく、神様ご自身、また神様が約束してくださる将来をしっかり見据えて生きるのです。ダビデ王は詩篇の16篇8節で次のように言いました。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」ダビデは当時世界を恐れさせたイスラエル帝国の王でした。しかし、彼は、自分の力、自分の功績、自分の富を見ていたのではありません。「私の前に主を置く」とは、いつも主イエスだけを見つめ、イエスの言葉だけに耳を傾けて生きていたことを示していると思います。

 20節にはこう書かれています。「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」地上での生活においては、悲しいことや苦しいことを経験して、闇の中に沈んでいるように感じることもあったでしょう。しかし、聖書の約束は、やがて、太陽が沈むこともなく月が欠けることもない、悲しみも涙も終わる時が来るのです。ダビデのように、いつも主を前におくならば、この世を生きている時も、将来の栄光の時をしっかりと見つめているので、心の中に喜びがあふれるのです。
 21節にはこう書かれています。「あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現わす、わたしの植えた枝。わたしの手で造ったもの。」主が再び来られる時、それは、神を信じない人にとっては裁きの時ですが、主イエスを信じるクリスチャンにとっては、私たちの人生の完成の時と言えると思います。その時、クリスチャンは主が復活されたように、栄光の体を与えられて新しい生活を始めます。私たちのうちにあった罪は完全に滅ぼされました。私たちは、みな、神の目に正しい者となり、そして、その地を所有するとは、天国において、自分の場所をしっかりと確保するということを意味します。そして、神様は私のような小さな一人の人間を見て、「あなたはわたしの植えた枝だ」と言ってくださるのです。よく、天皇陛下はいろいろな記念行事の中で植樹をします。あちらこちらに天皇陛下が植樹されたという木が大切に守られています。天皇陛下が植えられた木が腐ったり枯れたりしたら大変ですから、だれもが細心の注意を払ってその木を守り育てています。この世の王である天皇が植えた木でも、そのように大切に扱われるとすれば、天と地とその中にあるすべてのものを創り、今も支配しておられる神様が、私たちのことを「自分の手で植えた枝だ」と言ってくださるとすれば、それは、なんという素晴らしい特権ではないでしょうか。さらに、神様は、私たちのことを「わたしの手で造ったもの」として見ておられます。誰にとっても、自分が造ったものには特別の愛着があります。買ってきた物なら、使えなくなったりあきたりすると私たちは捨てるでしょう。しかし、自分が苦労して作ったものは、簡単には捨てられません。大切なものだからです。神様は、私のことを「わたしの手で造ったもの」だと言われます。そして、神様は、彼らはわたしの栄光を表す」と言われました。つまり、私たちにとって一番大きな使命は、神様の栄光を表すということなのです。私たちの特権はあまりも大きなものですが、同時に、私たちの使命も非常に大きなものです。

最後に22節には次のように書かれています。「最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。」神様が働いてくださる時、私がどんなに弱い者であっても、私たちは氏族のようになると神様は約束されました。「氏族」と訳されている言葉は別やくでは「千」となっています。つまり、どんなに力のない者でも、神様が働けば千倍もの大きな力を持つことができるという意味です。また、ひとりの人間に与えられた祝福がひとつの氏族のように、あるいはひとつの国のように大きく広がるのだと神様が約束しておられます。これらの言葉は決して夢の言葉ではありません。神様の約束です。神様ご自身が「時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする」と言われました。今は、暗闇に覆われているような状況であっても、神様が定められた時が来ると、その時には、神様はすみやかに約束されたことを実行されるのです。

私たちは、このような栄光が約束されています。そして、私たちに与えられている使命は「神の栄光を現すものとして生きる」ということです。60章の最初の言葉は「起きよ。光を放て。」という神様のチャレンジです。主イエスは言われました。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」自分を見てもらうために生きるのではなく、私の行うことが、私のことばが神様の栄光を表すもののとして生きることです。私たちは太陽にはなれません。自分のうちに光がありませんから。しかし、私たちは月にはなることができます。自分のうちに光がなくても、太陽である御方の方を向けば、太陽の光を受けて輝けるのです。ダビデのように、どんなときも主を前において、主の光をいっぱいに受け取って、闇の中で神様の栄光の光を輝かせる者となりましょう。sれこそが、私たちに与えられている使命なのですから。