礼拝説教 2009年4月19日「復活の主に心燃やされて」(ルカ24章13〜節)

2009.04.21

説教一覧へ戻る


 主イエスが十字架にかけられたのはユダヤ教の最大のお祭り過越の祭りが行われていた金曜日の午前9時でした。その日の正午から空が真っ暗になり、午後3時まで続きました。お昼にもかかわらず闇が覆っている、そんな不気味な午後3時ごろ、主イエスは「完了した」と言われて、息を引き取られました。その叫びは、私たち人間がすべての罪を赦されて永遠のいのちを持つための救いの道を完成したという勝利の叫び声だったのですが、十字架のそばに立っていた人々は誰も、その叫び声の意味を理解しませんでした。主イエスに希望を持っていた人々も、主が十字架にかけられた死んだのを見ると、一人一人、その場所から立ち去って行きました。主の遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフも深い悲しみの中で、黙々とイエスの埋葬の準備をしました。誰もが悲しみと絶望の中にいたために、主が三日目によみがえるということを考える人は1人もいませんでした。三日目の朝、婦人たちがイエスの遺体が納められた墓に言ってみると、墓の入り口が開いており、イエスの遺体がありませんでした。彼女たちが驚き戸惑っていると、彼女たちの前に御使いが現れ、彼らに言いました。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24:5,6)彼女たちは、非常に驚いて弟子たちのところへ言って、自分たちがイエスの墓で見聞きしたことを報告しましたが、弟子たちは、彼女たちの言葉を信じませんでした。ペテロは墓を見に行ってイエスの遺体がないことを確認しましたが、それでも、彼の心はイエスの復活を信じるところまでは行かず、ただ驚いたまま、帰って行きました。


 その日、すなわち主が復活された日曜日の午後、イエスに従っていたほとんどの人は、まだ絶望の中にいました。イエスの墓が空っぽであったことや、墓に行った婦人たちに御使いが現れてイエスが復活したと告げたこと、そのようなニュースは彼らのところにも届いていたでしょうが、それでも彼らの心は悲しみと不安と絶望でいっぱいでした。そんなころ、二人の人がエルサレムから、近くのエマオという村に向かって歩いていました。1人の名前はクレオパだと書かれています(18節)。もう1人が誰なのかはっきり分かりません。ヨハネの福音書19章25節に、十字架のそばに立っていた女性の名前が記されています。「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。」このクロパはクレオパと同じ名前だと考えられます。日本語でも英語の名前をカタカナで書くときに、たとえばマリアと書く人もいれば、マリヤと書く人もいます。それと同じでユダヤ人の名前を新約聖書の言葉、ギリシャ語で書こうとするとクロパになったりクレオパになったりするのです。ですから、恐らく、この二人はクレオパとマリヤであったと思います。二人はすっかり落ち込んで、エマオにある家に戻って行くところでした。二人は21節で「私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」と言っていますが、イスラエルを贖うとはどういう意味でしょうか。イスラエルを贖うとは、イスラエルの国を敵から救い出すという意味です。大部分のユダヤ人は、旧約聖書が預言している救い主メシヤは、軍事力や政治の力を用いてイスラエルの国に独立と栄光をもたらすと考えていました。彼らは、神様がそれよりももっと大切な救い、つまり、一人一人の人間が自分の罪に縛られた状態から救い出される、そのような救いを御心としておられたことが分からなかったので、旧約の言葉を聴いても、自分の考えにあった部分だけを聞いていたのです。人々は神から栄光あるものは受けたいと思いますが、苦しみは受けたいとは思いません。キリストに従っていた多くの人は、この二人も含めて、自分が願っていたことを主イエスが実現されなかったために大きな失望を抱いていました。

私たちも、信仰生活の中で、彼らと同じようなことを考えたり感じたりします。自分が願っていることがいくら祈っても実現しないと、神様の全能の力を疑ったり、神様の絶対的な愛を疑ったり、神様の約束を疑ったりして、失望するのではないでしょうか。失望すると、どんなメッセージを聞いても、信じることができません。エマオの村に向かっていた二人もそうでした。彼らも、その日の朝起こった出来事について知らせを聞いていました。21〜24節で、彼ら自身が告白しています。「その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」先週もお話したように、主イエスは、十字架にかかられる前に、繰り返して、弟子たちに、十字架と復活のことを話しておられました。マルコ9章31節では、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と語っておられます。三日という日数まではっきりと預言しておられました。クレオパとマリヤもイエスに付き従っていましたから、この言葉を聴いているはずです。それでも、三日目にイエスの墓が空っぽであったという知らせを聞いても、主イエスが復活したとは考えずに、ただ、不思議だなと驚いているだけなのです。

 主イエスが彼らに向かって「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」と言われる気持ちが良く分かります。何度言ってもその言葉を信じない、その心のかたくなさを主イエスは嘆いておられますが、これは二人だけの問題ではありません。私たちも、彼らと同じように、神様の御心が自分の考えと違っていると、受け入れることができず、どのような神の言葉も受け入れようとしない、そのようなことがあるのではないでしょうか。イエスのこの言葉は二人だけに言ったことばではなく、ユダヤ人全体に向かって、また、大きく言えばすべての人に向けて言われた言葉だと思います。主イエスは二人の不信仰を嘆かれましたが、決して二人を見捨てたわけではありません。主イエスは、彼らの心の中の混乱、不安、そのようなものを全部分かっておられました。ですから、復活された日曜日の午後、主イエスは特別に二人のために時間を用いられました。主イエスは、私たちの弱さをよく理解してくださり、その弱さを強くしようと働いてくださる方です。主イエスはエマオに向かっている二人にそっと近づかれました。二人は相当落ち込んでいたので、とぼとぼと歩いていたために、どんどん他の人は二人を追い抜いて行ったと思います。そのような二人に主イエスは近づいたのです。私たちが、たとえ不信仰のために、落ち込んでしまっても、主イエスは私たちを見離すのではなく、むしろ近づいて私たちに回復を与えてくださる方です。


 主イエスを見ても、二人はそれがイエスだとは分かりませんでした。彼らがイエスを気づかないように主イエスが何かを働かせていたのでしょう。主イエスは二人の不信仰を叱ってこう言われました。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」二人は旧約聖書の言葉を知っていたでしょう。しかし、彼らは旧約聖書の言葉の中で、救い主の栄光に関する言葉を読んで受け入れていたでしょうが、主イエスの苦しみについてはあえて読もうとしなかったか、あるいは読んでも受け入れていなかったと思います。主イエスの復活を信じるために、彼らには人々の証言がありました。イエスの墓に言った人々からイエスの墓が空であったことを聞いていました。また、御使いが「イエスは復活した」と宣言していました。これ以上に、どんな証拠が必要だというのでしょうか。不信仰な人は、どんなに証拠を重ねても信じようとしないのです。それで、主イエスは彼らの信仰の目を開くために、聖書の言葉を語られました。27節に「そこで、主イエスは、この二人に、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」と書かれています。このことから分かることは、旧約聖書のあらゆるところに救い主に関することが書かれているということです。旧約聖書は、主イエスがこの世に生まれる前に書かれたもので、律法の書や預言書、詩篇など様々な本が入っていますが、そのすべてにやがて定められた時にこの世にこられる救い主、メシヤが中心テーマです。


 ローマ書10章17節に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と書かれています。この二人は、神の言葉を聞いてそれを信じることが必要でした。もし、彼らがイエスの言葉を聞いて、その言葉どおりに信じていたら、二人は決して絶望することも落ち込むこともなかったのですが、彼らには神の言葉をそのままに信じる信仰がかけていたようです。それで、主イエスが二人が本当に心から神の言葉を聞くように、旧約聖書の中から救い主に関する箇所を語られたのです。恐らく主イエスはイザヤ書の53章の言葉について語られたでしょう。そこには驚くほど詳しい十字架の預言の言葉が記されているからです。また、詩篇の22篇の言葉も言われたでしょう。そこには主イエスが十字架の上で言われた言葉、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉がそのまま記されているからです。イエスが二人に伝えたのは、十字架の苦しみと死は、イエスが救い主であることを否定する事柄ではなく、イエスが救い主であるためにどうしても経験しなければならないものだということでした。主イエスが語る聖書の言葉、その言葉の意味を聞いているうちに、二人の信仰の目が次第に開かれて行きました。心の中で混乱していたこと、失望していたことなどが、次第に消えて行きました。エマオの村に着いたとき、二人は主イエスにぜひ、自分たちの家に来るようにと頼みました。妻のマリヤは大急ぎで食事の準備をして、3人で一緒に夕食を食べました。そのとき、主イエスが、最後の晩餐の時にも行ったように、パンを手にとって祝福の祈りをささげ、それからパンを裂いて二人に配りました。その様子を見たとき、二人の目が開かれて、自分たちの家に来られたのが復活の主イエスであることに気づきました。それは、彼らが聞き覚えのあるパンの祝福の祈りを聞いたためであるか、あるいは、パンを裂く主イエスの手に釘を打った傷跡が見えたからなのか、とにかく二人は一緒にずっと話をしてくれていたのが主イエスであることが分かりました。しかし、気がついたとたんに主イエスの姿が彼らの前から消えました。
  

 主イエスの姿は二人の前から消えました。しかし、主の姿は消えても、彼らの心にもはや失望はありませんでした。二人の心から救い主に関する疑いや失望が完全に消えて、イエスこと復活された救い主であるという確信が与えられたからです。ですから、主イエスの姿が見えなくなっても、二人は復活の主が自分たちと共におられること、すなわち主の臨在を感じていました。彼らの心は燃えていたのです。それで、彼らは、新しい力を得て、すぐさま立ち上がって、エルサレムに戻って行きました。エルサレムからエマオに来るときはあれほど落ち込んでいて、下り坂の道をとぼとぼ歩いていた二人でしたが、いまは、エルサレムに向かう上り坂も走るようにして上っていきました。良識のあるユダヤ人は夜暗くなってから道を歩くことはしないそうです。強盗が多くいたからです。しかし、二人は、何の恐れも感じることなく、ただ、復活のイエスに出会った知らせを弟子たちに伝えたい気持ちでエルサレムに向かいました。


 主が復活された日曜日、クレオパとマリヤの二人は、朝、失望のどん底にいました。しかし、そのような二人を、主イエスはずっと見守っておられました。彼らの心の中を知っておられ、彼らと共にいることによって彼らに新しい力を与えようとされました。主イエスは、私たちが今どこにいるか、どんな状況に置かれているか、どんな気持ちでいるのか、すべてご存じです。そして、そんな私たちのところにも近づいてくださいます。主が二人を励ました方法は、み言葉を利かせることでした。み言葉を通して彼らの信仰を目覚めさせようとされました。復活の主は今、天におられますが、み言葉をとおして私たちに語りかけてくださいます。私たちに神様の約束と力を思い出させてくださいます。そして、落ち込んだ心に、冷え切った心に燃える火をおこしてくださるのです。二人は午後に主イエスと出会い、主イエスからみ言葉を教えられて、復活の確信を得ました。そして、夕方、彼らは主イエスとともに食事をするというものすごく大きな喜びを経験しました。一日の終わりに、彼らは一番良い経験を持ちました。私たちにも、主は同じように働いてくださいます。この二人の一日は、私たちの人生を表しているように思います。朝から夜までの時間が限られているように、私たちの人生にも限りがあります。そして、さまざまなことを経験します。しかし、主イエスが私たちとともにおられる限り、私たちの人生は新しい喜び、新しい力、新しく心が燃やされる経験を持つことができます。私たちの人生は孤独な死をもって終わるのではなく、いつまでも主イエスとともにいて、いつも心燃やされて生きることができるのです。それは、すべて、主イエスが私たちの身代わりに十字架にかかってくだり、そして、その三日後に死から復活されたことによって可能になりました。