礼拝説教 2009年2月22日 私の所に来なさい イザヤ55:1-13
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先週は、ケズィック講師のエイメス先生をお迎えして礼拝を持ちました。エイメス先生が一番好きな日本語は「恵み」という言葉です。英語では「Grace」と言います。これはクリスチャンの信仰にとって非常に大切な言葉です。聖書の辞典では次のように説明されています。「恵みとは、キリストが私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださった後、神様が、罪人のために、自発的に、一方的に行ってくださること」。エペソ人への手紙の2章4−6節には次のように書かれています。「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。 神様はまず、私たちに憐れみと大きな愛を持ってくださいました。最初の人間アダムとエバはエデンの園で神様と本当に満ち足りたときを過ごしていましたが、二人が神様の命令を破って、自分がしたいと思うことをしてしまったとき、彼らは神様から姿を隠しました。しばらくして、神様は園を歩き回って彼らに呼びかけて、「あなたは、どこにいるのか」と言われました。この神様の「あなたはどこにいるのか」という言葉は、警察官が犯人を捜すときに言うような言葉ではなく、突然愛する子供がいなくなって、心配で胸を痛めている父親が必死になって子供をさがすときに言うような言葉なのです。父親が何とか子供が無事でいて、自分のところに戻ってくることを願うように、神様の言葉を無視して自分勝手な生き方をしている私たち一人一人を何とか助けたい、そして自分のところに戻ってきてほしい。一緒に満ち足りた生活をしたいと神様も願っておられます。その願いに、神様のあわれみと大きな愛があります。そして、恵みとは、父親や神様がその愛を表して行ってくださったことです。例えが悪いかも知れませんが、私が悪いサラ金業者に引っかかり多額の借金を背負い込んで、どうすることもできなくなったとしましょう。それを見た哀れな私の母が、自分の持っている金を全て注ぎ込んで、私の借金の肩代わりをしたとします。母には関係のない借金ですが、子供の哀れな姿を見て哀れみと愛を感じて実行したこの行為が神様の恵みの行為に似ていると思います。いまだに振り込め詐欺が続いていることがとても不思議に思いますが、親にとっては、子供が苦しんでいることをほうっておくことができないのは自然の感情なのではないでしょうか。罪に縛られ、罪のさばきを受けなければならない私たちを、何とか救い出したいと願われた神様は、イエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架にかけられました。私たちが受けるはずの罪の刑罰を、罪を全く知らないイエス様が身代わりとなってすべて受けてくださったのです。これが神様の恵みです。イザヤ書の55章には、その神様の恵みが豊かに描かれています。
55章の1節に「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」という神様の私たちへの呼びかけが記されています。聖書の言葉は神様の私たちへの語りかけです。これは単なる教えや理論ではなく、神様が私たち一人一人に何としても経験してほしいと思っておられることです。神様は聖書の最初から、最後まで、私たちに呼びかけておられます。さきほど語りましたように、最初の人間アダムとエバが神様から逃げて隠れたときから始まり、最後のヨハネの黙示録にも、今日の箇所と同じ神様の呼びかけの言葉が記されています。22章17節「御霊も花嫁も言う。『来てください』これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」55章1節は「ああ」という言葉で始まっていますが、これは神様が嘆いて言った言葉ではありません。英語では「Ho」と訳されていますが、この「Ho」は、「Heigh-Ho」の「Ho」で、「おーい」と呼びかけ、注意を引いている言葉です。「渇いている者はみな、出て来い」と神様が私たちに呼びかけておられます。神様は誰でも、渇いている者は水を求めて出てきなさいと招いておられます。金のない者も来いと神様は言われました。私たちが神様の前に何の価値がなくてもかまわないということです。神様に支払えるものが何もなくてもかまわないと神様が言われます。実は、誰も神様に支払いができる人はいないのです。神様が要求するだけの金額を支払える人は一人もいません。ですから神様は、かまわないからそのままで私のところへ来るように命じておられるのです。これが神様の恵みなのです。神様の恵みはどのようにすれば手に入れることができるのでしょうか。まず第一に、神様のところへ来なければなりません。第二に、金を払わないで買えと言われています。これはどういう意味でしょうか。私たちは神様に支払いをすることができません。神様に支払うものは、主イエスが自分から進んで私たちに代わって払ってくださいました。だから、金を払わないで買えというのは、私たちの代わりに支払いを済ませてくださった方に感謝して、それを受け取ることを意味します。私たちが何かを受け取るためには、私たちの手が空っぽでなければなりません。私たちが何かを握り締めていると、そのままでは受け取れないからです。金を払わずに買うということは、神様が与えてくださるものの価値を知って、それを感謝して受け取ることで、そのために、邪魔になるものを捨て去ることを意味しています。そして第三に、それを食べることです。つまり、神様の言葉を信じて信仰をもって受け取ることです。そのような人々に、神様は水を与えます。水は、私たちの命の源です。しかし、神様は水だけではなく、ぶどう酒と乳を与えると言われました。ぶどう酒は結婚式でも飲まれますが、私たちの喜びを与えるものです。乳は、栄養がたくさんあるので、弱っている人に力を与えるものです。このように神様は、求める者には、いのちを与え、喜びを与え、弱いところに力さえも与えてくださいます。
この世のものは決して、私たちにいつまでも続く満足を与えません。ダビデの子、ソロモンは伝道者の書の冒頭で次のように言いました。「空の空。すべては空。」ソロモンの時代にイスラエル王国は絶頂期を迎えていました。全世界から人々がソロモンに会いにやって来るほどでした。しかしソロモンは、どんなに人間的に成功しても、栄えても、その状態がいつまでも続くことがないことを知っていました。人間がどれほど大きな業績を残しても、それはいつかは消えていくものです。私たちはそのことを知っていなければなりません。そうでないと、私たちは、傲慢になったり自己満足に陥り、絶頂期が過ぎ去ったときにひどく失望することになります。究極的な言い方をすると、この世で蓄えた財産も、この世で残した業績もいつかは無意味なものになります。神様を追い求め、神様とともに生きることだけが、決して揺るぐことのない、消えることのない満足感を与えるのです。それなのに、どれほど多くの人が、そのようなむなしい物のために労苦しているでしょうか。神様は、それらの人には「私の言葉を聞きなさい」と命じています。私たちは、なかなか神様の言葉を聞こうとしません。むしろ、周りの人の声、この世の知恵に聞こうとすることが多いではないでしょうか。しかし、神様は3節で、「耳を傾けて、わたしのところへ出て来い」と言われました。そして、「そうすれば、あなたがたは生きる」と約束しておられます。神様の言葉に真剣に耳を傾けるときに、私たちの弱っている信仰に新しい力が与えられて、新しい意欲、神様に対する決意が与えられることを表しています。
しかも、そのように耳を傾けて神様に近づく者には、「わたしはあなたがたととこしての契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ」と言われました。これは、今から3千年前のイスラエル王ダビデと神様が結ばれた契約のことを指しています。当時、小さいながらも他の国々を支配するイスラエル帝国を築き上げたダビデ王に対して、彼の王国が永遠に続くこと、敵が攻めてくることがないこと、神様の恵みが取り去られることがないことなどが約束されました。ところが、イスラエルの民は、この神様との契約を忘れて、偶像の神に心を向けるようになり、神様に背を向けました。しかし、それにも関わらず、神様はダビデと結んだ契約を忘れることなく、また、イザヤの時代には、その契約を新しくすると言われました。神様がダビデ王に永遠に変わることのない愛を誓われたように、イザヤの時代の人々にも、今を生きる私たちにも、その約束を結ぶと言われます。私たちがこの契約の決まりをきちんと守らず、神様との約束を破ってしまったこと、また将来破ってしまうことも知っていながら、それでも神様は私たちとの契約を最後まで、守り通されるのです。これもまた神様の恵みです。
6節には、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」と書かれています。神様は私たちから離れようとは思われません。しかし、私たちは意識的に、あるいは無意識のうちに神から離れようとします。特に、私たちが神様の前で罪を犯すと、アダムとエバが神様の前から姿を隠したように、神から離れます。問題の何の解決にもならないのに、神様から離れようとします。また、場合によっては自分と神様の間に何かの壁を作ってしまう場合もあるでしょう。神様は、私たちのそのような心をよく知っておられます。だから今、私たちに向かって言われるのです。「お会いできる間に、近くにおられる間に、主を求めなさい」と。教会に長く通っておられる方がおられます。いつかは、神様を信じようと考えておられることでしょう。しかし、私たちは、神様からいつ遠く離れてしまうか分からないのです。この世の生き方にどっぷりとつかればつかるほど、神様を呼び求めることが困難になります。あるいは、私たちのいのちが、イエス様が例え話で語られた愚かな金持ちのように、明日取り去られるかも知れません。私たちには、まだ明日になるまで、明日生きていられるかどうか確実な保証はないのです。また聖書には、イエス様がいつかもう一度この世を裁くために戻ってこられることが預言されています。私たちが決心する前に、主がこの世に来られるかも知れません。その日がいつなのかは誰も知らないからです。私たちが神様の招きに答えることができる時間はいつまでもあるわけではありません。やがてその時が閉じられる日がくることを忘れてはいけないのです。だからこそ、今のうちに機会を失わないで、悔い改めて神様を呼び求めることが必要です。神様も私たちに向かって必死で呼びかけておられるのですから。
私たちがするべきことは7節に書かれています。罪から離れて神様のところへ帰ることです。悔い改めるとは、自分がしたことをただ反省することではありません。「神に帰る」です。神様と一つになることです。そうすれば、神様は私たちを哀れんでくださいます。そうすれば、神様は私たちを豊かに赦してくださいます。豊かに赦すとは、どんなに深い罪でも、人間では到底赦すことのできないような過去であっても、神様はそれを豊かに赦すだけの大きな愛を持っておられることを表しています。神様は、私たち人間と違って、嫌々ながら赦す方ではありません。仕方なく赦される方でもありません。豊かに、完全に、心から喜びをもって赦してくださる方なのです。
神様に救われた者の姿が12、13節に描かれています。「あなたは喜びをもって出て行き、安からに導かれて行く。」私たちは、罪と裁きの支配から自由になって出て行きます。これが救いです。そして、救われた者は日々、神様によって安らかに導かれて行きます。羊飼いが羊を守り、羊を養うために、牧場や水のある場所に導くように、神様は私たちを生かすために、日々導いてくださいます。羊飼いに導かれる羊が安心して喜んでいるように、私たちも神様に導かれることを喜ぶのです。13節には「いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」と書かれています。いばらとおどろは、呪いのシンボルです。一方、もみの木もミルトスという木も共に常緑樹で、永遠に変わらない神様の祝福のシンボルです。私たちが救われることは、私たちの幸せでもありますが、それだけではありません。これは主の記念となると書かれているのは、神様が私という一人の人間が救われたことを永遠に忘れないこととして覚えていてくださるのです。神とともに生きる人生、これ以上に素晴らしい人生があるでしょうか。神様は、今日も私たちに向かって語りかけておられます。「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も」と。
先週は、ケズィック講師のエイメス先生をお迎えして礼拝を持ちました。エイメス先生が一番好きな日本語は「恵み」という言葉です。英語では「Grace」と言います。これはクリスチャンの信仰にとって非常に大切な言葉です。聖書の辞典では次のように説明されています。「恵みとは、キリストが私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださった後、神様が、罪人のために、自発的に、一方的に行ってくださること」。エペソ人への手紙の2章4−6節には次のように書かれています。「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。 神様はまず、私たちに憐れみと大きな愛を持ってくださいました。最初の人間アダムとエバはエデンの園で神様と本当に満ち足りたときを過ごしていましたが、二人が神様の命令を破って、自分がしたいと思うことをしてしまったとき、彼らは神様から姿を隠しました。しばらくして、神様は園を歩き回って彼らに呼びかけて、「あなたは、どこにいるのか」と言われました。この神様の「あなたはどこにいるのか」という言葉は、警察官が犯人を捜すときに言うような言葉ではなく、突然愛する子供がいなくなって、心配で胸を痛めている父親が必死になって子供をさがすときに言うような言葉なのです。父親が何とか子供が無事でいて、自分のところに戻ってくることを願うように、神様の言葉を無視して自分勝手な生き方をしている私たち一人一人を何とか助けたい、そして自分のところに戻ってきてほしい。一緒に満ち足りた生活をしたいと神様も願っておられます。その願いに、神様のあわれみと大きな愛があります。そして、恵みとは、父親や神様がその愛を表して行ってくださったことです。例えが悪いかも知れませんが、私が悪いサラ金業者に引っかかり多額の借金を背負い込んで、どうすることもできなくなったとしましょう。それを見た哀れな私の母が、自分の持っている金を全て注ぎ込んで、私の借金の肩代わりをしたとします。母には関係のない借金ですが、子供の哀れな姿を見て哀れみと愛を感じて実行したこの行為が神様の恵みの行為に似ていると思います。いまだに振り込め詐欺が続いていることがとても不思議に思いますが、親にとっては、子供が苦しんでいることをほうっておくことができないのは自然の感情なのではないでしょうか。罪に縛られ、罪のさばきを受けなければならない私たちを、何とか救い出したいと願われた神様は、イエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架にかけられました。私たちが受けるはずの罪の刑罰を、罪を全く知らないイエス様が身代わりとなってすべて受けてくださったのです。これが神様の恵みです。イザヤ書の55章には、その神様の恵みが豊かに描かれています。
55章の1節に「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」という神様の私たちへの呼びかけが記されています。聖書の言葉は神様の私たちへの語りかけです。これは単なる教えや理論ではなく、神様が私たち一人一人に何としても経験してほしいと思っておられることです。神様は聖書の最初から、最後まで、私たちに呼びかけておられます。さきほど語りましたように、最初の人間アダムとエバが神様から逃げて隠れたときから始まり、最後のヨハネの黙示録にも、今日の箇所と同じ神様の呼びかけの言葉が記されています。22章17節「御霊も花嫁も言う。『来てください』これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」55章1節は「ああ」という言葉で始まっていますが、これは神様が嘆いて言った言葉ではありません。英語では「Ho」と訳されていますが、この「Ho」は、「Heigh-Ho」の「Ho」で、「おーい」と呼びかけ、注意を引いている言葉です。「渇いている者はみな、出て来い」と神様が私たちに呼びかけておられます。神様は誰でも、渇いている者は水を求めて出てきなさいと招いておられます。金のない者も来いと神様は言われました。私たちが神様の前に何の価値がなくてもかまわないということです。神様に支払えるものが何もなくてもかまわないと神様が言われます。実は、誰も神様に支払いができる人はいないのです。神様が要求するだけの金額を支払える人は一人もいません。ですから神様は、かまわないからそのままで私のところへ来るように命じておられるのです。これが神様の恵みなのです。神様の恵みはどのようにすれば手に入れることができるのでしょうか。まず第一に、神様のところへ来なければなりません。第二に、金を払わないで買えと言われています。これはどういう意味でしょうか。私たちは神様に支払いをすることができません。神様に支払うものは、主イエスが自分から進んで私たちに代わって払ってくださいました。だから、金を払わないで買えというのは、私たちの代わりに支払いを済ませてくださった方に感謝して、それを受け取ることを意味します。私たちが何かを受け取るためには、私たちの手が空っぽでなければなりません。私たちが何かを握り締めていると、そのままでは受け取れないからです。金を払わずに買うということは、神様が与えてくださるものの価値を知って、それを感謝して受け取ることで、そのために、邪魔になるものを捨て去ることを意味しています。そして第三に、それを食べることです。つまり、神様の言葉を信じて信仰をもって受け取ることです。そのような人々に、神様は水を与えます。水は、私たちの命の源です。しかし、神様は水だけではなく、ぶどう酒と乳を与えると言われました。ぶどう酒は結婚式でも飲まれますが、私たちの喜びを与えるものです。乳は、栄養がたくさんあるので、弱っている人に力を与えるものです。このように神様は、求める者には、いのちを与え、喜びを与え、弱いところに力さえも与えてくださいます。
この世のものは決して、私たちにいつまでも続く満足を与えません。ダビデの子、ソロモンは伝道者の書の冒頭で次のように言いました。「空の空。すべては空。」ソロモンの時代にイスラエル王国は絶頂期を迎えていました。全世界から人々がソロモンに会いにやって来るほどでした。しかしソロモンは、どんなに人間的に成功しても、栄えても、その状態がいつまでも続くことがないことを知っていました。人間がどれほど大きな業績を残しても、それはいつかは消えていくものです。私たちはそのことを知っていなければなりません。そうでないと、私たちは、傲慢になったり自己満足に陥り、絶頂期が過ぎ去ったときにひどく失望することになります。究極的な言い方をすると、この世で蓄えた財産も、この世で残した業績もいつかは無意味なものになります。神様を追い求め、神様とともに生きることだけが、決して揺るぐことのない、消えることのない満足感を与えるのです。それなのに、どれほど多くの人が、そのようなむなしい物のために労苦しているでしょうか。神様は、それらの人には「私の言葉を聞きなさい」と命じています。私たちは、なかなか神様の言葉を聞こうとしません。むしろ、周りの人の声、この世の知恵に聞こうとすることが多いではないでしょうか。しかし、神様は3節で、「耳を傾けて、わたしのところへ出て来い」と言われました。そして、「そうすれば、あなたがたは生きる」と約束しておられます。神様の言葉に真剣に耳を傾けるときに、私たちの弱っている信仰に新しい力が与えられて、新しい意欲、神様に対する決意が与えられることを表しています。
しかも、そのように耳を傾けて神様に近づく者には、「わたしはあなたがたととこしての契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ」と言われました。これは、今から3千年前のイスラエル王ダビデと神様が結ばれた契約のことを指しています。当時、小さいながらも他の国々を支配するイスラエル帝国を築き上げたダビデ王に対して、彼の王国が永遠に続くこと、敵が攻めてくることがないこと、神様の恵みが取り去られることがないことなどが約束されました。ところが、イスラエルの民は、この神様との契約を忘れて、偶像の神に心を向けるようになり、神様に背を向けました。しかし、それにも関わらず、神様はダビデと結んだ契約を忘れることなく、また、イザヤの時代には、その契約を新しくすると言われました。神様がダビデ王に永遠に変わることのない愛を誓われたように、イザヤの時代の人々にも、今を生きる私たちにも、その約束を結ぶと言われます。私たちがこの契約の決まりをきちんと守らず、神様との約束を破ってしまったこと、また将来破ってしまうことも知っていながら、それでも神様は私たちとの契約を最後まで、守り通されるのです。これもまた神様の恵みです。
6節には、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」と書かれています。神様は私たちから離れようとは思われません。しかし、私たちは意識的に、あるいは無意識のうちに神から離れようとします。特に、私たちが神様の前で罪を犯すと、アダムとエバが神様の前から姿を隠したように、神から離れます。問題の何の解決にもならないのに、神様から離れようとします。また、場合によっては自分と神様の間に何かの壁を作ってしまう場合もあるでしょう。神様は、私たちのそのような心をよく知っておられます。だから今、私たちに向かって言われるのです。「お会いできる間に、近くにおられる間に、主を求めなさい」と。教会に長く通っておられる方がおられます。いつかは、神様を信じようと考えておられることでしょう。しかし、私たちは、神様からいつ遠く離れてしまうか分からないのです。この世の生き方にどっぷりとつかればつかるほど、神様を呼び求めることが困難になります。あるいは、私たちのいのちが、イエス様が例え話で語られた愚かな金持ちのように、明日取り去られるかも知れません。私たちには、まだ明日になるまで、明日生きていられるかどうか確実な保証はないのです。また聖書には、イエス様がいつかもう一度この世を裁くために戻ってこられることが預言されています。私たちが決心する前に、主がこの世に来られるかも知れません。その日がいつなのかは誰も知らないからです。私たちが神様の招きに答えることができる時間はいつまでもあるわけではありません。やがてその時が閉じられる日がくることを忘れてはいけないのです。だからこそ、今のうちに機会を失わないで、悔い改めて神様を呼び求めることが必要です。神様も私たちに向かって必死で呼びかけておられるのですから。
私たちがするべきことは7節に書かれています。罪から離れて神様のところへ帰ることです。悔い改めるとは、自分がしたことをただ反省することではありません。「神に帰る」です。神様と一つになることです。そうすれば、神様は私たちを哀れんでくださいます。そうすれば、神様は私たちを豊かに赦してくださいます。豊かに赦すとは、どんなに深い罪でも、人間では到底赦すことのできないような過去であっても、神様はそれを豊かに赦すだけの大きな愛を持っておられることを表しています。神様は、私たち人間と違って、嫌々ながら赦す方ではありません。仕方なく赦される方でもありません。豊かに、完全に、心から喜びをもって赦してくださる方なのです。
神様に救われた者の姿が12、13節に描かれています。「あなたは喜びをもって出て行き、安からに導かれて行く。」私たちは、罪と裁きの支配から自由になって出て行きます。これが救いです。そして、救われた者は日々、神様によって安らかに導かれて行きます。羊飼いが羊を守り、羊を養うために、牧場や水のある場所に導くように、神様は私たちを生かすために、日々導いてくださいます。羊飼いに導かれる羊が安心して喜んでいるように、私たちも神様に導かれることを喜ぶのです。13節には「いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」と書かれています。いばらとおどろは、呪いのシンボルです。一方、もみの木もミルトスという木も共に常緑樹で、永遠に変わらない神様の祝福のシンボルです。私たちが救われることは、私たちの幸せでもありますが、それだけではありません。これは主の記念となると書かれているのは、神様が私という一人の人間が救われたことを永遠に忘れないこととして覚えていてくださるのです。神とともに生きる人生、これ以上に素晴らしい人生があるでしょうか。神様は、今日も私たちに向かって語りかけておられます。「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も」と。

