礼拝説教 2009年2月8日 「立てあげられる主」(イザヤ書54章)

2009.02.23

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(イントロ)
イザヤ書54章で描かれているのは神様とイスラエルの民、今日の私たちに関して言えば、神様とクリスチャンの関係を夫と妻に例えたイメージです。イザヤの時代のイスラエルの民は、聖書の神様を信じないわけではなかったのですが、この神様だけを信じることに満足せず、また不安も感じて、彼らの周辺に住む外国人が信じていた偶像にも礼拝をささげていました。そのような状況の中で、イザヤは神様を忠実な夫として描き、イスラエルの民は不倫を働く不忠実な妻として描いています。神様は旧約聖書の時代に、アブラハムやモーセと約束を結びました。神様はイスラエルの民を特別に選んで、この契約を結ばれたのですが、それは、ちょうど夫と妻が結婚式で誓いを交わすのと同じでした。結婚式では新郎新婦はお互いに対して誓いの言葉を言います。
それは、「病めるときも健やかなときも、富めるときも貧しいときも、夫に対して、妻に対して忠誠を誓う」という言葉です。相手以外の男性や女性に体も心も向けないということです。イスラエルの民は聖書の神だけを神として信じなければならなかったのですが、回りのいろいろな誘惑や、人間的な考えから他の神々をも礼拝するようになっていたのです。イスラエルの民は偶像礼拝をしていて、そのことを神様は非常に厳しく責められ、その結果、イスラエルの民はバビロンに滅ぼされて、自分の住みなれた土地から無理やり外国のバビロンに連れて行かれて、そこで生活をしなければならなくなっていました。偶像礼拝とは、ただ単に石や木で作られた神の像を拝むことではありません。その行為の背後にはどのような心があるかと言うと、「聖書の神だけを信じていても安心できない。自分の地位や生活や財産を守るためには他のものにも頼らなければならない」そのような思いなのです。ですから聖書が厳しく禁じている偶像礼拝とは、神様以外のものをまるで神様のように大切にして、それに心を奪われ、それによって生活が支配されていることです。ですから、私たちにとっての偶像とは、ある人には名誉であり、ある人には財産であり、ある人には仕事であり、ある人には不品行であるのです。主イエスはルカの福音書16章13節で次のように言われました。「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」主は、ひとつの心で神を信じなさいと命じておられます。私たちは、神を自分の人生で最も大切なものとするならば、同時に富を人生で最も大切なものにすることはできません。もし、神が人生の主であるならば、お金は人生の召使いになります。私たちは、それを神様の御心にしたがって用いるようになります。しかし、もしも神様が人生の主にならなければ、お金が私たちを支配する主人になって、私たちはお金の奴隷になってしまいます。もっとお金がほしい、もっとお金がほしいとお金の虜になるからです。そのとき、私たちは、お金を賢く使うことができず、無駄な生き方をするようになります。私たちも、いつも気をつけていなければなりません。自分の信仰をいつも点検する必要があります。この世の中にすばらしいもの、価値あるものはたくさんあります。しかし、どんなに価値のあるものでも、もし、それが神様以上に大切なものになると、それは偶像礼拝をしていることになるのです。預言者イザヤの時代、神様とイスラエルの民との関係は、忠実な夫と不誠実な妻という関係でした。しかし、神様は自分に対して不誠実な妻であるイスラエルの民に驚くほどの愛と赦しを与えられました。神様の恵みがイスラエルの民に豊かに注がれたのです。神様は、信仰に関しては最悪の状態に陥っていたイスラエルの民を、それでも見捨てることなく、もう一度立て直そうと語っておられるのです。

(1)喜びを与える神
 1節に「『子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ』と主は仰せられる」と書かれています。ここで、「子を産まない不妊の女」といわれていますが、それは夫に捨てられた妻のように、自分の不幸を悲しみ、嘆きながら、絶望的な生き方をしている人をさしています。バビロンに連れて行かれたイスラエルの民はそのような絶望の中で生きていました。しかし、人間的に見るとまったく希望がないように見える人に向かって、神様は「喜び歌え」、「喜びの声をあげて叫べ」と命じておられます。「夫に捨てられた女」とは、聖書の神以外の神々を礼拝したために神の裁きを受けたイスラエルの民を指しています。一方「夫のある女」とは、もっと昔、モーセを通して与えられた神の律法を守って生きていた時代のイスラエルの民を指しています。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもより多いと言われているのは、律法を守っていたころのイスラエルの民よりも、律法を完全に守ることができないために罪に定められた人々が、キリストの十字架の苦しみによって、恵みを与えられ罪が赦された、その人々の数のほうが多くなるのだとイザヤは語っています。私たちも、神の律法の前に立つときには、自分の罪を攻められても仕方がない人間です。しかし、このように律法が守れない罪の性質を持って生まれた私たちを神様は、イエスの十字架によって、一方的に無罪を宣言してくださるのです。これが神様の恵みです。
 神様の恵みを受けて神の民、クリスチャンになった人々は何を求められているのでしょうか。2節に「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ」と書かれています。天幕とは、当時のイスラエルの民が住んでいたテントの家のことです。ここでの神様の命令は、「広げなさい」、「張り伸ばしなさい」、「綱を長くしなさい」、「鉄のくいを強固にしなさい」すべて、自分の居場所を広げて、また、「それがしっかり立つようにしなさい」と命じられています。これは何を意味しているのでしょうか。私たちは本来「子を産まない不妊の女」のような状態でありました。しかし、神様は「私はその不妊の女を子どもたくさん産む女に変える」と言われます。わたしの状態が、哀れな希望のない状態であっても、神様はそんな私を実りの多い人生を生きる人に変える計画を持って下さっているのです。十字架の奇跡を通して、神様は私たちをまったく新しい人に作り変えてくださいます。だから、神様は私たちに勧めておられるのです。「もっとあなたの信仰を広げなさい」、「もっとしっかり信じなさい」、「もっとくいを深く打ち込んで、深く根ざした土台がしっかしした信仰を持ちなさい」と励ましておられるのです。3節には「あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住むところとする」と書かれています。私たちの人生は、以前は荒れ果てた町のようでした。しかし、主イエスの十字架を信じることによって、私たちは神様によって立て直され、人の住めるような場所、そのような人に作り変えてくださいます。

(2)変わらない神の愛
4節には「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない」と書かれています。神様はイスラエルの民に「恐れるな」と語りかけています。彼らは恐れていました。彼らは動揺していました。バビロンに連れて来られ、人質にされて、大きな辱めを受けていました。私たちも、神様を信じる前の生き方を思い返すと、神様の前には恥ずかしくて立つことができない者です。しかし、神様は以前の屈辱の記憶を全部消し去ってくださると約束しておられるのです。なぜ、神様は私たちに対してこれほどまでに愛を与えられるのでしょうか。その答えは5節に書かれています。5節、6節に次にように書かれています。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。聖書は、私たち一人一人は神様によって造られたと書かれています。しかも、神様はご自身の栄光のために私たちを造ってくださいました。私という人間を、神様は栄光だと見てくださるというのです。さらに、神様は「わたしはあなたの夫である」と言われます。人間は約束をしても何度も何度も破ってしまいますが、神様が一度誓いを立てると、神様は真実な方ですから、決して約束を破ることはありません。神様は私たちと約束を結んで夫となってくださいました。私たちから神様を捨てて、逃げていくことはあるとしても、神様は決して私たちを見捨てることはありません。これが神様の真実の愛なのです。神様の愛は、私たちの行いや言葉によって簡単に減ったり消えたりするような愛ではありません。私たちは時々、神様は本当に私のことを愛しているのだろうかと疑ってしまうことがありますが、その疑う心を神様はどれほど悲しまれることでしょうか。その疑いは、神の愛を、人間の低いレベルの愛と同じように考えるから生じるのです。神様の愛はアガペーの愛、絶対的な愛です。だから10節で次のように言われているのです。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」私のような不忠実な信仰者に対しても、神様はこの言葉を真実の言葉として語ってくださいます。神様から逃げ出して、他のところへ行ってしまったような者にも、神様は赦しを与え、神様のところへ戻ってくるのを待っておられるのです。私たちが罪を犯したり、神様から遠ざかったりするとき、しばらくの間、私たちは神様を見失うことがあります。天気が悪いときに雲が山を隠すように、私たちの罪は神様の姿を見えなくさせてしまいます。しかし、山が雲に覆われて見えなくても山はかわらずにそこにあるように、神様も決して消えることも変わることもありません。神様は、10節にあるように、神様の代わらない愛は、私から決して移ることがないのです。神様と私たちの間の契約は、絶対に、途中で破棄されることはありません。だから、神様は「恐れるな」と言われるのです。

 罪を持ち、神の愛を受ける資格がないような者に、神様が絶対に変わらない愛を注いでくださることを恵みと言います。この恵みをよく知っていたのが「アメイジング グレイス」の歌の歌詞を書いたジョン・ニュートンでした。彼はかつてはイギリスの船会社に勤め、アフリカの黒人を奴隷として売買する働きを行っていました。しかしある時、船が嵐で沈みそうになったときに、彼は必死で神に祈りました。船は沈みませんでした。この出来事がきっかけになり、彼はクリスチャンになり、やがては神の召しを受けて牧師になりました。彼は自分の墓に次のような碑文を書いてほしいと頼みました。「ジョン・ニュートン。不信仰な船乗りで、アフリカで奴隷売買を行っていたが、イエスキリストによって救われた。キリストから回復と許しを受け、ついには、以前激しく反対していた信仰を人々述べ伝える者になれと任命された。」この彼ほど、キリストの恵みを知っていた人はいないでしょう。それで、彼はあの有名な「アメイジング グレイス」、「驚くばかりの恵み」を創ったのです。主の恵みは今日もあなたに注がれています。