礼拝説教 2007年11月18日 「死を滅ぼす奇跡」(ヨハネ福音書11章)

2007.11.23

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(イントロ)
 ある人が飛行機にのって着陸しようとしていました。滑走路手前の高速道路が大渋滞しているのが窓から見えたそうです。いらいらしたドライバーが車から降りて待っているほどでした。ところがその大渋滞の先は一時的な交通規制をしている赤いライトが続いているのが見えました。その規制が解除されつつあったので、渋滞の先頭部分が動き始めていました。それで、その人は、この渋滞はまもなく終わるだろうと思い、飛行場に着くと、いつもと同じように家に帰ることができるだろうと思いながら、駐車場にとめてあった車に乗りました。高速道路で渋滞の真っ只中にいた人は、その先がどうなっているのか分からないため、いらいらしていました。しかし、その人は渋滞の原因を知り、その渋滞が長続きしないことを知っていたので、いらいらすることなく車に乗りました。このように、人の生き方は、どのような視点でものを見ているかによってずいぶん変わります。私たちは、この世に生まれ、この世で生きています。ですから、いつも私たちの視点はこの世から見る視点です。しかし、聖書には神様が見る視点が描かれています。私たちの人生は迷路みたいなもので、次の曲がり角までしか見えていません。その先がどうなっているか分かりません。ですから、いつその迷路から抜け出ることができるのかまったくわからないのです。しかし、神様は天から、つまり上から見ておられるので、その迷路がどのような構造になっているのかを知っておられます。私たちも、もし、神様と同じ視点を持つことができれば、ずいぶん違った気分で人生を過ごすことができるのではないでしょうか。今日の出来事は、私たちが神の視点でものごとを見ることの大切さを教えているように思います。

ラザロが重い病気にかかった
 ヨハネの福音書10章には、エルサレムの神殿において主イエスとユダヤ教の指導者たちの間の緊張関係が描かれています。ついに、ユダヤ教の指導者たちは主イエスを石うちにして殺そうと考えます。その後、主はエルサレムから離れて、以前バプテスマのヨハネが人々に洗礼を授けていた場所がある地方へ行き、そこで多くの人々のために働かれました。10章の最後の節に次のようなことが書かれています。「そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。」(42節)
非常に実りの多い働きだったのですが、その時、イエスと親しい関係にあった、ベタニヤという町に住むラザロという人が非常に重い病気にかかりました。ラザロにはマルタとマリヤという姉がいて、主イエスと弟子たちは何度も彼らの家に行きました。この3人の家族は、いつも彼らを受け入れ、温かくもてなしていました。ところが、その家族の一人、一番年下のラザロが重い病気にかかって今にも死にそうな状態になっていたのです。それで、姉のマルタとマリヤはイエスに使いを送ってラザロが危篤であることを知らせました。3節「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」彼女たちは主イエスに「来て下さい」と頼んでいるわけではありません。ただ、ラザロが病気であることを知らせています。それは、二人が、主イエスなら、状況を知れば必ず何か助けてくださると確信していたからだと思います。二人とも、この知らせを受け取れば、主は必ず来てくださると思っていたはずです。ところが、4-6節には次のように書かれています。

イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

主イエスは、病気も死も決して私たちにとって悲劇に終わるものではないと教えています。むしろ、死ぬことさえ、それは神の栄光であるというのです。それは、聖書の教えでは、死はその人の存在が滅ぶことでも消滅することでもなく、あたらしい生命に入ることだからです。5節にイエスはマルタとその姉妹マリヤとラザロを愛されたと書かれていますが、神様は、私たち人間をお造りになりました。そして、私たちを永遠の愛で愛しておられます。だから、私たち一人一人の人生が悲劇の終わることを願ってはおられません。私たちが永遠に信仰と希望と愛を持って生きる道を備えてくださいました。
ここで愛されたと訳されているギリシャ語は「アガペー」という言葉です。つまり、決して尽きることのない、無条件の最高の愛をもってマルタや、マリヤやラザロを愛されました。彼らは、ごく普通の人たちです。特別な地位にいるわけでもありません。ラザロなどは、まったく目立たない平凡な人だったようです。しかし、イエスは、彼らを愛されました。神様は、私たちのような平凡な人間を最高の愛で愛しておられるのです。

 そのような主イエスであれば、マルタとマリヤからラザロが危篤だという知らせが届いたら、何を差し置いても彼らが住む町ベタニヤに向かうだろうと、私たちは考えます。しかし、聖書には「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」と書かれています。「そのようなわけで」とは、「主が彼らを愛しておられたので」という意味でしょう。しかしながら、そのようなわけで、主イエスはすぐにベタニヤへは行かず、なお二日の間ベタニヤには遠い村にとどまられました。主イエスがすぐにベタニヤに行かなかったのには理由があるのです。しかもその理由は彼らを愛しておられたからなのです。主イエスがその時何を考えておられたのか、すべてのことを理解することはできません。しかし、主がすぐにラザロのところへ行かなかったのは彼らを愛していたからです。私たちが信じている神様は全能の神です。どんな状況であっても、人間的に見るとまったく絶望的な状況の中でも自分が何をするのか、解決の方法が何である、神様はすべてを知っておられます。マタイの福音書を見ると、神様は、取るに足らない一羽のすずめにも目を留めておられます。そして、神様のお許しなしにすずめが地に落ちることはないと書かれています。私たちは、神様の目には、多くのすずめよりもはるかに優れたものです。神様は私たちの苦しみを知っておられ、その苦しみから私たちを救い出そうと待っておられる方です。
主イエスがマルタとマリヤが願ったようにすぐにベタニヤに来なかったのはなぜでしょうか。それは、彼らがあまりの多くのことを求めたのではなく、彼らの求め方が不十分だったからです。彼らがもっと多くのものを求める信仰が与えられるためだったと思います。マルタとマリヤが主イエスに求めたのはラザロが癒されることであり、ラザロのいのちだけを求めました。しかし、主イエスは、彼らに、ラザロのいのちを与えるだけでなく、すべての人に永遠のいのちが訳されていることを表そうとされたのです。

マルタとマリヤと主イエス
 主イエスがラザロの家に到着したのは、彼が死んでから4日目でした。ラザロの姉マルタとマリヤのところには大勢の人が二人を慰めるために集まっていたでしょう。イエスがベタニヤに来られたときに、マルタはイエスに会いに行きました。そしてイエスに会ったとたんに次のように言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」おそらく、マルタとマリヤは、弟のラザロが死んでからずっと同じことを繰り返して言っていたでしょう。私たちも彼女たちと同じように感じることがあります。「私が苦しんでいたとき、あなたはどこにおられたのですか?」「私が悲しんでいたとき、あなたはどこにおられたのですか」
このマルタの言葉に対して主イエスはマルタを責めるような言葉を言っておられません。主は弟子たちに向かって何度も繰り返して「信仰の小さな者よ」と言われましたが、マルタにはそのようなことを言っておられないことに注目しましょう。神様は、私たちが自分の感じたことを神様にぶつけることを悪いことだとは思っておられないのです。確かに、私たちの感情は、時には、誤解や間違った考えから来ていることがありますが、それらの感情を押さえ込んでも、解決にはなりません。神様は、私たちの感情を受け止める忍耐を持っておられます。
イエスは、悲しみにくれるマルタに対して宣言するように言われました。「あなたの兄弟はよみがえります。」それに対してマルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えています。主イエスは、マルタの悲しみ、マルタの感情が不十分な信仰から来ていることを指摘しておられます。マルタは、主イエスと親しい関係にありましたから、これまでイエスが行われた奇跡についてもよく知っていたはずです。彼女には、「神を信じる者は終わりのときによみがえる」という信仰を持っていました。だから、ラザロが、たとえ死んでも、最後のときに復活するという信仰は持っていました。しかし、それは正しい信仰ではありましたが、その信仰は、今の彼女の状況においては何の助けにもなっていません。正しい教理を知っているだけでは本当の信仰ではありません。信仰は、今の生活に働かなければ十分な信仰とはいえません。だから、主はマルタにはっきりと「ラザロはよみがえります」と宣言されたのです。そして25節では「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言われました。マルタが信じていたように、聖書の約束は、この世が終わるときに、主イエスを信じて死んだ人の体が復活して魂と結合して天国で永遠に神と共に生きるというものです。それはクリスチャンにとってもっとも大きな希望です。しかし、それだけではありません。主イエスははっきりと言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。」主は私たちの罪を赦すために、十字架で死んでくださいました。しかし、三日目に死から復活されて、私たちを罪の束縛と死の恐怖から解放してくださいました。私たちが信じている主は、復活の主です。この肉眼では見えませんが今も生きておられ、今の私たちの生活の中に働いてくださる主です。クリスチャンにとって、死は恐れるものではありません。世の終わりにはもう一度新しいからだが与えられて主イエスと同じように復活して永遠に天国で神と共に生きるという約束を持っているからです。しかし、それだけでなく、主イエスを信じたときから、私たちは、この世での生活の中でも神の力を体験することができるのです。ラザロの場合は、肉体の死でしたが、私たちは、死のほかにも、自分ではどうすることもできない問題にぶつかります。どんな問題であっても、復活の主の力はそれを解決することができる力です。主がマルタに「あなたはこのことを信じますか」と言われたのは、今の問題をも解決する力があることを信じますかというチャレンジなのです。
 
いのちを与える主
 主イエスはラザロの体が収められていた墓に来ました。そしてイエスは涙を流されました。神が涙を流すとは驚くべきことです。天と地とその中にあるすべてのものを作られたほど偉大な神であるイエス・キリストは、偉大な神であるにも関らず、ごく普通の一人の人間のために涙を流してくださるのです。そして、イエスは祈られました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」(41、42節)これは、父なる神様が祈りに答えてくださったことを感謝する主イエスの祈りです。それから大きな声で「ラザロよ出てきなさい」と叫ばれると、墓の中で包帯に巻かれていたラザロがそのままの姿で墓から出てきました。主は、人々がラザロが本当によみがえったことを確認させるために、「彼の包帯をほどいてやりなさい」と言われました。この奇跡を見た人々は驚き、そして主イエスを信じました。このすぐ後に、主イエスは十字架にかかるためにエルサレムの町に入られるのですが、その時、大勢の群集が熱狂的に主イエスを迎えますが、それは、その直前にラザロがよみがえるという奇跡を見ていたからです。
 このようにして、ラザロはいのちが与えられました。しかし、それは肉体のいのちでしたから、ラザロはそれから何十年か経ってからもう一度肉体の死を経験しました。主が私たちのためになしてくださる最大の奇跡は、いのちを与えることです。肉体のいのちはラザロのように、いつかは死を迎えます。しかし、主イエスは、私たちに新しいいのちを与えてくださいます。永遠のいのちを与えてくださいます。それは神と共に生きるという新しいいのちです。私たちは神を信じると、神によって創られたこと、神によって愛されていること、そして、肉体は滅んでも、魂は永遠に神と共に生きることを知ります。これを確信するとき、肉体の死を恐れることが無くなるだけでなく、神とともに生きる新しい喜びを知ります。私たちは自分が本当に愛されていることを知るとき、新しい喜びや生きる力が与えられます。肉体の命があっても、希望や喜びがなく、いつも恐れや不満の中で生きているなら、そのいのちは本当に生きていることにはなりません。しかし、全能者である神とともに生きるならば、私たちは自分の力がどんなに弱くても、どんなに小さくても、絶望することがありません。神がともにおられるからです。この新しいいのちを与えてくださる主イエスの奇跡が、私たちにとって最も大きな、最も必要な奇跡なのです。

During World War II, a prisoner wrote: “Sunday, April 8, 1945, Pastor Benhoeffer held a little service which reached the hearts of all. He had hardly finished his prayer, when the door opened. Two evil-looking soldiers came in and barked: ‘Prisoner Benhoeffer, come with us!’ The words meant only one thing, the scaffold. As he bid his fellow prisoners good-bye, he said, ‘For me this is the beginning of a new life, eternal life.’”