礼拝説教 2009年1月18日 目を覚ませと主は言われる イザヤ52:1-9
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イザヤ52章1-2節
52:1 さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中にはいって来ることはない。
52:2 ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。そして、あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。
この言葉は、本来、今から2600年ほど前、外国バビロンに滅ぼされて自分の住みなれた祖国から無理やりバビロンに連れて行かれて、外国の地で不便で悲しい生活を強いられていたイスラエルの民に向かって語られた神様の激励の言葉です。バビロンに閉じ込められていたイスラエルの民に向かって「目を覚ませ」と神様が語りかけておられます。神様はイスラエルの民の不信仰に対する裁きとして、「バビロン捕囚」という彼らにとって非常につらく悲しい出来事をもたらされました。しかし、そのようなイスラエルの民を神様は決して見捨てることはありません。やがて、神様は、バビロンの力を衰えさせて、その代りにペルシャという強い国を起こされたので、あれほど強いバビロン帝国が意外にもろく崩れ落ちてしまいました。
神様は、そのような状況の中に置かれていたイスラエルの民に向かって「目を覚ませ、目を覚ませ」と言われました。外国バビロンに支配されていた彼らが解放されるときが来たのだ。これは神様の御業だから、神様の働きを見よという意味だと思います。そして、「力をまとえ」と言われました。外国の支配を受けているなかで力を失っていた彼らに力をつけなさいと言われたと同時に「美しい衣をきよ」と神様は命じておられます。神の前の美しさ、清さを身につけなさいと言われました。そして、「無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入ってくることはない」と言われました。これは、もはや、横暴な外国人の支配を受けることはないという神様の約束です。
そして、ちりを払い落して立ち上がり、もとの座につけ、エルサレム。とあります。エルサレムはバビロンによって滅ぼされたので、町はがれきの山のような状態でした。このような壊滅的なエルサレムの町から立ち上がって、もとの座に座りなさいと命令されています。元の座とは、別の訳では王座となっています。私たちは、本来いるべき場所、王座に座るように命じられているのです。そして、「あなたの首からかせをふりほどけ」と言われています。完全に自由の身になったのであるから、解放されたのであるから、不必要な首かせは振りほどけと命令されたのです。
このイザヤの言葉は、外国の地で失望の中で生活していたイスラエルの民に対する希望と激励のメッセージとして語られています。しかし、同時にこのメッセージは私たち一人ひとりに与えられた激励の言葉だと思います。特に、昨晩、天に召された石黒妙子先生のことを考えると、そのように思います。昨年、高取兄が、胃がんの治療のために胃を全摘出する手術を受けられましたが、その検査の手術を受けたときに、全身麻酔によって完全に意識がない状態にいた後に、麻酔が切れて目をさますと、そこには奥さんのにっこりと笑う笑顔が見えて、ほっとしたそうです。その時に、高取兄は、自分が死ぬ時は、このように意識を失ってしばらくして目を覚ますと、そこに地上の家族の顔の代わりにイエス様の笑顔が見えて、よく来たねと声を掛けられることなのだ。そのように考えると、死は決して恐れることはない、そのように感じたと言っておられました。
そのように、神様は、肉体の死によって意識を失っている妙子先生に「目を覚ませ、目を覚ませ」と言われたと思います。そして、「力をまとえ」と言われました。がんとの闘いの中で、妙子先生はかなり体力を失ったでしょう。ある時、妙子先生が「最近本が読めなくなった」と言われたことがありました。思考力も以前と比べるとずいぶん落ちていたのかも知れません。昨晩、太鼓先生の手を握ってお祈りをしましたが、これまで礼拝後に妙子先生とお祈りをするときには、いつも先生と手を握ってお祈りしていましたが、いつも妙子先生は私の手を強く握っていました。本当にすでに力のすべてを失っていたのでしょう。しかし、いま、神のみもとに召された妙子先生に、神様は新しい力を身にまといなさいと言っておられるのです。
力だけではありません。「あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。」と神様は妙子先生に呼びかけておられます。妙子先生は、産婦人科の医者としてもクリスチャンとしても、本当に立派な人生を生き抜かれました。人間的には本当に立派な人であったと思いますが、神様の目にはやはり一人の罪びとであることに違いがありません。しかし、妙子先生の体が朽ちたときに、神様は美しい衣を着るようにと命じておられます。肉体の死によって、妙子先生の罪の部分もすべてが取り去られました。すべてが新しくなりました。罪のない世界に移された妙子先生は、美しい衣を着て、聖なる者となっておられます。
そして、「ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム」と言われていますが、罪のチリは全部赦され、払い落されて、神様がおられる座に神様と共に座るようにと命じられています。エペソ2章3-6節には次のように書かれています。
3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
私たちは、もともと神様を信じない者で、神の怒りを受けなければならないような者でしたが、神様の憐みと愛のゆえに、主イエスの十字架をとおして、罪を赦してくださり、私たちを救い出し、また、復活の主とともに復活して神様と同じ場所に座らせていただけるのです。妙子先生は、この約束のように、いま、神様がおられるところにともにいるのです。
そして、首かせを振りほどくようにと神様は妙子先生に言われました。イスラエルの民がバビロンの支配から解放されたのと同じように、妙子先生は、この世での戦い、がんとの闘い、痛みとの闘い、吐き気や熱との闘いなど、たくさんの戦いを闘ってこられましたが、もう、いまは、妙子先生はすべての戦いから解放されているので、これまで妙子先生の重荷となっていたものはすべて振りほどかれているのです。葬儀でいつも読む箇所ですが黙示録21章3-4節にはこう書かれています。「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」神様は、人を創ることができる方ですが、同時に、人を新しく造りかえることもできるお方です。妙子先生の体を昨日見てびっくりしました。足がひどくむくんでいて、おなかは妊娠しているように膨れ上がっていました。水がたまっていたからです。妙子先生の肉体はがんに侵されてひどく傷んでいましたが、神様は、それをもまったく新しくしてくださるのです。この地上でどのような苦しみや悲しみや痛みがあったとしても、それらは全部過ぎ去って神様のみもとへと移されるのです。すべてが新しくなりました。妙子先生は、今日、昨日までとは違った世界で、違った存在ではありますが、昨日までと全く変わらない個性をもって今日も生きておられるのです。黙示録の21章6節には「また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」と記されています。」私たちのいのちは、妙子先生の命もそうですが、すべてが神によってはじまり、最後は神によって終わるのです。イエスさまは最初であり終わりである方です。神様は、これほどまでに、雄大な方です。はるかに偉大な方です。わたしたちは、神様の前には本当に小さな虫けらのような惣菜です。しかし、そのような小さなものであっても、神様は、渇いている者には水を飲ませてくださるのです。一人の人の小さな求めをも満たしてくださるのです。妙子先生の魂は、このように私たちを愛してくださる神様のそばに移されて、永遠のへいあんの中に安らいでいることを覚えながら、私たちは、妙子先生の信仰生活にならって、主を信頼して歩み続けて行きましょう。
イザヤ52章1-2節
52:1 さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中にはいって来ることはない。
52:2 ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。そして、あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。
この言葉は、本来、今から2600年ほど前、外国バビロンに滅ぼされて自分の住みなれた祖国から無理やりバビロンに連れて行かれて、外国の地で不便で悲しい生活を強いられていたイスラエルの民に向かって語られた神様の激励の言葉です。バビロンに閉じ込められていたイスラエルの民に向かって「目を覚ませ」と神様が語りかけておられます。神様はイスラエルの民の不信仰に対する裁きとして、「バビロン捕囚」という彼らにとって非常につらく悲しい出来事をもたらされました。しかし、そのようなイスラエルの民を神様は決して見捨てることはありません。やがて、神様は、バビロンの力を衰えさせて、その代りにペルシャという強い国を起こされたので、あれほど強いバビロン帝国が意外にもろく崩れ落ちてしまいました。
神様は、そのような状況の中に置かれていたイスラエルの民に向かって「目を覚ませ、目を覚ませ」と言われました。外国バビロンに支配されていた彼らが解放されるときが来たのだ。これは神様の御業だから、神様の働きを見よという意味だと思います。そして、「力をまとえ」と言われました。外国の支配を受けているなかで力を失っていた彼らに力をつけなさいと言われたと同時に「美しい衣をきよ」と神様は命じておられます。神の前の美しさ、清さを身につけなさいと言われました。そして、「無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入ってくることはない」と言われました。これは、もはや、横暴な外国人の支配を受けることはないという神様の約束です。
そして、ちりを払い落して立ち上がり、もとの座につけ、エルサレム。とあります。エルサレムはバビロンによって滅ぼされたので、町はがれきの山のような状態でした。このような壊滅的なエルサレムの町から立ち上がって、もとの座に座りなさいと命令されています。元の座とは、別の訳では王座となっています。私たちは、本来いるべき場所、王座に座るように命じられているのです。そして、「あなたの首からかせをふりほどけ」と言われています。完全に自由の身になったのであるから、解放されたのであるから、不必要な首かせは振りほどけと命令されたのです。
このイザヤの言葉は、外国の地で失望の中で生活していたイスラエルの民に対する希望と激励のメッセージとして語られています。しかし、同時にこのメッセージは私たち一人ひとりに与えられた激励の言葉だと思います。特に、昨晩、天に召された石黒妙子先生のことを考えると、そのように思います。昨年、高取兄が、胃がんの治療のために胃を全摘出する手術を受けられましたが、その検査の手術を受けたときに、全身麻酔によって完全に意識がない状態にいた後に、麻酔が切れて目をさますと、そこには奥さんのにっこりと笑う笑顔が見えて、ほっとしたそうです。その時に、高取兄は、自分が死ぬ時は、このように意識を失ってしばらくして目を覚ますと、そこに地上の家族の顔の代わりにイエス様の笑顔が見えて、よく来たねと声を掛けられることなのだ。そのように考えると、死は決して恐れることはない、そのように感じたと言っておられました。
そのように、神様は、肉体の死によって意識を失っている妙子先生に「目を覚ませ、目を覚ませ」と言われたと思います。そして、「力をまとえ」と言われました。がんとの闘いの中で、妙子先生はかなり体力を失ったでしょう。ある時、妙子先生が「最近本が読めなくなった」と言われたことがありました。思考力も以前と比べるとずいぶん落ちていたのかも知れません。昨晩、太鼓先生の手を握ってお祈りをしましたが、これまで礼拝後に妙子先生とお祈りをするときには、いつも先生と手を握ってお祈りしていましたが、いつも妙子先生は私の手を強く握っていました。本当にすでに力のすべてを失っていたのでしょう。しかし、いま、神のみもとに召された妙子先生に、神様は新しい力を身にまといなさいと言っておられるのです。
力だけではありません。「あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。」と神様は妙子先生に呼びかけておられます。妙子先生は、産婦人科の医者としてもクリスチャンとしても、本当に立派な人生を生き抜かれました。人間的には本当に立派な人であったと思いますが、神様の目にはやはり一人の罪びとであることに違いがありません。しかし、妙子先生の体が朽ちたときに、神様は美しい衣を着るようにと命じておられます。肉体の死によって、妙子先生の罪の部分もすべてが取り去られました。すべてが新しくなりました。罪のない世界に移された妙子先生は、美しい衣を着て、聖なる者となっておられます。
そして、「ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム」と言われていますが、罪のチリは全部赦され、払い落されて、神様がおられる座に神様と共に座るようにと命じられています。エペソ2章3-6節には次のように書かれています。
3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
私たちは、もともと神様を信じない者で、神の怒りを受けなければならないような者でしたが、神様の憐みと愛のゆえに、主イエスの十字架をとおして、罪を赦してくださり、私たちを救い出し、また、復活の主とともに復活して神様と同じ場所に座らせていただけるのです。妙子先生は、この約束のように、いま、神様がおられるところにともにいるのです。
そして、首かせを振りほどくようにと神様は妙子先生に言われました。イスラエルの民がバビロンの支配から解放されたのと同じように、妙子先生は、この世での戦い、がんとの闘い、痛みとの闘い、吐き気や熱との闘いなど、たくさんの戦いを闘ってこられましたが、もう、いまは、妙子先生はすべての戦いから解放されているので、これまで妙子先生の重荷となっていたものはすべて振りほどかれているのです。葬儀でいつも読む箇所ですが黙示録21章3-4節にはこう書かれています。「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」神様は、人を創ることができる方ですが、同時に、人を新しく造りかえることもできるお方です。妙子先生の体を昨日見てびっくりしました。足がひどくむくんでいて、おなかは妊娠しているように膨れ上がっていました。水がたまっていたからです。妙子先生の肉体はがんに侵されてひどく傷んでいましたが、神様は、それをもまったく新しくしてくださるのです。この地上でどのような苦しみや悲しみや痛みがあったとしても、それらは全部過ぎ去って神様のみもとへと移されるのです。すべてが新しくなりました。妙子先生は、今日、昨日までとは違った世界で、違った存在ではありますが、昨日までと全く変わらない個性をもって今日も生きておられるのです。黙示録の21章6節には「また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」と記されています。」私たちのいのちは、妙子先生の命もそうですが、すべてが神によってはじまり、最後は神によって終わるのです。イエスさまは最初であり終わりである方です。神様は、これほどまでに、雄大な方です。はるかに偉大な方です。わたしたちは、神様の前には本当に小さな虫けらのような惣菜です。しかし、そのような小さなものであっても、神様は、渇いている者には水を飲ませてくださるのです。一人の人の小さな求めをも満たしてくださるのです。妙子先生の魂は、このように私たちを愛してくださる神様のそばに移されて、永遠のへいあんの中に安らいでいることを覚えながら、私たちは、妙子先生の信仰生活にならって、主を信頼して歩み続けて行きましょう。

