礼拝説教 2009年1月11日 『わたしたちはどこから救われたか』(イザヤ51:1-3)

2009.02.23

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(イントロ)
 いつも言っていますように、今読んでいるイザヤ書の後半の部分は歴史的には、今から約2500年前のユダヤ人に向かって語られている神様からのメッセージです。当時、ユダヤ人たちは、バビロンによって国も都エルサレムの滅ぼされてしまい、主だった人々は強制的にバビロンに連行されて、言葉も文化も生活のすべてが異なる国で生活していました。この出来事は、もとを正せば、自分たちが招いたものでした。神様が預言者を通して繰り返し神への正しい信仰に立ち返るようにと訴えていたにもかかわらず、神様を信じないで、人間が作った偶像を拝んでいたからです。彼らが神への信仰を取り戻すために、神様はユダヤ人たちにこのような大きな苦しみを与えられました。苦境に陥ったことによって、ユダヤ人たちの多くは悔い改めました。そして、聖書の神、真実の神への信仰に立ち返る人が起こされて行きました。そのような苦しみの中で信仰を回復しつつある人々に神様が言われたことは、「自分の過去を振り返りなさい」ということでした。私たちは、困難な状況に出くわすと、今の自分、現在の状況があまりにも大きなもので、どうしようもないと考えてしまいます。今、この瞬間に希望が見えなければもうだめだと思い込んでしまい、神様への信仰も揺らいでしまうことが多いのです。旧約聖書の時代の偉大な預言者イザヤを通して神様が語りかけているユダヤ人たちは、自分の国から遠く離れたバビロンで、大きな不安と、孤独を味わっていたに違いありません。そのような彼らに向かって神様が彼らを励ますアドバイスを与えておられるのです。神様は落ち込んでいたユダヤ人たちに51章の1節から8節の中で3つのアドバイスを与えておられます。

(1) 過去を振り返りなさい。(1−3節)
 第一に、神様は、当時のユダヤ人たちに向かって「過去を振り返って、彼らの先祖、イスラエル民族の最初の人間であるアブラハムとその妻のことを思い出しなさい。」と命令しておられます。1節で、神様は「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」と言われました。つまり、神様は、私たちに、自分がどんな状態から救い出されたのか、自分が救い出される前のことを思い出せと言っておられるのです。聖書は、私たちは皆、生まれたままでは罪人で正しい人は一人もいないと断言しています。もちろん私たちの社会には良いことを行う人は多くいます。立派な活動をしている人も数多くいます。それらの人々を犯罪者と比較するならば、彼らは確かに正しい人と言えるでしょう。しかし、それは、罪人の中で比べあっているレベルの話なのです。絶対的に清く正しい神様の基準で見ると、神の目に正しい人は一人もいません。エペソ人への手紙2章3節には「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」と書いてあります。魂の滅びに向かっていた私たちを、憐れみ深い神様は、滅びに向かっていた私たちを永遠のいのちに向かう新しい人に作り変えてくださったのです。この前のメッセージで語りましたが、クリスチャンが覚えていなければならない5つのポイントの一つとして「今日にいたるまでの、神様の真実さ、真実の愛」という点があげられていました。
 今日の夕方行われる吉田暁美姉の葬儀では、吉田姉のご希望によって4つの歌を歌いますが、その一つが有名な「アメージング・グレース」という歌です。このタイトルは日本語に訳すと「本当にびっくりするぐらいの神様の恵み」となります。この歌の歌詞を書いたジョン・ニュートンという人は、自分の体験を歌にしました。彼にとって、今クリスチャンとして生かされていることは、信じられないような神様の愛、神様の恵みだと感じて、それをこの歌に書き表しました。「驚くばかりのめぐみなりき。この身の汚れを知れるわれに。」これが日本語の1番の歌詞ですが、英語の歌詞の後半がカットされています。その部分は日本語にすると、「私は、以前は、人生の道に迷った者でした。しかし、神様が私を見つけ出してくださいました。私は、以前は、見るべきものが見えないで生きていましたが、今はそれが見えるようになりました。」彼は18世紀のイギリスの牧師ですが、クリスチャンになる前は奴隷貿易の船の乗組員として非常に乱れた生活をしていました。しかし、イギリスに戻る途中に船が嵐に出くわして、もう自分が死ぬかもしれないと思ったときに、彼は熱心なクリスチャンであった母親からもらっていた聖書を読んで、神様に助けを求めました。彼の船は嵐に耐えて無事にイギリスに到着しました。このときから彼の人生は変わり、そして、後に彼はイギリスの教会の牧師になりました。しかし、彼は牧師として神に仕えていたときも、決して自分がどこから救われたのかを忘れることはありませんでした。そして、自分の過去について考えれば考えるほど、今の自分があることが、彼にとっては神様から与えられた特別な恵み、驚くばかりの恵み、アメージング・グレースとしか思えなかったのです。私たちの人生は、彼と同じではないとしても、皆、クリスチャンになる前は、エペソ所にあるように自分の肉の欲の中に行き、肉と心の望むままの生活をしていて、神様の怒りを受けなければならない人間だったのです。しかし、そんな私を神様は愛してくださり、私の小さな信仰を受け入れてくださり、今日まで私の生活を守り導いてくださったのです。私たちは、ジョン・ニュートンと同じように、神様からアメージング・グレースを受けたことを忘れることなく、そのことを感謝して生きることが大切です。

 2節には次のような言葉が語られています。「あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。」アブラハムは、イスラエル民族を生み出す最初の人間でした。彼は、もともと、現在のイラクにあったウルという大きな都に住む人間で、その町の人々は月の神を拝んでいました。しかし、神様はこのアブラハムという一人の人間を選び出して、ウルから現在のイスラエルが位置する場所に導かれました。そのとき、アブラハムは75歳、妻のサラは65歳でした。人生の全盛時代を過ぎた老人でありました。肉体的には、もう子供を生むことができないようになっていました。つまり、死んだような体の持ち主でありました。人間的な基準で考えれば、力も権威もないような二人であって、彼らには特別な才能、特別な力、特別な賜物があったわけではありませんでした。しかし、アブラハムが神様を信じたときに、それによって、神様はアブラハムを義人、正しい人と認めてくださいました。彼は、元々、神様から義人だと認めてもらえるような立派な人間であったのではありません。しかし、そんな小さな、年老いたたった一人の人間から、神様は空に輝く星のように非常に多くの人々を生み出し、イスラエル民族を作り出されたのでした。
使徒パウロは、私たち人間は土の器に過ぎないと言いました。しかし、その土の器の中に、神様の測り知れない力が働くのだとパウロは言います。今回、天に召された吉田暁美姉も、決して強い人であったとは思いません。肉体的にも精神的にも弱い部分を持っておられたと思います。しかし、土の器のようにもろく壊れやすい者であっても、全能の力を持っておられる神様を信じるときに、その土の器の中に 測り知れない神様の力が働くのです。吉田姉のご主人が、吉田暁美姉について、「病気になってから、肉体的にどんなに辛いときでも、決して信仰が揺らぐことはなかった。」と話しておられました。それは、吉田姉が測り知れない力を持つ神様を純粋に信頼しておられたので、その力が吉田姉の中に働いたからだと思います。中国の奥地にまで聖書の福音を届けた19世紀の宣教師ハドソン・テーラーは次のように言っています。「信仰の巨人と呼ばれる人は皆、元々弱い人間でした。しかし、彼らが偉大な働きをなしえたのは、彼らが常に神様が自分とともにいることを知っていたからです。」土の器に過ぎなかったアブラハム一人を呼び出して、そこから一つの国家、一つの民族を作り出すだけの力を持っておられる神様は、私にも、あなたにも、同じ働きをする力を持っておられるに違いありません。

3節には次のような言葉が語られています。「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」私たちが信じている神様は、私たちを罪と罪の裁きから救い出してくださる方です。また、私たちがどんなに小さく弱い人間でも、その中に神様は大きな力を働かせてくださる方です。それだけではなく、3節を見ると、私たちの神様は私たちを慰めてくださる神様です。「主はシオンを慰める」とありますが、シオンとはユダヤ人のことです。バビロンによって国も都エルサレムも滅ぼされ、バビロン軍によって強制的にバビロンに連れて来られて苦しい生活をしていたユダヤ人たちを慰めてくださった神様は、今も私たちを慰めてくださいます。ただ、慰めるということは「同情する」「哀れに思う」ということとは違います。同情は人を強くしないで、むしろ人を弱くします。子供が泣いているときに、泣くのをやめされるために、キャンデーを与えることがあります。それは、何かの問題で子供は泣いているのですが、その問題を一時的に忘れさせて、その問題から注意をそらすためにキャンデーを与えます。しかし、一時的に問題を忘れても、その問題がなくなったわけではありません。その問題はそのままそこにあるので、そのキャンデーは子供に力を与えることはないのです。神様が私たちを慰めてくださるのは、困難な中にある私たちが、その困難を乗り越えられるように神様の力を与えてくださるということです。英語で「慰め」という言葉は「confort」と言いますが、これは二つのラテン語の言葉を組み合わせて作られた言葉です。Conはいっしょにという意味で、fortは力と言う意味です。つまり、慰めるとは力を与えるということなのです。新約聖書はギリシャ語で書かれているのですが、ギリシャ語では、今の私たちに働く神、聖霊を慰め主という言葉で表現しています。「慰め主」と訳されている言葉は、詳しく言えば、「助けるために近くに来るように呼ばれる者」という意味です。神様は私たちに様々な方法で働きかけてくださいます。聖書を読むときにそこに書かれている言葉が、時に、砂漠にしみている水のように、心の中にすっとしみ込むことがあります。祈っているとき、瞑想しているときに、ふと浮かんだ思いや、昔のことを思い出したことが、心の大きな慰めになることがあります。また、あるときはクリスチャンの友人の言葉や行いから慰めを受けることがあります。それは、聖霊なる神様が、私たちのそばに来て御言葉やいろいろな思いや、他のクリスチャンを通して私たちに力を与えてくださるからです。しかも12節を見ると「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。」と神様が語っておられます。私たちに向かって神様が叫んでおられます。「私を見なさい。私を見上げなさい。周りの状況や他の人の言葉などに流されないで、私を見なさい。私が、この私があなたを慰める」と神様ご自身が2回繰り返して、「この私が」と言われました。この世界とその中にあるすべてのものを創られた神様の言葉です。これだけ力をこめて神様が言ってくださるのなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。
 当時のユダヤ人にとって、彼らの国も都も滅ぼされて荒野のように荒れ果てていました。しかし、神様は、そのように荒れ果てた場所も、荒れ果てた生活も、昔の楽園、エデンの園のようにまったく変える力を持っておられます。たとえ、私たちを取り巻く現状が荒野でも、その状況が変わらないままでも、私たちは神様がそばにいて力を与えてくださるので、まるでエデンの園にいるかのように喜びと感謝を持って生きることができるのです。それは、私たちの神様が様々な恵みをもって力づけてくださるからです。16節を読みましょう。「わたしは、わたしのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ。」とシオンに言う。」ここには神様の5重の恵みが書かれています。1)わたしの言葉をあなたの口に置く。神様の言葉は神様の約束です。私たちは神様の約束の恵みです。その約束とは、イエスキリストを信じる者は一人として滅びることなく永遠の命を持つという約束に集約されます。2)わたしの手の影にあなたをかばう。全能者の手、この世界を創られた創造主の手が私たちを守ってくださるという恵みです。3)天を引き延ばす。天を広げるとは、私たちのうえにさらに多くの恵みを降らせるために、神様が天を広げてくださる恵みです。4)地の基を定める。これは私たちが何が起きても揺るがないように私たちがしっかりと立つ土台を与えてくださる恵みです。5)「あなたはわたしの民だ」と言う 私がどこにいても、何をしていても、どんな状況の中に置かれていても、神様は私たちに向かって「あなたはわたしの民だ」だから「わたしは決してあなたを離れず、あなたを見捨てない」といってくださる恵みです。
 私たちは、本当に小さな信仰者ですが、恵み豊かな神様は、これほどまでに恵みを与えてくださるのです。その恵みが私たちを慰め、力を与えてくれるのです。吉田姉も、この神様の慰め、恵みを受けておられたので、最後まで、天国の希望をしっかり持って地上の生涯を全うすることができたのだと思います。私たちも、吉田姉の信仰にならって、しっかり見上げて歩み続けましょう。