礼拝説教 2009年1月4日 『神の手は短いのか』(イザヤ50章1−3節)
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(イントロ )
2008年は私たちの教会にとっても、また日本や世界にとっても激動の一年でありました。経済面では、アメリカのサブプライム問題や自動車産業の困難、また原油高などの問題が絡み合って、一気に世界中の経済が非常に悪い状態に変わりました。昨年度は2兆円を越す利益を上げたトヨタ自動車も今年度は赤字になったことが世界中を驚かせました。この世界に絶対に大丈夫というものがないことを感じさせる出来事でした。また、私たちの教会では、多くの方が病気との闘いの中に入れられました。私たち人間は強いように見えても、神様の前では、本当に弱い者であることを知らされます。詩篇103篇には次のように書かれています。「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。人の日は、草のよう。野の花のように咲く。 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。」私たちはイスラエルに咲く野の花のようだといわれています。イスラエルの野の花は、東風が吹くと一気に枯れてしまいます。東風はアラビア砂漠から吹いてくる熱風だからです。私たちのいのちも実は、そのようにもろいものであることを知らされます。しかし、詩篇103篇は、そこで終わらずに続いて次のように言っています。「しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。」私たちがどんなに弱い者であっても、何も恐れる必要はありません。なぜなら、主を恐れる者のうえには主の恵みがとこしえからとこしえにあるからです。去年からイザヤ書の40章以降、後半を1章ずつ学んできましたが、今年も、イザヤ書の50章から最後まで読みながら、もう一度私たちが信じている神様がどんな神様であるのか、どれほど偉大で力強い神であるかをはっきりと知りたいと思います。というのは、私たちの信仰は、私たちが信じる神をどうとらえるかによって決まるからです。神様の偉大な力をはっきりと見る信仰の目を持ちたいと思います。
今日読んだイザヤ書49章は、預言者イザヤを通してイスラエルの人々に向かって語られたメッセージですが、時代は主イエスの時代からさらに600年ほどさかのぼった時代です。そのころ、ユダヤ人たちは、東の大国バビロンによって滅ぼされ、人々はバビロンへ強制的に連れて行かれていました。この出来事を「ユダヤ人のバビロン捕囚」と言うのですが、これはユダヤ人にとって歴史の中で一番悲しい出来事であり、苦しい出来事でありました。言葉も文化も気候も食べ物も違う外国に住むことは簡単なことではありません。しかも、バビロンに強制連行されたユダヤ人たちは、いつ自分の国に帰られるのか、いえ、もっと言えば、自分の国に帰ることができるかどうかも分かりませんでした。ユダヤ人たちは誇り高い民族でした。自分たちは神に選ばれた特別な民であり、つねに神に守られていると信じていました。自分たちの国の都エルサレムは永遠に滅びることはないと思いこんでいたのですが、バビロンによって滅ぼされ、自分たちは、住み慣れた場所から強制的にバビロンにつれて行かれ、そこで生活をすることを余儀なくされたのです。そんな苦しい状況が自分の身に降りかかることを夢にも思っていなかったユダヤ人は、過去において神様が彼らの先祖に対してどれほど大きなことをしてくださったのかということを忘れ、神様が真実の神であることを疑って、自分たちは神に見捨てられたのだと思うようになったのです。私たちも信仰を持っていても、この世においては苦しいことや辛いことを経験します。その経験があまりにも辛かったり、また辛い状況が長く続くと、当時のユダヤ人と同じように、「神様は私を見捨てた。神様はわたしのことを忘れてしまった」と考えるようになってしまいがちです。そのような私たちに対して、神様はイザヤ書の49章14節から50章の3節までの中で、神様が神を信じる人々、つまりクリスチャンを絶対に見捨てることがないということを3つのたとえを用いて述べておられます。
(1)慈愛に満ちた母親のように(49章14-23節)
聖書は、大部分、神を私たちの父親として描いています。しかし、この箇所から分かるように、神様のご性質には母親のような面もあることを私たちは忘れてはなりません。神様は、母親が子供を愛し、子供を助け、子供を慰めるように、私たちに対して深い愛を持っておられます。イザヤ書66章13節には「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」という言葉があります。イザヤはユダヤ人を乳飲み子として、そして神を乳飲み子の母として描いています。罪を持つ人間でも母親が乳飲み子を忘れることはありません。まして、愛に満ち満ちておられる天の父なる神様が私たちをどうして忘れることができるでしょうか。イザヤ書44章の21節でも神様は次のように言っておられます。「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。」愛の神様、完全な神様は決して私たちを見捨てることも忘れることもありません。たとえ私たちがこの世で困難や試練を経験するとしても、すべてのことは神様の愛から出ているのです。私たちがさらにキリストに似た人格を持つ者になるように、そのような経験を与えられるのです。ユダヤ人がバビロンに強制連行されたときも、決して神様は彼らを見捨てたわけではありませんでした。
ユダヤ人の中で愛国心の強い人は、都エルサレムを忘れないために、自分の手のひらにエルサレムの城壁を刻んでいました。刻むというのは刺青を入れるように体の皮膚を刻み込むことです。それは永遠に消えないことを意味します。神様は私たちのことを、あなたのことをご自身の手のひらに刻んでおられます。
(2)勇気に満ちた戦士のように(24-26節)
エルサレムがバビロンに滅ぼされた時、バビロンは世界でもっとも強い国でした。ネブカデネザルという力に満ちたバビロン王はついにエルサレムを滅ぼすことに成功しました。そしてその結果、ユダヤ人たちは捕虜となって強制的にバビロンに連れて行かれたのです。ユダヤ人を救うことのできる人は一人もいませんでした。バビロンの強さを知っていたユダヤ人たちは、恐らく自分も自分の子孫も永遠に自分の祖国イスラエルには帰ることができないと思っていました。そのために、彼らは絶望的になって、「神様は自分たちのことを忘れたのだ」とか「神様は自分たちを見捨てたのだ」と考えるようになっていたのです。人間的にバビロンが滅びることは不可能のように見えました。しかし、神様は決してバビロンに暮らしていたユダヤ人のことを忘れていたわけではありません。神様はご自身の計画を一つ一つ進めておられたのです。バビロン王ネブカデネザルは自分の力でイスラエルを滅ぼしたと思っていたはずですが、実は、神様がネブカデネザルがそのように行動することを許可されたから、イスラエルを滅ぼすことができたのです。それは、神様がユダヤ人たちの信仰を試すためでした。そして、神様の時が来ると、イスラエルの民は救い出されるのです。あれほど強い国であったバビロンはわずか80年ほどで滅んでしまいます。神様はペルシャ王クロスを用いてバビロンを滅ぼさせました。つぎに神様はペルシャ王クロスの心に働きかけてユダヤ人を解放させ、祖国イスラエルに帰国させることを実現したのです。神様は、このように歴史の中で何度も奇跡的な働きをしておられます。イスラエルの民がエジプトで奴隷として非常に苦しい生活をしていたときも、神様はリーダーとしてモーセを建て、当時世界一の権力者であったエジプト王パロの執拗な妨害にも関わらず、彼らを奴隷状態から解放して、乳と蜜の流れる地といわれたすばらしい約束の国、現在のイスラエルがある場所まで導いてくださいました。これも人間的に見ると奇跡です。バビロンに強制連行されたユダヤ人たちが祖国イスラエルに帰国することができたのも、当時の人々にとっては奇跡でした。イザヤ書49章24節で「奪われた物を勇士から取り戻せようか。罪のないとりこたちを助け出せようか。」と言われていますが、ここで勇士と言われているのは「サタン」「悪魔」をさしています。聖書は、神を信じようとしない人は「悪魔」に捕らえられて悪魔の捕虜になっていると教えています。しかし、感謝なことは、私たちが信じる聖書の神様は、この悪魔よりもはるかに強い方だということです。私たちの主イエス・キリストは、悪魔よりもはるかに力強い方です。私たちは、主イエスの十字架の働きを通して、悪魔の束縛から解放されて、今ではキリストの捕虜となったのです。イエス・キリストは私たちを捕虜として捉えてくださり、私たちをバビロンにではなく天国へ連れて行ってくださるのです。(エペソ4:8)49章26節で神は次のように述べられました。「すべての者が、わたしが主、あなたの救い主、あなたの贖い主、ヤコブの力強き者であることを知る」。神様は、私たちの主です。敵の手から救い出してくださる救い主です。罪の束縛と罪の裁きから私たちを解放してくださるあがない主です。そして、全能の力で私たちを守り導いてくださる私たちの力強き者であられることを全世界の人々が知るようになると言われています。私たちが信じる神様の力強さを私たちはどれほど知っているでしょうか。
(3)真実の愛であいする方として(5章1-3節)
そして3番目に、神様はご自分とイスラエルの民との関係を夫と妻の関係にたとえています。イスラエルの民が神様の妻であるというイメージは旧約聖書の預言者がたびたび用いています。神様がイスラエルの民と契約を結んだとき、その契約は夫と妻が結婚式で誓う誓いのようなものです。結婚式では、夫も妻も、死ぬときまで互いに相手だけを愛することを約束します。神様とイスラエルの民との間でもそのような誓いが立てられました。しかし、イスラエルの民は神だけを信頼することに不安を感じると、他の神々や人間が作った偶像の神をも礼拝するようになりました。そのようなイスラエルの民に向かって、神様は、「あなたたちは姦淫を犯している」、今風に言えば「不倫をしている」と強く非難されました。しかし、神様との誓いを破るようなイスラエルの民であっても、神様は決して彼らを見捨てたわけではありません。「神は自分たちを見捨てた」と嘆くイスラエルの民に向かって神様は尋ねておられます。「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら」。旧約聖書の律法によると、夫が妻と結婚した後に、妻が気に入らないときに、離縁状を与えて、妻を家から追い出すことができました(申命記24:1-4)。離縁状は、妻と夫の結婚関係は終わったことと、離縁された女性は再婚する自由があることを保証するものでした。しかし、同時に、この離縁状は、離縁された女性が元の夫のところに帰ることを禁じていました。神様がここで訴えておられることは、イスラエルの民がバビロンに捕虜となって強制連行されたことは、「神様が彼らのことが嫌いになって追い出したからではない。神様は自分に対して忠誠を守らない妻のようなイスラエルの民がバビロンに強制移住させられた苦しみを通して、悔い改めに導かれ、神との関係が修復されることを望んでおられたのです。神様はいつでも彼らを赦し彼らを受け入れる用意がありました。
また、預言者イザヤの時代、人が借金を返すことができないときに、自分の子供を貸主に奴隷として売って返済に充てるということが行われていました。神様はイスラエルの民をバビロンの奴隷になるように売り飛ばしたのでもありません。彼らは自分の罪、神の言葉に従おうとしない罪によって自分自身をバビロンに売ったのでした。だから、イスラエルの民が神に向かって「神が自分を見捨てた」と嘆くのは完全な思い違いなのです。
さらに3節では、神様はイスラエルの民に向かって「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか」と尋ねておられます。2節では、イスラエルの民がバビロンに連れて行かれたのは神様が彼らを愛していないからではないことが述べられていますが、3節では、神様の力が足りなかったから、彼らがバビロンに連れて行かれたのではないと神様は断言しておられるのです。私たちが神様の力を信じないことは、不信仰という大きな罪です。神様は続いて言われました。「見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする」。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたときに、神様は彼らのために様々な力ある働きをなさいました。神が働いたとき、紅海の海が二つに割れて、彼らはその海を歩いてわたることができました。また、彼らがエジプトを出て40年目にようやく約束の地に入るとき、彼らの前にはヨルダン川があり、季節が春だったために、川は雪解け水で増水していました。普通の方法では、イスラエルの民はヨルダン川を渡ることはできませんでした。しかし、このときも神様の奇跡がなされて、ヨルダン川が二つに割れたので、彼らは、ここでも歩いて渡ることができたのです。神様は、どこにいても、どんなときでも、奇跡の業を行う力を持っておられる方です。その力が働かないのは、私たちが罪を犯していたり、神の力を信じない不信仰に陥っているからです。神様の力強い御手は絶えず私たちに向かって伸ばされています。神様の手が短いのではなく、私たちが神様の手を信頼してその手をつかもうとしていないのです。この世界を創られた創造主なる神、私たちを真実の愛で愛してくださる神が、私たちの父親であるなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。私たちはこんな力強い神が自分の父親で、いつでも私たちを守り助けようとしてくださる父親であることを感謝して、幼子のように神様を信頼するべきではないでしょうか。自分の考えや感情や計算を手放して、神様の力強い腕の中にとどまり続けましょう。
アフリカの探検家であり宣教師であったリビングストンの後継者にダン・クロフォードという人がいます。自分の一生をアフリカの宣教のためにささげた人です。彼はいつも上着のポケットに新約聖書を入れていましたが、彼が死んだときに、彼がいつも持ち歩いていたぼろぼろの聖書が見つかりました。彼はその聖書の余白の部分に次のようなことばを書き込んでいました。「私は一人では何もできない。私はこれまでの人生で、何度も大きな高い波が押し寄せ、冷たい霧が立ち込め、空の光が消えるような経験をしてきた。それでも、私は知っている。私たち二人は最後には勝利することを。私とイエス。私は臆病でぐらつきやすくて弱い人間だ。空のように私の心は変わりやすい。今日は勇気があっても明日は弱くて立ち上がれないような自分だ。しかし、主イエスは決してあきらめることがない。だから、私たちふたちは最後には必ず勝利するのだ。私と主イエスの二人は」。
(イントロ )
2008年は私たちの教会にとっても、また日本や世界にとっても激動の一年でありました。経済面では、アメリカのサブプライム問題や自動車産業の困難、また原油高などの問題が絡み合って、一気に世界中の経済が非常に悪い状態に変わりました。昨年度は2兆円を越す利益を上げたトヨタ自動車も今年度は赤字になったことが世界中を驚かせました。この世界に絶対に大丈夫というものがないことを感じさせる出来事でした。また、私たちの教会では、多くの方が病気との闘いの中に入れられました。私たち人間は強いように見えても、神様の前では、本当に弱い者であることを知らされます。詩篇103篇には次のように書かれています。「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。人の日は、草のよう。野の花のように咲く。 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。」私たちはイスラエルに咲く野の花のようだといわれています。イスラエルの野の花は、東風が吹くと一気に枯れてしまいます。東風はアラビア砂漠から吹いてくる熱風だからです。私たちのいのちも実は、そのようにもろいものであることを知らされます。しかし、詩篇103篇は、そこで終わらずに続いて次のように言っています。「しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。」私たちがどんなに弱い者であっても、何も恐れる必要はありません。なぜなら、主を恐れる者のうえには主の恵みがとこしえからとこしえにあるからです。去年からイザヤ書の40章以降、後半を1章ずつ学んできましたが、今年も、イザヤ書の50章から最後まで読みながら、もう一度私たちが信じている神様がどんな神様であるのか、どれほど偉大で力強い神であるかをはっきりと知りたいと思います。というのは、私たちの信仰は、私たちが信じる神をどうとらえるかによって決まるからです。神様の偉大な力をはっきりと見る信仰の目を持ちたいと思います。
今日読んだイザヤ書49章は、預言者イザヤを通してイスラエルの人々に向かって語られたメッセージですが、時代は主イエスの時代からさらに600年ほどさかのぼった時代です。そのころ、ユダヤ人たちは、東の大国バビロンによって滅ぼされ、人々はバビロンへ強制的に連れて行かれていました。この出来事を「ユダヤ人のバビロン捕囚」と言うのですが、これはユダヤ人にとって歴史の中で一番悲しい出来事であり、苦しい出来事でありました。言葉も文化も気候も食べ物も違う外国に住むことは簡単なことではありません。しかも、バビロンに強制連行されたユダヤ人たちは、いつ自分の国に帰られるのか、いえ、もっと言えば、自分の国に帰ることができるかどうかも分かりませんでした。ユダヤ人たちは誇り高い民族でした。自分たちは神に選ばれた特別な民であり、つねに神に守られていると信じていました。自分たちの国の都エルサレムは永遠に滅びることはないと思いこんでいたのですが、バビロンによって滅ぼされ、自分たちは、住み慣れた場所から強制的にバビロンにつれて行かれ、そこで生活をすることを余儀なくされたのです。そんな苦しい状況が自分の身に降りかかることを夢にも思っていなかったユダヤ人は、過去において神様が彼らの先祖に対してどれほど大きなことをしてくださったのかということを忘れ、神様が真実の神であることを疑って、自分たちは神に見捨てられたのだと思うようになったのです。私たちも信仰を持っていても、この世においては苦しいことや辛いことを経験します。その経験があまりにも辛かったり、また辛い状況が長く続くと、当時のユダヤ人と同じように、「神様は私を見捨てた。神様はわたしのことを忘れてしまった」と考えるようになってしまいがちです。そのような私たちに対して、神様はイザヤ書の49章14節から50章の3節までの中で、神様が神を信じる人々、つまりクリスチャンを絶対に見捨てることがないということを3つのたとえを用いて述べておられます。
(1)慈愛に満ちた母親のように(49章14-23節)
聖書は、大部分、神を私たちの父親として描いています。しかし、この箇所から分かるように、神様のご性質には母親のような面もあることを私たちは忘れてはなりません。神様は、母親が子供を愛し、子供を助け、子供を慰めるように、私たちに対して深い愛を持っておられます。イザヤ書66章13節には「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」という言葉があります。イザヤはユダヤ人を乳飲み子として、そして神を乳飲み子の母として描いています。罪を持つ人間でも母親が乳飲み子を忘れることはありません。まして、愛に満ち満ちておられる天の父なる神様が私たちをどうして忘れることができるでしょうか。イザヤ書44章の21節でも神様は次のように言っておられます。「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。」愛の神様、完全な神様は決して私たちを見捨てることも忘れることもありません。たとえ私たちがこの世で困難や試練を経験するとしても、すべてのことは神様の愛から出ているのです。私たちがさらにキリストに似た人格を持つ者になるように、そのような経験を与えられるのです。ユダヤ人がバビロンに強制連行されたときも、決して神様は彼らを見捨てたわけではありませんでした。
ユダヤ人の中で愛国心の強い人は、都エルサレムを忘れないために、自分の手のひらにエルサレムの城壁を刻んでいました。刻むというのは刺青を入れるように体の皮膚を刻み込むことです。それは永遠に消えないことを意味します。神様は私たちのことを、あなたのことをご自身の手のひらに刻んでおられます。
(2)勇気に満ちた戦士のように(24-26節)
エルサレムがバビロンに滅ぼされた時、バビロンは世界でもっとも強い国でした。ネブカデネザルという力に満ちたバビロン王はついにエルサレムを滅ぼすことに成功しました。そしてその結果、ユダヤ人たちは捕虜となって強制的にバビロンに連れて行かれたのです。ユダヤ人を救うことのできる人は一人もいませんでした。バビロンの強さを知っていたユダヤ人たちは、恐らく自分も自分の子孫も永遠に自分の祖国イスラエルには帰ることができないと思っていました。そのために、彼らは絶望的になって、「神様は自分たちのことを忘れたのだ」とか「神様は自分たちを見捨てたのだ」と考えるようになっていたのです。人間的にバビロンが滅びることは不可能のように見えました。しかし、神様は決してバビロンに暮らしていたユダヤ人のことを忘れていたわけではありません。神様はご自身の計画を一つ一つ進めておられたのです。バビロン王ネブカデネザルは自分の力でイスラエルを滅ぼしたと思っていたはずですが、実は、神様がネブカデネザルがそのように行動することを許可されたから、イスラエルを滅ぼすことができたのです。それは、神様がユダヤ人たちの信仰を試すためでした。そして、神様の時が来ると、イスラエルの民は救い出されるのです。あれほど強い国であったバビロンはわずか80年ほどで滅んでしまいます。神様はペルシャ王クロスを用いてバビロンを滅ぼさせました。つぎに神様はペルシャ王クロスの心に働きかけてユダヤ人を解放させ、祖国イスラエルに帰国させることを実現したのです。神様は、このように歴史の中で何度も奇跡的な働きをしておられます。イスラエルの民がエジプトで奴隷として非常に苦しい生活をしていたときも、神様はリーダーとしてモーセを建て、当時世界一の権力者であったエジプト王パロの執拗な妨害にも関わらず、彼らを奴隷状態から解放して、乳と蜜の流れる地といわれたすばらしい約束の国、現在のイスラエルがある場所まで導いてくださいました。これも人間的に見ると奇跡です。バビロンに強制連行されたユダヤ人たちが祖国イスラエルに帰国することができたのも、当時の人々にとっては奇跡でした。イザヤ書49章24節で「奪われた物を勇士から取り戻せようか。罪のないとりこたちを助け出せようか。」と言われていますが、ここで勇士と言われているのは「サタン」「悪魔」をさしています。聖書は、神を信じようとしない人は「悪魔」に捕らえられて悪魔の捕虜になっていると教えています。しかし、感謝なことは、私たちが信じる聖書の神様は、この悪魔よりもはるかに強い方だということです。私たちの主イエス・キリストは、悪魔よりもはるかに力強い方です。私たちは、主イエスの十字架の働きを通して、悪魔の束縛から解放されて、今ではキリストの捕虜となったのです。イエス・キリストは私たちを捕虜として捉えてくださり、私たちをバビロンにではなく天国へ連れて行ってくださるのです。(エペソ4:8)49章26節で神は次のように述べられました。「すべての者が、わたしが主、あなたの救い主、あなたの贖い主、ヤコブの力強き者であることを知る」。神様は、私たちの主です。敵の手から救い出してくださる救い主です。罪の束縛と罪の裁きから私たちを解放してくださるあがない主です。そして、全能の力で私たちを守り導いてくださる私たちの力強き者であられることを全世界の人々が知るようになると言われています。私たちが信じる神様の力強さを私たちはどれほど知っているでしょうか。
(3)真実の愛であいする方として(5章1-3節)
そして3番目に、神様はご自分とイスラエルの民との関係を夫と妻の関係にたとえています。イスラエルの民が神様の妻であるというイメージは旧約聖書の預言者がたびたび用いています。神様がイスラエルの民と契約を結んだとき、その契約は夫と妻が結婚式で誓う誓いのようなものです。結婚式では、夫も妻も、死ぬときまで互いに相手だけを愛することを約束します。神様とイスラエルの民との間でもそのような誓いが立てられました。しかし、イスラエルの民は神だけを信頼することに不安を感じると、他の神々や人間が作った偶像の神をも礼拝するようになりました。そのようなイスラエルの民に向かって、神様は、「あなたたちは姦淫を犯している」、今風に言えば「不倫をしている」と強く非難されました。しかし、神様との誓いを破るようなイスラエルの民であっても、神様は決して彼らを見捨てたわけではありません。「神は自分たちを見捨てた」と嘆くイスラエルの民に向かって神様は尋ねておられます。「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら」。旧約聖書の律法によると、夫が妻と結婚した後に、妻が気に入らないときに、離縁状を与えて、妻を家から追い出すことができました(申命記24:1-4)。離縁状は、妻と夫の結婚関係は終わったことと、離縁された女性は再婚する自由があることを保証するものでした。しかし、同時に、この離縁状は、離縁された女性が元の夫のところに帰ることを禁じていました。神様がここで訴えておられることは、イスラエルの民がバビロンに捕虜となって強制連行されたことは、「神様が彼らのことが嫌いになって追い出したからではない。神様は自分に対して忠誠を守らない妻のようなイスラエルの民がバビロンに強制移住させられた苦しみを通して、悔い改めに導かれ、神との関係が修復されることを望んでおられたのです。神様はいつでも彼らを赦し彼らを受け入れる用意がありました。
また、預言者イザヤの時代、人が借金を返すことができないときに、自分の子供を貸主に奴隷として売って返済に充てるということが行われていました。神様はイスラエルの民をバビロンの奴隷になるように売り飛ばしたのでもありません。彼らは自分の罪、神の言葉に従おうとしない罪によって自分自身をバビロンに売ったのでした。だから、イスラエルの民が神に向かって「神が自分を見捨てた」と嘆くのは完全な思い違いなのです。
さらに3節では、神様はイスラエルの民に向かって「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか」と尋ねておられます。2節では、イスラエルの民がバビロンに連れて行かれたのは神様が彼らを愛していないからではないことが述べられていますが、3節では、神様の力が足りなかったから、彼らがバビロンに連れて行かれたのではないと神様は断言しておられるのです。私たちが神様の力を信じないことは、不信仰という大きな罪です。神様は続いて言われました。「見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする」。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたときに、神様は彼らのために様々な力ある働きをなさいました。神が働いたとき、紅海の海が二つに割れて、彼らはその海を歩いてわたることができました。また、彼らがエジプトを出て40年目にようやく約束の地に入るとき、彼らの前にはヨルダン川があり、季節が春だったために、川は雪解け水で増水していました。普通の方法では、イスラエルの民はヨルダン川を渡ることはできませんでした。しかし、このときも神様の奇跡がなされて、ヨルダン川が二つに割れたので、彼らは、ここでも歩いて渡ることができたのです。神様は、どこにいても、どんなときでも、奇跡の業を行う力を持っておられる方です。その力が働かないのは、私たちが罪を犯していたり、神の力を信じない不信仰に陥っているからです。神様の力強い御手は絶えず私たちに向かって伸ばされています。神様の手が短いのではなく、私たちが神様の手を信頼してその手をつかもうとしていないのです。この世界を創られた創造主なる神、私たちを真実の愛で愛してくださる神が、私たちの父親であるなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。私たちはこんな力強い神が自分の父親で、いつでも私たちを守り助けようとしてくださる父親であることを感謝して、幼子のように神様を信頼するべきではないでしょうか。自分の考えや感情や計算を手放して、神様の力強い腕の中にとどまり続けましょう。
アフリカの探検家であり宣教師であったリビングストンの後継者にダン・クロフォードという人がいます。自分の一生をアフリカの宣教のためにささげた人です。彼はいつも上着のポケットに新約聖書を入れていましたが、彼が死んだときに、彼がいつも持ち歩いていたぼろぼろの聖書が見つかりました。彼はその聖書の余白の部分に次のようなことばを書き込んでいました。「私は一人では何もできない。私はこれまでの人生で、何度も大きな高い波が押し寄せ、冷たい霧が立ち込め、空の光が消えるような経験をしてきた。それでも、私は知っている。私たち二人は最後には勝利することを。私とイエス。私は臆病でぐらつきやすくて弱い人間だ。空のように私の心は変わりやすい。今日は勇気があっても明日は弱くて立ち上がれないような自分だ。しかし、主イエスは決してあきらめることがない。だから、私たちふたちは最後には必ず勝利するのだ。私と主イエスの二人は」。

