礼拝説教 2008年12月21日 『救い主の誕生』(ルカ2章1-7節)

2009.01.08

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(イントロ)
 今日読みましたルカの福音書を記したルカはもともと医者であり、自分が記録したものが歴史的にも真実なものであることを証明するために、聖書とは無関係の出来事を記しています。それで、ルカの福音書のクリスマス物語は2章1,2節の次のような言葉で始まります。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。」皇帝アウグストとは、オクタビアヌスという名前の皇帝で、ローマ帝国の歴代の皇帝の中でも最も有名な人物です。アウグストというのは称号で、彼に与えられる前は、この称号は神だけに用いられるものでした。アウグストというのは「神聖な」とか「尊敬すべき」という意味を持つ言葉で、この皇帝から、ローマ皇帝は神と同じと考えられるようになりました。彼はローマ帝国内の争いを終わらせ、「ローマの平和」と呼ばれる時代をもたらしました。しかし、確かにこの時代、ローマ帝国の中で争いはなかったのですが、本当の平和ではありませんでした。確かに、ローマ帝国は、その権力と軍事力を用いて、戦争のない状況を作り出すことはできました。しかし、皇帝アウグストは人々の心の中に本当の平和、平安を与えることはできません。しかも当時のローマ帝国は、いわば、今日の北朝鮮と同じような状況で、誰も、ローマ皇帝に逆らうことはできませんし、誰もローマ皇帝を批判することはできませんでした。そのような状況で、誰が心の平安を持つことができたでしょうか。しかも、皇帝は、広大に広がったローマ帝国の隅々まで、帝国の中に住むすべての人から税金を取り立てていました。この税金を集める制度がしっかりしていたので、ローマ帝国の財政の基盤もしっかりしていたのです。アウグストは、軍隊に徴兵する男子の数と、税金を支払うべき人数を確認するために、定期的に人口調査を行っていたのですが、ちょうど、ヨセフとマリヤを通して救い主が生まれる直前に、この皇帝アウグストから人口調査をするようにとの命令が出たのです。そのために、ローマ帝国の東の端の片田舎、ナザレの村に住んでいた大工のヨセフと婚約者のマリヤも、この命令に従って、ヨセフの本籍がある村、ナザレの南150キロにあるベツレヘムに向かって旅立たなければならなくなりました。皇帝アウグストは、自分の国を守るために、自分の地位を守るために、人口調査を行いました。非常に自己中心的な決断です。しかし、神様はローマ皇帝のこのような決断を用いて、ご自分の計画を進めて行きます。人が何を計画しようと、人がどんなに妨害しようと、神様の計画が阻まれることはありません。この人口調査が出たために、ナザレに住んでいたヨセフとマリヤはベツレヘムに行きましたが、聖書には、それより700年も前に、預言者ミカによって、救い主はベツレヘムで生まれることが預言されていました。箴言には次のような言葉があります。 「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(16章9節)私たちの人生の歩みを確かなものにするのは神であると聖書は証言しています。人間的に見ると、ナザレの村に住んでいた貧しい若者二人、ヨセフとマリヤは、ローマ皇帝の自己中心的な決定に翻弄されて、肉体的にも経済的にも大変な旅に出発しなければならなかった、そのように見えます。確かに二人にとって、とくに、もうまもなく赤ちゃんが生まれようとしていたマリヤにとっては、ナザレからベツレヘムまでの120キロの旅はどれほど大変なものであったか、想像できます。彼らは歴史に流されているように見えますが、実は、神様の支配の中で、神様の計画が実現するために働いていたのです。私たちクリスチャンは、この世にあっては、この時のヨセフとマリヤと同じように力もなく、お金もなく、役に立たないような人間に見えるかも知れません。しかし、神を信じて生きるときには、私たちが行うことは、どんなに小さなものであっても、決してむだになるものは一つもありません。私たちが主のために生きるとき、主は私たちの働きを受け入れてくださり、また、私たちの働きを喜んでくださるのです。


 ヨセフとマリヤは120キロ余りを旅しましたが、おそらく4日ほどかかる道のりであったでしょう。おそらく二人にとって、ベツレヘムへ行くのは初めてのことでしょうから、まるで外国へ行くようなものだったと思います。当時の宿屋とは、長屋風に建てられた家畜小屋で、旅行者は、自分で食べ物を用意しなければならず、宿屋の主人から薪と家畜のえさをもらって泊まるようになっていました。イスラエルに住む人は皆人口登録にでかけていますから、当然ベツレヘムの町も多くの人々で混雑していました。そのため、ヨセフとマリヤが泊まれる部屋がありませんでした。多くの人は自分の親戚を家にとめているので、見ず知らずの他人を家に入れる余裕がありませんでした。ヨセフとマリヤがベツレヘムに到着したときに、「宿屋には彼らのいる場所がなかった。」と書かれています。神である方が人となってこの世界にわざわざ来てくださいました。しかし、この世界の人々は誰も救い主を喜んで迎えようとはしませんでした。また、救い主がこの世にお生まれになったのに、ベツレヘムの村の人は誰も、そのことに気がついていませんでした。ヨハネの福音書の1章には次のように書かれています。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」神様は、この世界とその中にあるすべてのものを創られた神です。しかし、その神が人の姿をとり、御子キリストとなってこの世に来られたときに、主イエスを迎え入れようとする人はいませんでした。旧約聖書には救い主に関することが数多く書かれていますが、彼らが考えていた救い主は、2000年前にベツレヘムで生まれた救い主とはまったく異なっていました。この世の人々が求める救い主は、力強い神であり、私たちを助けてくださる方であり、私たちの祈りを聞いてくださるお方です。彼らが待っていた救い主は、光輝く王宮の中で宝石がちりばめられたベッドに寝ているようなイメージでした。しかし、実際にこの世に来られた救い主は、ベツレヘムという田舎の村の馬小屋、岩をくりぬいて作られた家畜小屋、不潔で悪臭がただよう馬小屋でお生まれになりました。この状況は私たちの心を表しています。私たちは、自分のことを考えるだけで、頭がいっぱいになっています。いつも自分のことばかりを考え、相手の立場に立つことをしないので、他の人のことを考えることができません。また、救い主について考えるときも、自分の希望通りのすくいぬしの姿だけを考えているので、予想外の姿で来られると全然気がつかないのです。ですから、2000年前のベツレヘムに、すべての人を照らすまことの光である救い主がお生まれになったのに、村の人は誰も気がつかずに、いつもとおなじ生活をしていました。世界の歴史を紀元前と紀元後に分けるほどの大事件にも関わらず、人々は無関心であり、また気がつきません。
 クリスマスは、救い主の誕生をお祝いする日ですが、救い主イエスを信じて心に受け入れた人だけが、本当の意味で、救い主の誕生を喜び、感謝することができます。そうでないと、クリスマスを祝うということの意味は非常に不思議なものになります。というのは、救い主と言っても、ベツレヘムという田舎の村の家畜小屋で生まれた赤ちゃんです。貧しいヨセフとマリヤを親とする赤ちゃんです。しかも、政治的には何の目立った働きはしませんでした。最後はローマ帝国では恥と呪いの象徴である十字架で地上の生活を終えられた方です。その誕生をお祝いするには、あまりにもみすぼらしい姿です。だからこそ、クリスマスを本当にお祝いできるのはイエスを信じる人だけなのです。しかし、先ほど読みましたヨハネの福音書の1章には、続いて次のように書かれています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ベツレヘムでお生まれになったイエスを救い主として信じ、イエスとともに生きる決心をする者は神の子供となる権利があたえられます。私たちは、良い両親によって育てられ、守られているなら、たとえ世間が私たちに冷たくても、ひどい仕打ちをしても絶えることができます。親の愛に支えられているからです。私たちがどれほど弱いものであっても、小さな人間であっても、イエスを信じるなら、神の子供になります。ある意味において、人間が良い家庭に生まれれば幸せな人生を生きることができます。イエスを信じる者は、神の子供として生きていきます。主イエスは言われました。私は道であり、真理であり、いのちです。そのイエスとともに生きるとき、私たちは本当の道を歩み、真理の道をあゆみ、命の道、永遠の命の道を歩むことができるのです。
 救い主イエスは、ただベツレヘムで生まれた赤ちゃんだけではありません。クリスマスは、どうしても、救い主イエスを貧しい赤ちゃんというイメージで見てしまいますが、その後イエスは、30歳から3年間神の子としての公の生涯を3年間過ごされ、その間に、多くの人の病をいやし、多くの奇跡をなし、多くの人の人生をすっかり変える力を証明されました。そして、この世の生涯は、十字架の刑罰を受けるというかたちで終えられました。それは、私たちの自己中心の罪が赦されるために、私たちの身代わりとなって罰を受けるためでした。そして、主イエスは十字架で命を捨てられてから三日目に死から復活され、死ののろいと罪ののろいを打ち破られました。主イエスを信じるなら、私たちはすべての罪が許され、永遠のいのちが与えられます。この約束があるから、その約束をはっきりと信じた人は、いままでとは違う生き方をするようになります。新しい価値観で生きるようになります。自分のことだけを考えていた人間が、神につかえ、他の人のために生きる人へと変えられます。このように私たちの人生をすっかり変えるのが救い主イエスの力です。
 先週の日曜日の夕方、私たちの教会に集っておられる中谷元さんの洗礼式を急きょ行いました。私は中谷さんはこの夏韓国に行かれたときに、韓国の教会で洗礼を受けられたとばかり思い込んでいましたが、実際は、まだ受けておられませんでした。今年の5月に突然倒れた中谷さんは、肺がんの末期であることが分かりました。それまで、中学の教師として充実した人生を歩んでおられたのに、突然、末期がんの宣告をうけられました。どれほどつらく、どれほど悩まれたことでしょうか。しかし、奥さまは韓国の方ですが、お兄さんが熱心なクリスチャンで、そのことを聞いてすぐに教会の牧師先生と一緒に日本に来て中谷さんのために祈ってくださいました。そして、その時に主イエスを救い主と信じて、夫婦で教会に来るようになられました。秋になって、体調を崩されてからも、車いすで礼拝に出席しておられました。その後、病状が進み、ふたたび入院することになったのですが、病気の状況は厳しく覚悟しなければならないような状況です。実は、奥様から葬儀のことで相談を受けたのですが、その時に、中谷さんがまだ洗礼を受けておられないことを聞いて、すぐに奥さまと私たち夫婦と高取兄で病院に伺い、そこで病床洗礼をしました。中谷兄の体調は悪いはずですが、しっかりと信仰を告白して洗礼を受けられました。先週の木曜日に、お見舞いに行くと、中谷兄は、「この前の日曜日に洗礼を受けてよかったです。心の中に平安を感じています。」と言われました。中谷兄は、救い主イエスを信じることによって、人生が変えられたのです。主イエスを信じるものは、誰一人として滅びることなく永遠のいのちを持つ、これが聖書のメッセージの中心です。そして、私たちが罪の裁きから救い、死の恐怖から救う救い主が私たちのために、この世に来てくださった、これがクリスマスのメッセージなのです。主は、あなたの心の中にも入りたいと願っておられます。あなたは自分の心に主イエスをお迎えする準備ができていますか。それとも、2000年前のベツレヘムの住民のように、主をお迎えする部屋はないと、イエスを心から締め出すでしょうか。