礼拝説教 2007年11月11日 「必要を満たす奇跡」(ヨハネ6章1-14節)

2007.11.11

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 今日の奇跡は、主イエスが5つのパンと2匹の魚を使って、大人の男性だけで5000人いた群衆の空腹を満たしたというものです。この奇跡は非常に大きな意味を持つものであったようで、主イエスが神の子として働かれた3年間に行われた奇跡の中で、この出来事だけが4つの福音書すべてに記録されています。 他の福音書を見ると分かりますが、今日の出来事の前に、一つの事件が起こりました。それは、ガリラヤ地方を支配していたヘロデが預言者バプテスマのヨハネを殺害するという事件でした。この出来事は主イエスと弟子たちにとってもショッキングな出来事だったでしょうし、これによって、イエスに対するユダヤ人たちの反感がますます強くなっていたことが分かります。そのような状況の中でも、主イエスは朝早くから夜遅くまで、集まってくる人々のために説教をし、奇跡の業を行われました。主イエスと弟子たちは、少し休むために群集から離れて自分たちだけで船に乗ってガリラヤ湖の反対側のベツサイダという町へ行きました。ところがそのことを知った群集は、船に乗らずに岸辺を早足で歩いていき、主イエスと弟子たちよりも先にベツサイダに着いてしまいました。私がイエスの弟子だったら、「ちょっとは休ませてくれよ」と文句を言いたくなると思うのですが、ルカの福音書を見ると、(9章11節)主イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人々をおいやしになったと書かれています。また、マルコの福音書の6章34節には「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」と書かれています。大人の男性だけで5000人いる群衆ですから、全部合わせると1万人近くの人々がイエスを追いかけてきたのですが、その群集を見て、主イエスは羊飼いのいない羊のようであると深い憐れみを感じられました。ギリシャ語で「憐れみ」を表す言葉はもともと「胃袋」という意味を持つ言葉です。つまり、主は内臓を揺さぶられるような強い憐れみを感じられたのです。「羊飼いのいない羊」とはどんなものでしょう。羊は羊飼いがいないと、自分をオオカミや獰猛な動物から自分を守ることができません。また、羊は方向音痴なので、羊飼いがいないとどっちに行ったら良いのか分かりません。自分で十分なえさを見つけることもできません。つまい、羊飼いがいない羊はすぐに死んでしまう危険性があるのです。主イエスは、自分を追いかけてくる群集がそのような弱さを持っているのを見て、心に深い憐れみを感じられました。主イエスは、ある時には病に苦しむ人を見て、ある時には、罪に縛られて生きている人を見て、深い憐れみを感じておられます。主イエスは、今も生きておられ、私たちを見て、私たちが弱いときに、その弱さを憐れんでくださいます。このときに、非常に疲れていたにもかかわらず、群集を喜んで迎え、神の教えを語り、病気の人を癒されたように、私たちをも喜んで受け入れてくださります。また、必要な助けを与えてくださるのです。

 主は、バプテスマのヨハネが殺害されたことに心を痛め、ユダヤ教の指導者たちとの軋轢を感じて群集から離れて弟子たちだけで静かに休もうとされたのですが、それに気づいた群集が追いかけて来て、結局その日も、一日中、神の教えを語り人々のために奇跡の業を行われました。やがて日が暮れ始めました。その時に、主イエスが一番心配したのは群集の食事のことでした。ご自分もどれほど疲れていたことかと思いますが、その時でも、主は群集の必要を満たすことを最優先されたのです。主は弟子の一人ピリポに尋ねました。「「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」ピリポはベツサイダの町の出身でした。そして、今彼らはベツサイダにいましたので、この町のことをよく知っているピリポにこの質問をしたのかも知れません。ただ6節には「もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。 主は、どんなときも、何をしたらいいか分からなくて途方にくれることはありません。人間的に見ると、ベツサイダという田舎の町で、1万人近くの人に食べ物を与えることはまったく不可能なことです。しかし、どんなに困難な状況であっても、主はその解決の方法を知っておられます。神様はエレミヤ書29章11節で次のように言われました。「わたしはあなたがたのために立てている計画を良く知っている。それは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」主イエスはピリポの信仰を試されたのです。ピリポは弟子たちの中でも、最初に弟子になっており、これまでも主イエスの奇跡をずっと目撃してきました。そのピリポは主イエスの力をよく知っているべきだったのですが、彼には、まだ主イエスに対する十分な信仰がなかったようです。彼はこう答えています。「めいめいが少しずつ取るにしても、200デナリのパンでは足りません。」1デナリは当時の一日の賃金です。ですから、200デナリは約7ヶ月分の給料に相当する金額です。ピリポの答えは、厳密に言えば主イエスの質問の答えにはなっていません。主イエスは「どこからパンを買ってきて人々に食べさせようか。」とたずねています。その関心は人々に食べさせることです。しかし、ピリポは人間的な計算をして、それは無理ですと答えているのです。これまで主イエスの奇跡を見てきたピリポですが、このときに、主イエスが奇跡を行うことをまったく考えていません。もちろん、私たちは毎日の生活の中で、いろいろと計算をして行動することが必要なときがあります。しかし、自分の計算ではどうにもならない時は、私たちは、主イエスにより頼むことができるのです。その点、ダビデは単に人間的な計算だけで生きる人ではありませんでした。彼がまだ若いときに、イスラエルの敵であったぺリシテ人との戦争が続いていましたが、ある日、ダビデは、ぺリシテ軍の身長が3メートルもある巨人ゴリアテと1対1で戦うという出来事がありました。相手は訓練を受けた軍人でした。ダビデは羊飼いの少年で、何の経験もなくゴリアテに比べると本当に小さな体でした。しかし、ダビデは「この戦いは主の戦いである」と確信して、石投げでゴリアテの眉間に石を命中させてゴリアテを倒しました。ダビデは、神様が自分とともにいて、いっしょに働いてくださるなら、どんな戦いでもかならず勝利すると確信していました。しかし、このとき、ピリポにはそのような信仰がありませんでした。

 次に、別の弟子アンデレがイエスにこう言いました。「ここに少年が大麦のパン5つと小さな魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」食べ物を持っていたのは少年です。時々、群集に食べ物を売りに来る少年がいたのですが、この少年もその一人だったのでしょうか。しかも少年が持っていたのは大麦のパン5つと小さな魚が二匹でした。パレスチナはとても品質のよい小麦が取れることで有名でした。小麦で作るパンはとてもおいしかったのですが、大麦のパンは貧しい人が食べるものでした。また人間的に考えれば、この少年が持っていたものは何の役にも立たないものでした。だからアンデレも「こんなに大ぜいの人々では何になりましょう。」と言っているのです。彼もまたピリポのように人間的な計算をしていたのです。確かに彼らが持っていたもの、少年がささげたものは群衆の数に比べるとあまりにもわずかでした。しかし、私たちが持っているものがどんなに小さくても、少なくても問題ではありません。主イエスがともにおられるなら、解決の道があるのです。そして、弟子たちには、お先真っ暗であっても、主イエスはご自分がしようとしていることをはっきり知っておられました。弟子たちは、これまでに何度主の奇跡を目撃したことでしょう。水がぶどう酒に変えられました。王室の役人の息子は、主イエスが遠く離れていたにも関わらず、死にそうな重い病気から完全に癒されました。エルサレムではベテスダの池に38年間寝たきりの男が癒されたこともイエスから聞いていたこでしょう。これほどの奇跡を見聞きしていながら、なぜ弟子たちは、今の状況の中でもイエスは解決する力を持っておられると信じることができなかったのでしょうか。

 カーライルという人は「人の生き方は、その人が信じる神をどう見るかによって決まる」と言っています。私たちは自分が信じている神をどのように見ているでしょうか。私たちは毎週、礼拝の中で使徒信条を告白しています。その最初の言葉は「われは天地の創り主、全能の父なる神を信ず。」です。私たちは、本当に自分が信じている神が全能の神だと確信しているでしょうか。もし、神が全能ならば神にとって不可能なことはないはずです。私たちがこの世で生きていくときに、様々な困難を経験します。ときには信仰の戦いのようなことも経験することもあります。そのときに、私たちは、聖書が語る神を聖書が語るとおりに信じなければ、その信仰は何の役にも立ちません。解決の力は私たちにあるのではなく、神に、主イエスにあることを決して忘れてはなりません。

 主イエスは弟子たちに命令して、人々を百人、五十人と固まって座らせました。それから、イエスは5つのパンと二匹の魚を手にとって、天を見上げて祝福を求め、パンを裂いて、人々に配るように弟子たちに与えられました。少年が主イエスに渡したのは、貧しい人が食べる大麦のパンでした。主イエスの手の中にあれば、どんなに貧しいものでも、小さなものでも、それを用いて主イエスは大きなことをする力を持っておられます。主イエスの手によって奇跡の働きがなされました。弟子たちは、それをただ手伝っただけです。1万人もの人々はただ、空腹が満たされただけではありません。有り余るほどの食べ物が与えられました。弟子たちが余ったパンを集めると12のかごがいっぱいになりました。主イエスが与えられるのは乏しい祝福ではありません。有り余るほどの祝福を与えてくださる方です。イザヤ書30章18節に次のような言葉が記されています。「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」この言葉は、当時のイスラエルが東の大国アッシリアに攻められようとしていた時に預言者イザヤが語った言葉です。神様はイスラエルの民を恵もうと待っておられたのに、イスラエルの民は神を信頼せずに、南の大国エジプトに頼ることによって危機を乗り越えようとしていました。神様は「私に信頼すればあなたがたは力を得る」と言われたのに、自分たちの方法で解決しようとして慌てていました。私たちが、神に信頼することを忘れて、何とか自分の力だけで解決しようと動き回っている限り、主は何も働くことができません。しかし、主は、そのような私たちであっても、私たちを恵もうと、哀れもうと、いつも待っておられます。そして、私たちがただ神様だけにより頼むとき、神様はすぐに立ち上がってくださるのです。 あなたは、神様はあなたの問題を解決する力を持っていると信じますか。そのことを信じないのであれば、あなたの人生には何も起こらないでしょう。私たちは、もう一度考えることが必要です。自分が信じている神がどんな神であるかをはっきり知らなければなりません。エリザベス・エリオットという女性は次のように書いています。「もしあなたが神にささげるものとして、傷ついた心しかないのであれば、その傷ついた心を佐神にささげなさい。あなたがどんなものをささげるとしても、神は決してそれを拒むことはありません。だから、あの5つのパンと二匹の魚をささげた少年のように、私は自分が持っているものを神にささげます。そのとき、私は、弟子たちと同じように、「これは何の役にたつだろうか」と考えます。確かに私がささげられるもので役に立つものはほとんど何もありません。しかし、私がささげたものがどのように用いられるかは、それは私が心配することではないのです。主が心配され主がそれを祝福に変えてくださるのです。だから、悲しみであっても、失望であっても、寂しさであっても、それを神にささげるなら、神はそれを用いて、私たちの信仰を試し、そして私たちが、神がどのようなお方であるかをはっきり知るように導いてくださいます。」