礼拝説教 2008年12月14日 『マリヤの賛歌2』(ルカ福音書1章51-55節)
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(イントロ)
ルカの福音書の1章46節から55節までは、救い主メシヤの母になるように神から選ばれたマリヤが、その喜びを歌っている箇所で、「マグニフィカート」と呼ばれます。これは、この歌の中で、マリヤの口から最初に出た言葉がラテン語で「マグニフィカート」という言葉だったからです。この言葉は日本語では「主をあがめる」と訳されている言葉ですが、文字通りの意味は、「私は、主を大きくする」という意味を持つ言葉です。彼女は、イスラエルの北の田舎ナザレに住む貧しい女性で、ヨセフという男性との結婚が決まっていました。1年間の婚約期間が終わると二人は正式に夫婦になるはずでした。ヨセフとの新しい生活を待ち望んでいたマリヤに、御使いが「あなたは救い主を身ごもる。その名をイエスとつけなさい」というお告げを語った瞬間から、彼女の人生は大きく変わりました。当時、婚約中の女性が婚約相手以外の男性の子供を身ごもると石打ちの刑を受けることもありました。2000年前の人々でも、「聖霊によって子供を身ごもる」ということは到底信じることの出来ないことでしたから、マリヤの妊娠が人々に分かると彼女は、家族からも近所の人からも激しく責められ、また後ろ指をさされることになります。救い主を身ごもるというお告げを受けたマリヤは、とんでもない試練の中に入れられてしまいました。彼女は、しばらくの間、遠くに住む親戚のエリサベツの家で過ごしますが、彼女がエリサベツと久しぶりに出会ったときに、彼女は聖霊の働きを強く感じて、自然に彼女の口から神様を褒め称える歌があふれ出てきました。そして、彼女は、まず、「私は神様を大きく信じます。」と新しい信仰の告白をしています。そして、前半の50節までは、彼女が神様を大きく信じる、個人的な理由を述べています。それは、神様が彼女のような小さな貧しい一人の人間に目を留めてくださったことと、彼女に対して神様が大きなことを行ってくださったからだと彼女は歌っています。今日、読みました、マリヤの賛歌の後半では、マリヤは、神様が神を信じ、神を恐れうやまう全ての人々に行ってくださった働きのゆえに、神様を褒め称えています。クリスチャンは、皆、神様の哀れみによって罪を赦され、神の子供として神様と一緒に生きることができるように導かれました。このように、聖書の神を信じるということは、私たちが清く生きるということも確かに含まれますが、第一に重要なことは、全能の神が私のようの小さな一人の人間を心に留めて、私に愛を注ぎ、私を哀れみ、必要な導きや助けを与えてくださること、つまり神様が私たちのために大きなことをしてくださるという事実です。どんなに、私たちが生きている社会が暗くても、神様が私たちとともにおられ、私たちのために大きな働きをしてくださると知っているなら、私たちを何も恐れる必要がありません。マリヤも、実際に彼女を待ち受けているのは、世間の非常に厳しく冷たい目です。しかし、そんなことは彼女の心を押しつぶすことはありませんでした。彼女が、いつも、主を見上げて、主の力を経験していたからです。マリヤは、神様が、私たちのためにしてくださった働きは、逆転の働きであると述べています。3つの逆転について述べています。私たちのために生まれてくださる救い主は、人生の逆転をもたらす救い主なのです。
(1)心の思いの高ぶっている者を追い散らす神(51節)
マリヤは51節で、「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らす」と歌っています。彼女はユダヤ人ですから、子供の頃から旧約聖書のことを詳しく教えられていました。旧約聖書に書かれているイスラエルの歴史を見ると、多くの人が傲慢になったために滅んでいる姿を見ます。ダビデ王の息子アブシャロムは、父親ダビデの王座を奪い取ろうとします。そのため、ダビデは一時王宮から逃げ出さなければなりませんでした。自分の息子が自分に対して反旗を翻したとき、ダビデはどんな思いで王宮を出たことでしょう。しかし、神様は心の思いの高ぶっている者を追い散らす方です。神様が働くとき、人がどんな策略を考え出しても、神様はそれを阻むことのできる方です。結局、アブシャロムの計画は失敗に終わり、彼は殺されてしまいます。箴言の16章18節に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」という言葉があります。高ぶりは破滅をもたらします。神様が退けられるからです。追い散らされるからです。自分を他の人よりも偉いと思い込む人、他の人を軽蔑の目で見る人、自分には神のさばきは及ばないと思い上がっている人、このような人を神様は追い払われるのです。私たちは、傲慢な人を恐れる必要はありません。そのような人はやがて必ず打ち倒されるからです。それよりも、私たちは、いつも自分の心が高ぶっていないどうか、点検することが必要です。そうでないと、私たちは神様から追い散らされてしまうからです。神様から追い散らされてしまうほど恐ろしいことはありません。ある時、一人のパリサイ人が神殿に祈りに行きました。彼は、自分は敬虔なユダヤ教徒だと自分を誇っていました。彼は確かに聖書のおきてを守り正しい生活をしていました。しかし、彼は傲慢になっていたのです。彼は神殿に行って祈りました。彼の祈りは自分のことばかりでした。「自分は ほかの人々のようにゆすることはない。者、不正はしない。姦淫はしない、そして、週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげている。このように彼は祈りの中で自分の行いを自慢げに語っているだけなのです。イエス様はこのパリサイ人の祈りを受け入れませんでした。それは、彼の祈りが傲慢な、思い上がった祈りだったからです。新約聖書のヤコブの手紙の中にも「「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(4章6節)と書かれています。私たち人間が、神を敵に回しても、勝てる可能性は0%です。神は高ぶる者を退けるとあるのは、神が傲慢、高ぶりを最も嫌うということです。神に退けられることほど、この世の中で恐ろしいことはありません。
(2)権力ある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げる神(52節)
次にマリヤや52節で「神は権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げられます。」と歌っています。神様は心の思いの高ぶっているものを退けるだけでなく、社会的に高い地位についている人であっても、神の御心に従わない人は、その座から引き下ろされます。その一方で、神は、自分を低くするものを高い地位に引き上げてくださいます。旧約聖書のダニエル書にはバビロン王「ベルシャザール」の死に関する出来事が記されています。バビロン王ベルシャザールはある日、大規模な宴会を催しました。当時、すでにバビロンは衰退に向かっており、ペルシャとメディアという周辺の国が一緒になってバビロンに迫っていました。しかし、彼は、バビロンは永遠に不滅だと信じ込んでいたため、危機的な状況にもかかわらずのんきに宴会を開いていました。また彼は、宴会の中で、エルサレムの神殿から略奪してきた聖なる器を宴会に用いて、神を冒涜しました。彼は、イスラエルの神を恐れることなく、自分が世界一の権力者と思っていましたので、彼は自分の王国が倒れることなど夢にも考えていませんでした。しかし、ダニエル書によると、その宴会のさなかに人の指のようなものが現れて、壁に文字を書いたので、ベルシャザールはひどく恐れました。その文字を解読するためにダニエルが呼ばれ、彼が壁に現れた文字の意味を解き明かしました。文字は「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」と読みましたが、それは神様がベルシャザールの支配を終わらせ、バビロンがペルシャとメディアの二つの国に引き裂かれることを意味する言葉でした。聖書によると、その文字が現れた日の夜、ベルシャザールは殺され、彼の国は、メディアの王ダリヨスに支配されることになります。この出来事については、聖書だけでなく、ギリシャの歴史家クセノフォンが書いた本にも記されているそうです。ペルシャの軍隊とメディアの軍隊が宴会が行われていた日にバビロンを攻め込んで、宴会が行われていた広間でベルシャザールを捕らえて殺したそうです。紀元前539年の10月11日か12日のことだと言われています。預言者イザヤも次のように言っています。「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。」(イザヤ40章22,23節)この世の権力者や支配者がどれほど高い地位についていようと、どれほど大きな権力を持っていようと、神の前ではやっと芽を出した草のようなもので、神様が一息吹けばたちまち滅んでしまいます。だから、聖書は繰り返して、このような地上の君主や支配者をより頼んではならない。神を頼れと訴えているのです。私たちは、そのことを知っていながら、この世の力、権力者に頼ろうとしていないでしょうか。
その一方で、主は低いものを高く引き上げてくださる方です。主イエスは8つの幸いの教えの中で「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」と言われました。「柔和」と訳されている言葉は別の訳では「優しくへりくだる者」となっています。柔和な人は弱い人とは違います。何をしても怒らない人でもありません。自分の感情をコントロールできる人です。また、へブル語では、柔和という言葉と心の貧しいという言葉は同じ言葉が使われますから、柔和な人とは謙遜な人です。自分を低くする者です。私たちが住む社会では、そのような人はなかなか高い地位に着くことは難しいと思いますが、しかし、主は言われました。「その人は地を相続する。」この場合、地を相続するとは、天国に自分の場所を得るという意味です。天国は私たちの想像を超える素晴らしいところであり、私たちが永遠に生きることができる場所です。この世の栄誉、この世の力、この世の成功はすべて一時的なもので、私たちが死ぬ時はそれらは手放さなければなりません。しかし、自分を低くする人は、永遠のいのちを得ることができるのです。私たちが、この世では、あまり力がなくても、永遠の世界に入ることができるなら、何も残念な気持ちになる必要はありません。神様は、神の前にへりくだる者を必ず、この世の支配者や権力者よりも高く上げてくださり、天国に迎え入れてくださるのです。
(3)飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返される神(53節)
人は、物質的なもので満ち足りているとそれで十分だと考えてしまいます。しかし、多くの人は裕福であっても、心の中にむなしさを持っています。それは、人間は神のかたちに似せて作られているので、本能が満ち足りるだけでは不十分なのです。黙示録の2,3章には、キリストが7つの教会に書き送った手紙が書かれていますが、その手紙の中でもっとも厳しい手紙はラオデキヤという町にあった教会でした。その手紙には次のように書かれています。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」ラオデキヤは現在のトルコにあった都市ですが、工業や医学が発達した町で、人々の生活は他の都市と比べてもはるかに豊かでした。ラオデキヤの教会のクリスチャンたちは、物質的な豊かという恵みが与えられていたのですが、そのうちに、目に見える豊さ、物質的な豊かさが、目に見えない豊かさ、信仰の豊よりも大切になってしまいました。それで、彼らの信仰は生ぬるくなり、主イエスは、彼らの信仰を見ると彼らを口から吐き出したくなるとまで言いました。聖書は、私たちがどれほど物質的に恵まれていても、神様と生きた関係を持っていなければ何の得にもならないと教えています。ラオデキヤのクリスチャンのように、物質的な豊かさを味わうことで、自分が満ち足りていると思い込んでいる人は神様に追い返されてしまいます。神様に受け入れてもらえないことほど恐ろしいことはありません。
それに反して、神様は、餓えた者、自分の必要に気がついている人には、善いもので満たしてくださる方です。主イエスは言われました。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」満ち足りるといっても、いろいろな満ち足り方があります。信仰的に飢え乾いている人、つまり、もっと神によって満たされることを願い求めている人には、神様ご自身が働いて、その渇きを満たしてくださいます。主イエスは、ヨハネの福音書の6章では、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と言われました。主イエスによって満たされる人は決して渇くことも飢えることもありません。つねに主が満たし続けて下さるからです。英語のことわざに「本当の幸福は満ち足りることにある」というのがありますが、もし、私たちがこの世のもので満ち足りようとすると、絶えず、何かによって自分を満たそうとしなければなりません。何かから満足を得ようとしなければなりません。そのような満足感はいつまでも続かず、はかなく消えていきます。しかし、私たちが主イエスとともに生きるときに、主が私たちの心を、この世のものでない、一時的でない、永遠のもので満たしてくださるのです。
神様は、私たちと結んでくださった契約を決して忘れることがありません。神様は、最初、イスラエルの先祖であるアブラハムと永遠の契約を結ばれましたが、神様の約束は、アブラハムにも、その子のイサクにも、イサクの子のヤコブにも与えられました。神様の哀れみは永遠に尽きることがありません。つまり、神様の契約と神様の哀れみは私たちにも約束されているのです。マリヤの賛歌には、旧約聖書の出来事や教えが含まれています。彼女は、聖霊に促されて、これらの歌を歌っただけでなく、日ごろから慣れ親しんでいたみ言葉から歌っているのです。聖書の言葉の中から様々な恵みや喜びを受け取っていたのです。私たちには、いま、いつでも読めるように聖書が与えられています。マリヤやその当時の人々とは違って、教会まで来なくても、み言葉に触れることができます。み言葉は宝物が埋めれられた畑のようなものです。掘れば掘るほど、どんどんと宝物が出てきます。私たちも、マリヤのように神様に目をとめていただいたこと、神様から選ばれたことを喜び、感謝して、いつも口を使って神様をほめたたえる人でありたいと思います。
Thomas à Kempis writes:
Jesus has many who love his kingdom in heaven, but few who bear his cross. He has many who desire comfort, but few who desire suffering. He finds many to share his feast, but few his fasting. All desire to rejoice with him, but few are willing to suffer for his sake. Many follow Jesus to the breaking of bread, but few to the drinking of the cup of his passion. Many admire his miracles, but few follow him in the humiliation of the cross.
(イントロ)
ルカの福音書の1章46節から55節までは、救い主メシヤの母になるように神から選ばれたマリヤが、その喜びを歌っている箇所で、「マグニフィカート」と呼ばれます。これは、この歌の中で、マリヤの口から最初に出た言葉がラテン語で「マグニフィカート」という言葉だったからです。この言葉は日本語では「主をあがめる」と訳されている言葉ですが、文字通りの意味は、「私は、主を大きくする」という意味を持つ言葉です。彼女は、イスラエルの北の田舎ナザレに住む貧しい女性で、ヨセフという男性との結婚が決まっていました。1年間の婚約期間が終わると二人は正式に夫婦になるはずでした。ヨセフとの新しい生活を待ち望んでいたマリヤに、御使いが「あなたは救い主を身ごもる。その名をイエスとつけなさい」というお告げを語った瞬間から、彼女の人生は大きく変わりました。当時、婚約中の女性が婚約相手以外の男性の子供を身ごもると石打ちの刑を受けることもありました。2000年前の人々でも、「聖霊によって子供を身ごもる」ということは到底信じることの出来ないことでしたから、マリヤの妊娠が人々に分かると彼女は、家族からも近所の人からも激しく責められ、また後ろ指をさされることになります。救い主を身ごもるというお告げを受けたマリヤは、とんでもない試練の中に入れられてしまいました。彼女は、しばらくの間、遠くに住む親戚のエリサベツの家で過ごしますが、彼女がエリサベツと久しぶりに出会ったときに、彼女は聖霊の働きを強く感じて、自然に彼女の口から神様を褒め称える歌があふれ出てきました。そして、彼女は、まず、「私は神様を大きく信じます。」と新しい信仰の告白をしています。そして、前半の50節までは、彼女が神様を大きく信じる、個人的な理由を述べています。それは、神様が彼女のような小さな貧しい一人の人間に目を留めてくださったことと、彼女に対して神様が大きなことを行ってくださったからだと彼女は歌っています。今日、読みました、マリヤの賛歌の後半では、マリヤは、神様が神を信じ、神を恐れうやまう全ての人々に行ってくださった働きのゆえに、神様を褒め称えています。クリスチャンは、皆、神様の哀れみによって罪を赦され、神の子供として神様と一緒に生きることができるように導かれました。このように、聖書の神を信じるということは、私たちが清く生きるということも確かに含まれますが、第一に重要なことは、全能の神が私のようの小さな一人の人間を心に留めて、私に愛を注ぎ、私を哀れみ、必要な導きや助けを与えてくださること、つまり神様が私たちのために大きなことをしてくださるという事実です。どんなに、私たちが生きている社会が暗くても、神様が私たちとともにおられ、私たちのために大きな働きをしてくださると知っているなら、私たちを何も恐れる必要がありません。マリヤも、実際に彼女を待ち受けているのは、世間の非常に厳しく冷たい目です。しかし、そんなことは彼女の心を押しつぶすことはありませんでした。彼女が、いつも、主を見上げて、主の力を経験していたからです。マリヤは、神様が、私たちのためにしてくださった働きは、逆転の働きであると述べています。3つの逆転について述べています。私たちのために生まれてくださる救い主は、人生の逆転をもたらす救い主なのです。
(1)心の思いの高ぶっている者を追い散らす神(51節)
マリヤは51節で、「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らす」と歌っています。彼女はユダヤ人ですから、子供の頃から旧約聖書のことを詳しく教えられていました。旧約聖書に書かれているイスラエルの歴史を見ると、多くの人が傲慢になったために滅んでいる姿を見ます。ダビデ王の息子アブシャロムは、父親ダビデの王座を奪い取ろうとします。そのため、ダビデは一時王宮から逃げ出さなければなりませんでした。自分の息子が自分に対して反旗を翻したとき、ダビデはどんな思いで王宮を出たことでしょう。しかし、神様は心の思いの高ぶっている者を追い散らす方です。神様が働くとき、人がどんな策略を考え出しても、神様はそれを阻むことのできる方です。結局、アブシャロムの計画は失敗に終わり、彼は殺されてしまいます。箴言の16章18節に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」という言葉があります。高ぶりは破滅をもたらします。神様が退けられるからです。追い散らされるからです。自分を他の人よりも偉いと思い込む人、他の人を軽蔑の目で見る人、自分には神のさばきは及ばないと思い上がっている人、このような人を神様は追い払われるのです。私たちは、傲慢な人を恐れる必要はありません。そのような人はやがて必ず打ち倒されるからです。それよりも、私たちは、いつも自分の心が高ぶっていないどうか、点検することが必要です。そうでないと、私たちは神様から追い散らされてしまうからです。神様から追い散らされてしまうほど恐ろしいことはありません。ある時、一人のパリサイ人が神殿に祈りに行きました。彼は、自分は敬虔なユダヤ教徒だと自分を誇っていました。彼は確かに聖書のおきてを守り正しい生活をしていました。しかし、彼は傲慢になっていたのです。彼は神殿に行って祈りました。彼の祈りは自分のことばかりでした。「自分は ほかの人々のようにゆすることはない。者、不正はしない。姦淫はしない、そして、週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげている。このように彼は祈りの中で自分の行いを自慢げに語っているだけなのです。イエス様はこのパリサイ人の祈りを受け入れませんでした。それは、彼の祈りが傲慢な、思い上がった祈りだったからです。新約聖書のヤコブの手紙の中にも「「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(4章6節)と書かれています。私たち人間が、神を敵に回しても、勝てる可能性は0%です。神は高ぶる者を退けるとあるのは、神が傲慢、高ぶりを最も嫌うということです。神に退けられることほど、この世の中で恐ろしいことはありません。
(2)権力ある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げる神(52節)
次にマリヤや52節で「神は権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げられます。」と歌っています。神様は心の思いの高ぶっているものを退けるだけでなく、社会的に高い地位についている人であっても、神の御心に従わない人は、その座から引き下ろされます。その一方で、神は、自分を低くするものを高い地位に引き上げてくださいます。旧約聖書のダニエル書にはバビロン王「ベルシャザール」の死に関する出来事が記されています。バビロン王ベルシャザールはある日、大規模な宴会を催しました。当時、すでにバビロンは衰退に向かっており、ペルシャとメディアという周辺の国が一緒になってバビロンに迫っていました。しかし、彼は、バビロンは永遠に不滅だと信じ込んでいたため、危機的な状況にもかかわらずのんきに宴会を開いていました。また彼は、宴会の中で、エルサレムの神殿から略奪してきた聖なる器を宴会に用いて、神を冒涜しました。彼は、イスラエルの神を恐れることなく、自分が世界一の権力者と思っていましたので、彼は自分の王国が倒れることなど夢にも考えていませんでした。しかし、ダニエル書によると、その宴会のさなかに人の指のようなものが現れて、壁に文字を書いたので、ベルシャザールはひどく恐れました。その文字を解読するためにダニエルが呼ばれ、彼が壁に現れた文字の意味を解き明かしました。文字は「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」と読みましたが、それは神様がベルシャザールの支配を終わらせ、バビロンがペルシャとメディアの二つの国に引き裂かれることを意味する言葉でした。聖書によると、その文字が現れた日の夜、ベルシャザールは殺され、彼の国は、メディアの王ダリヨスに支配されることになります。この出来事については、聖書だけでなく、ギリシャの歴史家クセノフォンが書いた本にも記されているそうです。ペルシャの軍隊とメディアの軍隊が宴会が行われていた日にバビロンを攻め込んで、宴会が行われていた広間でベルシャザールを捕らえて殺したそうです。紀元前539年の10月11日か12日のことだと言われています。預言者イザヤも次のように言っています。「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。」(イザヤ40章22,23節)この世の権力者や支配者がどれほど高い地位についていようと、どれほど大きな権力を持っていようと、神の前ではやっと芽を出した草のようなもので、神様が一息吹けばたちまち滅んでしまいます。だから、聖書は繰り返して、このような地上の君主や支配者をより頼んではならない。神を頼れと訴えているのです。私たちは、そのことを知っていながら、この世の力、権力者に頼ろうとしていないでしょうか。
その一方で、主は低いものを高く引き上げてくださる方です。主イエスは8つの幸いの教えの中で「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」と言われました。「柔和」と訳されている言葉は別の訳では「優しくへりくだる者」となっています。柔和な人は弱い人とは違います。何をしても怒らない人でもありません。自分の感情をコントロールできる人です。また、へブル語では、柔和という言葉と心の貧しいという言葉は同じ言葉が使われますから、柔和な人とは謙遜な人です。自分を低くする者です。私たちが住む社会では、そのような人はなかなか高い地位に着くことは難しいと思いますが、しかし、主は言われました。「その人は地を相続する。」この場合、地を相続するとは、天国に自分の場所を得るという意味です。天国は私たちの想像を超える素晴らしいところであり、私たちが永遠に生きることができる場所です。この世の栄誉、この世の力、この世の成功はすべて一時的なもので、私たちが死ぬ時はそれらは手放さなければなりません。しかし、自分を低くする人は、永遠のいのちを得ることができるのです。私たちが、この世では、あまり力がなくても、永遠の世界に入ることができるなら、何も残念な気持ちになる必要はありません。神様は、神の前にへりくだる者を必ず、この世の支配者や権力者よりも高く上げてくださり、天国に迎え入れてくださるのです。
(3)飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返される神(53節)
人は、物質的なもので満ち足りているとそれで十分だと考えてしまいます。しかし、多くの人は裕福であっても、心の中にむなしさを持っています。それは、人間は神のかたちに似せて作られているので、本能が満ち足りるだけでは不十分なのです。黙示録の2,3章には、キリストが7つの教会に書き送った手紙が書かれていますが、その手紙の中でもっとも厳しい手紙はラオデキヤという町にあった教会でした。その手紙には次のように書かれています。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」ラオデキヤは現在のトルコにあった都市ですが、工業や医学が発達した町で、人々の生活は他の都市と比べてもはるかに豊かでした。ラオデキヤの教会のクリスチャンたちは、物質的な豊かという恵みが与えられていたのですが、そのうちに、目に見える豊さ、物質的な豊かさが、目に見えない豊かさ、信仰の豊よりも大切になってしまいました。それで、彼らの信仰は生ぬるくなり、主イエスは、彼らの信仰を見ると彼らを口から吐き出したくなるとまで言いました。聖書は、私たちがどれほど物質的に恵まれていても、神様と生きた関係を持っていなければ何の得にもならないと教えています。ラオデキヤのクリスチャンのように、物質的な豊かさを味わうことで、自分が満ち足りていると思い込んでいる人は神様に追い返されてしまいます。神様に受け入れてもらえないことほど恐ろしいことはありません。
それに反して、神様は、餓えた者、自分の必要に気がついている人には、善いもので満たしてくださる方です。主イエスは言われました。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」満ち足りるといっても、いろいろな満ち足り方があります。信仰的に飢え乾いている人、つまり、もっと神によって満たされることを願い求めている人には、神様ご自身が働いて、その渇きを満たしてくださいます。主イエスは、ヨハネの福音書の6章では、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と言われました。主イエスによって満たされる人は決して渇くことも飢えることもありません。つねに主が満たし続けて下さるからです。英語のことわざに「本当の幸福は満ち足りることにある」というのがありますが、もし、私たちがこの世のもので満ち足りようとすると、絶えず、何かによって自分を満たそうとしなければなりません。何かから満足を得ようとしなければなりません。そのような満足感はいつまでも続かず、はかなく消えていきます。しかし、私たちが主イエスとともに生きるときに、主が私たちの心を、この世のものでない、一時的でない、永遠のもので満たしてくださるのです。
神様は、私たちと結んでくださった契約を決して忘れることがありません。神様は、最初、イスラエルの先祖であるアブラハムと永遠の契約を結ばれましたが、神様の約束は、アブラハムにも、その子のイサクにも、イサクの子のヤコブにも与えられました。神様の哀れみは永遠に尽きることがありません。つまり、神様の契約と神様の哀れみは私たちにも約束されているのです。マリヤの賛歌には、旧約聖書の出来事や教えが含まれています。彼女は、聖霊に促されて、これらの歌を歌っただけでなく、日ごろから慣れ親しんでいたみ言葉から歌っているのです。聖書の言葉の中から様々な恵みや喜びを受け取っていたのです。私たちには、いま、いつでも読めるように聖書が与えられています。マリヤやその当時の人々とは違って、教会まで来なくても、み言葉に触れることができます。み言葉は宝物が埋めれられた畑のようなものです。掘れば掘るほど、どんどんと宝物が出てきます。私たちも、マリヤのように神様に目をとめていただいたこと、神様から選ばれたことを喜び、感謝して、いつも口を使って神様をほめたたえる人でありたいと思います。
Thomas à Kempis writes:
Jesus has many who love his kingdom in heaven, but few who bear his cross. He has many who desire comfort, but few who desire suffering. He finds many to share his feast, but few his fasting. All desire to rejoice with him, but few are willing to suffer for his sake. Many follow Jesus to the breaking of bread, but few to the drinking of the cup of his passion. Many admire his miracles, but few follow him in the humiliation of the cross.

