礼拝説教 2008年12月6日
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(イントロ)
マリヤは、御使いガブリエルから、神様が旧約聖書の初めから約束されていた救い主を自分が身ごもることになると聞いたときに、「私は、主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と答えました。このとき、マリヤは、ガブリエルが伝えたメッセージの意味を完全には理解できなかったと思います。自分に与えられた神様の恵みがどれほど大きなものか知らなかったでしょう。ただ、マリヤは神様から神様の計画に従うこと、神様の御心に従うことが求められていることは分かっていました。これからの生活が、自分が計画していたことと全く変わってしまうことも分かっていました。それでも、マリヤは、神様を是100%信頼していましたから、あのような信仰告白ができたのでしょう。
マリヤには、エリサベツという名前の親戚がいました。この人はユダヤ教の祭司ザカリヤの妻でしたが、子供ができず、すでに二人とも年をとっていました。当時のユダヤの社会では、女性の価値は子供を生む能力によって決まりました。ですから、エリサベツは他の人の前で、非常に肩身の狭い思いをして生きていました。それで、1章の25節で彼女は実際に妊娠したときに、「主は人なかで私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださった」と告白しています。マリヤはエリサベツの妊娠を聞いて、とても喜んだと同時に、その子供が神様のために特別な働きをする人になることを感じていたと思います。そんな時にマリヤは、自分が救い主の母となることを知ったので、エリサベツに会いたくなりました。そしてガリラヤ地方のナザレから、エリサベツとザカリヤが住むエルサレムの近くの村を訪れました。マリヤがエリサベツの家に入って挨拶したときに、彼女の胎内にいた子、この子供は後にバプテスマのヨハネになるのですが、その胎児がエリサベツの胎内で踊り、彼女は聖霊に満たされました。エリサベツは、御使いが現れたのか聖霊が働いたのか、マリヤが救い主の母になることを知っていました。それで彼女はマリヤに向かって「私の主の母が私のところに来られるとは、何と言うことでしょう」と叫んでいます。マリヤの心も喜びに満ち溢れ、聖霊が彼女に大きく働きました。それで、彼女は、自分の気持ちを歌のようにして言い表したのです。46節から始まる、マリヤの歌は、その最初の言葉がラテン語でmagunificatという言葉なので、マグニフィカートと呼ばれます。今日は、マリヤの信仰告白の歌であるマグニフィカートから共に学びたいと思います。
(1)マリヤの喜び
マリヤの歌は「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」という言葉で始まります。この「わがたましいは主をあがめ」という部分をラテン語で表すと、「Magunificat anima mea Dominum」となります。Magunificatは日本語では「あがめる」と訳されていますが、この言葉は、文字通りには「大きくする」という意味です。「わが霊は主なる神を大きくする」ということですが、もちろん、私たちは神様を大きくすることはできません。神様は、私たちがそれ以上大きくすることができないほど大きな方だからです。しかし、私たちは自分の信仰の中で、神様を大きくすることができます。また、自分の生活の中でも神様を大きくすることができます。私たちの神は偉大なる神です。イザヤ書40章25,26節には次のように書かれています。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」。ところが、私たちは、偉大な神様があまりにも大きいために、そのほんの一部しか見ていませんし、また、神様の力のほんの一部しか体験していないために、神様の本当の大きさ、偉大さを理解していないのです。そのために、私たちは神様を小さくしてしまって、「神様でも、こんなことはできない」などと考えてしまうのです。聖書の中で神様はいろいろなものにたとえられています。詩篇では繰り返して、神様は、絶対揺らぐことのない岩だといわれています。私たちがどれほど、人生の荒波に揺り動かされても、神様という絶対揺らぐことのない岩にしっかりしがみついていれば、何も恐れる必要はありません。私たちもこのマリヤのように、聖書の言葉を読むときも、神様に向かって祈るときも、神様を大きくしなければなりません。
マリヤは、御使いガブリエルから、自分が救い主を身ごもり、救い主の母となるというお告げを聞かされたときから、エリサベツに会いに行く道中も、ずっといろいろなことを考えていたことでしょう。自分の身に起こったこと、親戚のエリサベツに起こったことを考えながら、彼女は以前よりも、神様を大きく考えるようになっていました。彼女は、これから自分を待っている状況がどれほど厳しいものであるか分かっていましたが、神様の言葉を疑わずに信じていました。神様の大きさをそのままに信じていました。それを彼女は口で告白しているのです。「私は、私の主なる神を大きくします」。この信仰が、彼女に、あらゆる試練を乗り越える力を与えていたと思います。また、マリヤの信仰の歌、マグニフィカートの特徴は、マリヤが繰り返して、「神様が〜してくださいました」と言っていることです。マリヤは、自分が何をするのかということは何も言っていません。彼女は、神様が行ってくださったことを見ています。私たちの信仰で大切なのは、自分が何をしたのか、自分が何をするのかを見ることではありません。私たちは、マリヤと同じように、誰もが主のしもべに過ぎないのです。僕はただ主人が命令したことを忠実に行うことが要求されます。そして、普通は僕が行ったことを人はほめたたえません。それは、僕が主人のために働くことは当然のことだからです。彼女は、神様が行われたことを見ています。「主は、この卑しいはしために目を留めてくださいました」「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」。私たちは、自分の信仰生活の中で、何を見ているでしょうか。自分が神様のためにしたこと、自分が他の人のためにしたことを見ているでしょうか。それとも、神様が私のためにしてくださったことを見ているのでしょうか。私たちもマリヤと同じように、マグニフィカート、主を大きくすること、主の大きな働きをいつも心に留めることが大切です。
(2)主はこの卑しいはしために目を留めてくださった
48節で、マリヤはなぜ、自分が非常に厳しい状況の中でも、神様に向かった賛美の歌をささげているのか、その理由について述べています。48節でマリヤは次のように告白しています。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」。私たちが、他の人に目を留めるとき、たいていは、目立つ人、活躍している人、権力や財力を持っている人たちに対して目を向けます。しかし、神様の眼はそのような人よりも、心の貧しい人や社会的には身分が低い人に対して、向けられていることが多いです。ナザレのイエスがそれから約30年後に、神の子として公の働きを始めたのは、ナザレにあったユダヤ人会堂に入って旧約聖書のイザヤ書の言葉を皆の前で読んだ時でした。ルカ福音書4章18、19節には次のように書かれています。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」主は、ご自分の町ナザレにあった会堂でこのイザヤの言葉を引用されました。主は、貧しい人に福音をつたえるために、この世に来られました。主イエス・キリストは、私たちの罪をゆるし、私たちを罪の束縛から解き放つために、栄光の場所である天国から離れて、罪人たちがひしめき合って生きているこの世に下って来てくださいました。このように、主イエスは自分のためでなく、この世に住む罪人のためにご自分を低くされました。だからこそ、主イエスは自分を低くする者を心に留めてくださるのです。聖アウグスチヌスも次のような言葉を述べています。「神の生き方を学ぼうとする者にとっては、一に謙遜、二に謙遜、三にも謙遜であると述べています。神様は、このように自分を低くする者を高く上げてくださり、自分を高くする者を低くされます」。
(3)マリヤがほめたたえる神
マリヤは、続いて神様をほめたたえています。その中でマリヤは神様の3つの点について述べています。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」(49-50節)
第一にマリヤは神様の力をほめたたえています。彼女は、聖霊が彼女を覆って身ごもったときに、確かに神の力を経験したはずです。そして、彼女は、御使いガブリエルの言葉を忘れてはいませんでした。「神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤの親戚のエリサベツも年を取ってから男の子を宿しました。彼女は、聖書の神が力ある神であることを体験を通して知っていたのです。私たちは、自分の弱さや限界を見てがっかりすることがありますが、私たちの眼は自分ではなく、いつも神を見ていなければなりません。キリスト教の信仰とは、自分一人で生きる生活ではなく、神と共に生きることであり、神に守られ神に支えられて生きることです。ですから、たとえ自分がどんなに弱くても、神様が力ある方ですから、私たちは何も恐れる必要がないのです。昔、海岸の近くで一隻の船が嵐の中で難破しました。乗組員は海に投げ出されましたが、幸い大きな岩があり、乗組員はその岩にしがみついて世を過ごしました。1人の乗組員が救出された後にインタビューを受けました。「あなたは、怖くはなかったですか?」という質問に対して、彼は答えました。「私は震えていました。しかし、私がしがみついていた岩はびくともしませんでした。」この乗組員がしがみついていた岩が微動だにしなかったように、私たちが信じている神様も「とこよの岩」と呼ばれています。決して変わることなく、決して動くことなく、揺れることもない神様に守られて生きていることを知る時、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。
第二に、マリヤは神の聖さを述べています。「その御名は聖く」マリヤは自分が宿している男の子は聖なる方であることを知っていました。神様の大切なご性質の一つが聖いというご性質です。預言者イザヤは神様を見た時に、自分の汚れをよく知っていましたから、「もうだめだ」と叫んでいます。私たちは神の愛についてよく語ります。また、神の愛について語ることが好きです。しかし、私たちは神の聖さについて真剣に考えているでしょうか。聖書の神様は愛の神であると同時に聖なる神でもあります。私たちは、神の愛に甘えるばかりで、神の聖さの前を忘れてはいないでしょうか。
第三にマリヤは神様の憐みを賛美しました。「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」神様は聖なる方ですが、主を恐れる者に対しては、その人が罪びとであることに関わらず、憐みを与えてくださいます。神様は真実な方です。詩篇103篇8-11節で詩篇記者は神の憐みについて次のように語っています。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」人間の心はすぐに変わります。また、人間とは草のようなもので、栄えているときは一瞬で風が吹くと消えてしまうような存在です。しかし、人間のはかなさ、変わりやすさに比べて、神の愛、神の憐みは決して変わることなく、決してなくなることがありません。神様は真実な方です。いつまでも私たちを憐れみ続けてくださるのです。神様の真実は英語ではfaithfulというのですが、アメリカの国立公園イエローストンに「Old Faithful」という名前の間欠泉があります。なぜ、そのような名前が付けられたかというと、その間欠泉はずっと昔から規則的に温泉を地上高く吹き上げるからです。もちろん、電車や飛行機のように時刻表どおりという訳には行きませんが、平均して40分から90分ごとに、準備が整うと温泉を地上高く吹き上げます。決して途絶えることがないのです。神様の憐みは、真実の憐みです。必ず主を恐れる者のうえに注がれる憐みです。私たちの神様への愛がもろくても、私たちに対する神様の憐みはfaithfulです。
このような素晴らしい神様とともに生きることができるとは、なんと幸いなことでしょう。マリヤは困難と試練のただなかで、この賛美を高らかに歌いました。私たちもマリヤと同じように、自分のことを心にとめてくださり、また、とこしえに力ある働きと憐みを注いでくださる神様に感謝して、いつも神様をほめたたえるクリスチャンでありたいと思います。
(イントロ)
マリヤは、御使いガブリエルから、神様が旧約聖書の初めから約束されていた救い主を自分が身ごもることになると聞いたときに、「私は、主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と答えました。このとき、マリヤは、ガブリエルが伝えたメッセージの意味を完全には理解できなかったと思います。自分に与えられた神様の恵みがどれほど大きなものか知らなかったでしょう。ただ、マリヤは神様から神様の計画に従うこと、神様の御心に従うことが求められていることは分かっていました。これからの生活が、自分が計画していたことと全く変わってしまうことも分かっていました。それでも、マリヤは、神様を是100%信頼していましたから、あのような信仰告白ができたのでしょう。
マリヤには、エリサベツという名前の親戚がいました。この人はユダヤ教の祭司ザカリヤの妻でしたが、子供ができず、すでに二人とも年をとっていました。当時のユダヤの社会では、女性の価値は子供を生む能力によって決まりました。ですから、エリサベツは他の人の前で、非常に肩身の狭い思いをして生きていました。それで、1章の25節で彼女は実際に妊娠したときに、「主は人なかで私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださった」と告白しています。マリヤはエリサベツの妊娠を聞いて、とても喜んだと同時に、その子供が神様のために特別な働きをする人になることを感じていたと思います。そんな時にマリヤは、自分が救い主の母となることを知ったので、エリサベツに会いたくなりました。そしてガリラヤ地方のナザレから、エリサベツとザカリヤが住むエルサレムの近くの村を訪れました。マリヤがエリサベツの家に入って挨拶したときに、彼女の胎内にいた子、この子供は後にバプテスマのヨハネになるのですが、その胎児がエリサベツの胎内で踊り、彼女は聖霊に満たされました。エリサベツは、御使いが現れたのか聖霊が働いたのか、マリヤが救い主の母になることを知っていました。それで彼女はマリヤに向かって「私の主の母が私のところに来られるとは、何と言うことでしょう」と叫んでいます。マリヤの心も喜びに満ち溢れ、聖霊が彼女に大きく働きました。それで、彼女は、自分の気持ちを歌のようにして言い表したのです。46節から始まる、マリヤの歌は、その最初の言葉がラテン語でmagunificatという言葉なので、マグニフィカートと呼ばれます。今日は、マリヤの信仰告白の歌であるマグニフィカートから共に学びたいと思います。
(1)マリヤの喜び
マリヤの歌は「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」という言葉で始まります。この「わがたましいは主をあがめ」という部分をラテン語で表すと、「Magunificat anima mea Dominum」となります。Magunificatは日本語では「あがめる」と訳されていますが、この言葉は、文字通りには「大きくする」という意味です。「わが霊は主なる神を大きくする」ということですが、もちろん、私たちは神様を大きくすることはできません。神様は、私たちがそれ以上大きくすることができないほど大きな方だからです。しかし、私たちは自分の信仰の中で、神様を大きくすることができます。また、自分の生活の中でも神様を大きくすることができます。私たちの神は偉大なる神です。イザヤ書40章25,26節には次のように書かれています。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」。ところが、私たちは、偉大な神様があまりにも大きいために、そのほんの一部しか見ていませんし、また、神様の力のほんの一部しか体験していないために、神様の本当の大きさ、偉大さを理解していないのです。そのために、私たちは神様を小さくしてしまって、「神様でも、こんなことはできない」などと考えてしまうのです。聖書の中で神様はいろいろなものにたとえられています。詩篇では繰り返して、神様は、絶対揺らぐことのない岩だといわれています。私たちがどれほど、人生の荒波に揺り動かされても、神様という絶対揺らぐことのない岩にしっかりしがみついていれば、何も恐れる必要はありません。私たちもこのマリヤのように、聖書の言葉を読むときも、神様に向かって祈るときも、神様を大きくしなければなりません。
マリヤは、御使いガブリエルから、自分が救い主を身ごもり、救い主の母となるというお告げを聞かされたときから、エリサベツに会いに行く道中も、ずっといろいろなことを考えていたことでしょう。自分の身に起こったこと、親戚のエリサベツに起こったことを考えながら、彼女は以前よりも、神様を大きく考えるようになっていました。彼女は、これから自分を待っている状況がどれほど厳しいものであるか分かっていましたが、神様の言葉を疑わずに信じていました。神様の大きさをそのままに信じていました。それを彼女は口で告白しているのです。「私は、私の主なる神を大きくします」。この信仰が、彼女に、あらゆる試練を乗り越える力を与えていたと思います。また、マリヤの信仰の歌、マグニフィカートの特徴は、マリヤが繰り返して、「神様が〜してくださいました」と言っていることです。マリヤは、自分が何をするのかということは何も言っていません。彼女は、神様が行ってくださったことを見ています。私たちの信仰で大切なのは、自分が何をしたのか、自分が何をするのかを見ることではありません。私たちは、マリヤと同じように、誰もが主のしもべに過ぎないのです。僕はただ主人が命令したことを忠実に行うことが要求されます。そして、普通は僕が行ったことを人はほめたたえません。それは、僕が主人のために働くことは当然のことだからです。彼女は、神様が行われたことを見ています。「主は、この卑しいはしために目を留めてくださいました」「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」。私たちは、自分の信仰生活の中で、何を見ているでしょうか。自分が神様のためにしたこと、自分が他の人のためにしたことを見ているでしょうか。それとも、神様が私のためにしてくださったことを見ているのでしょうか。私たちもマリヤと同じように、マグニフィカート、主を大きくすること、主の大きな働きをいつも心に留めることが大切です。
(2)主はこの卑しいはしために目を留めてくださった
48節で、マリヤはなぜ、自分が非常に厳しい状況の中でも、神様に向かった賛美の歌をささげているのか、その理由について述べています。48節でマリヤは次のように告白しています。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」。私たちが、他の人に目を留めるとき、たいていは、目立つ人、活躍している人、権力や財力を持っている人たちに対して目を向けます。しかし、神様の眼はそのような人よりも、心の貧しい人や社会的には身分が低い人に対して、向けられていることが多いです。ナザレのイエスがそれから約30年後に、神の子として公の働きを始めたのは、ナザレにあったユダヤ人会堂に入って旧約聖書のイザヤ書の言葉を皆の前で読んだ時でした。ルカ福音書4章18、19節には次のように書かれています。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」主は、ご自分の町ナザレにあった会堂でこのイザヤの言葉を引用されました。主は、貧しい人に福音をつたえるために、この世に来られました。主イエス・キリストは、私たちの罪をゆるし、私たちを罪の束縛から解き放つために、栄光の場所である天国から離れて、罪人たちがひしめき合って生きているこの世に下って来てくださいました。このように、主イエスは自分のためでなく、この世に住む罪人のためにご自分を低くされました。だからこそ、主イエスは自分を低くする者を心に留めてくださるのです。聖アウグスチヌスも次のような言葉を述べています。「神の生き方を学ぼうとする者にとっては、一に謙遜、二に謙遜、三にも謙遜であると述べています。神様は、このように自分を低くする者を高く上げてくださり、自分を高くする者を低くされます」。
(3)マリヤがほめたたえる神
マリヤは、続いて神様をほめたたえています。その中でマリヤは神様の3つの点について述べています。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」(49-50節)
第一にマリヤは神様の力をほめたたえています。彼女は、聖霊が彼女を覆って身ごもったときに、確かに神の力を経験したはずです。そして、彼女は、御使いガブリエルの言葉を忘れてはいませんでした。「神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤの親戚のエリサベツも年を取ってから男の子を宿しました。彼女は、聖書の神が力ある神であることを体験を通して知っていたのです。私たちは、自分の弱さや限界を見てがっかりすることがありますが、私たちの眼は自分ではなく、いつも神を見ていなければなりません。キリスト教の信仰とは、自分一人で生きる生活ではなく、神と共に生きることであり、神に守られ神に支えられて生きることです。ですから、たとえ自分がどんなに弱くても、神様が力ある方ですから、私たちは何も恐れる必要がないのです。昔、海岸の近くで一隻の船が嵐の中で難破しました。乗組員は海に投げ出されましたが、幸い大きな岩があり、乗組員はその岩にしがみついて世を過ごしました。1人の乗組員が救出された後にインタビューを受けました。「あなたは、怖くはなかったですか?」という質問に対して、彼は答えました。「私は震えていました。しかし、私がしがみついていた岩はびくともしませんでした。」この乗組員がしがみついていた岩が微動だにしなかったように、私たちが信じている神様も「とこよの岩」と呼ばれています。決して変わることなく、決して動くことなく、揺れることもない神様に守られて生きていることを知る時、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。
第二に、マリヤは神の聖さを述べています。「その御名は聖く」マリヤは自分が宿している男の子は聖なる方であることを知っていました。神様の大切なご性質の一つが聖いというご性質です。預言者イザヤは神様を見た時に、自分の汚れをよく知っていましたから、「もうだめだ」と叫んでいます。私たちは神の愛についてよく語ります。また、神の愛について語ることが好きです。しかし、私たちは神の聖さについて真剣に考えているでしょうか。聖書の神様は愛の神であると同時に聖なる神でもあります。私たちは、神の愛に甘えるばかりで、神の聖さの前を忘れてはいないでしょうか。
第三にマリヤは神様の憐みを賛美しました。「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」神様は聖なる方ですが、主を恐れる者に対しては、その人が罪びとであることに関わらず、憐みを与えてくださいます。神様は真実な方です。詩篇103篇8-11節で詩篇記者は神の憐みについて次のように語っています。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」人間の心はすぐに変わります。また、人間とは草のようなもので、栄えているときは一瞬で風が吹くと消えてしまうような存在です。しかし、人間のはかなさ、変わりやすさに比べて、神の愛、神の憐みは決して変わることなく、決してなくなることがありません。神様は真実な方です。いつまでも私たちを憐れみ続けてくださるのです。神様の真実は英語ではfaithfulというのですが、アメリカの国立公園イエローストンに「Old Faithful」という名前の間欠泉があります。なぜ、そのような名前が付けられたかというと、その間欠泉はずっと昔から規則的に温泉を地上高く吹き上げるからです。もちろん、電車や飛行機のように時刻表どおりという訳には行きませんが、平均して40分から90分ごとに、準備が整うと温泉を地上高く吹き上げます。決して途絶えることがないのです。神様の憐みは、真実の憐みです。必ず主を恐れる者のうえに注がれる憐みです。私たちの神様への愛がもろくても、私たちに対する神様の憐みはfaithfulです。
このような素晴らしい神様とともに生きることができるとは、なんと幸いなことでしょう。マリヤは困難と試練のただなかで、この賛美を高らかに歌いました。私たちもマリヤと同じように、自分のことを心にとめてくださり、また、とこしえに力ある働きと憐みを注いでくださる神様に感謝して、いつも神様をほめたたえるクリスチャンでありたいと思います。

