礼拝説教 2008年11月23日 十字架を誇りとして生きる (ガラテヤ6章11-18節)

2008.12.24

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(イントロ)

 新約聖書の中にはパウロが書いた手紙が数多くありますが、ほとんどの場合、彼の手紙は彼が手書きで描いた部分は少なく、彼が口で語った言葉をだれか専門の筆記者が書き取った部分が多いのです。ところが、手紙を書き終える時は、彼が自分でペンをとり最後のあいさつ文を書きました。たとえば、第二テサロニケ3章17-18節には「パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」このように、彼は、自分の手で、「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」という挨拶を書いていたのですが、ガラテヤ教会に書いた手紙の場合は、パウロは、最後の挨拶を書くために、自分でペンを取ったのですが、どうしても、彼がガラテヤ教会の人々の心にメッセージが届くようにと、彼は自分の手で最後の訴えを書いているのです。彼は11節で「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています」と言っていますが、これは、おそらくパウロが目の病気を持っていたからです。彼は自分が書いた字が小さいと読めなかったのです。それで大きな字を書いています。パウロにとっては、自分で字を書くことは大変であったと思いますが、彼は、ガラテヤ教会への手紙では、普通の挨拶で終わることができず、自筆による訴えをしているのです。彼がこの教会の人々に訴えたかったことは、旧約の律法を守ることで自分を正しい人間として認めてもらう生き方をやめて、キリストの前にへりくだって、自分の罪を認め、主イエスの十字架による罪の許しを受け取って、喜びとキリストへの感謝の心で自由に生きることでした。それを、パウロは、律法によって生きるか、神の恵みによって生きるかという2つの生き方を対比して述べています。


(1)律法主義者の生き方

 パウロは12節と13節で、律法主義者がどんな生き方をしているのかについて4つの点から述べています。第一に彼らは宗教的なプライドを持っていると言っています。12節では「肉において外見を良くした人」と言っていますが、ここでパウロが肉と言っているのは、神様の導き、聖霊の導きによるのではなく、人間的な、自己中心的な動機で行動することを意味しています。彼らは、5章で述べられている御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、時勢という内面の美しさを身につけることによって神様に喜びを与えることをしないで、自分が他の人が見ているところで心をひきつけるような行動をして、他の人々からの称賛を得ようとする生き方です。主イエスは、このような宗教的プライドを持つ人々には繰り返して警告の言葉を語っています。有名な山上の説教の中でも、主イエスは次のように言われました。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません(1節)。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい(3節)。」律法主義者がこだわっていた宗教的な儀式、宗教的な活動は、実は、彼らの宗教的プライドを満足させるためのものであり、人々からの称賛や褒め言葉を得るためのものだったのです。自分の心の中に御霊の実として述べられているような性質を身につけるのは非常に難しいことですが、宗教的儀式や活動を行うことは、それにくらべると簡単なことなのです。ガラテヤ教会においては、律法主義者たちは、メンバーに割礼の儀式を守ることを強要しました。彼らは、割礼を受けることによって人は神様の前に聖くなると考えていたからです。しかし、彼らは、律法の他の部分は無視していました。私たちは、聖書のいろいろな教えの中で、自分の好みや性格に合っている特定の教えや命令をことさら強調して実行し、それを人々にも押しつけることがあります。しかし、それは間違った態度です。私たちはいつも聖書の教え全体を見ていなければなりません。彼らのような態度は、彼らの心を決して新しく作りかえることはありませんでした。さらに、彼らは他の人々に重荷を与えていました。

 第二に、ガラテヤ教会にいた律法主義者たちは臆病な人間でした。彼らが割礼を受けることや律法を守ることにこだわったのは、自分の宗教的なプライドから出たことだけではなく、自分の生活や、自分の財産を守るためでもあったのです。パウロは12節で「彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。」と言っています。パウロ自身は、罪からの救いは律法を守ることによっては与えられず、ただイエスキリストの十字架を信じる信仰によって与えられるという福音のメッセージを語ったために、特にユダヤ人たちから激しい迫害を受けました。彼らはイエス・キリストを救い主と信じていると思っていました。彼らはイエス・キリストについて人々に語り、日曜日には礼拝に出席していましたが、信仰を告白することによって迫害を受けないために、妥協していました。律法主義者たちは、ユダヤ人たちからの迫害を避けるために、彼らの主張に妥協して、救いはキリストの十字架を信じるだけでは不十分であり、律法を守ることも必要であると主張していたのです。

 ユダヤ人にとって十字架はつまずきとなるものでした。今では、多くの人が十字架をアクセサリーにしていますが、1世紀のローマ帝国の市民にとっては、十字架は非常に不吉なものであり、不快なものでした。それは、ローマ帝国で行われていた死刑の中でも最も残酷な方法でした。それは、肉体的にただ苦しいだけでなく、人に極限までの恥と屈辱を与えるものだったからです。すぐには死なず、人々が見ている前で苦しみ悶えて死ななければなりません。そういう訳で、1世紀のローマ帝国では、一般の市民が「十字架」という言葉を使うことはほとんどありませんでした。それは拒絶と恥を表す言葉だったからです。そのため、ガラテヤ教会の律法主義者たちは、キリストの十字架を語るよりも、律法の教えを語ることを重視したのです。それによって、ユダヤ人からの迫害を受けなくてすみますし、また、人々の受けもよかったからです。彼らはパウロのように、主イエスの十字架を信じる信仰に生きるために、犠牲を払おうとはせず、自分の立場や評判を守る人々であり、迫害を避け酔うとする臆病な人々でした。


(2)イエス・キリストを誇りとする

 ガラテヤ教会の律法学者たちは、自分が割礼という儀式を守って体に傷を持っていることを誇りにしていました。しかし、パウロは14節で「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」と言いました。彼は、なぜ、十字架以外に誇りとするものがあってはならないと言ったのでしょうか。なぜ、彼はそれほどにキリストの十字架を誇りにしていたのでしょうか。

 パウロはクリスチャンになる前は非常に熱心なユダヤ教徒で、律法を守るということに関しては誰にも負けない自信を持っていたほどでした。しかし、ある日、彼は復活のキリストと不思議な出会いをして、キリストに捉えられてしまいました。復活のキリストと出会うまでは、彼は、自分の家系、自分が受けてきた教育、自分の熱心な信仰生活を、自分の誇りとしていました。しかし、彼がキリストと出会ってからは、それまで自分の誇りであったものが、キリストを知っていることの素晴らしさに比べると、まるでゴミのようなものになってしまいました。主イエスという素晴らしい方と出会い、主イエスを知ったからです。パウロの人生の根底にはキリストとの出会いがあったのです。それが彼の人生を決定的に変えました。その時からパウロはキリストのために生きる人になりました。クリスチャンの信仰とは、言い換えると、キリストを個人的に知ることです。私の代わりに十字架の恥と苦しみを受けてくださったイエスの愛を知ることによって、このイエスとの出会いによって、生き方が変わった人がクリスチャンなのです。昨日の澤山聡子さんの結婚式の中で、司式をされた先生が、説教の中でヘレンケラーの話をされました。幼い時の熱病で、見えない、聞こえない、話せないという三重の苦しみを背負ったヘレンケラーは親に甘やかされて育ったために手のつけられない子供になっていました。そこへ、送られてきたのがサリバン先生でした。彼女はものすごい努力をしてヘレンをそのような生き方から救い出そうとしましたが、うまくいかず、とうとう先生はヘレンを教育することを断念する決心をしました。それで、サリバン先生はヘレンを膝に抱いて大きな声で泣きながら、ヘレンと別れることを話しました。もちろんヘレンには先生の声は聞こえませんでした。しかし、彼女の足にサリバン先生の大粒の涙がぽたぽたと落ちました。ヘレンケラーは、後になって、このサリバン先生の涙が自分の足に零れ落ちた時に初めて愛というものを知って、その時からヘレンの生き方が変わりました。彼女とサリバン先生は生涯パートナーとなって暮しました。ヘレンがサリバン先生の愛を知ったからです。私たちがクリスチャンとして生きるのは、私のために命まで捨ててくださった主イエスの愛を知ったからです。ヘレンにとってサリバン先生が人生のすべてあったのと同様に、私たちにとっても、イエスは人生のすべてなのです。

 15節で、パウロはこう言っています。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」私たちは、自分の外側を整えて人々から良く見られようとする誘惑に駆られます。割礼を受けるという儀式自体は悪いものではありません。しかし、その儀式が私たちに誘惑になるのです。その儀式を受けることによって自分が他の人よりも偉くなった、あるいは、もっと敬虔なクリスチャンになったと思い込んで、それが自己中心的な誇りになるのです。クリスチャンにとって大切なことは、何かをすることでも、何かをしないことでもありません。大切なことは、キリストを知ったことによって心が新しく創られているかということです。主イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちが罪をゆるされ、神のこどもとして永遠に生きるためです。それが救いです。しかし、それだけではなく、私たちが自分のためではなくキリストのために生きるようになるためにも、主は十字架で私たちの身代わりとなってくださいました。17節では、パウロは「だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」と言っています。パウロの時代、奴隷は、自分の体に主人のイニシャルを体に焼き付けられました。それは、恥と屈辱の印でした。しかし、パウロは、自分がイエスの奴隷になったことを誇りにしていました。キリストのしもべとなったために、パウロは数多くの試練や困難を経験しました。キリストのしもべとなったためにたくさんの傷を受けました。しかし、パウロはむしろ自分がキリストの焼き印を受けたことを誇りに思っていました。そして、彼はイエスのために生き、イエスのために働くことが最も大きな喜びになっていたのです。私たちも、パウロと同じようにキリストと出会ったことによって、キリストを救い主としんて信じたことによって、まったく新しい人になりました。古いものは過ぎ去ってすべてが新しくなりました。イエスのしもべであるなら、私たちは自分勝手な権利を持ち出すことはできません。自分のために生きるのではなく、ご主人さまのためならば、すべてのことを置いてでも、ご主人さまのために立ち上がる、そのようなパウロの姿勢をならなければなりせん。パウロが手紙の最後で訴えているように、私たちも周りの人々に向かって、「誰も、わたしを煩わせないでください。」と訴える人でなければなりません。ただ、主を誇りとし、ただ、主を喜びとし、ただ、主に仕える人として生きること、これよりも祝福に満ちた生き方はありません。


1852年に、フランセス・ハバーガルという人がお父さんの目の手術のためにドイツへ行きました。彼女はある牧師の家に滞在していたのですが、その家の居間に十字架に架けられたイエスの絵がかかっており、絵の下に次のようなことばが書かれていました。「私はあなたのためにこのことをした。あなたは私のために何をしてくれたのか?」その言葉が彼女の心に響いたので、彼女はすぐに紙を取り出して、一つの詩を書きました。彼女はその詩を書きあげて読み返したのですが、彼女はその詩に満足しなかったので、詩を書いた紙を暖炉のなかに投げ入れました。ところが、なぜか、その紙は、燃えないでひらひらと暖炉から外へ出てきました。彼女の父親が暖炉の前の床に落ちていた紙を拾い上げ、そこに書かれている詩を読みました。そして、彼女にぜひ、この詩を出版社に送るように勧めました。この詩に後にメロディーがつけられて出来たのが、讃美歌332番「主は命を」です。

主は命を 与えませり
主は血潮を 流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
われ何をなして 主に報いし

主は御父の 許を離れ
わびしき世に 住みたまえり
かくもわがために 栄を捨つ
われは主のために 何を捨てし

主イエスキリストが、十字架で死んでくださったことによって、主イエスを救い主と信じたクリスチャンは罪をゆるされ、天国において神と共に永遠に生きる者としていただきました。主イエスが十字架で死んだのは、私たちが主にあって生きるためであり、主のために生きるためであり、主と共に永遠に生きるためなのです。