礼拝説教 2008年11月9日 『自分の重荷と他人の重荷』(ガラテヤ6章1ー10節)
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(イントロ)
チャーリーブラウンの漫画に次のような漫画があるそうです。ルーシーがチャーリーに質問します。「チャーリー、なんで私たちはこの世で生きているの?」するとチャーリーが答えました。「他の人を幸せにするためだよ。」それを聞いたルーシーがもう一つ尋ねました。「じゃ、なぜ、他の人はこの世に生きているの?」
ガラテヤ書の5章で、パウロはガラテヤ教会のクリスチャンに言いました。「信仰によって与えられた自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」肉とは、私たちが生まれつき持っている自己中心の心を指します。自己中心で生きるのではなく、愛をもって互いに仕えあうこと、これが一人一人の人間に与えられた使命なのです。私たちがいくら聖書の知識に富んでいても、教会生活の経験が長くても、神様は、そのことを第一に求めておられるのではありません。私たちが霊的なふさわしい性格、つまり愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実を結ぶことを、神様は第一に求めています。そして、そのような実を結ぶのは、何のためであるのか、そのことをパウロは6章で述べています。6章2節でパウロは次のように述べています。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」聖書の中で「〜し合いなさい」という教えが繰り返し出てきます。イエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言われました(ヨハネ13:34、15:12)。ヤコブは手紙の中で「互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。」(5:16)パウロはテサロニケ教会のクリスチャンに対して「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」と勧めています。愛を持って互いに仕え合うことを神様は非常に大切なこととして教えておられるのだと思います。そして、今日の箇所は、その中でも、「互いに重荷を負い合う」と言うことが取り上げられているのですが、信仰によって新しく生きる者となったクリスチャンは、もはや自分のことだけを考えて生きるのではなく、他の人のことを心にとめて、自分がその人のために何ができるのかを考える心が与えられるのです。それが、パウロがガラテヤ書の5章で述べている「御霊に導かれて生きる人」の生き方なのではないでしょうか。
(1)互いの重荷を負い合う
パウロは、重荷を負い合う一つの例として、信者の仲間が罪を犯した場合のことについて述べています。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」なぜ、パウロは、ガラテヤの教会のクリスチャンに、重荷を負い合うことの実例として、兄弟が罪を犯した場合ということを取り上げたのでしょうか。パウロは、5章で、律法を守ることで、自分の正しさを証明しようとする律法主義者に対して非常に厳しく批判しています。彼らが罪を犯した人に対する態度は、主イエスの教えとまさに正反対であったのです。主イエスご自身がもっとも厳しく対決したのが、ユダヤ人の中でも特に律法を守ることを誇りにしていたパリサイと呼ばれる人々でした。彼らは旧約聖書の教えの中でも、特に、断食をすること、施しをすること、宗教的な清めを実行することなどを強調して、自分たちがそれを実行していることを誇りにしていました。パリサイという名前自体が、「分離した」という意味ですが、これは、一般の人々が自分たちのように律法を守らないので、一般の人と自分たちは違うということを意味して自分たちを「分離派」と呼んでいたのでした。ある時、彼らが姦淫の現場を捕えられた一人の女性をイエスの所へ連れて来ました。そして、彼らは群衆の真ん中にその女性を立たせて、イエスに言いました。「モーセの律法、つまり旧約聖書の律法は、こう言う女性は石で打ち殺せと命じていますが、あなたはどうお考えになりますか。」と尋ねました。これは、彼らがイエスを試して、イエスを訴える口実を見つけるためであったとヨハネの福音書には書かれています。パリサイ人たちは宗教家です。彼らは自分たちの清さを誇り、人々の罪を暴くことが好きでした。彼女をわざわざ大勢の人の前に立たせて、その女性が自分たちと違って非常に罪深い生活をしていることを訴えています。彼らには、その女性に対する憐みがありません。こんな女は殺すべきだと訴えています。律法が罪人を取り扱う方法は石で打ち殺すことです。しかし、救い主イエスは、彼らに向かって言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことがない者から、彼女に石を投げろ。」すると、年長者から始まって、一人また一人と立ち去って行きました。そこで、訴えていた者が皆いなくなると、主イエスは立ち上がって、彼女に言いました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはなりません。」主イエスは、罪を一番忌み嫌われましたが、罪人を憐み、罪人を赦すために、ご自分が犠牲を払い、罪人の身代わりに、十字架の刑罰を受けられました。律法主義者であったパリサイ人たちは、人々の罪の重荷を負おうとはせず、むしろ人々に律法の裁きをかざして人々に重荷を与えていました。しかし、主は、人の罪を背負って、あの十字架を背負って十字架にかかってくださいました。
私たちは、主イエスがなさったのと同じように、罪を犯した人がいれば、その重荷を共に負い合うようにと命じられています。罪を負い合う目的は何かというと、その人が罪から立ち直って、神のもとへ帰ることです。教会はキリストの体であると言われます。私たち信者は、その体の中の一つ一つの骨のようなものです。体の中の骨が折れると、ひどく痛みます。そして、体全体が自由に動けなくなります。教会の中で一人の人が罪を犯すと、教会全体の働きが妨げられてしまいます。折れた骨は、回復して丈夫な骨になるように治療しなければなりません。治療自体は折れた骨には痛みが伴います。その骨だけでなく、骨の周りも痛みを感じます。しかし、治療を受けると骨は治ります。私たちは、罪に陥った信仰の友が、神の愛の中の本来いるべき場所へ戻ることができるように、その人のために祈り、その人を助けなければなりません。私たちは、失敗したことがない人、神の前に罪を犯さなかった人は一人もいません。自分も誘惑を受け失敗をしたことを思い出すならば、私たちは、罪に陥った人にも思いやりの心を持つことができるはずです。私たちは、神から離れた人が神のもとへ立ち帰るために、そのことを自分の重荷として受け取ることが必要です。
ところが、ガラテヤ教会では、5章の26節に書かれているように、お互いの罪の重荷を負い合うどころか、かえって、いどみ合ったり、そねみ合ったりして、それぞれが、自分の正しさを主張し、他人の罪を訴えて、虚栄、見せかけの信仰に走っていたのです。私たちの中で、完全に罪から離れて生きることのできる人は一人もいません。パウロもはっきり言いました。「義人はいない。一人もいない。」私たちは、謙遜になって、自分も同じ罪を犯す弱さを持っていることを認めて、自分自身が罪に陥ることのないように気をつけなければなりません。そして、罪を犯した人が、その所から悔い改めて信仰が回復するために祈り、行動しなければならないのです。4節には次のように書かれています。「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」私たちが正直に自分の行動や言葉づかいや頭の中で考えたことを調べると、決して他の人には誇れるようなものではありません。律法主義を訴える人々は、いつも自分と他の人を比べていました。自分よりも劣っていると思う人を探して、そのような人と自分を比べて、自分が正しい人間であると思い込もうとするのです。他人と比べるのは、自分に確信がないからです。私たちが見るべきお方は、周りの人間ではなく主イエスご自身です。主イエスの前に自分が罪人であることを認めて、そのような自分を許してくださった主イエスに感謝をして、そのイエスが願っておられる生き方を生きることが大切なのです。それが5節の言葉が意味するところだと思います。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」
(2)祝福を互いに分かち合う
6節からは、パウロはクリスチャンの交わりのプラスの面について語っています。6節「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」ここで注目すべき言葉は「分かち合う」という言葉です。キリスト教会が誕生した時から、「分かち合い」はクリスチャンの交わりの中心でした。この言葉はギリシャ語で「コイノニア」と言います。教会の中で、教える者も教えられる者も、すべての良い物を分かちあうようにと命じられています。そこには霊的なものも含まれるでしょうし、物質的なものも含まれるでしょう。初代教会では人々がすべての良いものを分かち合っていたことが使徒の働きの2章に描かれています。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(2章44-47章)彼らは、すべてのものを共有して、お互いに助け合っていました。それぞれの必要に応じて、いろいろなものを分け合っていました。そして、それだけでなく、彼らはクリスチャンになってもエルサレムの神殿に集まって、聖餐式を行い、賛美の歌をともに歌い、神様を礼拝していました。そのために、彼らはクリスチャンでない人々からも好意を持たれ、また、彼らの仲間に加わる人が次々に起こされていました。彼らはなぜ、周りの人々の好意を得ることができたのでしょうか。それは、彼らは、一つになって、主イエスから言われたもっとも大切な二つの戒めを実行していたからです。彼らは心を合わせて、ともに、神様を尊敬し神様を礼拝していました。そして、彼らはお互いに自分の隣人を自分自身を愛するように愛して、助け合って生きていました。すべての良いものを分かち合うとは、このような生き方をとおして、神様の祝福をお互いが受け取っていくことを意味しています。
そしてパウロは7、8節で次のように述べています。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」この言葉にはプラスの面とマイナスの面がありますが、原則を言えば、私たちは、自分の行動、自分が取った態度、自分が話した言葉、自分が考えたこと、これらすべてに自分が責任を負わなければならないと言うことです。とうもろこしの種をまいたら、とうもろこしが生えてきます。どんなに肥料をやっても良く耕しても麦は生えて来ません。このことは信仰生活にあてはめて考えると、どういう意味になるでしょうか。自分の肉のために蒔くとは、自分の生まれつきの罪の心を満足させるために、自分が与えられている才能、時間、お金などを用いるならば、当然の結果として、霊的な滅びに落ちてしまいます。しかし、御霊のために蒔くとは、その反対で、自分の欲望を満足させるためではなく、神様が願っていることのために、神様が喜ぶことのために自分の才能、時間、能力を捧げる時には、永遠のいのちを得ることになるということです。自分の欲望を満足させるために生きる人は、魂の滅びを刈り取ることになりますが、神様のために自分に与えられているものを捧げる人は、永遠の命を刈り取ることになるのです。そしてパウロは約束しています。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(9節)私たちが神様のために種を蒔くとき、蒔いた種がすぐに実を結ぶとは限りません。種が根を出し目を出すのに時間がかかるように、霊的に蒔いた種もすぐに根や目が出るとは限りません。しかし、神様のタイミングで、時が来ると、必ず刈り取りの時が来るのです。詩篇126篇5−6節にはこう書かれています。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」涙とともに蒔くとあります。それは、種をまく人が心をこめて、真剣に、時には祈り叫びつつ種をまき続けている姿です。その人はどうなるでしょうか。その人は喜び叫びながら刈り取りをするのです。私たちが神様のために種まきの働きをしても、何の変化も、何の反応もない、そんな時が続くかも知れません。自分の苦労がまったく無意味に見える時が来るかもしれません。しかし、大切なことは、あくまでも蒔き続けることです。神様が必ず、刈り取りの時が来ると約束しておられます。もしかすると、刈り取りをするのは自分ではなくて、他の人かもしれません。しかし、蒔いた種は必ず刈り取ることになるのです。そのことを覚えて、私たちは、すべての良いものを分かち合って、神様のために種をまき続けることが大切です。
カトリック教会の偉大な神学者アウグスチヌスは、クリスチャンになる前は、放蕩息子のような生活をしていました。彼の母モニカは、熱心なクリスチャンで、息子のことが心配でいつも彼のために祈っていました。そのことをアウグスチヌスはよく知っていましたので、彼は、後に、「告白」という本の中で母親のことについて次のように書きました。
私の母は教会の司教に、私と会って話をしてくれるように、また、私の間違いを指摘し、悪いものを忘れ良いものを覚えるように教えてくれるようにと頼みました。しかし、その司教は母の頼みを断りました。「息子さんはまだ私の教えを聞くような心になっていません。しばらく放っておきなさい。そして息子さんのために主に祈り続けなさい。息子さんは、いつかみ言葉を読んで、自分で自分の間違った生活に気づくでしょう。」しかし、私の母は司教の言葉に納得しませんでした。そしてたくさんの涙を流しながら何度も何度も、その司教に私と会って話をしてくれと頼みつづけました。司教は、母のしつこさに少しいらだちを感じて、母に言いました。「お母さん。安心して帰りなさい。あなたが生きている限り、これだけ多くの涙を流して神に祈っている母親を持つ息子の魂が滅びるなんて不可能だから。」
(イントロ)
チャーリーブラウンの漫画に次のような漫画があるそうです。ルーシーがチャーリーに質問します。「チャーリー、なんで私たちはこの世で生きているの?」するとチャーリーが答えました。「他の人を幸せにするためだよ。」それを聞いたルーシーがもう一つ尋ねました。「じゃ、なぜ、他の人はこの世に生きているの?」
ガラテヤ書の5章で、パウロはガラテヤ教会のクリスチャンに言いました。「信仰によって与えられた自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」肉とは、私たちが生まれつき持っている自己中心の心を指します。自己中心で生きるのではなく、愛をもって互いに仕えあうこと、これが一人一人の人間に与えられた使命なのです。私たちがいくら聖書の知識に富んでいても、教会生活の経験が長くても、神様は、そのことを第一に求めておられるのではありません。私たちが霊的なふさわしい性格、つまり愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実を結ぶことを、神様は第一に求めています。そして、そのような実を結ぶのは、何のためであるのか、そのことをパウロは6章で述べています。6章2節でパウロは次のように述べています。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」聖書の中で「〜し合いなさい」という教えが繰り返し出てきます。イエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言われました(ヨハネ13:34、15:12)。ヤコブは手紙の中で「互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。」(5:16)パウロはテサロニケ教会のクリスチャンに対して「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」と勧めています。愛を持って互いに仕え合うことを神様は非常に大切なこととして教えておられるのだと思います。そして、今日の箇所は、その中でも、「互いに重荷を負い合う」と言うことが取り上げられているのですが、信仰によって新しく生きる者となったクリスチャンは、もはや自分のことだけを考えて生きるのではなく、他の人のことを心にとめて、自分がその人のために何ができるのかを考える心が与えられるのです。それが、パウロがガラテヤ書の5章で述べている「御霊に導かれて生きる人」の生き方なのではないでしょうか。
(1)互いの重荷を負い合う
パウロは、重荷を負い合う一つの例として、信者の仲間が罪を犯した場合のことについて述べています。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」なぜ、パウロは、ガラテヤの教会のクリスチャンに、重荷を負い合うことの実例として、兄弟が罪を犯した場合ということを取り上げたのでしょうか。パウロは、5章で、律法を守ることで、自分の正しさを証明しようとする律法主義者に対して非常に厳しく批判しています。彼らが罪を犯した人に対する態度は、主イエスの教えとまさに正反対であったのです。主イエスご自身がもっとも厳しく対決したのが、ユダヤ人の中でも特に律法を守ることを誇りにしていたパリサイと呼ばれる人々でした。彼らは旧約聖書の教えの中でも、特に、断食をすること、施しをすること、宗教的な清めを実行することなどを強調して、自分たちがそれを実行していることを誇りにしていました。パリサイという名前自体が、「分離した」という意味ですが、これは、一般の人々が自分たちのように律法を守らないので、一般の人と自分たちは違うということを意味して自分たちを「分離派」と呼んでいたのでした。ある時、彼らが姦淫の現場を捕えられた一人の女性をイエスの所へ連れて来ました。そして、彼らは群衆の真ん中にその女性を立たせて、イエスに言いました。「モーセの律法、つまり旧約聖書の律法は、こう言う女性は石で打ち殺せと命じていますが、あなたはどうお考えになりますか。」と尋ねました。これは、彼らがイエスを試して、イエスを訴える口実を見つけるためであったとヨハネの福音書には書かれています。パリサイ人たちは宗教家です。彼らは自分たちの清さを誇り、人々の罪を暴くことが好きでした。彼女をわざわざ大勢の人の前に立たせて、その女性が自分たちと違って非常に罪深い生活をしていることを訴えています。彼らには、その女性に対する憐みがありません。こんな女は殺すべきだと訴えています。律法が罪人を取り扱う方法は石で打ち殺すことです。しかし、救い主イエスは、彼らに向かって言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことがない者から、彼女に石を投げろ。」すると、年長者から始まって、一人また一人と立ち去って行きました。そこで、訴えていた者が皆いなくなると、主イエスは立ち上がって、彼女に言いました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはなりません。」主イエスは、罪を一番忌み嫌われましたが、罪人を憐み、罪人を赦すために、ご自分が犠牲を払い、罪人の身代わりに、十字架の刑罰を受けられました。律法主義者であったパリサイ人たちは、人々の罪の重荷を負おうとはせず、むしろ人々に律法の裁きをかざして人々に重荷を与えていました。しかし、主は、人の罪を背負って、あの十字架を背負って十字架にかかってくださいました。
私たちは、主イエスがなさったのと同じように、罪を犯した人がいれば、その重荷を共に負い合うようにと命じられています。罪を負い合う目的は何かというと、その人が罪から立ち直って、神のもとへ帰ることです。教会はキリストの体であると言われます。私たち信者は、その体の中の一つ一つの骨のようなものです。体の中の骨が折れると、ひどく痛みます。そして、体全体が自由に動けなくなります。教会の中で一人の人が罪を犯すと、教会全体の働きが妨げられてしまいます。折れた骨は、回復して丈夫な骨になるように治療しなければなりません。治療自体は折れた骨には痛みが伴います。その骨だけでなく、骨の周りも痛みを感じます。しかし、治療を受けると骨は治ります。私たちは、罪に陥った信仰の友が、神の愛の中の本来いるべき場所へ戻ることができるように、その人のために祈り、その人を助けなければなりません。私たちは、失敗したことがない人、神の前に罪を犯さなかった人は一人もいません。自分も誘惑を受け失敗をしたことを思い出すならば、私たちは、罪に陥った人にも思いやりの心を持つことができるはずです。私たちは、神から離れた人が神のもとへ立ち帰るために、そのことを自分の重荷として受け取ることが必要です。
ところが、ガラテヤ教会では、5章の26節に書かれているように、お互いの罪の重荷を負い合うどころか、かえって、いどみ合ったり、そねみ合ったりして、それぞれが、自分の正しさを主張し、他人の罪を訴えて、虚栄、見せかけの信仰に走っていたのです。私たちの中で、完全に罪から離れて生きることのできる人は一人もいません。パウロもはっきり言いました。「義人はいない。一人もいない。」私たちは、謙遜になって、自分も同じ罪を犯す弱さを持っていることを認めて、自分自身が罪に陥ることのないように気をつけなければなりません。そして、罪を犯した人が、その所から悔い改めて信仰が回復するために祈り、行動しなければならないのです。4節には次のように書かれています。「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」私たちが正直に自分の行動や言葉づかいや頭の中で考えたことを調べると、決して他の人には誇れるようなものではありません。律法主義を訴える人々は、いつも自分と他の人を比べていました。自分よりも劣っていると思う人を探して、そのような人と自分を比べて、自分が正しい人間であると思い込もうとするのです。他人と比べるのは、自分に確信がないからです。私たちが見るべきお方は、周りの人間ではなく主イエスご自身です。主イエスの前に自分が罪人であることを認めて、そのような自分を許してくださった主イエスに感謝をして、そのイエスが願っておられる生き方を生きることが大切なのです。それが5節の言葉が意味するところだと思います。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」
(2)祝福を互いに分かち合う
6節からは、パウロはクリスチャンの交わりのプラスの面について語っています。6節「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」ここで注目すべき言葉は「分かち合う」という言葉です。キリスト教会が誕生した時から、「分かち合い」はクリスチャンの交わりの中心でした。この言葉はギリシャ語で「コイノニア」と言います。教会の中で、教える者も教えられる者も、すべての良い物を分かちあうようにと命じられています。そこには霊的なものも含まれるでしょうし、物質的なものも含まれるでしょう。初代教会では人々がすべての良いものを分かち合っていたことが使徒の働きの2章に描かれています。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(2章44-47章)彼らは、すべてのものを共有して、お互いに助け合っていました。それぞれの必要に応じて、いろいろなものを分け合っていました。そして、それだけでなく、彼らはクリスチャンになってもエルサレムの神殿に集まって、聖餐式を行い、賛美の歌をともに歌い、神様を礼拝していました。そのために、彼らはクリスチャンでない人々からも好意を持たれ、また、彼らの仲間に加わる人が次々に起こされていました。彼らはなぜ、周りの人々の好意を得ることができたのでしょうか。それは、彼らは、一つになって、主イエスから言われたもっとも大切な二つの戒めを実行していたからです。彼らは心を合わせて、ともに、神様を尊敬し神様を礼拝していました。そして、彼らはお互いに自分の隣人を自分自身を愛するように愛して、助け合って生きていました。すべての良いものを分かち合うとは、このような生き方をとおして、神様の祝福をお互いが受け取っていくことを意味しています。
そしてパウロは7、8節で次のように述べています。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」この言葉にはプラスの面とマイナスの面がありますが、原則を言えば、私たちは、自分の行動、自分が取った態度、自分が話した言葉、自分が考えたこと、これらすべてに自分が責任を負わなければならないと言うことです。とうもろこしの種をまいたら、とうもろこしが生えてきます。どんなに肥料をやっても良く耕しても麦は生えて来ません。このことは信仰生活にあてはめて考えると、どういう意味になるでしょうか。自分の肉のために蒔くとは、自分の生まれつきの罪の心を満足させるために、自分が与えられている才能、時間、お金などを用いるならば、当然の結果として、霊的な滅びに落ちてしまいます。しかし、御霊のために蒔くとは、その反対で、自分の欲望を満足させるためではなく、神様が願っていることのために、神様が喜ぶことのために自分の才能、時間、能力を捧げる時には、永遠のいのちを得ることになるということです。自分の欲望を満足させるために生きる人は、魂の滅びを刈り取ることになりますが、神様のために自分に与えられているものを捧げる人は、永遠の命を刈り取ることになるのです。そしてパウロは約束しています。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(9節)私たちが神様のために種を蒔くとき、蒔いた種がすぐに実を結ぶとは限りません。種が根を出し目を出すのに時間がかかるように、霊的に蒔いた種もすぐに根や目が出るとは限りません。しかし、神様のタイミングで、時が来ると、必ず刈り取りの時が来るのです。詩篇126篇5−6節にはこう書かれています。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」涙とともに蒔くとあります。それは、種をまく人が心をこめて、真剣に、時には祈り叫びつつ種をまき続けている姿です。その人はどうなるでしょうか。その人は喜び叫びながら刈り取りをするのです。私たちが神様のために種まきの働きをしても、何の変化も、何の反応もない、そんな時が続くかも知れません。自分の苦労がまったく無意味に見える時が来るかもしれません。しかし、大切なことは、あくまでも蒔き続けることです。神様が必ず、刈り取りの時が来ると約束しておられます。もしかすると、刈り取りをするのは自分ではなくて、他の人かもしれません。しかし、蒔いた種は必ず刈り取ることになるのです。そのことを覚えて、私たちは、すべての良いものを分かち合って、神様のために種をまき続けることが大切です。
カトリック教会の偉大な神学者アウグスチヌスは、クリスチャンになる前は、放蕩息子のような生活をしていました。彼の母モニカは、熱心なクリスチャンで、息子のことが心配でいつも彼のために祈っていました。そのことをアウグスチヌスはよく知っていましたので、彼は、後に、「告白」という本の中で母親のことについて次のように書きました。
私の母は教会の司教に、私と会って話をしてくれるように、また、私の間違いを指摘し、悪いものを忘れ良いものを覚えるように教えてくれるようにと頼みました。しかし、その司教は母の頼みを断りました。「息子さんはまだ私の教えを聞くような心になっていません。しばらく放っておきなさい。そして息子さんのために主に祈り続けなさい。息子さんは、いつかみ言葉を読んで、自分で自分の間違った生活に気づくでしょう。」しかし、私の母は司教の言葉に納得しませんでした。そしてたくさんの涙を流しながら何度も何度も、その司教に私と会って話をしてくれと頼みつづけました。司教は、母のしつこさに少しいらだちを感じて、母に言いました。「お母さん。安心して帰りなさい。あなたが生きている限り、これだけ多くの涙を流して神に祈っている母親を持つ息子の魂が滅びるなんて不可能だから。」

