礼拝説教 2008年11月2日 『キリストの自由に生きる』(ガラテヤ5:13-26)

2008.11.13

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(イントロ)

 パウロがガラテヤ地方で行った伝道によってキリストを救い主と信じる人々が起こされて、落ちに、ガラテヤ地方の各地に教会が誕生しました。その時に、パウロがガラテヤのクリスチャンに強調したことは、「クリスチャンとは、自由を与えられるために召された者である」ということでした。ところが、パウロの教えに批判的だった人々は、「自由」を強調して「律法」を無視すると、人々は、どう生きるべきなのかというガイドラインを持たないために、自分の好きなように生活をするようになり必ず堕落すると考えていました。確かに、私たちは、自由を与えられると、その自由を勘違いして自分勝手な生活、罪の生活に陥る危険性があります。先日の記念礼拝で長谷川先生が話されたことの中に、長谷川先生の教会で洗礼を受ける人が必ず訊かれる質問がありました。最初の質問は「あなたは何から救われたのですか。」という質問ですが、この答えは、もちろん「罪から救われた」です。第二の質問は「あなたは何のために救われたのですか。」というものですが、この質問は本当に大切な質問だと思いました。私たちは神様に仕えて生きるために救われたのです。パウロは、自由ということを履き違えている人に対する答えとして13節の後半で次のように述べています。「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」クリスチャンが神様から与えられた自由とはどんな自由なのか、それは、愛をもって互いに仕えあうための自由であるとパウロは教えています。パウロは第一コリントの13章で、信仰においてどんなにすばらしいものでも、愛がなければ全く無意味であると教えていますが、クリスチャンの自由も、愛と結びついて初めて本当の自由になるのです。ここで愛とは、主イエスが、クリスチャンにとってもっとも大切なこととして言われた教えの中で言われている愛のことです。つまり、第一に全力を尽くして神を愛する愛であり、第二に隣人を自分自身のように愛する愛のことです。この愛に基づいた自由は、他の人に仕える本当の自由となります。しかし、この愛に基づかない自由は、自分の欲望に縛られてしまう偽の自由となってしまうのです。愛をもって他の人に仕えるために必要な愛はどこから来るのでしょうか。それは、私たち一人ひとりが自分の罪深さをはっきりと知り、そのような者のためにイエス様が行ってくださった大きな犠牲を知るとき、聖霊が私たちの心の中で働き、喜びと感謝の気持ちがあふれてきます。そのときの心が、神様から与えられた自由の愛なのです。ここで言われている愛がギリシャ語では「アガペー」と言いますが、これは、愛の中でも、特に、自分を犠牲にする愛を意味する言葉です。ですから、クリスチャンの自由とは、律法や規則やガイドラインがない自分の心が欲するままに自分がしたいように生きることではありません。むしろ、神様から言われたからではなく、人から言われたからでもなく、ただ嬉しさから、喜びから、他の人に仕えるという生き方を生きることで、自然と神様の教えにかなった生き方をしており、また神様の栄光を表す生き方をしているという、そんな生活です。私たちは、誰かを夢中で好きになったときや、自分の長く待っていた願いがかなったときや、思わぬボーナスが入ったときなど、とても嬉しくなって、いつもよりも気が大きくなって、他の人に何かしてあげたくなるときがあります。そんなとき、人に仕えること、人のために何かをしてあげることは全く重荷になりません。パウロは、クリスチャンの自由はそのような自由だと教えています。
 

(1)御霊によって歩みなさい

 パウロはガラテヤのクリスチャンに対して16節で次のように命令しています。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」ここで、パウロは「御霊によって歩む」つまり「聖霊に導かれ聖霊に従って生きる」ことを「肉の欲を満足させること」とを正反対のいき方として描いています。聖書には、パウロが「肉」と呼んでいるのは、肉体のことではなく、罪人として生まれて来た私たちの心の中の自己中心的な欲望を指しています。私たちが罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じてクリスチャンになった後も、私たちの古い肉の性質、自己中心の性質は残っています。私たちが、この世で生きる間、この古い性質と、信仰を持ったことによって与えらえた新しい性質との間で葛藤を経験します。私たちは、過去のすべての罪は許されて、神の子供にしていただきましたが、一般の家庭で育った人が皇室に入ると、それまでの生活が体の隅々にまで浸透しているため、新しい生活にすっかり溶け込むのに少し時間がかかります。また、新しい生活になれるためには努力も必要です。皇室の一員になったという立場は決まっているのですが、まだ、昔の生活の習慣や癖が残っているのです。それと同じように、私たちは、クリスチャンになったときに、それまでの罪は全部赦されて、神の子供になったのですが、以前の生活の癖が残っているのです。私たちは、神の子供になった自覚をしっかりと持って、早く、父なる神様に喜んでいただけるような生活ができるクリスチャンになることが大切です。もし、クリスチャンになっていなかったら、もともと、新しい性質はありませんから、古い性質との葛藤はありません。自分の肉の性質に支配されているので、葛藤はありません。しかし、クリスチャンになって与えられた新しい性質が、まだ残っている性質と正面からぶつかってしまうのです。

 18節に「御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」と書かれています。私たちは、日々、御霊に導かれるという経験を積み重ねなければなりません。「御霊に見びちかれる」というのは、自分の行動のパターンが、自分の欲望や自分の願いによって決まるのではなく、聖書の教えや命令に喜んで従おうとする気持ちを毎日持ち続けること、いつも自分が決断をすることに、それが自分自身の願いから出ているのか神様からの導きなのかを点検していること、そして、そのすべての動機は、自分が神様から特別に愛されていることを確認するところから始まるのです。御霊によって生きるとは、神様の愛に応答して生きることと言い換えることができると思います。恋人であっても、夫婦であっても、自分の意見と相手の意見が異なった場合、相手の意見に従うことは難しいことではありません。たとえば、自分は洋食が食べたいのに、相手は和食が食べたいとい言う場合、相手を愛していれば、相手の願いを聞き入れることは難しいことではありませんし、相手が喜ぶのを見れば、相手の願いを聞き入れること自体が喜びになります。クリスチャンと神様との関係も、このような関係であるべきです。しかも、私たちと神様とは、対等の立場にいるのではありません。私たちはもともと罪の奴隷でしたが、主イエスが十字架で流された血潮という代価によって神様に買い取られた者です。私たちは罪の奴隷でしたが、いまは、神様に買い取られて、神様のものになりました。私たちは神様に仕えるために神様に買い取られたのです。ですから、神様の言葉に聴き従うのは当然のことなのです。


(2)肉の実と御霊の実

 19節から23節の間に、肉、つまり古い性質がもたらすものと、御霊、信仰をもったことで与えられる新しい性質がもたらすものが対比されています。まず、パウロは「肉の行い」と言っています。つまり、私たちの古い性質がもたらすものは行いであり働きです。英語のの聖書ではworkという言葉が使われています。肉は働くのです。工場の機械は働いて、さまざまなものを作り出します。しかし、機械は、どんなに働いて、いろいろなものを創り出すとしても、実を創り出すことはできません。実がなるためには、いのちが必要だからです。私たちの古い性質にはいのちがありません。」古い性質は死んだ行いしか創り出すことができないのです。しかし、新しい性質は新しい命が与えられていますので、実を結ぶのです。実は、さらに多くの実を結ぶ力があります。なぜなら、実にはいのちがあるからです。聖書では、いろいろな意味で「実」という言葉が使われていますが、ここで言われている実が、神様が私たちのうちに実ることを願っておられる性質であることが分かります。クリスチャンの中には、御霊の賜物を求めて、聖霊による特別な力を与えられることだけを願う人がいます。パウロは第一コリントの12章で様々な御霊の賜物について語っています。御霊の賜物として、知恵の言葉、つまり霊的な知恵を教える言葉や、神から新しい啓示を受けて人々に語り継げる預言の賜物、いろいろな霊を見分ける賜物などがあげられています。それぞれ、この地上に神様の働きが広がるための力強い、大切な特別な能力です。しかし、さまざまな御霊の賜物について語った後、13章に入ると、パウロは愛について語っています。どんなに大きな信仰が与えられていても、どんなに素晴らしい御霊の賜物が与えられていても、愛がないなら何の役にも立たないとパウロは断言しています。神様が私たちに一番求めているのは、人を感心させる目覚ましい働きではなく、目立たないけれども周りの人に大きな影響を与える、クリスチャンとしてのふさわしい性質を身につけることなのです。

 パウロはここで、御霊の身として9つの性質について語っています。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の9つです。この9つの実は3つのグループに分けられると思います。最初の3つ愛、喜び、平安という性質は、私たちと神様との関係の中で養われていく実です。その最初が愛です。クリスチャンの自由が愛に基づいている場合に初めて本当の自由になるように、クリスチャンの性質の根本は愛でなければなりません。愛を表すギリシャ語は、よくご存じの「アガペー」という言葉が用いられています。罪深い私たちのために自らすすんで十字架にかかられたイエスさまが持っていたのと同じ愛です。この愛は、神様が持っている愛ですから、私たちのうちには以前はなかった性質です。主イエスのアガペーの愛を知り、それを受けた私たちにとって最も大切な実は愛です。その愛があるときに私たちは、周りの状況に左右されない、深い喜びを感じます。愛と喜びを感じているときに、心は平安に満ち足りています。神様を知れば知るほど私たちの心は平安な心になります。

 次の3つの性質、寛容、親切、善意、は他の人々との間で役にたつ性質です。寛容と訳されている言葉は忍耐とか、長く耐え忍ぶことを表す言葉です。忍耐強い人は、人から悪を受けた時に復讐したり、相手のひとに悪いことが起こるように願ったりしません。そして、どんな人に対しても、たとえ悪に対しても悪をもって応答せずに、善いことをもって応答しようとする人です。このようなことは私たちの生まれつきの性質ではできないことですが、聖霊の支配を受けるときに、行うことができることです。

 次の3つの性質は自分自身との関係にかかわる性質です。誠実、柔和、自制という性質です。誠実は、神様のようにいつも変わらない姿勢を持っていることです。柔和は、英語の辞書では、権力や力を正しく用いることと説明されていました。イエスさまはマタイの福音書11章29節で「わたしは心優しく、へりくだっている」と言われましたが、心優しいとは柔和という意味です。知恵とは知識を正しく用いることであるように、柔和とは権威や権力を正しく用いることを意味します。そして、自制とは自分をコントロールする力です。自分の感情をコントロールできないのはその人の弱さです。そしていつも周りの状況や周りの人の存在によって心が揺れ動きます。自分の感情に支配されるために自由に生きることができません。しかし、自分の心を治めることができる人は、周りの状況や人に左右されない、自由な生き方ができます。

 古い性質は働き、行いをもたらします。新しい性質は実を結びます。古い性質が活動しているとき、人はいつも自分の働きを自慢する心を持ち、人から評価されることを求め、人から認められない限り、心に喜びはありません。一方、御霊の実が結ぶ時、それは、聖霊の働きです。私たちが、自分の意思と努力で結ぼうと頑張って結ぶのではなく、神様の愛に応答して生きているときに、気付かないうちに結ばれているのです。そして、その人は自分の栄光を求めず、神の栄光を求めます。

 このような御霊の実を結ぶのには何が必要なのでしょうか。果物は、適切な気候や雨の量があれば豊かに実ります。御霊の実を豊かにするものは、み言葉に聞くこと、祈り、心をこめた礼拝、賛美、神の民との霊的な交わりなどです。また、豊かな実が実るためには、成長を妨げる雑草を取り除かなければなりません。私たちは、霊的な成長を妨げるものはあらゆる努力をして取り除くことがどうしても必要です。また、実は何のために実るのでしょうか。それは、飾っておくものではありません。人から褒められるために実が実るのでもありません。実は、食べられるために実るのです。今の時代、私たちの周りにいる人々は、愛、喜び、平安、寛容、といったものを持ちたいと強く願っています。私たちが、御霊の実を結ぶのは自分がその実を食べるためではなく、周りの人が、その実によって養われるためであり、そして、そのことによって神様に栄光をお返しするためなのです。私たちは、御霊の実を結んでいるでしょうか。