礼拝説教 2008年10月26日「神にある自由に生きる」(ガラテヤ5章1-12節)
説教一覧へ戻る
(イントロ)
旧約聖書の律法の教えを重視するユダヤ主義者たちは、パウロの教えを危険だと感じていました。この人たちは「もし、人が高い道徳基準を守ってきた律法の教えから離れるなら、クリスチャンの教会は堕落してしまう」と考えていました。パウロは神様の恵みを強調して教えていました。人が罪から救われるのは、律法の教えを守ることによって救われるのではないとパウロは主張しました。律法を完全に守れる人は一人もなく、むしろ律法を守りきれないことを認めた人間のために身代わりになって十字架で刑罰を受けてくださったキリストを信じる信仰を持つことによって人は救われるのだとパウロは教えていたのです。私たちが、イエス・キリストの十字架は私の罪を赦すためのものだったと信じる信仰を持つときに、神様が私たちを一方的に赦して、私たちを神の子供として受け入れてくださる、」これが神様の特別な愛、神様の恵みです。パウロが教える神様の恵みについて、ユダヤ主義者の人々は誤解をしていたので、パウロはガラテヤ書の5章と6章で、彼らの誤解を解くために、神様の恵みによって罪から救われたクリスチャンがどのように生きるべきなのかということをテーマに書いています。
1. 奴隷として生きるな(1節)
1節でパウロはこう書いています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」律法を「奴隷のくびき」と呼んでいます。当時の奴隷には足に足かせがはめられたり、首にくびきがはめられたりしていました。足かせやくびきは、奴隷が誰か他の人、その奴隷の所有者によって完全に支配され、コントロールされていることを示していました。ガラテヤ教会のクリスチャンたちは、罪の奴隷、悪魔の奴隷から解放されました。罪に支配されていた彼らは解放されたのです。律法は、私たちをくびきにつなぎます。それは、律法は私たちに対して、私たちが律法を完全に守れない弱さを見せ付けるからです。しかし、主イエスが、そんな弱い私たちの代わりに、十字架の上で罪の刑罰を受けてくださったために、私たちは神様から何のお咎めも受けることのない人間として、罪の捌きから解放されました。ですから、クリスチャンはもはや律法が私たちを責めるということはもうなくなったのです。律法のくびきから解放されたのです。パウロはローマ書6章14節で「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」と言っています。
ところが、この教えに真っ向から反対したのがユダヤ主義者たちでした。彼らは、パウロの教えに従えば、律法が教える大切な倫理や道徳が全部無視されて、人々の生き方が自己中心的になると考えました。それで、彼らは、信仰者はとにかく、律法の教えをしっかり守って倫理的で道徳的な生活をしなければならないと教えました。つまり、信仰者は律法の下にいると主張したのです。つまり、律法の守ることによって、自分の力で神様から正しい人としての評価を受けることができるというとても傲慢な考え方です。しかし、パウロの教えに対立するもう一つの考え方があります。それは、「律法の下にいないのだから、自分は何をしてもかまわない」という、これまた非常に自己中心的な考えです。どちらかというとこの考えに走る人の方が多いでしょう。なぜなら、それほど自分に都合の良い生き方はないからです。「自分が言いたいことを言い、自分がやりたいようにやる。」多くの人はそれが自由だと考えています。ところがこの生き方も、実は自我、自己中心という考えに縛られています。もし、一人の人が「自分が言いたいことを言い、自分がやりたいようにやってもかまわない」と考えるなら、他の人も同じように考える権利があります。皆が同じようにその自由を持つことによって初めて、その自由が保障されるのですが、世の中はそううまくは行きません。自分が他の人に対して好きなことをいい、好きなことをしても、OKなのですが、もし、他の人が自分に対して同じことをしたなら、その人は激しい怒りを感じるのです。「あいつからそんなことを言われる筋合いはない」「あいつからなぜそんな仕打ちを受けなければならないのか」と怒るのです。このように、自分の行いはOKでも、他人が同じことをすることには怒るのです。それが今の社会の姿を現しています。
私たちが律法の下にいるのではなく、神の恵みの下にいるということは、私たちが法律を無視してかって気ままに生きる人になるということではなく、律法という外側の力によって、強制的に自分を神様の御心に従わせることではなく、こころのうちに聖霊が働いて、神様の恵みに感謝する心から自発的に神様の御心に従うことを行いたいという心が与えられるのです。
2. 私たちは神に負債を負っている(2-6節)
聖書は、私たちがイエス・キリストを信じる前は、罪人であることを教えていますが、人間の罪を神様に対する借金に例えています。私たちは、クリスチャンになる前は、自分の力ではどうしても払うことができない借金を抱えているようなものなのです。借金を抱えて生きるのは大変です。いつも、借金とりから「金を返せ」「金を返せ」と取り立てられるからです。心に平安がありません。私たちは、いつも自分と他の人を比べて、「自分はあの人よりも良い人間だ」などと考えます。しかし、人間の間では、少しの違いがあっても、神の目には、すべての人は、自分では払えない借金を抱えているような、自分の力では解決できない罪人なのです。ところが、ユダヤ主義者は自分たちは旧約聖書の律法の命令の一部を守ることで、自分の正しさを証明しようとしていました。ユダヤ教徒にはいくつかのグループがありますが、その中のパリサイと呼ばれた人々は特に、律法を守って生きているように見せかけて生きていたので、主イエスからは特別に厳しいことを言われていました。それで、ある日、主イエスは罪人の前で自分の正しさを証明しようとしていたパリサイ人でシモンという人にたとえ話を話されました。それは金貸しから金を借りた二人の人のたとえ話です。一人は500デナリ借りており、もう一人は50デナリを借りていましたが、二人とも借金を返すことができませんでした。それで金貸しは二人を哀れに思って、借金を帳消しにしてくれました。そして、主イエスは罪人を見て自分を正しい人間だと思っていたシモンに向かって尋ねました。「この二人のうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるだろうか。」
50デナリを金貸しに借りていた人の借金の額は、500デナリ借りていた人の10分の1です。確かに、借金の金額に違いがありますが、大切なのは二人ともその借金を払えないということです。人間はどんなに律法を守ろうとしても、神様が満足するレベルに達することはできません。神様が私たちに求めているのは、そのような自分に気がつくことです。さきほどのたとえ話では、500デナリの借金を持っていた人の方が50デナリ借金していたひとよりも金貸しに多く感謝するはずです。それだけ多くの借金を帳消しにしてくれたからです。自分の罪の深さを知っていれば知っているほど、十字架で示された主イエスの愛の意味がよく分かるのです。
私たちは、イエス・キリストを信じる時、霊的に豊かな人になります。パウロはそのことをエペソ人への手紙や、コロサイ人への手紙で繰り返し述べています。例えば、エペソ1章の7節では、「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」とイエスキリストによる救いが神様からの豊かな恵みだと言っています。また18節では、「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」とクリスチャンに約束されている神の栄光の豊かさが述べられています。その他にもクリスチャンが神様からどれほど豊かな霊的祝福を受け継ぐかということをパウロはいろいろな手紙の中で繰り返し書いています。しかし、ユダヤ主義者は、ただイエス・キリストを信じるだけでは何かが足りないのだと教えるのです。そして、その足りないものを満たすために、彼らは律法の決まりを守ることを、キリストを信じる信仰以上に大切だと考えていました。その一つが2節に書かれている「割礼」というものでした。割礼とは、ユダヤ人が神に選ばれた民族のしるしとして、男子が肉体の一部の皮膚を切り取るという儀式ですが、ユダヤ主義者たちは、クリスチャンでも、この儀式を守らなければ、救いは完全ではないと主張しました。それに対して、パウロは断固反対しています。それで、2節で「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。」と言っているのです。そのように律法の儀式を守ることで、自分を正しい人間に見せようとするなら、その人にはキリストの十字架は無意味なものになってしまいます。実は、主イエスが2人の借金した人のたとえ話を語った相手、パリサイ人シモンはそのような考え方を持っていました。自分は他の人よりも罪が少ない、自分は自分の罪の借金を返せると考えていたのです。しかし、罪の借金を返せる人は一人もいません。このような人にとっては、十字架が何の益も与えないので、当然のことですが、主イエスに対する愛もありません。また周りの人間に対しても、つねに批判的で心の中で裁いています。実は、この態度が一番大きな罪なのです。主イエスは言われました。聖書の律法の中で一番大切なのは、「全力で神を愛しなさい」という命令であり、2番目に大切なのは「隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令です。ユダヤ主義者や、パリサイ人や、あるいはクリスチャンでも律法を守ることで自分を正しい人間に見せようとする人は、皆、同じです。しかも、3節でパウロは「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。」と言っています。実は、律法を守ることを主張する人たちも、決して律法全部を守っていたわけではなかったのです。彼らは、律法を守るときに、ちょうど、カフェテリアで好きな食べ物を選んで取っていく時のように、自分が守りたい律法だけを選んで守っていました。そして、自分が守れない律法や、守りたくない律法は、いろいろな口実をつけて、守らなくても良いと考えていました。ですから、パウロは、ガラテヤ教会に混乱をもたらしていたユダヤ主義者たちに対して、もし、律法を守ることを主張するなら、律法全部を守る義務があると訴えているのです。日本語で、「律法の全体を守る義務がある」と訳されているところは、彼らは「律法全体に対して借りがある」という表現が使われています。
6節でパウロはこう言いました。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」彼が言いたいことは、たとえ、ある人が律法の中の一つの決まりを守ったとしても、守らなかった人と何の違いもないということです。クリスチャンにとって大事なことは、何かを行うことよりも、イエス・キリストを救い主として信じることなのです。ガラテヤのクリスチャンは信仰者として何か行動をしたいという気持ちがあったことでしょう。それで、律法を守る生活をするという方向に進んで行きました。しかし、私たちの救いは主イエスが十字架にかかられた時に、すべて完了しました。だから、救いに私たちが付け加えられるものは何一つありません。むしろ、クリスチャンにとって大切なのは、神様から、思いがけずにすべての罪を赦してもらったので、神様への感謝と恩を忘れずに生きることであり、そして、救われた喜びから、周りの人にさまざまな形で愛を表して行くことです。
3. 人生を走る者として方向を間違えるな(7-12節)
7節で、パウロは、ランナーをたとえに用いています。当時は、オリンピックのような大きなスポーツ大会が行われており、そのような大会では必ず、走るレースが行われていました。当時、オリンピックやギリシャで行わる競技会に出ることができるのは、ギリシャの国籍を持っている人だけでした。パウロがここでランナーをたとえに用いているのは、クリスチャンとなった人がどのように走るべきかを教えるためでした。パウロは7節でガラテヤのクリスチャンたちが信仰のレースをよく走っていたと述べています。パウロが初めてガラテヤに来た時に、彼らはパウロをまるで御使いを迎えるように歓迎し、主イエスを信じ、聖霊を受けていました。彼らは救われた喜びで心が満ち溢れ、パウロのために多くの犠牲を払っていました。しかし、この手紙を書き送った時は、パウロは彼らにとって敵のような関係になっていました。何があったのでしょうか。7節にはこう書かれています。「だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。」日本語では「あなたがたを妨げて」となっていますが、もともとは、「誰があなたのところに割り込んで」という表現が使われています。レースでは、先週は決められたレーンを走らなければなりません。隣のレーンの選手が割り込んできて、自分がレーンから外へ出てしまうと失格になってしまいます。ガラテヤのクリスチャンにとって、ユダヤ主義たちはまさにそのような存在だったのです。彼らがガラテヤ教会にやってきて、教会の人々に律法に関して間違ったことを教え始めたために、彼らは最初の信仰から道がそれてしまいました。しかし、すべてのクリスチャンは、律法の束縛に戻る危険性があると思います。パウロは9節で「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。」と言っているように、ユダヤ主義的考えは小さなところから入り込んできて、いつの間にか、教会全体に影響を与えます。私たちは、このような考え方が教会に入ってこないように気をつけると同時に、すべての罪人も、主イエスを信じる信仰によって、罪の支配と裁きから救われるという信仰をしっかり握りしめて歩み続けなければなりません。
(イントロ)
旧約聖書の律法の教えを重視するユダヤ主義者たちは、パウロの教えを危険だと感じていました。この人たちは「もし、人が高い道徳基準を守ってきた律法の教えから離れるなら、クリスチャンの教会は堕落してしまう」と考えていました。パウロは神様の恵みを強調して教えていました。人が罪から救われるのは、律法の教えを守ることによって救われるのではないとパウロは主張しました。律法を完全に守れる人は一人もなく、むしろ律法を守りきれないことを認めた人間のために身代わりになって十字架で刑罰を受けてくださったキリストを信じる信仰を持つことによって人は救われるのだとパウロは教えていたのです。私たちが、イエス・キリストの十字架は私の罪を赦すためのものだったと信じる信仰を持つときに、神様が私たちを一方的に赦して、私たちを神の子供として受け入れてくださる、」これが神様の特別な愛、神様の恵みです。パウロが教える神様の恵みについて、ユダヤ主義者の人々は誤解をしていたので、パウロはガラテヤ書の5章と6章で、彼らの誤解を解くために、神様の恵みによって罪から救われたクリスチャンがどのように生きるべきなのかということをテーマに書いています。
1. 奴隷として生きるな(1節)
1節でパウロはこう書いています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」律法を「奴隷のくびき」と呼んでいます。当時の奴隷には足に足かせがはめられたり、首にくびきがはめられたりしていました。足かせやくびきは、奴隷が誰か他の人、その奴隷の所有者によって完全に支配され、コントロールされていることを示していました。ガラテヤ教会のクリスチャンたちは、罪の奴隷、悪魔の奴隷から解放されました。罪に支配されていた彼らは解放されたのです。律法は、私たちをくびきにつなぎます。それは、律法は私たちに対して、私たちが律法を完全に守れない弱さを見せ付けるからです。しかし、主イエスが、そんな弱い私たちの代わりに、十字架の上で罪の刑罰を受けてくださったために、私たちは神様から何のお咎めも受けることのない人間として、罪の捌きから解放されました。ですから、クリスチャンはもはや律法が私たちを責めるということはもうなくなったのです。律法のくびきから解放されたのです。パウロはローマ書6章14節で「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」と言っています。
ところが、この教えに真っ向から反対したのがユダヤ主義者たちでした。彼らは、パウロの教えに従えば、律法が教える大切な倫理や道徳が全部無視されて、人々の生き方が自己中心的になると考えました。それで、彼らは、信仰者はとにかく、律法の教えをしっかり守って倫理的で道徳的な生活をしなければならないと教えました。つまり、信仰者は律法の下にいると主張したのです。つまり、律法の守ることによって、自分の力で神様から正しい人としての評価を受けることができるというとても傲慢な考え方です。しかし、パウロの教えに対立するもう一つの考え方があります。それは、「律法の下にいないのだから、自分は何をしてもかまわない」という、これまた非常に自己中心的な考えです。どちらかというとこの考えに走る人の方が多いでしょう。なぜなら、それほど自分に都合の良い生き方はないからです。「自分が言いたいことを言い、自分がやりたいようにやる。」多くの人はそれが自由だと考えています。ところがこの生き方も、実は自我、自己中心という考えに縛られています。もし、一人の人が「自分が言いたいことを言い、自分がやりたいようにやってもかまわない」と考えるなら、他の人も同じように考える権利があります。皆が同じようにその自由を持つことによって初めて、その自由が保障されるのですが、世の中はそううまくは行きません。自分が他の人に対して好きなことをいい、好きなことをしても、OKなのですが、もし、他の人が自分に対して同じことをしたなら、その人は激しい怒りを感じるのです。「あいつからそんなことを言われる筋合いはない」「あいつからなぜそんな仕打ちを受けなければならないのか」と怒るのです。このように、自分の行いはOKでも、他人が同じことをすることには怒るのです。それが今の社会の姿を現しています。
私たちが律法の下にいるのではなく、神の恵みの下にいるということは、私たちが法律を無視してかって気ままに生きる人になるということではなく、律法という外側の力によって、強制的に自分を神様の御心に従わせることではなく、こころのうちに聖霊が働いて、神様の恵みに感謝する心から自発的に神様の御心に従うことを行いたいという心が与えられるのです。
2. 私たちは神に負債を負っている(2-6節)
聖書は、私たちがイエス・キリストを信じる前は、罪人であることを教えていますが、人間の罪を神様に対する借金に例えています。私たちは、クリスチャンになる前は、自分の力ではどうしても払うことができない借金を抱えているようなものなのです。借金を抱えて生きるのは大変です。いつも、借金とりから「金を返せ」「金を返せ」と取り立てられるからです。心に平安がありません。私たちは、いつも自分と他の人を比べて、「自分はあの人よりも良い人間だ」などと考えます。しかし、人間の間では、少しの違いがあっても、神の目には、すべての人は、自分では払えない借金を抱えているような、自分の力では解決できない罪人なのです。ところが、ユダヤ主義者は自分たちは旧約聖書の律法の命令の一部を守ることで、自分の正しさを証明しようとしていました。ユダヤ教徒にはいくつかのグループがありますが、その中のパリサイと呼ばれた人々は特に、律法を守って生きているように見せかけて生きていたので、主イエスからは特別に厳しいことを言われていました。それで、ある日、主イエスは罪人の前で自分の正しさを証明しようとしていたパリサイ人でシモンという人にたとえ話を話されました。それは金貸しから金を借りた二人の人のたとえ話です。一人は500デナリ借りており、もう一人は50デナリを借りていましたが、二人とも借金を返すことができませんでした。それで金貸しは二人を哀れに思って、借金を帳消しにしてくれました。そして、主イエスは罪人を見て自分を正しい人間だと思っていたシモンに向かって尋ねました。「この二人のうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるだろうか。」
50デナリを金貸しに借りていた人の借金の額は、500デナリ借りていた人の10分の1です。確かに、借金の金額に違いがありますが、大切なのは二人ともその借金を払えないということです。人間はどんなに律法を守ろうとしても、神様が満足するレベルに達することはできません。神様が私たちに求めているのは、そのような自分に気がつくことです。さきほどのたとえ話では、500デナリの借金を持っていた人の方が50デナリ借金していたひとよりも金貸しに多く感謝するはずです。それだけ多くの借金を帳消しにしてくれたからです。自分の罪の深さを知っていれば知っているほど、十字架で示された主イエスの愛の意味がよく分かるのです。
私たちは、イエス・キリストを信じる時、霊的に豊かな人になります。パウロはそのことをエペソ人への手紙や、コロサイ人への手紙で繰り返し述べています。例えば、エペソ1章の7節では、「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」とイエスキリストによる救いが神様からの豊かな恵みだと言っています。また18節では、「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」とクリスチャンに約束されている神の栄光の豊かさが述べられています。その他にもクリスチャンが神様からどれほど豊かな霊的祝福を受け継ぐかということをパウロはいろいろな手紙の中で繰り返し書いています。しかし、ユダヤ主義者は、ただイエス・キリストを信じるだけでは何かが足りないのだと教えるのです。そして、その足りないものを満たすために、彼らは律法の決まりを守ることを、キリストを信じる信仰以上に大切だと考えていました。その一つが2節に書かれている「割礼」というものでした。割礼とは、ユダヤ人が神に選ばれた民族のしるしとして、男子が肉体の一部の皮膚を切り取るという儀式ですが、ユダヤ主義者たちは、クリスチャンでも、この儀式を守らなければ、救いは完全ではないと主張しました。それに対して、パウロは断固反対しています。それで、2節で「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。」と言っているのです。そのように律法の儀式を守ることで、自分を正しい人間に見せようとするなら、その人にはキリストの十字架は無意味なものになってしまいます。実は、主イエスが2人の借金した人のたとえ話を語った相手、パリサイ人シモンはそのような考え方を持っていました。自分は他の人よりも罪が少ない、自分は自分の罪の借金を返せると考えていたのです。しかし、罪の借金を返せる人は一人もいません。このような人にとっては、十字架が何の益も与えないので、当然のことですが、主イエスに対する愛もありません。また周りの人間に対しても、つねに批判的で心の中で裁いています。実は、この態度が一番大きな罪なのです。主イエスは言われました。聖書の律法の中で一番大切なのは、「全力で神を愛しなさい」という命令であり、2番目に大切なのは「隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令です。ユダヤ主義者や、パリサイ人や、あるいはクリスチャンでも律法を守ることで自分を正しい人間に見せようとする人は、皆、同じです。しかも、3節でパウロは「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。」と言っています。実は、律法を守ることを主張する人たちも、決して律法全部を守っていたわけではなかったのです。彼らは、律法を守るときに、ちょうど、カフェテリアで好きな食べ物を選んで取っていく時のように、自分が守りたい律法だけを選んで守っていました。そして、自分が守れない律法や、守りたくない律法は、いろいろな口実をつけて、守らなくても良いと考えていました。ですから、パウロは、ガラテヤ教会に混乱をもたらしていたユダヤ主義者たちに対して、もし、律法を守ることを主張するなら、律法全部を守る義務があると訴えているのです。日本語で、「律法の全体を守る義務がある」と訳されているところは、彼らは「律法全体に対して借りがある」という表現が使われています。
6節でパウロはこう言いました。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」彼が言いたいことは、たとえ、ある人が律法の中の一つの決まりを守ったとしても、守らなかった人と何の違いもないということです。クリスチャンにとって大事なことは、何かを行うことよりも、イエス・キリストを救い主として信じることなのです。ガラテヤのクリスチャンは信仰者として何か行動をしたいという気持ちがあったことでしょう。それで、律法を守る生活をするという方向に進んで行きました。しかし、私たちの救いは主イエスが十字架にかかられた時に、すべて完了しました。だから、救いに私たちが付け加えられるものは何一つありません。むしろ、クリスチャンにとって大切なのは、神様から、思いがけずにすべての罪を赦してもらったので、神様への感謝と恩を忘れずに生きることであり、そして、救われた喜びから、周りの人にさまざまな形で愛を表して行くことです。
3. 人生を走る者として方向を間違えるな(7-12節)
7節で、パウロは、ランナーをたとえに用いています。当時は、オリンピックのような大きなスポーツ大会が行われており、そのような大会では必ず、走るレースが行われていました。当時、オリンピックやギリシャで行わる競技会に出ることができるのは、ギリシャの国籍を持っている人だけでした。パウロがここでランナーをたとえに用いているのは、クリスチャンとなった人がどのように走るべきかを教えるためでした。パウロは7節でガラテヤのクリスチャンたちが信仰のレースをよく走っていたと述べています。パウロが初めてガラテヤに来た時に、彼らはパウロをまるで御使いを迎えるように歓迎し、主イエスを信じ、聖霊を受けていました。彼らは救われた喜びで心が満ち溢れ、パウロのために多くの犠牲を払っていました。しかし、この手紙を書き送った時は、パウロは彼らにとって敵のような関係になっていました。何があったのでしょうか。7節にはこう書かれています。「だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。」日本語では「あなたがたを妨げて」となっていますが、もともとは、「誰があなたのところに割り込んで」という表現が使われています。レースでは、先週は決められたレーンを走らなければなりません。隣のレーンの選手が割り込んできて、自分がレーンから外へ出てしまうと失格になってしまいます。ガラテヤのクリスチャンにとって、ユダヤ主義たちはまさにそのような存在だったのです。彼らがガラテヤ教会にやってきて、教会の人々に律法に関して間違ったことを教え始めたために、彼らは最初の信仰から道がそれてしまいました。しかし、すべてのクリスチャンは、律法の束縛に戻る危険性があると思います。パウロは9節で「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。」と言っているように、ユダヤ主義的考えは小さなところから入り込んできて、いつの間にか、教会全体に影響を与えます。私たちは、このような考え方が教会に入ってこないように気をつけると同時に、すべての罪人も、主イエスを信じる信仰によって、罪の支配と裁きから救われるという信仰をしっかり握りしめて歩み続けなければなりません。

