礼拝説教 2007年11月4日「長年病気の人の奇跡」ヨハネ5章1-9節」
説教一覧へ戻る
ヨハネの福音書に記されている最初の2つの奇跡は、どちらかと言えば個人的なものでした。最初の奇跡は結婚式の中で起きたもので、水がぶどう酒に変わったのを知っているのはその家の使用人とイエスの弟子たちでした。また、役人の息子が主イエスによって癒されたのを知っているのは、その役人と家族そしてその家のしもべたちだけです。ところが5章に入ると、主のいやしは公けの場所で行われただけでなく、律法で仕事をすることが禁止されている安息日に行われました。このときから、救い主イエスとユダヤ教の指導者たちとの間の対立が厳しくなっていきます。
主イエスの活動の中心地は、ヨルダン川の北にあったガリラヤ湖という湖の近くでした。主が結婚式で水をぶどう酒に変えたのも、役人の息子を癒されたのも、ともにガリラヤ湖の近くでした。しかし、主イエスは、お祭りの時には、エルサレムの神殿に行きました。それは、ユダヤ人の大人の男子には、過ぎ越しの祭り、ペンテコステの祭り、仮庵の祭りというユダヤ教三大祭りの時には、エルサレムの神殿へ行くことが命じられていました。それで5章の1節に書かれているように、「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」のです。そして、今日読んだ箇所では、イエスの弟子たちのことが何も書かれていないので、このときは主イエスが一人でエルサレムに行ったようです。1節には「ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた」と書かれていますが、イエスがエルサレムに行かれた第一の目的は、祭りに出席することではありませんでした。というのは、祭りのいろいろな儀式が行われるのは、エルサレムの南側にあった神殿でした。ところが、主イエスはエルサレムに入られると、町の北側にあった「ベテスダの池」に行かれたのです。これは私たちが考える池とは違って、プールのような四角い石で作られたものでした。この池の底には地下水が流れていて、その流れが時々乱れてあわ立ち、池の表面にぶくぶくと泡がでることがあったようです。当時の人々は、この池で時々水が泡立つのは、天使が水をかき回しているためであり、そのときに最初に水の中に入った人はケガでも病気でも癒されると信じていました。その結果、その池の周りには大勢の人々が集まっていました。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体がマヒした人などが癒しを求めて集まっていたのです。普通の人はあまり行きたくない場所です。非常に大勢の病人や体の不自由な人が集まっているので、その場所は、ひどいにおいがしたでしょうし、汚い場所でした。病人同士でのトラブルも頻繁に起きていたことでしょう。主イエスは、わざわざ、そのような場所へ、行ったのです。
イエスは、大勢の人々でひしめき合っている場所で辺りを見回しておられましたが、5,6節に次のように書かれています。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知られた。」聖書の神様のすばらしいところは、神様はこの天と地にあるすべてのものをつくり、すべてを支配しておられる偉大な、神様です。一切の制限を受けない全知全能の神様です。しかし、そのような神様が一人の人を捜し求めてくださるのです。一人のひとのために働いてくださる神様です。神様は、私たち一人ひとりを創ってくださっただけではなく、一人ひとりを見て、私に関するすべてのことを知っておられます。主は、38年間もの間病気を患っている人に目を留められました。38年とは本当に長い年月です。20歳で、病気になったとしても、その人は今58歳です。人生の中で、もっとも充実しているはずの時期を、青春時代も、熟年期も、すべてを失った人です。自分の体が癒される希望を持って、ベテスダの池の周りにいつもいました。しかし、池の水が動いたときに、一番に水の中に入りたいと思っても、彼は体が不自由なために、自分ひとりの力では池に入れません。彼は38年間ずっと同じ生活をしてきたのです。しかも、自分より後に来た人が、水の中に入って、次々に癒されているのを見て、どれほど悔しい思いをしてことでしょう。他の人がうらやましくなり、自分が惨めになるばかりです。彼は、体だけではなくて、心も相当病んでいました。
大勢の病人や体の弱い人々が集まっているこの場所の中に、この男に関心を払う人はいったい何人いたでしょうか。誰もが自分のことで精一杯の中で、主は、この人に目を留められました。主イエスは、今、天におられます。そして天から私たちを見ておられます。そして見ておられるだけでなく私たちのために祈っておられるのです。ローマ書8章26節には次のように書かれています。」「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」この世の人が誰もあなたを見ていないとしても、誰もあなたのことを心配しないてとしても、聖書は、はっきりと教えています。あなたを愛しあなたのために祈っておられる神がおられるのです。
その病人にイエスは質問をしました。「よくなりたいか。」なぜ、主イエスはこんな質問をしたのだろうかと、私たちは考えます。よくなりたいからベテスダの池に来ているのですから、よくなりたいと願っていることは間違いありません。しかし、この男は38年間も待ち続けていたのです。彼は主イエスの質問に対して、「良くなりたいです」とは答えていません。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」彼は、「自分は不幸な状況に生きているのです。自分には助けてくれる人もいないのです。」と、自分が癒されることよりも、自分の哀れな状況を語っています。それも仕方が無いことです。彼は38年も待ち続けていたのですから、彼も最初は、他の人が癒されているのを見て、希望を持っていたことでしょう。「自分もきっと癒される。」しかし、他の人は癒されて行っても、自分は水の中に入ることが出来ず、助けてくれる人もいません。そのうちに、希望はなくなって、心の中は絶望感でいっぱいです。「どうせ、自分は一生癒されることはないだろう。いくら神様だって俺を癒すことはできないだろう。それに、第一、神は俺のことを心配してくれているのだろうか。」こんなことを考えていたのではないでしょうか。そのうちに、病気のままで生きていてもかまわないと考えるようになってしまうかも知れません。病気であることは必ずしもすべてがダメなわけではありません。人々は同情してくれるでしょうし、自分がしなければならないことも、他の人が助けてしてくれます。この男は、ベテスダの池のそばで一日中横になっていました。何もしないで、働くこともなく、ただ、池のそばにいただけです。健康な人がこんなことをしていると回りの人間がすぐに「ぶらぶらしていないで働きなさい」と言うはずです。しかし、彼は病気ですから、しかも体がマヒして歩けないのですから、人々から同情されます。仕事せずに池のまわりでぼっーとしていても、誰も彼には文句を言わなかったでしょう。そうなると、病人として一生生きるのも悪くはないと彼は考えていたかも知れません。そのような、あきらめや絶望感に襲われていたこの男に向かって「あなたは、本当によくなりたいのか?」と質問されたことは、実は、非常に重要なことなのです。 今も、主イエスは、私たちすべての者にこの質問をしておられると思います。「あなたはよくなりたいのか?」「あなたは、本当に今の生活から抜け出たいと思っているのか。」「あなたは、本当に新しい生き方をしたいのか?」もし、私たちが、「今の生活のままでも仕方が無い」と考えているなら、私たちに変化は起こりません。私たちの生活が変わるためには、まず第一に、私たちが真剣に「よくなりたい」と願わなければならないのです。
主イエスは、この男が「よくなりたいか」という質問に対して自分の哀れな状況を説明しても、そのことには一切耳を貸しませんでした。そしてすぐに、主イエスはこの男に命令しました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」これもまた、メチャクチャな命令のように思います。彼にはできないことを命令しておられるからです。あなたが、この男であったら、この命令を聞いたときにどのように感じるでしょうか。「なぜ、あなたは自分に出来ないことをせよと命令されるのですか。」と腹を立てたかも知れません。彼は38年間、布団の上に寝ていました。布団は彼の生活に一番必要なものでした。一番世話になったものでした。しかし、主イエスは、「あなたには、もうその布団は必要ない。それをたたんで起き上がりなさい。」と言われたのです。彼の経験、彼の知識、彼の常識で考えたら、まったくひどい命令です。しかし、私たちは、自分の経験や知識や常識だけを頼りにして生きているならば、今の状態から抜け出すことはできません。もし、私たちが今の状態から抜け出たいと願うならば、一番必要なことは「起き上がる」という意欲です。自分が長い間どっぷりつかっている場所から抜け出すことは大変です。勇気と強い意思が必要です。イエスの言葉を信じて、イエスの力を信じて、イエスの命令に従おうとするときに、神の力が私たちのうちに働くのです。私たちの生活の中に奇跡が起きるための条件は、「よくなりたいです」という強い願いと、主を信頼して、主の言葉に従って立ち上がろうとする努力です。
その男が、イエスの「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」という命令を聞いて、主イエスを信頼して、38年間一度もしたことのないことをしました。起き上がろうとして、彼は38年ぶりに足の筋肉に力を入れたのです。彼が足に力を入れたときに神の奇跡が起こりました。一瞬にして、彼の足は癒されたのです。
私たちの人生には、病気だけではなく、私たちを挫折させる様々なものがあります。しかも、中には、私たちを長い間、心や体をマヒさせてしまうようなものもあります。しかし、主イエスは、そのような私たちにも「床を取り上げて、起きなさい」と命じておられます。自分が頼りにしていたものを片付けて、イエスを信じて立ち上がってみなさい。その時、神の大きな力が私たちのうちに働いて、自分の力では絶対にできないことができるようになるのです。キリストはあなたの生活の中にも働いてくださる方です。あなたはこのイエスの命令に従ってみようと思いますか。
ヨハネの福音書に記されている最初の2つの奇跡は、どちらかと言えば個人的なものでした。最初の奇跡は結婚式の中で起きたもので、水がぶどう酒に変わったのを知っているのはその家の使用人とイエスの弟子たちでした。また、役人の息子が主イエスによって癒されたのを知っているのは、その役人と家族そしてその家のしもべたちだけです。ところが5章に入ると、主のいやしは公けの場所で行われただけでなく、律法で仕事をすることが禁止されている安息日に行われました。このときから、救い主イエスとユダヤ教の指導者たちとの間の対立が厳しくなっていきます。
主イエスの活動の中心地は、ヨルダン川の北にあったガリラヤ湖という湖の近くでした。主が結婚式で水をぶどう酒に変えたのも、役人の息子を癒されたのも、ともにガリラヤ湖の近くでした。しかし、主イエスは、お祭りの時には、エルサレムの神殿に行きました。それは、ユダヤ人の大人の男子には、過ぎ越しの祭り、ペンテコステの祭り、仮庵の祭りというユダヤ教三大祭りの時には、エルサレムの神殿へ行くことが命じられていました。それで5章の1節に書かれているように、「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」のです。そして、今日読んだ箇所では、イエスの弟子たちのことが何も書かれていないので、このときは主イエスが一人でエルサレムに行ったようです。1節には「ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた」と書かれていますが、イエスがエルサレムに行かれた第一の目的は、祭りに出席することではありませんでした。というのは、祭りのいろいろな儀式が行われるのは、エルサレムの南側にあった神殿でした。ところが、主イエスはエルサレムに入られると、町の北側にあった「ベテスダの池」に行かれたのです。これは私たちが考える池とは違って、プールのような四角い石で作られたものでした。この池の底には地下水が流れていて、その流れが時々乱れてあわ立ち、池の表面にぶくぶくと泡がでることがあったようです。当時の人々は、この池で時々水が泡立つのは、天使が水をかき回しているためであり、そのときに最初に水の中に入った人はケガでも病気でも癒されると信じていました。その結果、その池の周りには大勢の人々が集まっていました。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体がマヒした人などが癒しを求めて集まっていたのです。普通の人はあまり行きたくない場所です。非常に大勢の病人や体の不自由な人が集まっているので、その場所は、ひどいにおいがしたでしょうし、汚い場所でした。病人同士でのトラブルも頻繁に起きていたことでしょう。主イエスは、わざわざ、そのような場所へ、行ったのです。
イエスは、大勢の人々でひしめき合っている場所で辺りを見回しておられましたが、5,6節に次のように書かれています。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知られた。」聖書の神様のすばらしいところは、神様はこの天と地にあるすべてのものをつくり、すべてを支配しておられる偉大な、神様です。一切の制限を受けない全知全能の神様です。しかし、そのような神様が一人の人を捜し求めてくださるのです。一人のひとのために働いてくださる神様です。神様は、私たち一人ひとりを創ってくださっただけではなく、一人ひとりを見て、私に関するすべてのことを知っておられます。主は、38年間もの間病気を患っている人に目を留められました。38年とは本当に長い年月です。20歳で、病気になったとしても、その人は今58歳です。人生の中で、もっとも充実しているはずの時期を、青春時代も、熟年期も、すべてを失った人です。自分の体が癒される希望を持って、ベテスダの池の周りにいつもいました。しかし、池の水が動いたときに、一番に水の中に入りたいと思っても、彼は体が不自由なために、自分ひとりの力では池に入れません。彼は38年間ずっと同じ生活をしてきたのです。しかも、自分より後に来た人が、水の中に入って、次々に癒されているのを見て、どれほど悔しい思いをしてことでしょう。他の人がうらやましくなり、自分が惨めになるばかりです。彼は、体だけではなくて、心も相当病んでいました。
大勢の病人や体の弱い人々が集まっているこの場所の中に、この男に関心を払う人はいったい何人いたでしょうか。誰もが自分のことで精一杯の中で、主は、この人に目を留められました。主イエスは、今、天におられます。そして天から私たちを見ておられます。そして見ておられるだけでなく私たちのために祈っておられるのです。ローマ書8章26節には次のように書かれています。」「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」この世の人が誰もあなたを見ていないとしても、誰もあなたのことを心配しないてとしても、聖書は、はっきりと教えています。あなたを愛しあなたのために祈っておられる神がおられるのです。
その病人にイエスは質問をしました。「よくなりたいか。」なぜ、主イエスはこんな質問をしたのだろうかと、私たちは考えます。よくなりたいからベテスダの池に来ているのですから、よくなりたいと願っていることは間違いありません。しかし、この男は38年間も待ち続けていたのです。彼は主イエスの質問に対して、「良くなりたいです」とは答えていません。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」彼は、「自分は不幸な状況に生きているのです。自分には助けてくれる人もいないのです。」と、自分が癒されることよりも、自分の哀れな状況を語っています。それも仕方が無いことです。彼は38年も待ち続けていたのですから、彼も最初は、他の人が癒されているのを見て、希望を持っていたことでしょう。「自分もきっと癒される。」しかし、他の人は癒されて行っても、自分は水の中に入ることが出来ず、助けてくれる人もいません。そのうちに、希望はなくなって、心の中は絶望感でいっぱいです。「どうせ、自分は一生癒されることはないだろう。いくら神様だって俺を癒すことはできないだろう。それに、第一、神は俺のことを心配してくれているのだろうか。」こんなことを考えていたのではないでしょうか。そのうちに、病気のままで生きていてもかまわないと考えるようになってしまうかも知れません。病気であることは必ずしもすべてがダメなわけではありません。人々は同情してくれるでしょうし、自分がしなければならないことも、他の人が助けてしてくれます。この男は、ベテスダの池のそばで一日中横になっていました。何もしないで、働くこともなく、ただ、池のそばにいただけです。健康な人がこんなことをしていると回りの人間がすぐに「ぶらぶらしていないで働きなさい」と言うはずです。しかし、彼は病気ですから、しかも体がマヒして歩けないのですから、人々から同情されます。仕事せずに池のまわりでぼっーとしていても、誰も彼には文句を言わなかったでしょう。そうなると、病人として一生生きるのも悪くはないと彼は考えていたかも知れません。そのような、あきらめや絶望感に襲われていたこの男に向かって「あなたは、本当によくなりたいのか?」と質問されたことは、実は、非常に重要なことなのです。 今も、主イエスは、私たちすべての者にこの質問をしておられると思います。「あなたはよくなりたいのか?」「あなたは、本当に今の生活から抜け出たいと思っているのか。」「あなたは、本当に新しい生き方をしたいのか?」もし、私たちが、「今の生活のままでも仕方が無い」と考えているなら、私たちに変化は起こりません。私たちの生活が変わるためには、まず第一に、私たちが真剣に「よくなりたい」と願わなければならないのです。
主イエスは、この男が「よくなりたいか」という質問に対して自分の哀れな状況を説明しても、そのことには一切耳を貸しませんでした。そしてすぐに、主イエスはこの男に命令しました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」これもまた、メチャクチャな命令のように思います。彼にはできないことを命令しておられるからです。あなたが、この男であったら、この命令を聞いたときにどのように感じるでしょうか。「なぜ、あなたは自分に出来ないことをせよと命令されるのですか。」と腹を立てたかも知れません。彼は38年間、布団の上に寝ていました。布団は彼の生活に一番必要なものでした。一番世話になったものでした。しかし、主イエスは、「あなたには、もうその布団は必要ない。それをたたんで起き上がりなさい。」と言われたのです。彼の経験、彼の知識、彼の常識で考えたら、まったくひどい命令です。しかし、私たちは、自分の経験や知識や常識だけを頼りにして生きているならば、今の状態から抜け出すことはできません。もし、私たちが今の状態から抜け出たいと願うならば、一番必要なことは「起き上がる」という意欲です。自分が長い間どっぷりつかっている場所から抜け出すことは大変です。勇気と強い意思が必要です。イエスの言葉を信じて、イエスの力を信じて、イエスの命令に従おうとするときに、神の力が私たちのうちに働くのです。私たちの生活の中に奇跡が起きるための条件は、「よくなりたいです」という強い願いと、主を信頼して、主の言葉に従って立ち上がろうとする努力です。
その男が、イエスの「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」という命令を聞いて、主イエスを信頼して、38年間一度もしたことのないことをしました。起き上がろうとして、彼は38年ぶりに足の筋肉に力を入れたのです。彼が足に力を入れたときに神の奇跡が起こりました。一瞬にして、彼の足は癒されたのです。
私たちの人生には、病気だけではなく、私たちを挫折させる様々なものがあります。しかも、中には、私たちを長い間、心や体をマヒさせてしまうようなものもあります。しかし、主イエスは、そのような私たちにも「床を取り上げて、起きなさい」と命じておられます。自分が頼りにしていたものを片付けて、イエスを信じて立ち上がってみなさい。その時、神の大きな力が私たちのうちに働いて、自分の力では絶対にできないことができるようになるのです。キリストはあなたの生活の中にも働いてくださる方です。あなたはこのイエスの命令に従ってみようと思いますか。

