礼拝説教 2007年10月14日 『高貴な人に起きた奇跡』(ヨハネ4章43-54節)

2007.10.25

説教一覧へ戻る
(イントロ)

先週は、主イエスが、神の子としての働きを始めて、最初に行った奇跡について学びました。それは、主イエスの故郷、イスラエルの北の地方ガリラヤの小さな村、カナで行われた結婚式の中で行われた奇跡です。その後、ユダヤ人にとって一番重要な祭りである過ぎ越しの祭りのために、主イエスと弟子たちはエルサレムに出かけました。そして、神殿の中で不正な商売をしている人が大勢いたので、彼らを追い出しました。その後、いろいろな教えを語り、また、多くのしるしを行われたので、多くの人が主イエスを神として信じました。ところが、主イエスは、彼らの信仰がうわべだけなのを見抜いておられました。2章の24節には「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」と書かれています。人々はイエスが力強い奇跡の業を行うのを見てイエスを信じると告白したのですが、今日読んだ4章48節では、主イエスは「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」と言われました。イエスの力ある働きを信じても、イエスの教えを信じない人は決して本当のクリスチャンとは言えません。エルサレムの人々は、イエスのしるしは信じても、イエスの教えにここから従おうとする人は少なかったようです。


その後、主イエスは、サマリヤ地方を通ってふたたび、イスラエルの北部、ガリラヤ地方に戻って来られました。彼らがカナに戻ってきたときに、一人の高貴な人が主イエスを尋ねてきました。新改訳聖書では「王室の役人」と訳されています。おそらく、当時のガリラヤ地方の領主(当時、ユダヤ人が王と言う称号を持つことはローマ帝国が許可しなかった)ヘロデの宮殿で働いていた役人だと思います。したがって、地位の高い、高貴な人物で、影響力も権限も大きかったでしょうし、かなりの財産を持っていたと思います。ですから、一般的に考えて、彼には足りないものが何も無い、本当に幸せな人であったと思います。しかし、人間の幸せはそのような地位や権力や財産によって決まるのではありません。彼の場合も、生活の面では誰もがうらやむような豊かさを味わっていましたが、一つの問題によって、その幸福感は完全に壊されていました。彼の息子が思い病気にかかって死にそうだったのです。そんなときに、この役人の耳に、主イエスと弟子たちがエルサレムからガリラヤに戻ってきたという知らせが届きました。役人が住んでいたのはガリラヤ湖という湖のほとりにあるカペナウムという町でしたが、カペナウムからカナまではだいたい30キロぐらいです。ただ、ガリラヤ湖は海抜マイナス200メートルにあり、カナは山の上にありましたので、カペナウムからカナまではかなりの登り道です。この役人は、主イエスがカナにいることを知って、一筋の希望が見えたと思ったに違いありません。カナの結婚式のときのこと、あるいはエルサレムで主イエスが多くのしるしをされたことを噂で聞いていたにちがいありません。それで、彼は病気で重体の息子を残して、走ってカナへ向かいました。彼は、自分の家の召使をイエスのもとへ送って、家まで来てもらうように頼むこともできたはずですが、彼は、自分で行きました。47節には「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。」と書いてあります。彼は地位も名誉も財産もある王室の役人です。その人が、主イエスの前で嘆願しています。英語の聖書ではbegという言葉が使われていますが、それはこじきが金や食べ物を求めるのと同じようにイエスに頼み込んでいるということです。周囲のことなど何も気にしないように、彼はイエスの後について頼み続けました。


 すると主イエスの答えはこの場面でも非常に冷淡に聞こえるものでした。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」しかし、これは、息子の癒しを必死でイエスに頼んでいる役人を批判した言葉ではありません。主イエスは、ガリラヤ地方の人々も、エルサレムに住む人々も、ほとんどの人がしるしを見れば信じるという信仰であることを嘆いて言われた言葉です。「百聞は一見にしかず」英語ではSeeing is Believingというのですが、見ることは信じること、見れば信じる、世の中の人は、今もそのような考え方で生きています。当時のユダヤ教の人々も、そのような考えを持っていました。イエスはしるしを行うことを嫌がっていたわけではありません。ただ、主が願っていたことは、人々が、主イエスが行うわざやしるしを信じるのではなく、イエス自身を信頼し、イエスの言葉に信頼することでした。


イエスの言葉は厳しい言葉のように聞こえましたが、この役人はイエスに求めることを止めませんでした。彼は、主イエスなら自分の息子を癒すことができると信じていました。ですから、自分の地位や身分にも関らず、若い主イエスの前にひざまずいて頼み続けたのです。彼は主イエスの癒しの力を信じていましたが、彼は2つのことで間違っていました。ひとつは、息子の病気が癒されるためには主イエスがカペナウムに行かなければならないと考えていたこと。もう一つは、今行かないと息子は死んでしまう。そうなるとすべては終わりだと考えていたことです。彼の主イエスに対する信仰はまだ、未熟なものでした。ですから、自分の考えで、主の力には、空間的にも時間的にも制限があると考えていたのです。主イエスは、この役人の信仰をより深いものにしようと考えられたようです。主の答えは50節に書かれています。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」主イエスの答えは、半分役人の求めに答えており、半分役人の求めを断っています。主イエスは、役人が求めたとおり息子の病気を癒されました。しかし、カペナウムまで行くことは断っておられます。そして、その場では、役人の前でしるしを行われませんでした。ただ、言葉だけを与えられました。この場面を、ちょっと想像してみましょう。主イエスと役人の周囲には大勢の人が集まってきていました。そして、必死になって息子の癒しを求め続ける前で、主イエスはしばらくじっと黙っておられたのです。役人と主イエスが互いに相手を見ています。そのような中でイエスが「「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と宣言されました。


 このイエスの言葉を聞いた役人はどう思ったでしょうか。あなたがこの役人だったら、どのように応答していたでしょうか。聖書を見ると、役人がイエスに何か言ったとはかかれていません。彼は「主よ、ほんの少しでいいんです。しるしを見せてください。」とあくまでもしるしを求めることはしていません。役人はイエスの言葉を聞くと、それまでしつこく主に求めていたのに、求めることを突然止めています。彼の心の中で大きな変化が起こりました。この世の人は、Seeing is Believing,見ることは信じることと考えます。しるしを見たら信じると言うのです。しかし、それは信じることではなく、単に確認しているにすぎないのです。しかし、この役人の心の中では、それとは反対のことが起こっていました。彼の心は、Believing is Seeingと考えていたのです。彼の家は、カナの村から30キロはなれています。しかし、彼は主イエスの言葉を信じました。イエスの約束をそのまま信じました。すると、彼の心の目には息子が癒されているのを見ていたのです。聖書の中には、信仰者が普通の人が見ていないものを見ていることを繰り返し書いています。特にヘブル書の11章には旧約聖書の有名な人々の信仰生活が書かれていますが、13節には次のように書かれています。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」彼らは、信仰によって神の約束を見ていました。また27節にはモーセについて次のように書かれています。「信仰によって、モーセは、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」


 この役人はイエスのしるしではなくイエスの言葉を信じました。それによって彼の信仰はいっそう成長しました。後で分かるのですが、この息子がいやされたのはヨハネの時間で第七時でした。ヨハネの時間は朝6時を0時として数え始めるので、第7時とは午後1時のことです。彼は、イエスの言葉を聞いて、自分の息子が癒されたことを確信しました。彼が、このとき、すぐに家に向かってカナを出発していたら、馬に乗っていけば、日が暮れる前にカペナウムに着くことができたはずです。しかし、この役人はすぐに家に帰らずにカナで一泊したようです。彼の息子は危篤状態だったにも関らず、イエスの言葉を聞いて確信した役人はすこしもあわてる様子がありません。次の日の朝に彼はカナを出発したことでしょう。するとカペナウムに着く前に、家からやってきたしもべたちに出会っています。役人は彼らに息子が癒された時間を尋ねると、彼らは「きのう、七時に熱がひきました。」と答えています。イエスのところにやってきたとき、この役人はパニックになっていました。イエスに向かって必死になって助けを求めています。しかし、イエスの言葉を信じた後は、少しも、あわてず、主の言葉を聞いて安心してその夜をカナで過ごしました。この違いはどこから来るのでしょうか。Seeing is Believingの世界で生きるか、Believing is Seeingの世界で生きるかによって違ってくるのです。彼は、主イエスのしるしを見ないでも、主の御言葉を信じました。そして、家に帰ってみると、主イエスが言われたとおりになっていたことを見ました。彼は、以前は自分の身分や、権力や財産を頼りにして生きていたでしょう。しかし、自分の息子が思い病気になったとき、そのようなものは何の役にも立ちませんでした。彼は、パニックになりました。しかし、主イエスを信じた役人は、もう以前の役人ではありません。御言葉を信じるとき、御言葉の約束を信じるとき、私たちは神の力、神の権威を見ることができ、神の約束が成就する様子を思い浮かべることができます。その時、この世のいろいろな問題や悩みは薄れて、神の栄光だけが見えるようになるのです。


人生のピンチは信仰のチャンスと言われます。人生には思いがけないことが起こります。しかし、そのときに、私たちはまず御言葉に聞かなければなりません。ローマ10章17節にあるように、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」そして、その信仰に基づいて行動することです。たとえ、あなたが、この役人のように絶望的な状況に置かれているなら、主の元へ行きましょう。そして主の言葉を聞きましょう。そして、その言葉を信じて、御言葉を実践しましょう。そのとき、あなたの信仰が深くなり、そして、あなたの人生はゆるぎないものになるでしょう。

 アメリカの建国の父たちがイギリスから乗った船「メイフラワー号」は、かなり小さな船でした。北大西洋の荒波にもまれて67日かかってアメリカに到着しました。その船には定員オーバーの120人のクリスチャンが乗っていました。船は小さな船で、67日の間何度も波に押し流されました。しかし、その船の力、船の価値は、その大きさにあるのではありません。神の力と約束を信じてアメリカに向かった120名の信仰の力があったのです。私たちが信じる神様は小さな信仰を用いて大きな働きをされる方です。彼らの信仰の力が、アメリカ合衆国を作ったのです。神はあなたの信仰をも強くし、そしてあなたの信仰を用いて大きな業をなしてくださる方です。