礼拝説教 2008年6月22日 『わたしは決して忘れない』(イザヤ書49章7-16節)
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イスラエルの人々がバビロンに連れて行かれて生活をしたのはほぼ70年間だったと言われます。70年という長さは、人間の歴史の中では短いように思えますが、一人の人生の中では非常に長い時間です。最初に、バビロン軍によってエルサレムからバビロンに連れてこられた人々はみな、再び故郷を見ることなくバビロンの地で死を迎えました。彼らは、将来への希望を見失い、神への信仰も揺らいでいたと思います。そのような彼らに向かって、神様が預言者イザヤの口を通して語っておられるのが今日読んだ箇所です。
9節に「わたしは捕われ人には『出よ。』と言い、やみの中にいる者には『姿を現わせ。』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。」と書かれています。これは、イスラエルの人々がバビロンから解放されることを預言している言葉です。イスラエルの人々は、「神様は自分たちの苦しい生活の状況を見ておられない。」「神様は、もう自分たちのことを忘れてしまった、自分たちは神様に見捨てられた。」そのように感じていました。しかし、バビロンによって束縛されていたイスラエルの民に向かって、神様は「そこから出なさい」と言われる時がやって来たのです。そして、暗闇に隠れている人々には、暗闇から光の中に出てくるように言われました。これらの言葉は、直接的にはバビロンに連れて行かれて苦しい生活をしていたイスラエルの人々に向かって言われたものですが、この言葉は、今の時代を生きるクリスチャンにも当てはまる言葉でもあります。聖書は、私たち人間は皆、生まれつき神を無視して自分の好きなように生きようとする罪をもって生まれて来たと教えています。そして、聖書は「罪を行っている者は罪の奴隷だ」と言います。罪とは、私たちが自分でコントロールすることができません。パウロが言っているように、私たちはしたくないこと、してはいけないことを行い、しなければならないことをすることができないという、非常に不自由な中に生きています。誰かに対して憎しみを持つと、その人の前に行くことができません。その人と一緒に喜ぶことができません。これは不自由な状態です。ですから、当時のユダヤ人がバビロンで人質として捕らえられ不自由な生活をしていたのと全く同じように、私たちは自分の罪の中で非常に不自由な生活をしているのです。そのような私たちに向かっても、神様は「そこから出なさい」「暗闇の中から光の中に出てきて姿を現しなさい。」と語りかけておられます。
神様は、ただ私たちを解放するために招いておられるだけではありません。神様は、そのように罪の中から神様のところへ出てきた人々をちゃんと導いてくださるのです。10節には「彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。」と書かれています。詩篇の23篇で、ダビデが言っているように、神様は私たちにとって羊飼いのような存在です。羊は自分の力で食べ物や飲み物を見つけることができません。ですから、羊が育つには羊飼いが必要なのです。羊飼いは、羊の群れを草が生えている場所、飲み水がある場所へと導きます。だから、羊は飢え死にすることもなく、のどが渇いて死ぬこともないのです。羊飼いに導かれる羊のように、主イエスを信じる者は、主イエスによって導かれて生きていくことができます。人間はただ胃袋が満たされ、のどの渇きが満たされるだけでは本当に満たされているとは言えません。人間はただ本能だけで生きているのではないからです。人間だけが他の動物と違って「霊」あるいは「魂」が与えられているからです。アウグスチヌスという人が言ったように、人間の心の中には神様だけが満たすことのできる穴が開いています。そのような霊的な飢え渇きを主イエスは満たしてくださるのです。主イエス・キリストを信じて、主イエスと共に生きる人間にとっては、9節で「裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。」と書かれているように、この世の中がどんなに禿山のように何もない所、何の潤いもない場所であるとしても、そのような世の中での生活を緑豊かな牧場のような生活に変える力を神様は持っておられるのです。詩篇34篇10節には「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」という言葉があります。若いライオンは力のシンボルです。どんな動物よりも強いのが若いライオンです。しかし、そのような若いライオンであっても、いつかは乏しくなり飢える時が来ます。しかし、主を信頼して生きる者、主と共に生きるものは、良いもの、必要なものに何一つ欠けることはないと、神様は約束しておられます。私たちは若いライオンに比べれば力のない、本当に弱い人間です。私たちは弱いですが、全能の神であるお方が、私たちの羊飼いとなって私たちを憐れみ、私たちの歩みを一歩一歩導き、あらゆる危険や敵からの攻撃から守ってくださるのです。だからこそ、神様を信じる私たちは何者をも恐れる必要がないのです。
11節には「熱も太陽も彼らを打たない。」とも書かれています。これと同じことが詩篇の121篇にも書かれています。
1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
この詩篇はエルサレムに巡礼に出かける人が詠んだ詩篇だといわれています。エルサレムに行く場合、どの方向から近づいても、エルサレムの近くに来ると山が見えるそうです。私たちは大きな山や美しい姿の山を見ると何か神聖なものを感じます。日本でも多くの山が信仰の対象になっています。しかし、この詩篇の記者ははっきりと言います。山を見上げるだけでは不十分だと。どんなに山が堂々としていても、私たちの助けは山から来るのではありません。その山を含めて、天と地とその中にあるすべてのものを創られた神様から本当の助けが来るのです。私たちは、創り主である神様を信頼するよりも、目で見えるものに頼りがちです。てっとり早いからです。しかし、聖書は、すべて創られたものは頼りにならないと教えています。私たちを守ってくださる方は、天地創造の神、そのかたはまどろむことがありません。そして、太陽や月の動きをも支配しておられる神様は、この自然の力からも私たちを守ってくださるのです。
しかし、イスラエルの民は、70年もの間、外国バビロンで生活することを余儀なくされる中で、神様に対する信頼が揺らいでいました。何年も何年も待ち続けていたにも関わらず、彼らが自分たちの国へ帰ることができるような気配が全くなかったからです。人々はだんだんと神様への信頼を失って行きました。それで彼らは「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と言うようになったのです。私たちも、思いがけない困難を経験したり、試練を経験すると、「神様は私を見捨ててしまった」と思い込んでしまうことがあります。しかし、このような経験は私たちを成長させるための神様のご計画である場合が多いのです。私自身、大阪の教会時代に、信仰を持って3年目ぐらいの時に、非常に変わった牧師と出会いました。初対面の先生でしたが、会うなり「小西君、君にはまだ悔い改めていない罪がたくさんあるな。」と言われて、それが図星だったので、私は非常に驚きました。同時にその先生に強く心を惹かれるように感じ、自分が通っていた教会を離れて、その先生の教会に通うようになりました。その先生に言われる通りに教会の近くに部屋を借りて、弟子入りするような感じで朝から一緒に祈り、食事をし、言われる仕事をするようになったのですが、とにかく厳しい先生で、掃除の仕方、祈りの声が小さいこと、伝道ができないことなど、叱られてばっかりで本当につらかったです。しかし、その辛さの中で真剣に祈り、また自分の様々な罪を示されて、自分の傲慢な態度が砕かれました。結局、その先生のところからまた自分の教会に戻ったのですが、以前は教会の礼拝がつまらないと思うことがよくあったのですが、久しぶりに戻った教会での祈祷会に出て、それまでとまったく同じ静かな祈祷会でしたが、涙が出るほどに恵みを受けました。私にとっては、この経験は必要なものであり、あとから振り返ると神様からの祝福だったと分かりますが、その時は、とても辛かったのを覚えています。この経験を通して、私は教会に対する不平が消えました。日曜学校の奉仕をしていたのですが、以前は毎週日曜日に奉仕をすることに不満がありましたが、この経験のあと、その不満はすっかり消えました。私には必要な試練だったのです。神様がイスラエルの民を70年間、バビロンでの苦しい生活をおあたえになったのも、それが彼らにとって必要な経験であったからです。
11節では、神様は「わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。」と言われました。私たちにとって試練や困難は山のようなものかも知れません。しかし、神様はそのやまをすべての道とすると言っておられます。荒野の泉を書いたカウマン夫人は、この箇所について、これは神様が私たちのために山を貫くトンネルを掘ってくださるようなものだと言っています。トンネルは狭く暗い道で、その中を通ることは決して楽しいことではありません。しかし、トンネルは山の向こう側へ私たちを導くための道なのです。トンネルは隠れる場所ではなく、行くべきところへ導くように計画された道なのです。イスラエルの民にとってもバビロンでの70年は、そのようなトンネルの時代だったのです。しかし、イスラエルの民にはトンネルの意味が分からず、神様から見捨てられたと思い込んでいました。
それで、神様は信仰の揺らぎを感じていたイスラエルの民に向かって15節、16節の言葉を言われたのです。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」女の人にとって子供を産むということは、その人の人生においてもっとも大切な出来事の一つです。どんなに安産であっても、産みの苦しみは私のような男性にとっては想像さえできないことです。先日、ルツの集いでも、「出産」についての話が出ましたが、江藤めぐみさんの言葉によると、赤ちゃんを産むというのは例えて言えば「鼻からスイカを出すようなもの」だそうです。体の骨がばらばらになりそうな感じだそうです。おそらくそれは女性だけが耐えられる痛みだと思います。しかしながら、その集いに参加していたお母さん方がたは皆、しばらくすると、子供がとてもかわいいので、産みの苦しみを忘れ、もう一人こどもを産みたいという気持ちになるのだそうです。母親にとってこのような苦しみをとおして生まれてきた子供は自分の分身のように大切な存在であるはずです。私たちに対する神様の愛は、自分が産んだ赤ちゃんに対する母親の愛情よりももっと深いのだと神様は言われます。私たちの人生に困難や試練が多いとしても、すべては神様の愛から出たものです。何とか、私たちが、信仰者として独り立ちできるようにと願って働かれるのです。神様が私たちを忘れたり、無視したりすることは絶対にありません。神様は非常に強い言葉で約束しておられます。「たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」罪深い人間でも、母親は自分の子を忘れることはありません。私たちが信じている神様は愛に満ちた神です。私たちが「天の襲う様」と呼ぶことを許してくださる神様です。
また、当時のユダヤ人はエルサレムの町を非常に誇りに思っていました。そこには神様の住まわれる場所、神殿が立っていました。それで、彼らはエルサレムを忘れないために、よく、掌にエルサレムの町を描いた刺青を彫っていたのです。絶対に忘れないためでした。エルサレムから遠く離れたバビロンに住んでいたユダヤ人たちは、特に、故郷であり神の都であるエルサレムを忘れないために、多くの人が刺青を入れていました。皆さんもご存じのように私は、本当にいろいろなものを忘れます。時々、どうしても忘れてはいけないことがあれば、その時は、掌にそのことを書き記します。忘れないためです。しかし、私が手に書くのは絶対に忘れてはいけない、非常に大切なことだけです。忘れそうなものを全部手に書いていたら、私の手は真っ黒になってしまうでしょう。神様は私たちのことを絶対に忘れないために、ご自分の手に私のことを入れ墨で印を入れておられるのです。バビロンに滅ぼされる前は、エルサレムの町は立派な、頑丈な城壁でしっかりと囲まれていました。人々の目には、エルサレムの城壁はいつも目の中に入ってくる光景でした。それと同じように、神様は私たちの今の歩みを全部しっかりと見ておられるのです。神様は、決して私たちのことを忘れることがありません。この約束をしっかり握りしめて、どんな境遇に入れられたとしても、この神様を信頼し続けていくことが私たちにとって最も必要なことなのです。

