礼拝説教 2008年6月8日 『自分の終わりを考えよ』(イザヤ書47章)
説教一覧へ戻る
(イントロ)
イザヤ書47章のテーマはバビロン帝国の滅亡です。バビロンはチグリス・ユーフラテス川にはさまれたメソポタミアに今から4000年以上も前から存在していた国です。紀元前1800年ごろには有名なハムラビ王が支配し、「目には目を、歯には歯を」という言葉で有名なハムラビ法典を作成しました。このハムラビとは「偉大なるハム」と解釈できる名前ですが、旧約聖書の創世記10章には、ノアの箱舟で有名なノアの子孫のことが記されています。ノアには3人の息子がいました。セム、ハム、ヤペテです。そしてハムの子孫の中にニムロデという人が生まれるのですが、創世記10章8節には「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。」と書かれています。その人の王国はシヌアルという場所にあったのですが、実は、そのシヌアルの地にバベルの塔が建てられました。バベルはバビロンの別名です。バベルの塔は神に反抗する人間の傲慢さと自分に栄光をもたらそうとする姿のシンボルです。ですから、バビロンという国は、実際に人間の歴史の中に存在した国ですが、聖書では、神に反抗する国として描かれています。
イザヤ書の中で描かれているバビロンは、ハムラビのバビロンから約1200年後の時代にメソポタミア地域を支配していた新バビロン帝国を指しています。BC605年にメソポタミアを征服した新バビロン帝国は2代目の王様ネブカデネザルの力によって強大な帝国に成長します。ネブカデネザルはイスラエルの都エルサレムを破壊し、そこに住んでいた主だった人をみな、バビロンに強制的に連行しました。ネブカデネザルが生きている間、バビロンは世界中を支配するほどの力を持っていました。誰も、バビロン帝国が滅びることなど考えてはいませんでした。そのバビロンがペルシャのクロス王によって簡単に滅ぼされてしまったことは、古代の歴史の中でも驚くべきことでした。聖書は、この出来事を傲慢になったバビロンに対する神の裁きだと見ています。
(1) バビロンの滅び
1節には次のように書かれています。「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。」当時バビロンは世界の支配者であり、まだ、他の国との戦いに負けたことがなかったので、聖書では「おとめバビロンの娘」と呼ばれています。敗北も失敗も知らない自信に満ちたバビロンでした。しかし、神様は、そのような絶対的な権力を持つバビロンに対して、命令しておられます。「下って、ちりの上に座れ。」この言い方は、飼い主が犬を座らせる時のようなことばです。飼い主は必ず犬が命令に従うまで命令を続けます。人間の支配者がどのように権力を持っているとしても、神の前には、犬のような存在にすぎません。40章に書かれているように、どんな権力者も、神の前にはやっと蒔かれ、やっと植えられ、ようやく地に根を伸ばした種のようなものです。神がそのうえに一息、風を吹かせるならば、たちまち、吹き飛ばされてしまうようなものにすぎないのです。しかし、私たちは、人間的な力に魅力を感じ、そのような権力者、この世の力により頼もうとするのです。しかし、本当に頼りになるのは神様以外にはないのです。
神様は、自信いっぱいのバビロンに対して厳しい裁きの言葉を言われます。2,3節を読みましょう。「ひき臼を取って粉をひけ。顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。 あなたの裸は現われ、あなたの恥もあらわになる。わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない。」石臼で粉を引くのは奴隷の仕事でした。まだ、水車や風車は発明されていない時代です。石臼を引くのは大変な仕事だったので、奴隷にとっても、辛い仕事でした。また、このころ河を渡るには歩いて川の中を歩かなければなりませんでした。橋の数は非常に少なかったのです。河を渡る時にいは、男も女もすそをまくらなければなりませんでした。当時の女性にとって、人前で肌を見せることは非常に屈辱的なことでした。神様は、なぜ、バビロンにこのようなことを言われたのでしょうか。5節には次のように書かれています。「カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみにはいれ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ。」世界を完全に支配しているように見えるバビロンに向かって、神様は、「あなたはもう王国の女王と呼ばれることはない」と言っておられます。
もともと、バビロンは、神様に用いられた国でした。バビロンがエルサレムを滅ぼしたのは、神に反抗し続けていたイスラエルの民を懲らしめるためでした。神様は、イスラエルが自分の生き方、信仰を思い直して、神に立ち返ることを願っておられたのです。確かに、神様はイスラエルを懲らしめるためにバビロンという外国を用いられました。しかし、バビロンはそのことを知らずにすべては自分の力だと思い込んで傲慢になってしまい、自分の分際を超えてしまいました。自分の力を過信して、「自分はいつまでも女王でいられるのだ。」と考えていたのです。イスラエルの民を滅ぼしたのは、神様がバビロンを用いたからでした。しかし、バビロンは自分の力による勝利だと確信したので、自分がいつまでも支配者であり続けると考えていました。しかし、そのようなバビロンに向かって、神様は「あなたはもう王国の女王と呼ばれることはない」と言い、バビロンが滅びることを預言されたのです。10節で、神様はバビロンの心を暴露しています。「あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はない。』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ。』」バビロンは、悪により頼み、「誰も私が行っている悪を見ている者はいない。」と言い、「私だけは特別だ。」と豪語しています。バビロンは、完全に、神を無視して生きていました。その結果が滅びでした。
(2) 自分の終わりのことを思わなかった
バビロンは神を無視して生きていました。そして、「だれも私を見ている者はいない。」「私だけは特別だ」と言い放っていました。神様によって用いられたことを知らずに、人生のすべての出来事を自分の力によるものと思って、バビロンは自分の願うままに生き、イスラエルを虐待していました。バビロンの生き方の特徴を示すのが7節に書かれているように、彼らが自分の終わりのことを思わなかったということです。日本人は死を考えない国民だと言われますが、ほとんどの人は自分の死について日ごろから考えることをしていません。私たちは、今すぐ自分が死に直面するとは思っていないからです。しかし、聖書は、はっきりと言います。「人は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定まっている。」榎本保朗という牧師は次のように書いています。「しかし神の終わりの日は必ず来る。ただ神のご支配、神の御心をというのは、冬枯れの木がいつとはなしに芽を出し、気がつくと葉となっており、また気がつくと木全体が青々と茂っているように、私たちの気付かないうちに進められていくのが神の働きである。だから、私たちは神の働きを侮りやすい。それが、終わりを思う知恵を軽んじやすい原因だと思う。」私たちも、バビロンと同じように、自分の人生を考えるときに、すべて自分の力でやったと考えやすいものです。
主イエスは、そのような私たちに対する警告として、ルカ福音書12章で、「愚かな金持ち」のたとえ話をされました。ある農夫が一生懸命に働いた結果、一生働かなくてよいほど多くの穀物を収穫することができました。それで、その農夫は、これからは仕事もしないで、思いっきり楽しもう。」と考えます。その時、神がこの農夫に言われました。「愚か者。おまえのたましいは今夜取り去られる。そうしたら、お前が用意したものは、いったい誰のものになるのか。自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりです。」この金持ちは一生懸命働きました。そしてものすごい豊作だったので、その農夫は収穫した穀物を将来のために蓄えて、これからは「自分が創った財産によって、老後を安心して暮らそう。」と考えました。この農夫は、真面目に働いて豊作に恵まれたのですから、自分の老後のために蓄えることは決して悪いことではありません。
それでは、なぜ、この人は神様から「愚か者」と言われたのでしょうか。彼の生き方の中に神がおられなかったからです。詩篇には「愚か者は心の中で『神はない』と言う。」と書かれています。つまり、この農夫が愚か者と言われたのは、この人が真面目な生き方をしなかったからではありません。真面目に生きていたのですが、神は「神はいない」と思っていました。言い換えると、「神なんかいなくても私は立派に生きていける。」とのような考えが心を奥底にあるはずです。彼は、豊作のあと、いろいろな計画を立てますが、私は〜しよう。私は〜しよう。という表現が繰り返し使われています。つまり、この人は、自分の老後の生活のことだけを考えて、自分の力で何とかやろうとしています。「私は神によって生かされている。」という考えがありません。私たちに命を与えてくださるのも、また、いのちを取られるのも神様です。私たちにも死が必ず訪れることを覚悟しておかなければなりません。しかも、それがいつ来るかわからないのです。
(3) 死に対する備え
それでは、私たちは、愚かな金持ちのようにならない人生を送るにはどうしたらいいのでしょうか。マタイの福音書6章33節には「まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられます。」と書かれています。この世界の本当の支配者は神様です。神様がこの世界を創られて、この世界を支配しておられます。主イエスを信じるクリスチャンはその神の子供になる特権が与えられました。この神を自分の人生の中でもっとも大切な方として尊敬し、自分の人生が神様によって与えられたものだと謙虚に考えるとき、私たちは、自分が生きている意味を知るようになります。「何のために生きるのか」と悩むことがありません。そして、神をそのように尊敬して生きるときに、本当の生きる意味がわかるようになります。そして、神様は私たちに、「神を第一として生きるならば、必要なものはすべて添えて与えられる」ことを約束してくださいました。
また、神を第一として生きるということは、いつも神を見上げるということです。私たちは、あまりにも、自分の周りにあるものによって心を奪われ、それらのものにより頼み、神を第一にすることを忘れやすいのです。主ご自身が言われたように、わたしたちの地上での生活には様々な試練や困難があります。貧しい生活であったり、病気との戦いであったり、仕事や友人関係の悩みであったり、私たちのこの世の生活には辛いことや苦しいことがあります。しかし、それが私の人生のすべてではありません。どんな状態であっても、私たちをキリストの愛から引き離すものは何もありません。この世においてはこの世的な恵みを受けることは多くないかもしれません。しかし、神様は、キリストにおいて、天にあるすべての祝福をもって私たちを祝福してくださると約束されています。今、自分がいるところにある現実、肉眼で見える現実だけが、私の人生ではありません。もう一つの現実があるのです。だからこそ、私たちは、今年の聖句のように、つねに神を見上げなければなりません。神様は私たちに神を見なさいと命令しておられます。それは、そこに本当の救い、本当の助け、本当の慰めがあるからです。私たちは、自分の生き方を点検して、つねに神様を見上げ続ける信仰生活を確立しなければなりません。
(イントロ)
イザヤ書47章のテーマはバビロン帝国の滅亡です。バビロンはチグリス・ユーフラテス川にはさまれたメソポタミアに今から4000年以上も前から存在していた国です。紀元前1800年ごろには有名なハムラビ王が支配し、「目には目を、歯には歯を」という言葉で有名なハムラビ法典を作成しました。このハムラビとは「偉大なるハム」と解釈できる名前ですが、旧約聖書の創世記10章には、ノアの箱舟で有名なノアの子孫のことが記されています。ノアには3人の息子がいました。セム、ハム、ヤペテです。そしてハムの子孫の中にニムロデという人が生まれるのですが、創世記10章8節には「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。」と書かれています。その人の王国はシヌアルという場所にあったのですが、実は、そのシヌアルの地にバベルの塔が建てられました。バベルはバビロンの別名です。バベルの塔は神に反抗する人間の傲慢さと自分に栄光をもたらそうとする姿のシンボルです。ですから、バビロンという国は、実際に人間の歴史の中に存在した国ですが、聖書では、神に反抗する国として描かれています。
イザヤ書の中で描かれているバビロンは、ハムラビのバビロンから約1200年後の時代にメソポタミア地域を支配していた新バビロン帝国を指しています。BC605年にメソポタミアを征服した新バビロン帝国は2代目の王様ネブカデネザルの力によって強大な帝国に成長します。ネブカデネザルはイスラエルの都エルサレムを破壊し、そこに住んでいた主だった人をみな、バビロンに強制的に連行しました。ネブカデネザルが生きている間、バビロンは世界中を支配するほどの力を持っていました。誰も、バビロン帝国が滅びることなど考えてはいませんでした。そのバビロンがペルシャのクロス王によって簡単に滅ぼされてしまったことは、古代の歴史の中でも驚くべきことでした。聖書は、この出来事を傲慢になったバビロンに対する神の裁きだと見ています。
(1) バビロンの滅び
1節には次のように書かれています。「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。」当時バビロンは世界の支配者であり、まだ、他の国との戦いに負けたことがなかったので、聖書では「おとめバビロンの娘」と呼ばれています。敗北も失敗も知らない自信に満ちたバビロンでした。しかし、神様は、そのような絶対的な権力を持つバビロンに対して、命令しておられます。「下って、ちりの上に座れ。」この言い方は、飼い主が犬を座らせる時のようなことばです。飼い主は必ず犬が命令に従うまで命令を続けます。人間の支配者がどのように権力を持っているとしても、神の前には、犬のような存在にすぎません。40章に書かれているように、どんな権力者も、神の前にはやっと蒔かれ、やっと植えられ、ようやく地に根を伸ばした種のようなものです。神がそのうえに一息、風を吹かせるならば、たちまち、吹き飛ばされてしまうようなものにすぎないのです。しかし、私たちは、人間的な力に魅力を感じ、そのような権力者、この世の力により頼もうとするのです。しかし、本当に頼りになるのは神様以外にはないのです。
神様は、自信いっぱいのバビロンに対して厳しい裁きの言葉を言われます。2,3節を読みましょう。「ひき臼を取って粉をひけ。顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。 あなたの裸は現われ、あなたの恥もあらわになる。わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない。」石臼で粉を引くのは奴隷の仕事でした。まだ、水車や風車は発明されていない時代です。石臼を引くのは大変な仕事だったので、奴隷にとっても、辛い仕事でした。また、このころ河を渡るには歩いて川の中を歩かなければなりませんでした。橋の数は非常に少なかったのです。河を渡る時にいは、男も女もすそをまくらなければなりませんでした。当時の女性にとって、人前で肌を見せることは非常に屈辱的なことでした。神様は、なぜ、バビロンにこのようなことを言われたのでしょうか。5節には次のように書かれています。「カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみにはいれ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ。」世界を完全に支配しているように見えるバビロンに向かって、神様は、「あなたはもう王国の女王と呼ばれることはない」と言っておられます。
もともと、バビロンは、神様に用いられた国でした。バビロンがエルサレムを滅ぼしたのは、神に反抗し続けていたイスラエルの民を懲らしめるためでした。神様は、イスラエルが自分の生き方、信仰を思い直して、神に立ち返ることを願っておられたのです。確かに、神様はイスラエルを懲らしめるためにバビロンという外国を用いられました。しかし、バビロンはそのことを知らずにすべては自分の力だと思い込んで傲慢になってしまい、自分の分際を超えてしまいました。自分の力を過信して、「自分はいつまでも女王でいられるのだ。」と考えていたのです。イスラエルの民を滅ぼしたのは、神様がバビロンを用いたからでした。しかし、バビロンは自分の力による勝利だと確信したので、自分がいつまでも支配者であり続けると考えていました。しかし、そのようなバビロンに向かって、神様は「あなたはもう王国の女王と呼ばれることはない」と言い、バビロンが滅びることを預言されたのです。10節で、神様はバビロンの心を暴露しています。「あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はない。』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ。』」バビロンは、悪により頼み、「誰も私が行っている悪を見ている者はいない。」と言い、「私だけは特別だ。」と豪語しています。バビロンは、完全に、神を無視して生きていました。その結果が滅びでした。
(2) 自分の終わりのことを思わなかった
バビロンは神を無視して生きていました。そして、「だれも私を見ている者はいない。」「私だけは特別だ」と言い放っていました。神様によって用いられたことを知らずに、人生のすべての出来事を自分の力によるものと思って、バビロンは自分の願うままに生き、イスラエルを虐待していました。バビロンの生き方の特徴を示すのが7節に書かれているように、彼らが自分の終わりのことを思わなかったということです。日本人は死を考えない国民だと言われますが、ほとんどの人は自分の死について日ごろから考えることをしていません。私たちは、今すぐ自分が死に直面するとは思っていないからです。しかし、聖書は、はっきりと言います。「人は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定まっている。」榎本保朗という牧師は次のように書いています。「しかし神の終わりの日は必ず来る。ただ神のご支配、神の御心をというのは、冬枯れの木がいつとはなしに芽を出し、気がつくと葉となっており、また気がつくと木全体が青々と茂っているように、私たちの気付かないうちに進められていくのが神の働きである。だから、私たちは神の働きを侮りやすい。それが、終わりを思う知恵を軽んじやすい原因だと思う。」私たちも、バビロンと同じように、自分の人生を考えるときに、すべて自分の力でやったと考えやすいものです。
主イエスは、そのような私たちに対する警告として、ルカ福音書12章で、「愚かな金持ち」のたとえ話をされました。ある農夫が一生懸命に働いた結果、一生働かなくてよいほど多くの穀物を収穫することができました。それで、その農夫は、これからは仕事もしないで、思いっきり楽しもう。」と考えます。その時、神がこの農夫に言われました。「愚か者。おまえのたましいは今夜取り去られる。そうしたら、お前が用意したものは、いったい誰のものになるのか。自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりです。」この金持ちは一生懸命働きました。そしてものすごい豊作だったので、その農夫は収穫した穀物を将来のために蓄えて、これからは「自分が創った財産によって、老後を安心して暮らそう。」と考えました。この農夫は、真面目に働いて豊作に恵まれたのですから、自分の老後のために蓄えることは決して悪いことではありません。
それでは、なぜ、この人は神様から「愚か者」と言われたのでしょうか。彼の生き方の中に神がおられなかったからです。詩篇には「愚か者は心の中で『神はない』と言う。」と書かれています。つまり、この農夫が愚か者と言われたのは、この人が真面目な生き方をしなかったからではありません。真面目に生きていたのですが、神は「神はいない」と思っていました。言い換えると、「神なんかいなくても私は立派に生きていける。」とのような考えが心を奥底にあるはずです。彼は、豊作のあと、いろいろな計画を立てますが、私は〜しよう。私は〜しよう。という表現が繰り返し使われています。つまり、この人は、自分の老後の生活のことだけを考えて、自分の力で何とかやろうとしています。「私は神によって生かされている。」という考えがありません。私たちに命を与えてくださるのも、また、いのちを取られるのも神様です。私たちにも死が必ず訪れることを覚悟しておかなければなりません。しかも、それがいつ来るかわからないのです。
(3) 死に対する備え
それでは、私たちは、愚かな金持ちのようにならない人生を送るにはどうしたらいいのでしょうか。マタイの福音書6章33節には「まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられます。」と書かれています。この世界の本当の支配者は神様です。神様がこの世界を創られて、この世界を支配しておられます。主イエスを信じるクリスチャンはその神の子供になる特権が与えられました。この神を自分の人生の中でもっとも大切な方として尊敬し、自分の人生が神様によって与えられたものだと謙虚に考えるとき、私たちは、自分が生きている意味を知るようになります。「何のために生きるのか」と悩むことがありません。そして、神をそのように尊敬して生きるときに、本当の生きる意味がわかるようになります。そして、神様は私たちに、「神を第一として生きるならば、必要なものはすべて添えて与えられる」ことを約束してくださいました。
また、神を第一として生きるということは、いつも神を見上げるということです。私たちは、あまりにも、自分の周りにあるものによって心を奪われ、それらのものにより頼み、神を第一にすることを忘れやすいのです。主ご自身が言われたように、わたしたちの地上での生活には様々な試練や困難があります。貧しい生活であったり、病気との戦いであったり、仕事や友人関係の悩みであったり、私たちのこの世の生活には辛いことや苦しいことがあります。しかし、それが私の人生のすべてではありません。どんな状態であっても、私たちをキリストの愛から引き離すものは何もありません。この世においてはこの世的な恵みを受けることは多くないかもしれません。しかし、神様は、キリストにおいて、天にあるすべての祝福をもって私たちを祝福してくださると約束されています。今、自分がいるところにある現実、肉眼で見える現実だけが、私の人生ではありません。もう一つの現実があるのです。だからこそ、私たちは、今年の聖句のように、つねに神を見上げなければなりません。神様は私たちに神を見なさいと命令しておられます。それは、そこに本当の救い、本当の助け、本当の慰めがあるからです。私たちは、自分の生き方を点検して、つねに神様を見上げ続ける信仰生活を確立しなければなりません。

