礼拝説教 2008年5月18日 「私の他に神はいない」イザヤ書45章
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(1)歴史を支配する神
イザヤ書45章は次のような言葉で始まります。「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」クロスというのはペルシャ帝国を立上げた王様の名前です。クロスはバビロン帝国を滅ぼして、ペルシャという広大な国を築いたのです。その領土は今日のインドからアフリカのエチオピアにまで広がっていました。クロスに敗れたバビロン帝国も強大な国でした。ネブカデネザルというバビロン王がエルサレムを完全に崩壊させ、そこに住む主だった住民を強制的にバビロンに移住させたのが、60年ほど前の出来事でした。そのころはバビロンが世界を征服しているように見えていました。ところが意外にも、バビロンの国の寿命は短かったのです。ペルシャ王クロスがバビロンを滅ぼしたことによって、イスラエルの人々は苦しいバビロンでの生活から解放されて、自分の国へ帰ることができるようになりました。ここで「油注がれた者クロス」と言われていますが、「油注がれた者」とは、へブル語で「メシヤ」と言います。つまり、ペルシャ王クロスは主イエスと同じタイトルで呼ばれているのです。バビロンに強制的に連れて来られたイスラエルの人々は、将来に対して絶望していました。故郷を離れ、見知らぬ国へ連れて来られて、将来いつ故郷に帰ることができるかまったくわからなかったからです。しかし、イスラエルの人々が絶望していた時も、神様は確かに働いておられました。神様がクロスを起こして、イスラエルの民を解放する王として用いられたのです。1節で「わたしは彼の右手を握り」とあるのは、神様がクロス王にバビロンを滅ぼす力を与えたことを意味しています。私たちは、世界の動きは表面的にしか見ることができません。自分の周りの出来事でも、今見えている状況しか分かりません。しかし、イザヤが述べていることは、人間が支配しているように思える世界の動きも、実は、背後で神様が働いておられるということです。また、それは私たち一人一人のレベルで考えるならば、私の人生は自分の力だけで動いているのではなく、私の人生にも神様は働いておられるということです。イザヤは40章23,24節で次のように述べています。「神様は、君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。」人間の支配者は、どんなに強い権力を持っていても、神様の前には、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと根を張ろうとしているようなもので、神様が少し風を吹かせると、たちまち滅んでしまうようなものです。つまり、人間の支配者は、どんなに強くても、まったく頼りにはならないのです。頼りにならないものに頼ること以上に、愚かなことはありません。
1節に「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」と書かれています。実際に、バビロン帝国の末期は、支配者の王が国の政治や人々のことをまったく無視して、偶像の宗教を信じて狂信的になっていました。それで、都のバビロンに住んでいた人々は、早く、そんな王を倒す人が現れるのを待っていたのです。バビロンは四角い形をした巨大は町で周りを立派な城壁で囲まれていました。ひとつ東西南北のそれぞれの壁には25の門がありましたので、バビロンの街全体では100の門がありました。クロス王が叔父のダリヨス王と共にバビロンに攻め入ったときに、バビロンの町を囲む壁にあった100の門すべてが開けられていただけでなく、宮殿の門まですべて開けられていたので、クロス王は一滴の血も流すことなくバビロンに攻め入り、バビロンを征服したのでした。絶対に滅びないと言われていたバビロンでしたが、2節に書かれているように、神様の前には、青銅のとびらも鉄のかんぬきも、全く役に立たないのです。4節で神はペルシャのクロス王に次のように言っています。「わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。」クロス王自身は知らなかったのですが、彼は神から選ばれていて、イスラエルの民がバビロンから解放されるための働き人として用いられたのです。神様は、クロス王だけでなく、私たち一人一人を、この世界が作られる前から選んでいてくださって、私たちにも何かの使命、何かの働きを与えておられるのです。パウロもそうでした。彼は、ユダヤ教徒として熱心に働いていた時は、自分がクリスチャンになるとは考えてもいませんでしたが、彼はすでにその時に、神によって選ばれていたのです。ガラテヤの1章で彼は自分のことを次のように述べています。「私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示してくださいました。」私たちクリスチャンが、他の人よりも先に救われたのは、このような働きのためであるかも知れません。私たちは、自分が何をすることを神様から期待されているのか、よく祈ることが大切です。
(2)すべてを創り出す神
5節で神はこのように言われました。「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。」神様は、45章で預言者イザヤの口をとおして何度も言われました。「わたしが主である。ほかにはいない。」そして言われたことは「あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。」ということでした。私たちがまだ神を知らない時に、すでに神様は私たちを選んでおられました。主イエスもヨハネの福音書で言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」神様は私たちをただ選んだだけではありません。私たちに神の力を与えてくださる方です。そのような神は、聖書の神以外にいません。当時のペルシャでは、ゾロアスター教という宗教が信仰されており、その宗教では光が神でした。しかし、主なる神は言われました。「光が神なのではない。光も、わたしが創ったものである。そして、またわたしは闇をも創った。」と言われます。つまり、聖書の神は、この世にあるすべてのものを創り出された神です。何かを創った人は、自分が創った作品を支配しています。光を創る神であり、闇を創る神です。言い換えれば、私たちの人生が順調に進んでいるときも、困難に苦しんでいるときも、それは神様の御心によるものであることを私たちは覚えておく必要があります。私たちが信じている神様は、私たちの生活が順調に進んでいるときだけ存在する神ではありません。私たちが大きな困難や苦しみの中を進んでいるときも、そこに存在しておられる神です。そして、それらすべてのことをとおして私たちが主イエスに似た者となることを願って、すべてのことを私たち一人ひとりにとって、本当の意味で一番有益なる道へと私たちを導いておられます。ですから、いつも言っているように、私たちがこの世で生きていく時に、神様をしっかり信じていても、私たちの生活の状況は、私たちが願っているように進まないことが多いです。しかし、それは、私たちは今の、一時的な利益を求めますが、神様は、永遠の目で見て私たちに一番良いものを与えようと考えられるので、その根本的な姿勢が違うので、私たちはとまどうことがあるのです。しかし、ここでも約束されていることは、私こそ神である。そして私はあなたに力を帯びさせるということです。第一ペテロ5章10節を読みましょう。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」ここに言われていることは、私たちがどのような困難を経験するとしても、そこにも、あらゆる恵みに満ちた神がともにおられるということです。そして、私たちを、キリストを信じる信仰によって約束されている永遠の栄光へと導いてくださいます。苦しみの時間はいつか必ず終わる時が来ます。しかもその苦しみは決して無駄なことではなく、私たちを強くするように働きます。神様は、いつも私たちを固く立つように、不動の者となるように訓練してくださいます。
(3)私たちを救う神
16-17節で神はこう言われます。「偶像を細工する者どもはみな、恥を見、みな共に、はずかしめを受け、恥の中に去る。イスラエルは主によって救われ、永遠の救いにはいる。あなたがたは恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない。」偶像を創る人、偶像に頼る人は恥を見ると言われています。偶像とは何も、神の像を刻んだ木や石に限られたものではありません。神以外のものに私たちが頼ろうとするとき、それはすべて偶像になります。目に見える財産、人々から褒められること、他の権力や金を持っている人など、そのようなものに頼る人は恥を見ると神様が断言しています。しかし、主なる神を信頼する人は、いつまでも恥を見ることがなく、永遠の救いに入ることが約束されています。神様が私たちと約束をされるなら、その約束は永遠に変わることがないのです。それでも、イスラエルの人は神を信仰しているだけでは、何か足りないと感じていたのか、神以外のものに頼ろうとしていました。神様は、私たちのためにこの世界を創り、そこに住むように、私たち一人ひとりを創られました。神様は私たちと愛による交わりを求めておられるのに、当時のイスラエルの民も、また、主イエスを信じる前の私たちも、神様のことを考えずに自分のことだけを考えて生きて来ました。
そのような心の頑なな私たちにも、神様は、決してあきらめることなく何度も何度も繰り返して言われます。22節「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」神に逆らってばかりいたような私にも、神様は「わたしを仰ぎ見よ」と招いてくださるのです。私たちは、心に不安がある時に、力が弱いのに自分を見たり、周りの人を見たり、あるいは自分が直面している状況を見たりします。しかし、神様はこれらのものに頼る者は恥を見ると警告されました。そして、神を見る者は必ず救われると保証してくださるのです。
昔、約束の地に向かっていたイスラエルの民が罪を犯したときに、神様が燃える蛇を送られたので、噛まれた人は死にました。しかし、神様は、リーダーのモーセに同で燃える蛇を作るように命令し、この蛇を見る者は救われると約束しました。燃える蛇にかまれた人の命が救われる道は一つしかありませんでした。その蛇を見上げることでした。主イエスの時代を生きる私たちが、心の中の汚れや罪が許されるために、私たちがしなければならないことは一つだけです。「主を見上げることです。」ただ、主を信頼し、主を仰ぎみる人は必ず救いに入れられ、悩んでいた人々は、その悩みから解放され、心の中に平安を感じたことでしょう。
19世紀の偉大なイギリスの説教者も、この45章の22節の言葉で人生を変えられた一人です。当時ロンドンには100万人以上の人が住んでいましたが、ロンドン市の教会の座席を全部集めても15000ぐらいしかありませんでした。そのような状況の時代に、彼が建てた教会には日曜日の礼拝にいつみお6000人以上の人が集っていました。しかし、彼はもともと信仰熱心だったわけではありません。彼は宗教心の熱い家庭に生まれて、幼児洗礼を受けていました。しかし、自分の罪に悩み、心が晴れることはありませんでした。ある冬の日曜日、ロンドン地方はイギリスには珍しい大雪が降りました。彼は自分の罪に悩んで心が沈んでいました。彼は自分が通う教会に向かっていましたが、雪がますます激しくなってきたので、仕方なく、通りがかりの小さな教会に入りました。実は、その教会の牧師も激しい雪のために教会に来ることができなくなっていました。それで、仕方なく、教会に来ていた年配の人が立ち上がって聖書の言葉を読み始めました。その時読まれたのがイザヤ書45章22節の言葉でした。その人は説教者ではありませんので、牧師に代わって説教することができませんでした。それで、み言葉を読むと「この節は『主を仰ぎ見て救われよ。』と書いてあります。しかし、それ以上に説教の言葉が頭に浮かびませんでした。それで、彼は、他に言う言葉が思いつかなかったので、講壇の机を強くたたきながら、同じ言葉を繰り返しました。「主を仰ぎ見て救われよ!」その年配の人が礼拝堂を見渡すと、スポルジョンが部屋の後ろで暗い表情をしているのが見えました。それで、その人はスポルジョンに近寄り、彼に言いました。「主イエスを見上げなさい。そうすれば救われます。」彼に話をしたのは、十分な教育を受けた人ではありませんでした。一方スポルジョンは非常に頭脳明晰な若者でした。しかし、彼は、その人が言った言葉を素直に信じました。神を見上げて救われたのです。この時のこの経験が悩み苦しんでいたスポルジョンを変え、19世紀最大の説教者と言われるほどになりました。あなたも、どんな状況の中にいても、この世のことばかり見ていても、何も変わりません。しかし、主を仰ぎ見る者は必ず救われます。あなたは、神様のこの招きの言葉にどう応答されるでしょうか。
(1)歴史を支配する神
イザヤ書45章は次のような言葉で始まります。「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」クロスというのはペルシャ帝国を立上げた王様の名前です。クロスはバビロン帝国を滅ぼして、ペルシャという広大な国を築いたのです。その領土は今日のインドからアフリカのエチオピアにまで広がっていました。クロスに敗れたバビロン帝国も強大な国でした。ネブカデネザルというバビロン王がエルサレムを完全に崩壊させ、そこに住む主だった住民を強制的にバビロンに移住させたのが、60年ほど前の出来事でした。そのころはバビロンが世界を征服しているように見えていました。ところが意外にも、バビロンの国の寿命は短かったのです。ペルシャ王クロスがバビロンを滅ぼしたことによって、イスラエルの人々は苦しいバビロンでの生活から解放されて、自分の国へ帰ることができるようになりました。ここで「油注がれた者クロス」と言われていますが、「油注がれた者」とは、へブル語で「メシヤ」と言います。つまり、ペルシャ王クロスは主イエスと同じタイトルで呼ばれているのです。バビロンに強制的に連れて来られたイスラエルの人々は、将来に対して絶望していました。故郷を離れ、見知らぬ国へ連れて来られて、将来いつ故郷に帰ることができるかまったくわからなかったからです。しかし、イスラエルの人々が絶望していた時も、神様は確かに働いておられました。神様がクロスを起こして、イスラエルの民を解放する王として用いられたのです。1節で「わたしは彼の右手を握り」とあるのは、神様がクロス王にバビロンを滅ぼす力を与えたことを意味しています。私たちは、世界の動きは表面的にしか見ることができません。自分の周りの出来事でも、今見えている状況しか分かりません。しかし、イザヤが述べていることは、人間が支配しているように思える世界の動きも、実は、背後で神様が働いておられるということです。また、それは私たち一人一人のレベルで考えるならば、私の人生は自分の力だけで動いているのではなく、私の人生にも神様は働いておられるということです。イザヤは40章23,24節で次のように述べています。「神様は、君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。」人間の支配者は、どんなに強い権力を持っていても、神様の前には、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと根を張ろうとしているようなもので、神様が少し風を吹かせると、たちまち滅んでしまうようなものです。つまり、人間の支配者は、どんなに強くても、まったく頼りにはならないのです。頼りにならないものに頼ること以上に、愚かなことはありません。
1節に「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」と書かれています。実際に、バビロン帝国の末期は、支配者の王が国の政治や人々のことをまったく無視して、偶像の宗教を信じて狂信的になっていました。それで、都のバビロンに住んでいた人々は、早く、そんな王を倒す人が現れるのを待っていたのです。バビロンは四角い形をした巨大は町で周りを立派な城壁で囲まれていました。ひとつ東西南北のそれぞれの壁には25の門がありましたので、バビロンの街全体では100の門がありました。クロス王が叔父のダリヨス王と共にバビロンに攻め入ったときに、バビロンの町を囲む壁にあった100の門すべてが開けられていただけでなく、宮殿の門まですべて開けられていたので、クロス王は一滴の血も流すことなくバビロンに攻め入り、バビロンを征服したのでした。絶対に滅びないと言われていたバビロンでしたが、2節に書かれているように、神様の前には、青銅のとびらも鉄のかんぬきも、全く役に立たないのです。4節で神はペルシャのクロス王に次のように言っています。「わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。」クロス王自身は知らなかったのですが、彼は神から選ばれていて、イスラエルの民がバビロンから解放されるための働き人として用いられたのです。神様は、クロス王だけでなく、私たち一人一人を、この世界が作られる前から選んでいてくださって、私たちにも何かの使命、何かの働きを与えておられるのです。パウロもそうでした。彼は、ユダヤ教徒として熱心に働いていた時は、自分がクリスチャンになるとは考えてもいませんでしたが、彼はすでにその時に、神によって選ばれていたのです。ガラテヤの1章で彼は自分のことを次のように述べています。「私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示してくださいました。」私たちクリスチャンが、他の人よりも先に救われたのは、このような働きのためであるかも知れません。私たちは、自分が何をすることを神様から期待されているのか、よく祈ることが大切です。
(2)すべてを創り出す神
5節で神はこのように言われました。「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。」神様は、45章で預言者イザヤの口をとおして何度も言われました。「わたしが主である。ほかにはいない。」そして言われたことは「あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。」ということでした。私たちがまだ神を知らない時に、すでに神様は私たちを選んでおられました。主イエスもヨハネの福音書で言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」神様は私たちをただ選んだだけではありません。私たちに神の力を与えてくださる方です。そのような神は、聖書の神以外にいません。当時のペルシャでは、ゾロアスター教という宗教が信仰されており、その宗教では光が神でした。しかし、主なる神は言われました。「光が神なのではない。光も、わたしが創ったものである。そして、またわたしは闇をも創った。」と言われます。つまり、聖書の神は、この世にあるすべてのものを創り出された神です。何かを創った人は、自分が創った作品を支配しています。光を創る神であり、闇を創る神です。言い換えれば、私たちの人生が順調に進んでいるときも、困難に苦しんでいるときも、それは神様の御心によるものであることを私たちは覚えておく必要があります。私たちが信じている神様は、私たちの生活が順調に進んでいるときだけ存在する神ではありません。私たちが大きな困難や苦しみの中を進んでいるときも、そこに存在しておられる神です。そして、それらすべてのことをとおして私たちが主イエスに似た者となることを願って、すべてのことを私たち一人ひとりにとって、本当の意味で一番有益なる道へと私たちを導いておられます。ですから、いつも言っているように、私たちがこの世で生きていく時に、神様をしっかり信じていても、私たちの生活の状況は、私たちが願っているように進まないことが多いです。しかし、それは、私たちは今の、一時的な利益を求めますが、神様は、永遠の目で見て私たちに一番良いものを与えようと考えられるので、その根本的な姿勢が違うので、私たちはとまどうことがあるのです。しかし、ここでも約束されていることは、私こそ神である。そして私はあなたに力を帯びさせるということです。第一ペテロ5章10節を読みましょう。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」ここに言われていることは、私たちがどのような困難を経験するとしても、そこにも、あらゆる恵みに満ちた神がともにおられるということです。そして、私たちを、キリストを信じる信仰によって約束されている永遠の栄光へと導いてくださいます。苦しみの時間はいつか必ず終わる時が来ます。しかもその苦しみは決して無駄なことではなく、私たちを強くするように働きます。神様は、いつも私たちを固く立つように、不動の者となるように訓練してくださいます。
(3)私たちを救う神
16-17節で神はこう言われます。「偶像を細工する者どもはみな、恥を見、みな共に、はずかしめを受け、恥の中に去る。イスラエルは主によって救われ、永遠の救いにはいる。あなたがたは恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない。」偶像を創る人、偶像に頼る人は恥を見ると言われています。偶像とは何も、神の像を刻んだ木や石に限られたものではありません。神以外のものに私たちが頼ろうとするとき、それはすべて偶像になります。目に見える財産、人々から褒められること、他の権力や金を持っている人など、そのようなものに頼る人は恥を見ると神様が断言しています。しかし、主なる神を信頼する人は、いつまでも恥を見ることがなく、永遠の救いに入ることが約束されています。神様が私たちと約束をされるなら、その約束は永遠に変わることがないのです。それでも、イスラエルの人は神を信仰しているだけでは、何か足りないと感じていたのか、神以外のものに頼ろうとしていました。神様は、私たちのためにこの世界を創り、そこに住むように、私たち一人ひとりを創られました。神様は私たちと愛による交わりを求めておられるのに、当時のイスラエルの民も、また、主イエスを信じる前の私たちも、神様のことを考えずに自分のことだけを考えて生きて来ました。
そのような心の頑なな私たちにも、神様は、決してあきらめることなく何度も何度も繰り返して言われます。22節「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」神に逆らってばかりいたような私にも、神様は「わたしを仰ぎ見よ」と招いてくださるのです。私たちは、心に不安がある時に、力が弱いのに自分を見たり、周りの人を見たり、あるいは自分が直面している状況を見たりします。しかし、神様はこれらのものに頼る者は恥を見ると警告されました。そして、神を見る者は必ず救われると保証してくださるのです。
昔、約束の地に向かっていたイスラエルの民が罪を犯したときに、神様が燃える蛇を送られたので、噛まれた人は死にました。しかし、神様は、リーダーのモーセに同で燃える蛇を作るように命令し、この蛇を見る者は救われると約束しました。燃える蛇にかまれた人の命が救われる道は一つしかありませんでした。その蛇を見上げることでした。主イエスの時代を生きる私たちが、心の中の汚れや罪が許されるために、私たちがしなければならないことは一つだけです。「主を見上げることです。」ただ、主を信頼し、主を仰ぎみる人は必ず救いに入れられ、悩んでいた人々は、その悩みから解放され、心の中に平安を感じたことでしょう。
19世紀の偉大なイギリスの説教者も、この45章の22節の言葉で人生を変えられた一人です。当時ロンドンには100万人以上の人が住んでいましたが、ロンドン市の教会の座席を全部集めても15000ぐらいしかありませんでした。そのような状況の時代に、彼が建てた教会には日曜日の礼拝にいつみお6000人以上の人が集っていました。しかし、彼はもともと信仰熱心だったわけではありません。彼は宗教心の熱い家庭に生まれて、幼児洗礼を受けていました。しかし、自分の罪に悩み、心が晴れることはありませんでした。ある冬の日曜日、ロンドン地方はイギリスには珍しい大雪が降りました。彼は自分の罪に悩んで心が沈んでいました。彼は自分が通う教会に向かっていましたが、雪がますます激しくなってきたので、仕方なく、通りがかりの小さな教会に入りました。実は、その教会の牧師も激しい雪のために教会に来ることができなくなっていました。それで、仕方なく、教会に来ていた年配の人が立ち上がって聖書の言葉を読み始めました。その時読まれたのがイザヤ書45章22節の言葉でした。その人は説教者ではありませんので、牧師に代わって説教することができませんでした。それで、み言葉を読むと「この節は『主を仰ぎ見て救われよ。』と書いてあります。しかし、それ以上に説教の言葉が頭に浮かびませんでした。それで、彼は、他に言う言葉が思いつかなかったので、講壇の机を強くたたきながら、同じ言葉を繰り返しました。「主を仰ぎ見て救われよ!」その年配の人が礼拝堂を見渡すと、スポルジョンが部屋の後ろで暗い表情をしているのが見えました。それで、その人はスポルジョンに近寄り、彼に言いました。「主イエスを見上げなさい。そうすれば救われます。」彼に話をしたのは、十分な教育を受けた人ではありませんでした。一方スポルジョンは非常に頭脳明晰な若者でした。しかし、彼は、その人が言った言葉を素直に信じました。神を見上げて救われたのです。この時のこの経験が悩み苦しんでいたスポルジョンを変え、19世紀最大の説教者と言われるほどになりました。あなたも、どんな状況の中にいても、この世のことばかり見ていても、何も変わりません。しかし、主を仰ぎ見る者は必ず救われます。あなたは、神様のこの招きの言葉にどう応答されるでしょうか。

