礼拝説教 2008年5月11日 『私たちの助け主―聖霊』(ヨハネの福音書14章12-27節)

2008.05.24

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(イントロ)

ヨハネの14章は主イエスの次のような言葉で始まっています。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」この言葉が語られたのは、主イエスが十字架にかかかる前の夜のことでした。イエスの弟子たちは、十字架のことがはっきりと理解はしていませんでしたが、漠然と主イエスが自分たちから離れて行かれることを感じていました。彼らは、皆、以前の仕事や生活を捨てて主イエスに従って来たのですが、その主イエスがいなくなったとき、自分たちのこれからの生活はどうなるのだろうか、そう考えると、弟子たちは大きな不安に襲われていたのです。そのことをちゃんと見抜いておられた主イエスは彼らに向かって「父なる神を信じ、また私を信じなさい。」と言われたのです。私たちの人生にも、自分では理解できないことや、自分の将来に対して確信が持てないとき、あるいは、暗闇のように見えるときがやって来るときがあります。その時に、このイエスの言葉を思い出すことが大切です。

主イエスは「神を信じ、また私を信じなさい。」と言われました。神を信じることは、時に、難しさを感じることがあります。それは、神のスケールがあまりにも大きすぎ、また肉眼では見えないので、わからないのです。しかし、イエスは「私を信じなさい」とも言われました。主イエスは、目に見えない神が、私たちにも神を身近に知ることができるように、ご自身の神としての権威と栄光を捨てて、私たちと同じ姿になってくださいました。それだけではなく、私たちのために最も大切な命を捧げてくださいました。このような理解を超えるほどの愛を私たちに示してくださった主イエスが、私たちに向かって「わたしを信じなさい」と言われるのです。主イエスの言葉は、いつも私たちにとっては、暗闇の中の光であり、また、私たちを支える固い岩のようなものです。


(1)慰め主としての聖霊

 不安に襲われていた弟子たちに向かって主イエスが16節で次のように言われました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」ここで、「もうひとり」と訳された言葉がありますが、ギリシャ語には「もう一人」「もうひとつ」という意味を持つ言葉が2つあります。「アロス」と「ヘテロス」という言葉です。この2つの言葉の意味は異なっています。「ヘテロス」というのは、「異なった種類の別のもう一つ」という意味であり、「アロス」というのは「全く同じ種類のもう一つ」という意味です。ここで主イエスが使っているのは「アロス」です。ですから、「もう一人の助け主が与えられる」というのは、「父なる神があなた方のために送ってくださる助け主は、まさに私と同じ方である」という意味なのです。主イエスが、弟子たちのもとから離れて行っても、父なる神様は主イエスとまったく同じ助け主を与えてくださるという約束は、不安を感じていた弟子たちにはどれほど大きな励ましとなったことでしょうか。聖霊とは、主イエスが私たちとともにいてくださることに他ならないのです。


 また、16節で主イエスは「もう一人の助け主」と言われました。新改訳聖書では「助け主」となっていますが、新共同訳では「弁護者」となっています。この言葉は「パラクレートス」というギリシャ語の言葉を訳したものです。パラクレートスは、詳しく訳すと、「そばに来るように呼ばれた者」という意味で、一般的には裁判所で被告を弁護する弁護士を意味する言葉でした。法律によって罪を責められている人を、その人の横に立って、その人を助けるために様々な努力をする人です。たとえで言えば、子供に自転車の乗り方を教える父親のような存在です。最初は自転車が倒れないように補助の車輪をつけてのります。ある日、補助車輪を外して、子供はいよいよ自転車の乗り方を学びます。父親が最初自転車を手で支えながら一緒に走ります。こどもにバランスのとり方を教えながら、自転車を支えていた手を放します。ところが子供はバランスを失って倒れます。父親は急いで走り寄って、こどもと自転車を起こして、手や足についた泥を払ってけががないか調べ、そして、子供に「もう一度やってごらん」と子供を励まします。それと同じように、主イエスの霊である聖霊は、私たちの横を走り、私たちを支え、私たちを励まして、チャンレンジを与えます。そして、たとえ私たちが倒れても、すぐに私たちを立ち上がらせ、汚れを払い落して、もう一度やり直すように励ましてくれるのです。


 第二コリント7章5、6節でパウロは次のように述べています。「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。」そのころ、コリント教会にはパウロに反対するグループがいろいろと働いていて、パウロを悩ませていました。パウロはトロアスという町でコリント教会から来るテトスと会うことになっていましたが、テトスが来ることができず、パウロは彼に会うことができませんでした。それで、パウロは一人でマケドニアに行くのですが、その時、パウロは不安と恐れで非常に苦しんでいました。パウロのように強い性格の持ち主で筋金入りの信仰を持っている人物でもこのようにひどく来るしんでいるのですから、私たちが恐れたり悩んだりするのも、当然のことだといえます。しかし、このように苦しんでいたパウロのもとに神様がテトスを送ってくださったので、彼はテトスから大きな慰めを受けました。

パウロと出会ったテトスは「元気ですか」と尋ねたことでしょう。パウロが自分の悩みと苦しみをテトスに話すと彼はその話をじっと聞いたと思います。そして、おそらく二人は一緒に祈ったでしょう。それから、テトスはパウロにコリント教会の様子を話して、また、神様のこれまでの守りや導きのことを話したことと思います。そのようにして、苦しんでいたパウロも少しずつ元気を取り戻しました。この場合、テトスがパウロのための慰め主になったのですが、このように、聖霊は私たちのそばにいて、私たちの祈りを聞き、み言葉をとおして、神様の力の偉大さ、神様の約束の確かさ、神様の私たちの対する愛も、私たちのための計画も決して変わることがないことを思い出させてくれます。そのようにして、私たちに力を与え、慰めを与えてくださるのです。慰めという言葉は英語ではComfortと言うのですが、これは2つのラテン語の言葉の合成語です。ラテン語でconは「一緒に」の意味であり、fortは「力」という意味です。神様は私たちに自分たちの内にはない力、ご自身の力を私たちに与えてくださる方です。


(2)聖霊との慰めの関係

 14章の16,17節をもう一度読みましょう「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」17節の最後のところに、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」と書かれています。聖霊は、わたしたちとともにおられるだけでなく、私たちの内におられるのです。私たちが大きな悩みや苦しみを抱えるときに、「この気持ちは誰にも分らない。」というような考えに襲われることがよくあります。そして、自己憐憫に陥って、その次には「だれも、私のことを心配していない。」というふうに考えます。しかし、主イエスは確かに約束されました。主イエスご自身である聖霊は、わたしたちの内に住んでくださるのです。私たちがどんな状況の中に置かれても、私たちは決して一人ぼっちではありません。私たちが感じる、感じないに関係なく、キリストの霊である聖霊は私たちの内におられるのです。しかも、聖霊は真理の御霊です。真理の御霊である聖霊が私たちの内に住んでくださるので、私たちは神様の御心やご計画を理解することができるのです。26節には次のように書かれています。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」神を信じない人は、自分を取り巻く状況しか見ることができません。そして、その状況があまりにも厳しいと、希望も力も失ってしまい、倒れてしまいます。しかし、神を信じる人の内には聖霊が働いて、聖書のことば、主イエスが語られた言葉を思い出させてくれるのです。私たちは主イエスの約束の言葉、慰めの言葉を聞いていても、いつの間にか忘れてしまっていることが多いのではないでしょうか。それで、自分の力だけで何とかしなければならないと考えて、へとへとに疲れてしまうのです。しかし、主イエスを信じる者の内では、聖霊が働いて私たちに、神様がこれまでどれほど多くの祝福を与え、導きを与えて自分を導いてくださったか、私たちが忘れていることを思いださせてくださるのです。


 そして主は18節で弟子たちに向かって次のように言われました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」孤児と訳されていますが、文字どおりには「父親のない子供」という意味の言葉が使われています。私たちは、主イエスを信じたときに、「神の子供」となる特権を与えられました。クリスチャンにとって、神の子供になったという事実は非常に大切なことです。いつも言っているように、私たちは、主イエスを信じる信仰によって、神の家族に養子として迎えられたのです。J.I.パッカーという人が「神を知る」という本の中で次のように書いています。「人がキリスト教をどれほど理解しているかを調べるには、その人が神の子供であるという事実をどうとらえているか、神が自分の父親であるということをどれだけ理解しているかを尋ねればよい。もし、その人が神の子供となった喜びと感謝の気持ちで神を礼拝し、神に祈り、そのような観点で人生を見ているのでないならば、その人はキリスト教を理解していない。キリスト教がユダヤ教と異なる点は何か、新約聖書が旧約聖書よりも優れている点は何か、イエスが弟子たちに教えようとしたことは何か、それは神様が私たちの父親であることを知ったという点にあるのだ。」聖霊はその事実を私たちに確認させてくれます。ローマ書の8章15,16節でパウロは次のように述べています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」私たちと神様との関係は、信仰的な意味で、また道徳的な意味で、父と子の関係です。聖霊は人を恐れさせる霊ではなく、私たちを神の子供とする霊です。私たちクリスチャンは、神のこどもとなっているので、祈るときも「天のお父様」と祈ることができるのです。旧約の時代、イスラエルの民は神様から約束の土地が与えられるという約束を受けていました。そして、確かに、彼らは今のイスラエルがある場所を与えられました。新約聖書の時代を生きる、私たちクリスチャンには、将来の栄光を受けるという約束を神様から受けています。この世を生きている間は、私たちはいろいろな困難や苦しみを経験するかも知れません。しかし、私たちは、将来神様が与えてくださる栄光を受けるという約束も受けているのです。私たちは、この約束のすべてをまだ受け取ってはいません。しかし、キリストが十字架という苦しみをとおして勝利と栄光を獲得されたように、キリストと同じ霊を受けている私たちは、将来、必ず神の栄光を受け継ぐのです。必ず栄光の時を迎えるのです。


 主イエスは27節でこう言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」この言葉は14節の1節の言葉とほとんど同じです。主イエスは、私たちに「助け主」「慰め主」を与えると約束されました。慰めとは「力を与えること」と言えます。それは、聖霊がわたしたちとともにおられるだけでなく、私たちの内側で働いてくださるからこそ、与えられる力です。カフマン夫人という方が書いた「慰めの泉」という本の中に次のような詩が書かれていました。


あなたの重荷を主にゆだねよ!
そのあとはどうすればよいのだろうか?
私はてぶらでありながら、
主がその重荷を背負ってくださるのだろうか?
いいえ、疲れ果てた魂よ。
この言葉はそういう意味ではない。
主は「あなたの重荷」ではなく、
「あなた」を背負ってくださるのだ。


私たちに与えられた助け主は、イエスと同じ霊です。私たちが倒れても、私たちを抱えあげ、汚れを払い落し、傷をいやし、そしてもう一度前進するのを助けてくださる方です。主イエスが言われる言葉に従って、心を騒がせず、主にゆだねて歩み続けましょう。