礼拝説教 2008年5月4日 「恐れてはならない」(イザヤ44章1-8節)
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(イントロ)
イザヤ書44章が語っている状況は、ユダヤ人の歴史の中でもっとも暗黒の時代と言える時でした。ユダヤ人たちが、神の導きに従わなかったために、神は彼らに罰を与えられました。神様が人間に罰を与えるのは、人間を傷つけるためでも、だめにするためでもありません。人が正しい道に戻ることを願って罰を与えるのです。その結果、ユダヤ人の国は東の大国バビロンによって滅ぼされ、永遠の神の都と言われたエルサレムの町は徹底的に破壊されました。そして、エルサレムに住んでいた主な人々は人質になってバビロンに連れていかれて、数十年の間、彼らは外国で暮らさなければなりませんでした。それは、ちょうど、北朝鮮に拉致されて行った人々に似ています。自分の国に帰りたくても、いつ帰れるのか分からない。彼らの周囲には恐れるバビロンの人々、とても心配な状況に直面していました。イザヤ書の41章から44章は、そのような状況の中に置かれていたユダヤ人たちを励ますための神様のメッセージが預言者イザヤを通して語られているのです。41章から44章までの間に、神様は7回、彼らに向かって「恐れるな」と言っておられます。そして、44章の1節から8節のところで、なぜ、彼らが恐れる必要がないのか、そのことを説明しておられるのです。ここに描かれている神様の激励の言葉は、単に当時のユダヤ人だけに向かって語られているのではなく、神を信じるすべての人に向かって語られた言葉です。私たちも、今の時代を生きるときに、恐れることや心配することは山ほどあります。自分の将来がどうなるのか大きな不安を感じます。そのような私たちに向かっても神様は、やはり「恐れるな」と言ってくださるのです。私たちがなぜ恐れる必要がないのか、今日の箇所から共に学んで生きましょう。
(1)私たちは神の民である。
1節に「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。」と新改訳聖書では書かれていますが、実際には、最初に「しかし」という言葉が入っています。なぜ、「しかし」と言われているかと言うと、43章の終わりの部分と関係があります。43章の27,28節に「あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが、ののしられるようにした。」と書かれています。イスラエルの民の指導者たちが神にそむいて悔い改めないので、彼らに対するさばきが記されています。イスラエルの民はこのように心がかたくなな民でした。しかし、神様は一度彼らと結んだ契約を決して忘れることはありませんでした。私たちは、誰かと契約を結んだり約束をするときに、相手の態度が悪いと、すぐにその約束を放棄します。なかったことにします。しかし、神様はイスラエルの民と一度結んだ契約を決して変えることはありません。神の前に心砕かれて、悔い改める人々には、神様の約束は永遠に有効なのです。
1節と2節をもう一度読みましょう。「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」」神様がイスラエルの民に、ここでも「恐れるな」言っておられますが、神様はイスラエルの民が恐れから解放されて、平安のうちに生きることを願っておられます。言い換えると、神様はイスラエルの幸福を願っておられるのです。親が子供の幸福を願うのは当然のことですが、神様は、彼らに向かって、私があなたを作った、私はあなたを選んだと言っておられます。私たちも、皆、一人も漏れることなく、神様によっていのちを創られてこの世に生きる者となりました。そして、また、今日、この場所にいるすべての人は、神によって選ばれた者です。エペソ書1章4節には次のように書かれています。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」私たちは、神様から選ばれた者であることを決して忘れてはいけません。しかも、エペソ書の言葉によると、私たちが選ばれた目的は、私たちが神の前で聖く、傷のないものとして生きることです。私たちは、意味もなく生きる人間ではなく、神様から特別の目的と期待を受けて生きる者なのです。
ここにはイスラエルの民をあらわす名前が3つ出てきます。ヤコブ、イスラエル、そしてエシュルンという名前です。しかもこの名前が書かれている順番にも意味があると思います。ヤコブとは、最初に立てられたイスラエル民族の父であるアブラハムの子のイサクの子です。彼には12人の男の子が与えられ、ヤコブの12人の息子たちが、イスラエル12部族の出発点なのです。というわけで、ヤコブはアブラハムと同じように、イスラエル民族の父のようにみなされています。ところで、このヤコブという名前の意味は「だます」とか「不正な手段で人の地位を奪う」というような意味があります。双子の弟として生まれたヤコブは生まれつきずるがしこく、彼は名前の通り、父親と兄エサウをだまして長男の権利を手に入れました。しかし、彼がやがてイスラエル民族の父となるために、神様がヤコブと取っ組み合いをしました。そして、彼の傲慢なところを打ってヤコブは一生、足に障害を持つことになりました。この経験を通して彼は変えられました。そのときにヤコブは「イスラエル」という名前を神から受けたのです。そして、2節に「私の選んだエシュルンよ」と書かれていますが、エシュルンとは、ヘブル語で愛された者とか正しい者という意味がある言葉です。私たちはもともとヤコブのように悪知恵が働く自分の考えに従って行動する者でした。それが、神様に出会って、罪や傲慢な生き方を示され、悔い改めに導かれました。そして主イエスを信じる信仰によって神の子供としていただきました。神の子となっても、自分の自己中心性が完全に消えてはいないため、神が期待しているような生き方ができない者です。しかし、そのような私たちに向かって神様は、「あなたは、私が選んだ愛する者、正しい者だ」とみなしてくださるのです。ここに神様の愛と忍耐があります。
私たちは神様が願っているような生き方には遠く及ばない生活をしています。しかし、神様が私たちに与えておられる目的を見失ってはいけません。それは、神の前で聖く、傷のないものとして生きること、神に選ばれ神に愛されるエシュルンとなって生きることを目指さなければなりません。このような私たちに向かって、神様は「恐れてはならない」と言われるのです。ただ、私たちは自分の力では、神様が願っているようなレベルに到達することができません。しかし、3、4節には次のように書かれています。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。」外国、バビロンで生活していたイスラエルの民は心が渇いていました。エルサレムに戻ることを願い、神の助けを強く求めていました。また、イエス・キリストが生まれる前の時代は、イスラエルの民はローマ帝国の支配を受けて苦しい生活を強いられていました。彼らは自分たちを救う救い主を待ち望んでいました。神の助け、神の救いを願い求める者には、ここで約束されているように神様はその渇きを満たしてくださるのです。
私たちは、潤いのない地、かわいた地のような者かも知れません。しかし、そのようなところに神様は水を注ぎ、次には流れを与えてくださると約束されています。主イエスもヨハネの福音書7章で次のように言われました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」私たちの内側が潤いのない状態であっても、渇いていても、私たちの心の奥底から聖霊の働きが川の流れのように湧き上がると主ご自身が約束しておられるのです。私たちの中の不足しているところを神様が聖霊の働きによって潤してくださるのです。そして4節を見ると「らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。」と書かれています。私たちを取り巻く状況がどんなに渇ききった砂漠のような状態であっても、私たちは水の流れのそばに生える木のように、満ち足りて生きることができるのです。それは、オアシスの木々が砂漠の中の泉から水をもらうように、私たちは神様から生きるのに必要なものを受け取ることができるのです。夏の太陽が激しく照り付けても、雨が降らなくて地面がどんなに乾いていても、私たちが神様のそばにいる限り、水辺の木々のように完全に潤って生きることができるのです。
(2)私たちの神は力強い神である
私たちを創り、私たちを選び、私たちを救いに導いてくださった神は、力と権威と栄光に満ちた方です。6節には次のように書かれています。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」私たちが信頼する神様は、イスラエルの王である方です。またイスラエルをあがなう方です。あがなうとは、誰かをお金や犠牲を払って自分のものにするという意味です。神様は私たちの王であり、わたしたちを自分の民としてくださった方です。そして万軍の主です。万軍の主とは、すべてのものを自分の支配化においている神という意味です。その方が「わたしは初めであり終わりである」と言われました。神はこの世界が始まる前から存在するかたであり、また、この世界が終わりを迎えた後も永遠の存在する方です。神様が存在しなかったら、この世界も存在しなかったでしょうし、私たちも存在していなかったのです。永遠の初めから永遠の終わりまで存在するかた、この世界を創られた神様は、すべてのものを自分の支配化においておられ、ご自分の計画をすべて実行する方です。その方が私の親となってくださって、私たちに向かって「恐れるな」と言っておられるのなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。私たちは自分の人生がどのように終わるのか、心配になるときがあります。
しかし、私たちが信頼する神は永遠から永遠に向かっていつも最高の栄光と権威と力を持っておられる神様です。この世のものはすべていつか滅びます。すべてのものが滅んだ後も、神様は今の神様とまったく変わらないのです。そのような権威と力を持っておられる神様が私のようなちいさな者のことも心に留めて働いてくださるとすれば、私たちは何も心配する必要はありません。イエス様が、ある時言われました。「2羽のすずめは1アサリオンで売られています。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」すずめはあまりにも価値の低い鳥なので1羽で売ることができませんでした。しかし、そんな価値のちいさなすずめさえも、神様の守りの中に入れられているのです。だとしたら、神様の特別な計画に従って創られた私たちのためには神様はどれだけ大きな働きをしてくださることでしょう。だから、私たちは恐れることはないのです。8節では神様はこう言われました。「恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。」私たちは恐れる必要はありません。この神様を知っているからです。神様以外に神はいません。この世の神々はすべて人間が作り出したものです。神様は岩です。絶対変わることのない、絶対動くことのない、永遠に変わらない神様です。その神様が恐れるなとわたしたちに何度も何度も言っておられるのです。
本来、イスラエルの民には、イスラエルの神以外に他の神はいませんでした。彼らは、日常の生活で直面する不安や恐れと戦うときに、魔術やオカルトに頼るのではなく、唯一の真実の神をいつも頼っていました。将来のことについても、神以外の助けは期待できませんでした。ところが、約束の地に入り、異教の神を信じる人々と交わるようになってから、彼らが信じる偶像に心を奪われて行ったのです。私たちが生きている21世紀も、人々は絶対的な神、唯一の神というものを嫌う傾向があります。真理が一つであるという考えにも反対する人が多い時代です。ですから、私たちは、いつも、相対的な価値観を持つ人々に囲まれて、神だけを信頼することが難しい時代に生きています。しかし、44章の8節で神がはっきり言っておられることは、「わたし以外には神はいない」ということです。いかに、この世が私たちに頼りになりそうな助けを与えるとしても、この世のものはいつか必ず朽ちて滅んでしまいます。この世のものに頼っていると、い頼りにしていたものが崩れてしまうので、私たちも一緒に倒れてしまいます。神様だけが永遠に変わらない、信頼できる方であることをもう一度確信し、その確信に立って歩んで行きましょう。
(イントロ)
イザヤ書44章が語っている状況は、ユダヤ人の歴史の中でもっとも暗黒の時代と言える時でした。ユダヤ人たちが、神の導きに従わなかったために、神は彼らに罰を与えられました。神様が人間に罰を与えるのは、人間を傷つけるためでも、だめにするためでもありません。人が正しい道に戻ることを願って罰を与えるのです。その結果、ユダヤ人の国は東の大国バビロンによって滅ぼされ、永遠の神の都と言われたエルサレムの町は徹底的に破壊されました。そして、エルサレムに住んでいた主な人々は人質になってバビロンに連れていかれて、数十年の間、彼らは外国で暮らさなければなりませんでした。それは、ちょうど、北朝鮮に拉致されて行った人々に似ています。自分の国に帰りたくても、いつ帰れるのか分からない。彼らの周囲には恐れるバビロンの人々、とても心配な状況に直面していました。イザヤ書の41章から44章は、そのような状況の中に置かれていたユダヤ人たちを励ますための神様のメッセージが預言者イザヤを通して語られているのです。41章から44章までの間に、神様は7回、彼らに向かって「恐れるな」と言っておられます。そして、44章の1節から8節のところで、なぜ、彼らが恐れる必要がないのか、そのことを説明しておられるのです。ここに描かれている神様の激励の言葉は、単に当時のユダヤ人だけに向かって語られているのではなく、神を信じるすべての人に向かって語られた言葉です。私たちも、今の時代を生きるときに、恐れることや心配することは山ほどあります。自分の将来がどうなるのか大きな不安を感じます。そのような私たちに向かっても神様は、やはり「恐れるな」と言ってくださるのです。私たちがなぜ恐れる必要がないのか、今日の箇所から共に学んで生きましょう。
(1)私たちは神の民である。
1節に「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。」と新改訳聖書では書かれていますが、実際には、最初に「しかし」という言葉が入っています。なぜ、「しかし」と言われているかと言うと、43章の終わりの部分と関係があります。43章の27,28節に「あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが、ののしられるようにした。」と書かれています。イスラエルの民の指導者たちが神にそむいて悔い改めないので、彼らに対するさばきが記されています。イスラエルの民はこのように心がかたくなな民でした。しかし、神様は一度彼らと結んだ契約を決して忘れることはありませんでした。私たちは、誰かと契約を結んだり約束をするときに、相手の態度が悪いと、すぐにその約束を放棄します。なかったことにします。しかし、神様はイスラエルの民と一度結んだ契約を決して変えることはありません。神の前に心砕かれて、悔い改める人々には、神様の約束は永遠に有効なのです。
1節と2節をもう一度読みましょう。「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」」神様がイスラエルの民に、ここでも「恐れるな」言っておられますが、神様はイスラエルの民が恐れから解放されて、平安のうちに生きることを願っておられます。言い換えると、神様はイスラエルの幸福を願っておられるのです。親が子供の幸福を願うのは当然のことですが、神様は、彼らに向かって、私があなたを作った、私はあなたを選んだと言っておられます。私たちも、皆、一人も漏れることなく、神様によっていのちを創られてこの世に生きる者となりました。そして、また、今日、この場所にいるすべての人は、神によって選ばれた者です。エペソ書1章4節には次のように書かれています。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」私たちは、神様から選ばれた者であることを決して忘れてはいけません。しかも、エペソ書の言葉によると、私たちが選ばれた目的は、私たちが神の前で聖く、傷のないものとして生きることです。私たちは、意味もなく生きる人間ではなく、神様から特別の目的と期待を受けて生きる者なのです。
ここにはイスラエルの民をあらわす名前が3つ出てきます。ヤコブ、イスラエル、そしてエシュルンという名前です。しかもこの名前が書かれている順番にも意味があると思います。ヤコブとは、最初に立てられたイスラエル民族の父であるアブラハムの子のイサクの子です。彼には12人の男の子が与えられ、ヤコブの12人の息子たちが、イスラエル12部族の出発点なのです。というわけで、ヤコブはアブラハムと同じように、イスラエル民族の父のようにみなされています。ところで、このヤコブという名前の意味は「だます」とか「不正な手段で人の地位を奪う」というような意味があります。双子の弟として生まれたヤコブは生まれつきずるがしこく、彼は名前の通り、父親と兄エサウをだまして長男の権利を手に入れました。しかし、彼がやがてイスラエル民族の父となるために、神様がヤコブと取っ組み合いをしました。そして、彼の傲慢なところを打ってヤコブは一生、足に障害を持つことになりました。この経験を通して彼は変えられました。そのときにヤコブは「イスラエル」という名前を神から受けたのです。そして、2節に「私の選んだエシュルンよ」と書かれていますが、エシュルンとは、ヘブル語で愛された者とか正しい者という意味がある言葉です。私たちはもともとヤコブのように悪知恵が働く自分の考えに従って行動する者でした。それが、神様に出会って、罪や傲慢な生き方を示され、悔い改めに導かれました。そして主イエスを信じる信仰によって神の子供としていただきました。神の子となっても、自分の自己中心性が完全に消えてはいないため、神が期待しているような生き方ができない者です。しかし、そのような私たちに向かって神様は、「あなたは、私が選んだ愛する者、正しい者だ」とみなしてくださるのです。ここに神様の愛と忍耐があります。
私たちは神様が願っているような生き方には遠く及ばない生活をしています。しかし、神様が私たちに与えておられる目的を見失ってはいけません。それは、神の前で聖く、傷のないものとして生きること、神に選ばれ神に愛されるエシュルンとなって生きることを目指さなければなりません。このような私たちに向かって、神様は「恐れてはならない」と言われるのです。ただ、私たちは自分の力では、神様が願っているようなレベルに到達することができません。しかし、3、4節には次のように書かれています。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。」外国、バビロンで生活していたイスラエルの民は心が渇いていました。エルサレムに戻ることを願い、神の助けを強く求めていました。また、イエス・キリストが生まれる前の時代は、イスラエルの民はローマ帝国の支配を受けて苦しい生活を強いられていました。彼らは自分たちを救う救い主を待ち望んでいました。神の助け、神の救いを願い求める者には、ここで約束されているように神様はその渇きを満たしてくださるのです。
私たちは、潤いのない地、かわいた地のような者かも知れません。しかし、そのようなところに神様は水を注ぎ、次には流れを与えてくださると約束されています。主イエスもヨハネの福音書7章で次のように言われました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」私たちの内側が潤いのない状態であっても、渇いていても、私たちの心の奥底から聖霊の働きが川の流れのように湧き上がると主ご自身が約束しておられるのです。私たちの中の不足しているところを神様が聖霊の働きによって潤してくださるのです。そして4節を見ると「らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。」と書かれています。私たちを取り巻く状況がどんなに渇ききった砂漠のような状態であっても、私たちは水の流れのそばに生える木のように、満ち足りて生きることができるのです。それは、オアシスの木々が砂漠の中の泉から水をもらうように、私たちは神様から生きるのに必要なものを受け取ることができるのです。夏の太陽が激しく照り付けても、雨が降らなくて地面がどんなに乾いていても、私たちが神様のそばにいる限り、水辺の木々のように完全に潤って生きることができるのです。
(2)私たちの神は力強い神である
私たちを創り、私たちを選び、私たちを救いに導いてくださった神は、力と権威と栄光に満ちた方です。6節には次のように書かれています。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」私たちが信頼する神様は、イスラエルの王である方です。またイスラエルをあがなう方です。あがなうとは、誰かをお金や犠牲を払って自分のものにするという意味です。神様は私たちの王であり、わたしたちを自分の民としてくださった方です。そして万軍の主です。万軍の主とは、すべてのものを自分の支配化においている神という意味です。その方が「わたしは初めであり終わりである」と言われました。神はこの世界が始まる前から存在するかたであり、また、この世界が終わりを迎えた後も永遠の存在する方です。神様が存在しなかったら、この世界も存在しなかったでしょうし、私たちも存在していなかったのです。永遠の初めから永遠の終わりまで存在するかた、この世界を創られた神様は、すべてのものを自分の支配化においておられ、ご自分の計画をすべて実行する方です。その方が私の親となってくださって、私たちに向かって「恐れるな」と言っておられるのなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。私たちは自分の人生がどのように終わるのか、心配になるときがあります。
しかし、私たちが信頼する神は永遠から永遠に向かっていつも最高の栄光と権威と力を持っておられる神様です。この世のものはすべていつか滅びます。すべてのものが滅んだ後も、神様は今の神様とまったく変わらないのです。そのような権威と力を持っておられる神様が私のようなちいさな者のことも心に留めて働いてくださるとすれば、私たちは何も心配する必要はありません。イエス様が、ある時言われました。「2羽のすずめは1アサリオンで売られています。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」すずめはあまりにも価値の低い鳥なので1羽で売ることができませんでした。しかし、そんな価値のちいさなすずめさえも、神様の守りの中に入れられているのです。だとしたら、神様の特別な計画に従って創られた私たちのためには神様はどれだけ大きな働きをしてくださることでしょう。だから、私たちは恐れることはないのです。8節では神様はこう言われました。「恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。」私たちは恐れる必要はありません。この神様を知っているからです。神様以外に神はいません。この世の神々はすべて人間が作り出したものです。神様は岩です。絶対変わることのない、絶対動くことのない、永遠に変わらない神様です。その神様が恐れるなとわたしたちに何度も何度も言っておられるのです。
本来、イスラエルの民には、イスラエルの神以外に他の神はいませんでした。彼らは、日常の生活で直面する不安や恐れと戦うときに、魔術やオカルトに頼るのではなく、唯一の真実の神をいつも頼っていました。将来のことについても、神以外の助けは期待できませんでした。ところが、約束の地に入り、異教の神を信じる人々と交わるようになってから、彼らが信じる偶像に心を奪われて行ったのです。私たちが生きている21世紀も、人々は絶対的な神、唯一の神というものを嫌う傾向があります。真理が一つであるという考えにも反対する人が多い時代です。ですから、私たちは、いつも、相対的な価値観を持つ人々に囲まれて、神だけを信頼することが難しい時代に生きています。しかし、44章の8節で神がはっきり言っておられることは、「わたし以外には神はいない」ということです。いかに、この世が私たちに頼りになりそうな助けを与えるとしても、この世のものはいつか必ず朽ちて滅んでしまいます。この世のものに頼っていると、い頼りにしていたものが崩れてしまうので、私たちも一緒に倒れてしまいます。神様だけが永遠に変わらない、信頼できる方であることをもう一度確信し、その確信に立って歩んで行きましょう。

