礼拝説教 2008年4月27日 『あなたはわたしのものだ』(イザヤ43:1-13)
説教一覧へ戻る
(イントロ)
聖書は、私たち人間はすべて神によって創られたと教えています。神様は人間との交わりを楽しもうと思われたのですが、人間が神様との約束を破ってしまったために、人間と神様との間の親密な関係が壊れてしまいました。聖書は、私たち人間は神のかたちに似せて創られたと教えていますが、その意味は、私たち人間は神様との信頼関係の中に生きるときがもっとも幸せで充実した人生になるということです。今、この世界に、さまざまな問題や悪がはびこっているのには、いろいろな要因がありますが、そのもっとも根源的な原因は何かというと、私たちが、神から離れて生きていることにあると聖書は教えています。しかし、神様は、私たちとの関係を回復する計画を立てられて、そのために、一つの民族を選び、その民族が神との関係を回復することを通して、全世界の人々が神様との関係を回復できるように計画を立てられました。神様によって選ばれた民族がイスラエルの民でした。ところが、神様に選ばれたイスラエルの民も、最初の人間アダムとエバと同様に、神の言うことを聴こうとしない頑固な民だったのです。今日は、イザヤ書43章を取り上げますが、43章は42章の続きであり、神様とイスラエルの民との関係について述べられています。まず、42章の18節から20節までを読みましょう。「耳しいた者よ。聞け。盲人よ。目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。
わたしの送る使者のような耳しいた者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。」これは神様の嘆きの言葉です。神様は、大きな忍耐をもって、イスラエルの民を導き、丁寧に言葉を語っていたにもかかわらず、彼らは、自分の欲望や願いによって神が見えなくなっているので、彼らは神を見ようともしないし、神の言葉を聴こうともしなかったのです。19節の「わたしに買い取られた者のような盲目の者」という部分は、昔の文語訳では「わが友のごとき盲目の者」となっています。神様は、イスラエルの民を「自分の友」のように見ておられたのに、彼らは、まったく神に対して無関心でした。そこで、神様はイスラエルの民に対して25節で次のように言われたのです。「そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。」神様は、イスラエルの民を滅ぼすためではなく、戒めるため、正しい方向に向かわせるために彼らに罰を与えられました。その結果、イスラエルの民は当時の大国バビロンに征服され、主だった人々は捕虜になってバビロンに強制的に連れて行かれたのでした。
そのような状況の中で、神様は43章の1節で次のように言われました。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」ここで大切なのは「だが、今」という言葉です。昔ではなく、今このときに神様はイスラエルに向かって言われました。今とは、どんな時だったのでしょうか。イスラエルの民が、神様を見ることも神様の言葉を聴くこともしないで自分勝手な道を歩んでいたために、神様が彼らに罰を与えられたときです。彼らがバビロンに連れて行かれて、バビロンで悲しい日々を過ごしていたときです。しかも、この悲しい出来事は彼らが神様に対して罪を犯した結果起きたことでした。そのようなときに、神様が彼らに言われたのです。「恐れるな。わたしはあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。」この言葉を言われた神様は、イスラエルの民を創られた方です。ヤコブというのはイスラエルの12の部族の父であり、神からイスラエルという名前をもらった人物であり、イスラエルの民の代表といえる人物です。どんなに神を無視して生きていたイスラエルの民であっても、神様によって創られた民であることに代わりはありません。そして、神様が彼らを見る見方が変わることもありません。新約聖書の時代を生きる私たちにとっては、これはどういう意味があるでしょうか。
私たち一人一人は、神によって創られてこの世に生きる者となりました。すべて、創られたものには意味があるように、私たちはすべて神様の計画の中で、生きる意味と使命をもって生まれて来た者です。しかし、それだけではありません。聖書は、「イエス・キリストを信じる者は、だれでも新しく創られた者である。古いものは過ぎ去ってすべてが新しくなった。」と教えています。私たちがイエス・キリストを救い主として信じるときに、私たちの存在のすべてが新しくなり、神様との新しい関係に入るのです。「恐れるな。わたしはあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。」ここで、「あがなう」とは、神様がわたしたち自分のものとして所有されたことを意味します。私たちをご自分のものとしてくださった神様は、私たちを名前で呼んでくださるのです。日本では、大人になって人をファーストネームで呼ぶことは少ないです。しかし、特別に親しければファーストネームで呼ぶでしょう。そのように神様は私たちと非常に親しい関係に入ってくださるのです。親しいからこそ、私たちのことを心に留めてくださり、心配してくださり、いろいろなアドバイスを与え、必要なときには助けを与えてくださるのです。
2節には次のように書かれています。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」ここで言われている水、川、火は、私たちがこの世で生きるときに経験する苦しみ、悲しみ、困難などの試練を表しています。しかし、どのような試練が襲うとしても、そこにも神様がともにいて私たちを守ってくださることが約束されています。私たちは、自分の人生にそのような試練が起きないことを願います。私たちは、何事も順調に、自分の願いどおりに進んで、平安で無事に生きることを願います。英語で幸せを意味するhappinessという言葉はもともとhappeningと同じ言葉でした。Happeningとは、たまたま生じる出来事や状態を意味します。人間が普通求める幸せとは、健康であり、人間関係の平和であり、生活の豊かさです。しかし、これらのものはすべていつ崩れるか、いつなくなるか分からないものです。そのような幸せは非常にもろいものです。聖書は、私たちがイエス・キリストを信じたら、すべてが自分の願いどおりになっていっさいの試練や苦しみはやってこないなどとは約束していません。むしろ、主イエスが言われたように、罪と悪がはびこるこの世ではクリスチャンは苦しみを経験すると主イエスご自身が預言しておられます。しかし、大切なことは、どんな苦しみがあっても、どんな困難があるとしても、聖書は、必ず神様が私たちとともにいて、その困難の中で私たちを支え、導き、慰め、助けてくださると約束しています。新約聖書のローマ人への手紙8章35節から39節には次のような神の約束が書かれています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
私たちは、神の愛を受けていないと、心の中に余裕がありません。そのために、ちょっとしたことに怒りを感じたり、悲しんだり、絶望的になったりします。人と争い、人を憎み、心の中の平安を失ってしまいます。それは、自分のすぐ周りのこと、目先のことしか見えていないからです。この世界は自己中心という罪がはびこっていますから、目先にあるものは、私たちの心の平安を奪うようなものばかりです。しかし、神様の子供となったクリスチャンは、そのような世界の中にいても、目先の状況にはいやなことや苦しいことが多くても、それに左右される必要がありません。私たちは、自分を愛し、自分を赦し、自分のことを心にとめて、私たちのために立ち上がって働いてくださる神様がいることを知っています。しかも、ここに書かれているように、私たちを神の愛から引き離すものは何一つないことを知っていますから、どんな状況の中にいても、パウロの言葉によれば、「圧倒的な勝利者」になることができるのです。尾山令二先生はそれを「余裕たっぷりの勝利者」と訳しています。なぜ、私たちが余裕たっぷりの勝利者になることができるかと言うと、全能者であるかた、力に満ちた神様が私の味方になって、私たちとともに、その困難を戦ってくださるからです。キリスト教は、自分の人生に自分に利益になるものを求める生き方を与えるのではありません。絶対的な存在者である神様との永遠の契約の中に入れられて、この世の人生から天国での永遠の生活にいたるまで、神とともに生きる生き方を与えてくれます。
神様との私たちの関係は、夫婦の関係に似ています。夫婦は結婚するときに神の前で誓います。死が二人を分けるときまで、永遠に夫婦であることを誓います。ですから、毎朝、目が覚めたときに、今日、私ともう一人の人間が夫婦の関係にあるのかどうかを確かめる必要はありません。一度、夫婦の誓いを立てたら、毎日、その誓いを再確認する必要はないのです。もし、その誓いを破るとすれば、それは私自身が妻を裏切って、その誓いを破るときです。私たちがクリスチャンになるとき、神様を信じる信仰告白をすると、神様が私と永遠の契約を結んでくれます。この契約を神様の側から破ることは絶対にありません。最初に読んだように、神様は最初イスラエルの民と契約を結ばれました。イスラエルの民が神を見ることをせず、神の言葉にも聞き従わないときも、神様は彼らを「あなたはわたしのものだ」と宣言されました。私たちは、時々、神様との永遠の契約に疑問を持つときがあるかもしれません。しかし、私たちの側からこの契約を破らない限り、神への信仰をやめることを実行しない限り、神様は私たちとの契約を決して忘れることなく、破棄することなく、どこまでも私たちのために最善の働きをしてくださるのです。そして神様は私たちに向かってこう言われます。4節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」私たちは、聖なる神様の前に立つとき、自分がどれほど自己中心で心が汚れた者であることを実感します。本当なら、神から嫌われ、拒絶されても仕方がないような者であるのに、神様は私たちをご自分の宝物のように見てくださいます。
そして、13節では神様は私たちに向かってこう言われました。「これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう。」今日まで、私たちを守り導いてくださった神は、これからも私たちの神として働き続けると約束してくださったのです。聖書の神様は、私たちのいのちを造られただけでなく、私たちを守り、そして、永遠のいのちにいたるまで守り続けてくださるのです。神様の働きを止めることは誰にもできません。神様が「やる」と言われたことは必ず成就します。私のような人間を大切に見てくださる神様が、この世の生活の最後の瞬間まで、私たちと共に歩んでくださるのです。そのことを知れば、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。これからも神様を信頼して、神様とともに歩み続けましょう。
(イントロ)
聖書は、私たち人間はすべて神によって創られたと教えています。神様は人間との交わりを楽しもうと思われたのですが、人間が神様との約束を破ってしまったために、人間と神様との間の親密な関係が壊れてしまいました。聖書は、私たち人間は神のかたちに似せて創られたと教えていますが、その意味は、私たち人間は神様との信頼関係の中に生きるときがもっとも幸せで充実した人生になるということです。今、この世界に、さまざまな問題や悪がはびこっているのには、いろいろな要因がありますが、そのもっとも根源的な原因は何かというと、私たちが、神から離れて生きていることにあると聖書は教えています。しかし、神様は、私たちとの関係を回復する計画を立てられて、そのために、一つの民族を選び、その民族が神との関係を回復することを通して、全世界の人々が神様との関係を回復できるように計画を立てられました。神様によって選ばれた民族がイスラエルの民でした。ところが、神様に選ばれたイスラエルの民も、最初の人間アダムとエバと同様に、神の言うことを聴こうとしない頑固な民だったのです。今日は、イザヤ書43章を取り上げますが、43章は42章の続きであり、神様とイスラエルの民との関係について述べられています。まず、42章の18節から20節までを読みましょう。「耳しいた者よ。聞け。盲人よ。目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。
わたしの送る使者のような耳しいた者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。」これは神様の嘆きの言葉です。神様は、大きな忍耐をもって、イスラエルの民を導き、丁寧に言葉を語っていたにもかかわらず、彼らは、自分の欲望や願いによって神が見えなくなっているので、彼らは神を見ようともしないし、神の言葉を聴こうともしなかったのです。19節の「わたしに買い取られた者のような盲目の者」という部分は、昔の文語訳では「わが友のごとき盲目の者」となっています。神様は、イスラエルの民を「自分の友」のように見ておられたのに、彼らは、まったく神に対して無関心でした。そこで、神様はイスラエルの民に対して25節で次のように言われたのです。「そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。」神様は、イスラエルの民を滅ぼすためではなく、戒めるため、正しい方向に向かわせるために彼らに罰を与えられました。その結果、イスラエルの民は当時の大国バビロンに征服され、主だった人々は捕虜になってバビロンに強制的に連れて行かれたのでした。
そのような状況の中で、神様は43章の1節で次のように言われました。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」ここで大切なのは「だが、今」という言葉です。昔ではなく、今このときに神様はイスラエルに向かって言われました。今とは、どんな時だったのでしょうか。イスラエルの民が、神様を見ることも神様の言葉を聴くこともしないで自分勝手な道を歩んでいたために、神様が彼らに罰を与えられたときです。彼らがバビロンに連れて行かれて、バビロンで悲しい日々を過ごしていたときです。しかも、この悲しい出来事は彼らが神様に対して罪を犯した結果起きたことでした。そのようなときに、神様が彼らに言われたのです。「恐れるな。わたしはあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。」この言葉を言われた神様は、イスラエルの民を創られた方です。ヤコブというのはイスラエルの12の部族の父であり、神からイスラエルという名前をもらった人物であり、イスラエルの民の代表といえる人物です。どんなに神を無視して生きていたイスラエルの民であっても、神様によって創られた民であることに代わりはありません。そして、神様が彼らを見る見方が変わることもありません。新約聖書の時代を生きる私たちにとっては、これはどういう意味があるでしょうか。
私たち一人一人は、神によって創られてこの世に生きる者となりました。すべて、創られたものには意味があるように、私たちはすべて神様の計画の中で、生きる意味と使命をもって生まれて来た者です。しかし、それだけではありません。聖書は、「イエス・キリストを信じる者は、だれでも新しく創られた者である。古いものは過ぎ去ってすべてが新しくなった。」と教えています。私たちがイエス・キリストを救い主として信じるときに、私たちの存在のすべてが新しくなり、神様との新しい関係に入るのです。「恐れるな。わたしはあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。」ここで、「あがなう」とは、神様がわたしたち自分のものとして所有されたことを意味します。私たちをご自分のものとしてくださった神様は、私たちを名前で呼んでくださるのです。日本では、大人になって人をファーストネームで呼ぶことは少ないです。しかし、特別に親しければファーストネームで呼ぶでしょう。そのように神様は私たちと非常に親しい関係に入ってくださるのです。親しいからこそ、私たちのことを心に留めてくださり、心配してくださり、いろいろなアドバイスを与え、必要なときには助けを与えてくださるのです。
2節には次のように書かれています。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」ここで言われている水、川、火は、私たちがこの世で生きるときに経験する苦しみ、悲しみ、困難などの試練を表しています。しかし、どのような試練が襲うとしても、そこにも神様がともにいて私たちを守ってくださることが約束されています。私たちは、自分の人生にそのような試練が起きないことを願います。私たちは、何事も順調に、自分の願いどおりに進んで、平安で無事に生きることを願います。英語で幸せを意味するhappinessという言葉はもともとhappeningと同じ言葉でした。Happeningとは、たまたま生じる出来事や状態を意味します。人間が普通求める幸せとは、健康であり、人間関係の平和であり、生活の豊かさです。しかし、これらのものはすべていつ崩れるか、いつなくなるか分からないものです。そのような幸せは非常にもろいものです。聖書は、私たちがイエス・キリストを信じたら、すべてが自分の願いどおりになっていっさいの試練や苦しみはやってこないなどとは約束していません。むしろ、主イエスが言われたように、罪と悪がはびこるこの世ではクリスチャンは苦しみを経験すると主イエスご自身が預言しておられます。しかし、大切なことは、どんな苦しみがあっても、どんな困難があるとしても、聖書は、必ず神様が私たちとともにいて、その困難の中で私たちを支え、導き、慰め、助けてくださると約束しています。新約聖書のローマ人への手紙8章35節から39節には次のような神の約束が書かれています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
私たちは、神の愛を受けていないと、心の中に余裕がありません。そのために、ちょっとしたことに怒りを感じたり、悲しんだり、絶望的になったりします。人と争い、人を憎み、心の中の平安を失ってしまいます。それは、自分のすぐ周りのこと、目先のことしか見えていないからです。この世界は自己中心という罪がはびこっていますから、目先にあるものは、私たちの心の平安を奪うようなものばかりです。しかし、神様の子供となったクリスチャンは、そのような世界の中にいても、目先の状況にはいやなことや苦しいことが多くても、それに左右される必要がありません。私たちは、自分を愛し、自分を赦し、自分のことを心にとめて、私たちのために立ち上がって働いてくださる神様がいることを知っています。しかも、ここに書かれているように、私たちを神の愛から引き離すものは何一つないことを知っていますから、どんな状況の中にいても、パウロの言葉によれば、「圧倒的な勝利者」になることができるのです。尾山令二先生はそれを「余裕たっぷりの勝利者」と訳しています。なぜ、私たちが余裕たっぷりの勝利者になることができるかと言うと、全能者であるかた、力に満ちた神様が私の味方になって、私たちとともに、その困難を戦ってくださるからです。キリスト教は、自分の人生に自分に利益になるものを求める生き方を与えるのではありません。絶対的な存在者である神様との永遠の契約の中に入れられて、この世の人生から天国での永遠の生活にいたるまで、神とともに生きる生き方を与えてくれます。
神様との私たちの関係は、夫婦の関係に似ています。夫婦は結婚するときに神の前で誓います。死が二人を分けるときまで、永遠に夫婦であることを誓います。ですから、毎朝、目が覚めたときに、今日、私ともう一人の人間が夫婦の関係にあるのかどうかを確かめる必要はありません。一度、夫婦の誓いを立てたら、毎日、その誓いを再確認する必要はないのです。もし、その誓いを破るとすれば、それは私自身が妻を裏切って、その誓いを破るときです。私たちがクリスチャンになるとき、神様を信じる信仰告白をすると、神様が私と永遠の契約を結んでくれます。この契約を神様の側から破ることは絶対にありません。最初に読んだように、神様は最初イスラエルの民と契約を結ばれました。イスラエルの民が神を見ることをせず、神の言葉にも聞き従わないときも、神様は彼らを「あなたはわたしのものだ」と宣言されました。私たちは、時々、神様との永遠の契約に疑問を持つときがあるかもしれません。しかし、私たちの側からこの契約を破らない限り、神への信仰をやめることを実行しない限り、神様は私たちとの契約を決して忘れることなく、破棄することなく、どこまでも私たちのために最善の働きをしてくださるのです。そして神様は私たちに向かってこう言われます。4節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」私たちは、聖なる神様の前に立つとき、自分がどれほど自己中心で心が汚れた者であることを実感します。本当なら、神から嫌われ、拒絶されても仕方がないような者であるのに、神様は私たちをご自分の宝物のように見てくださいます。
そして、13節では神様は私たちに向かってこう言われました。「これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう。」今日まで、私たちを守り導いてくださった神は、これからも私たちの神として働き続けると約束してくださったのです。聖書の神様は、私たちのいのちを造られただけでなく、私たちを守り、そして、永遠のいのちにいたるまで守り続けてくださるのです。神様の働きを止めることは誰にもできません。神様が「やる」と言われたことは必ず成就します。私のような人間を大切に見てくださる神様が、この世の生活の最後の瞬間まで、私たちと共に歩んでくださるのです。そのことを知れば、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。これからも神様を信頼して、神様とともに歩み続けましょう。

