礼拝説教 2008年4月6日 「わたしはあなたと共にいる」(イザヤ41章10-20節)
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イザヤ書41章から44章までのあいだに「恐れるな」という神様の言葉が7回繰り返して出てきます。それは、このかみの言葉が語られているのは紀元前6世紀ごろ、当時、バビロンという東の大国に滅ぼされて国民の大部分の人が捕虜としてとらえられ、自分たちの国から強制的に見知らぬ外国バビロンに連れて来られて、苦労していたイスラエルの人々であったからです。そのころのバビロン帝国はネブカデネザルという非常に強い力を持った指導者によって周囲の国々を滅ぼし、目覚ましい勢いで領土を広げていました。イスラエルの都エルサレムは、バビロン帝国が台頭する前までは、さまざまの危機を乗り越えて生き残って来ましたので、いつからか「永遠の神の都」と呼ばれるようになっていました。しかしBC586年、ネブカデネザルの軍隊によってエルサレムは完全に破壊され、貧しい農民を除いて、ほとんどの住民がバビロンへ連れ去られました。
そのころ西の大国エジプトは力を失っていたので、バビロン帝国は長い間、この地域を支配するだろうと誰もが思っていました。私たちは、自分の前に強い敵が現れると勇気を失っていまいがちです。自分の力と敵の力を比べて、自分の無力さを見る時に、将来に対する希望を失ってしまいます。しかし、そのような状況の中でも、神様は、預言者を通してイスラエルの人々にメッセージを送り続けていました。40章の22節から25節を読みましょう。ここで、神様が語っていることは、いま、この世を支配している君主やボスや指導者がどれほど強い権力を持っているとしても、神様の前では、まるで、畑にまかれた種のようだということです。やっと根を張って、これから成長しようという時に、少し強い風が吹けば、その種はたちまち飛ばされてしまいます。それと同じように、どんなに大きな権力を持つ支配者であっても、神様がもし撃たれるならば、一瞬にして滅んでしまうのです。
だから、私たちは、そのような人間的な力に頼るのではなく、この天地万物を創られた全能の神を信頼するべきなのです。それで、神様は私たちに「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」と言われたのです。それは、わたしたちが目を向けるところに心もあるからです。私たちの眼は、私たちが関心があるところを見ます。神様は、私たちに、空の月や星を見上げて誰がこれらのものを創ったのか考えよと命じておられます。神様がお創りになったこの宇宙はすべてのものが少しの狂いもなく規則正しく動いています。この宇宙を創り、その動きを支配しておられる神様を、いったい誰と比べるのかと神様は私たちに尋ねておられます。私たちは神様を自分たち人間と同じような存在と考えてはいけないのです。40章28節にあるように、「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」そのようなお方なのです。
さて、41章に入って1-7節では、当時の世界を支配していたバビロンに対して神様の働きが始まることが預言されています。2節で「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。」と書かれていますが、これは、将来起こることの預言です。「東」とは、バビロンを滅ぼす「ペルシャ帝国」をあらわしています。「ひとりの者」とは、そのペルシャ帝国の王である「クロス」という人物のことです。永遠の神の都エルサレムを滅ぼし、イスラエルの民をバビロンへ捕虜として強制連行した強大な国バビロンも、意外なほど早くクロスが率いるペルシャによって滅ぼされてしまいます。ここで言われていることは、神様が、ペルシャ王クロスを用いて、周辺の国々を征服させ、ついにはバビロン帝国をも征服させました。クロス王の勢いは世界の人々を驚かせました。
そしてペルシャ帝国は、ついには今日のインドからエチオピアまで広大な領土を獲得します。しかし、歴史の中でクロス王を立てたのはだれでしょうか。彼をこの世に送り出したのは、人間の歴史を支配する全能の神様でした。「わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」と神は言われます。この世界のはじめから終りまで、つねに支配しているのは神様であり、使徒パウロがアテネの町で言ったように、私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17章28節)クロス王はBC539年にバビロン帝国を滅ぼしますが、彼はバビロンに捕虜となってとらわれていた諸国の民族を解放し、それぞれの国帰ることを許可しました。クロスはイスラエルの民にも同じ政策をとり、BC538年に、クロス王は彼らにがエルサレムに帰ることを許可する勅令を出しました。
イスラエルの民は、ついにバビロンの支配から解放されてふるさとに帰ることができたのですが、彼らの前途にはまだまだ大きな困難が待ち受けていたのです。荒れ果てたエルサレムを復興させることは大変なことです。だから、イスラエルの民は、自分たちの将来に対して大きな不安を感じていました。
しかし、この世界を創造された神、人間の歴史を支配する神、全能の神が、8節で「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。」と呼びかけています。聖書は、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、みな、アブラハムの子孫であると言っています。アブラハムとは神によって選び出された一人の人間で、神様のご計画は、アブラハムをとおしてすべての人々に罪からの救いを与え、祝福を与えることでした。私たちは、そのようなアブラハムの子孫の一人ですが、ここでは、アブラハムの子孫について3つのことが言われています。第一に、私たち一人ひとりは、神様のしもべとして生きるべき人間です。しもべとは、主人に仕える人です。私たちがこの世に生れてきたのは、神様のしもべ、すなわち、どんな働きでもよいのですが、神様のために生きるためでした。第二に私たちは神によって選び出された一人の人間です。
私たちが何かを選ぶ時は、自分にとって大切なもの、意味の有るもの、何かに役に立つもの、とにかく自分にとって何らかの価値があるから、選びます。私たち一人ひとりは神様によって選ばれた人間です。神様にとって何らかの価値があるものとして選ばれたのです。そして、神様は私たちを「友」と呼んでくださいます。私たちと神様との関係は、主人としもべという関係だけではなく、友情の関係です。私たちは神様の命令にただ従うだけの関係ではなく、神様と愛と信頼によって結ばれた関係です。私たちはすべての人と友達になることはありません。親友というのはごく限られた人で、その人とは何でも話し合える信頼があります。神様は私たちとそのような友達の関係を持ってくださるのです。だから、私たちは「恐れる必要がない」のです。
10節「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」先週のメッセージは、復活された主イエスが弟子たちとガリラヤの山で出会われたときの出来事について語りましたが、そこでも主イエスは弟子たちに「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。私たちは、自分の将来について考えると、不安を感じます。恐れを感じます。自分の無力さを感じるときも多いです。しかし、そのような自分の弱さを感じている私たちに向かって、神様は「恐れてはならない」と命令しておられます。なぜ、私たちは恐れてはならないのでしょうか。なぜ、恐れる必要がないのでしょうか。神様の説明は「いつも、わたしはあなたとともにいる」という約束でした。人は、大きな苦しみや悲しみを経験すると、自分だけの隠れ場へと逃げ込むことが多いです。
その悲しみも苦しみも、理解できる人は一人もいません。だから、一人だけで閉じこもるのです。そこには、他人は誰も入ることができません。その人の心を本当に理解できない人間は入れません。しかし、主イエスだけは、私たちが逃げ込む隠れ場にも入ることができます。へブル人への手紙2章18節には、「主イエスは、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられているものたちを助けることがおできになるのです。」と書かれています。主イエスは、恐れを感じている私たちに向かって「恐れるな。わたしがあなたとともにいる」と言ってくださいます。主イエスが、恐れを感じている人々にこのように憐み深く接してくださるのは、主ご自身が苦しむということがどんなことかを体験して知っておられるからです。主イエスは、十字架の刑罰を受けるときに、自分が磔にされる十字架の木を運んでいましたが、体が弱り果てていたために、途中で、別の人に助けてもらわなければなりませんでした。そのイエスは、いまは、私たちのために助けを与えてくださるのです。
「たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」たじろぐとは、自分が直面している困難に対して心がパニック状態になることです。私たちを取り囲む試練や困難や苦しみがどんなに大きなものであるとしても、神様は私たちに「おちつきなさい。静まりなさい。自分一人であわててはいけない。私に任せなさい。」と言われます。「わたしがあなたの神だから。」という言葉の意味は、全能の神、この世界のすべてものを創られた偉大な神様が、わたしはあなたのために特別に働く神であると宣言しておられるのです。神様は、ただ、そばにいるだけでなく、私たちと関係を持ってくださいます。14節で言われていますが、私たち人間は、神の目からすると、虫けらみたいな弱い存在です。しかし、そのような私たちの人生に対して、神様がかかわりを持ってくださるというのは、なんと、光栄に満ちたことではないでしょうか。神様は、わたしに関して、一切の責任を負ってくださるのです。
「わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と神様は言われます。ここで「わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と訳されている部分ですが、ドイツ語の聖書の訳では「神の右の手はわたしをその胸にだきしめてくださる」となっているそうです。ユダヤ人は、右手は全身の力を表すものであり、勝利と力は常に右手にあると考えていました。敵がどんなに強くても、わたしを取り巻く状況がどんなに困難に思えても、神様が全身の力で、私たちをその胸にだきしめて下さるのです。神様が私たちの味方になってくださるのですから、誰もわたしに敵対することはできません。14節にあるように、私たちは虫けらに等しい弱い人間です。でも、恐れる必要はないのです。10節では、神の右の手が私たちを支え、抱きしめてくださると言われていますが、13節では、その神の右の手がわたしの右の手を掴んで私を強くすると言われています。
聖書の神を信じる信仰は、私たちが必死になって神様にしがみつくということではありません。全能の神様が神の右の手でわたしの右の手をしっかりと掴んで、弱い私たちを守ってくださるのです。だから、私たちは、つねに神をしっかり見つめていきましょう。あの使徒ペテロのように。ある時弟子たちだけで船に乗ってガリラヤ湖を渡っているときがありました。夜になって嵐が吹いて、弟子たちは恐怖でパニックになりました。そこへ、主イエスが水の上を歩いて彼らに近付いてこられました。イエスを見て喜びと安心を感じたペテロは主イエスに向かって言いました。「わたしにそこまで来るように命令してください。」すると主イエスはペテロに、「水の上を歩いてわたしのところまで来なさい。」と言われました。ペテロは勇敢にも、船から出て水の上を歩き始めました。その間、ペテロの眼はずっと離れたところにおられたイエスを見ていました。彼がイエスをじっと見ている間、彼は水の上を歩くことができました。
しかし、ふと、彼は自分の周りのことが気になりました。嵐が吹いていました。足元では湖の水が嵐ではげしく波立っていました。彼がイエスから目を離して周りの状況を見たとたんに、彼は怖くなり、どうじに体は沈み始めました。私たちも、困難な状況に出くわすとき、それを乗り越える方法はただ一つです。主イエスをしっかり見続けることです。主イエスの約束をしっかり握りしめるときです。忘れないでください。主が言われたことを。
あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。
イザヤ書41章から44章までのあいだに「恐れるな」という神様の言葉が7回繰り返して出てきます。それは、このかみの言葉が語られているのは紀元前6世紀ごろ、当時、バビロンという東の大国に滅ぼされて国民の大部分の人が捕虜としてとらえられ、自分たちの国から強制的に見知らぬ外国バビロンに連れて来られて、苦労していたイスラエルの人々であったからです。そのころのバビロン帝国はネブカデネザルという非常に強い力を持った指導者によって周囲の国々を滅ぼし、目覚ましい勢いで領土を広げていました。イスラエルの都エルサレムは、バビロン帝国が台頭する前までは、さまざまの危機を乗り越えて生き残って来ましたので、いつからか「永遠の神の都」と呼ばれるようになっていました。しかしBC586年、ネブカデネザルの軍隊によってエルサレムは完全に破壊され、貧しい農民を除いて、ほとんどの住民がバビロンへ連れ去られました。
そのころ西の大国エジプトは力を失っていたので、バビロン帝国は長い間、この地域を支配するだろうと誰もが思っていました。私たちは、自分の前に強い敵が現れると勇気を失っていまいがちです。自分の力と敵の力を比べて、自分の無力さを見る時に、将来に対する希望を失ってしまいます。しかし、そのような状況の中でも、神様は、預言者を通してイスラエルの人々にメッセージを送り続けていました。40章の22節から25節を読みましょう。ここで、神様が語っていることは、いま、この世を支配している君主やボスや指導者がどれほど強い権力を持っているとしても、神様の前では、まるで、畑にまかれた種のようだということです。やっと根を張って、これから成長しようという時に、少し強い風が吹けば、その種はたちまち飛ばされてしまいます。それと同じように、どんなに大きな権力を持つ支配者であっても、神様がもし撃たれるならば、一瞬にして滅んでしまうのです。
だから、私たちは、そのような人間的な力に頼るのではなく、この天地万物を創られた全能の神を信頼するべきなのです。それで、神様は私たちに「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」と言われたのです。それは、わたしたちが目を向けるところに心もあるからです。私たちの眼は、私たちが関心があるところを見ます。神様は、私たちに、空の月や星を見上げて誰がこれらのものを創ったのか考えよと命じておられます。神様がお創りになったこの宇宙はすべてのものが少しの狂いもなく規則正しく動いています。この宇宙を創り、その動きを支配しておられる神様を、いったい誰と比べるのかと神様は私たちに尋ねておられます。私たちは神様を自分たち人間と同じような存在と考えてはいけないのです。40章28節にあるように、「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」そのようなお方なのです。
さて、41章に入って1-7節では、当時の世界を支配していたバビロンに対して神様の働きが始まることが預言されています。2節で「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。」と書かれていますが、これは、将来起こることの預言です。「東」とは、バビロンを滅ぼす「ペルシャ帝国」をあらわしています。「ひとりの者」とは、そのペルシャ帝国の王である「クロス」という人物のことです。永遠の神の都エルサレムを滅ぼし、イスラエルの民をバビロンへ捕虜として強制連行した強大な国バビロンも、意外なほど早くクロスが率いるペルシャによって滅ぼされてしまいます。ここで言われていることは、神様が、ペルシャ王クロスを用いて、周辺の国々を征服させ、ついにはバビロン帝国をも征服させました。クロス王の勢いは世界の人々を驚かせました。
そしてペルシャ帝国は、ついには今日のインドからエチオピアまで広大な領土を獲得します。しかし、歴史の中でクロス王を立てたのはだれでしょうか。彼をこの世に送り出したのは、人間の歴史を支配する全能の神様でした。「わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」と神は言われます。この世界のはじめから終りまで、つねに支配しているのは神様であり、使徒パウロがアテネの町で言ったように、私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17章28節)クロス王はBC539年にバビロン帝国を滅ぼしますが、彼はバビロンに捕虜となってとらわれていた諸国の民族を解放し、それぞれの国帰ることを許可しました。クロスはイスラエルの民にも同じ政策をとり、BC538年に、クロス王は彼らにがエルサレムに帰ることを許可する勅令を出しました。
イスラエルの民は、ついにバビロンの支配から解放されてふるさとに帰ることができたのですが、彼らの前途にはまだまだ大きな困難が待ち受けていたのです。荒れ果てたエルサレムを復興させることは大変なことです。だから、イスラエルの民は、自分たちの将来に対して大きな不安を感じていました。
しかし、この世界を創造された神、人間の歴史を支配する神、全能の神が、8節で「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。」と呼びかけています。聖書は、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、みな、アブラハムの子孫であると言っています。アブラハムとは神によって選び出された一人の人間で、神様のご計画は、アブラハムをとおしてすべての人々に罪からの救いを与え、祝福を与えることでした。私たちは、そのようなアブラハムの子孫の一人ですが、ここでは、アブラハムの子孫について3つのことが言われています。第一に、私たち一人ひとりは、神様のしもべとして生きるべき人間です。しもべとは、主人に仕える人です。私たちがこの世に生れてきたのは、神様のしもべ、すなわち、どんな働きでもよいのですが、神様のために生きるためでした。第二に私たちは神によって選び出された一人の人間です。
私たちが何かを選ぶ時は、自分にとって大切なもの、意味の有るもの、何かに役に立つもの、とにかく自分にとって何らかの価値があるから、選びます。私たち一人ひとりは神様によって選ばれた人間です。神様にとって何らかの価値があるものとして選ばれたのです。そして、神様は私たちを「友」と呼んでくださいます。私たちと神様との関係は、主人としもべという関係だけではなく、友情の関係です。私たちは神様の命令にただ従うだけの関係ではなく、神様と愛と信頼によって結ばれた関係です。私たちはすべての人と友達になることはありません。親友というのはごく限られた人で、その人とは何でも話し合える信頼があります。神様は私たちとそのような友達の関係を持ってくださるのです。だから、私たちは「恐れる必要がない」のです。
10節「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」先週のメッセージは、復活された主イエスが弟子たちとガリラヤの山で出会われたときの出来事について語りましたが、そこでも主イエスは弟子たちに「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。私たちは、自分の将来について考えると、不安を感じます。恐れを感じます。自分の無力さを感じるときも多いです。しかし、そのような自分の弱さを感じている私たちに向かって、神様は「恐れてはならない」と命令しておられます。なぜ、私たちは恐れてはならないのでしょうか。なぜ、恐れる必要がないのでしょうか。神様の説明は「いつも、わたしはあなたとともにいる」という約束でした。人は、大きな苦しみや悲しみを経験すると、自分だけの隠れ場へと逃げ込むことが多いです。
その悲しみも苦しみも、理解できる人は一人もいません。だから、一人だけで閉じこもるのです。そこには、他人は誰も入ることができません。その人の心を本当に理解できない人間は入れません。しかし、主イエスだけは、私たちが逃げ込む隠れ場にも入ることができます。へブル人への手紙2章18節には、「主イエスは、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられているものたちを助けることがおできになるのです。」と書かれています。主イエスは、恐れを感じている私たちに向かって「恐れるな。わたしがあなたとともにいる」と言ってくださいます。主イエスが、恐れを感じている人々にこのように憐み深く接してくださるのは、主ご自身が苦しむということがどんなことかを体験して知っておられるからです。主イエスは、十字架の刑罰を受けるときに、自分が磔にされる十字架の木を運んでいましたが、体が弱り果てていたために、途中で、別の人に助けてもらわなければなりませんでした。そのイエスは、いまは、私たちのために助けを与えてくださるのです。
「たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」たじろぐとは、自分が直面している困難に対して心がパニック状態になることです。私たちを取り囲む試練や困難や苦しみがどんなに大きなものであるとしても、神様は私たちに「おちつきなさい。静まりなさい。自分一人であわててはいけない。私に任せなさい。」と言われます。「わたしがあなたの神だから。」という言葉の意味は、全能の神、この世界のすべてものを創られた偉大な神様が、わたしはあなたのために特別に働く神であると宣言しておられるのです。神様は、ただ、そばにいるだけでなく、私たちと関係を持ってくださいます。14節で言われていますが、私たち人間は、神の目からすると、虫けらみたいな弱い存在です。しかし、そのような私たちの人生に対して、神様がかかわりを持ってくださるというのは、なんと、光栄に満ちたことではないでしょうか。神様は、わたしに関して、一切の責任を負ってくださるのです。
「わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と神様は言われます。ここで「わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と訳されている部分ですが、ドイツ語の聖書の訳では「神の右の手はわたしをその胸にだきしめてくださる」となっているそうです。ユダヤ人は、右手は全身の力を表すものであり、勝利と力は常に右手にあると考えていました。敵がどんなに強くても、わたしを取り巻く状況がどんなに困難に思えても、神様が全身の力で、私たちをその胸にだきしめて下さるのです。神様が私たちの味方になってくださるのですから、誰もわたしに敵対することはできません。14節にあるように、私たちは虫けらに等しい弱い人間です。でも、恐れる必要はないのです。10節では、神の右の手が私たちを支え、抱きしめてくださると言われていますが、13節では、その神の右の手がわたしの右の手を掴んで私を強くすると言われています。
聖書の神を信じる信仰は、私たちが必死になって神様にしがみつくということではありません。全能の神様が神の右の手でわたしの右の手をしっかりと掴んで、弱い私たちを守ってくださるのです。だから、私たちは、つねに神をしっかり見つめていきましょう。あの使徒ペテロのように。ある時弟子たちだけで船に乗ってガリラヤ湖を渡っているときがありました。夜になって嵐が吹いて、弟子たちは恐怖でパニックになりました。そこへ、主イエスが水の上を歩いて彼らに近付いてこられました。イエスを見て喜びと安心を感じたペテロは主イエスに向かって言いました。「わたしにそこまで来るように命令してください。」すると主イエスはペテロに、「水の上を歩いてわたしのところまで来なさい。」と言われました。ペテロは勇敢にも、船から出て水の上を歩き始めました。その間、ペテロの眼はずっと離れたところにおられたイエスを見ていました。彼がイエスをじっと見ている間、彼は水の上を歩くことができました。
しかし、ふと、彼は自分の周りのことが気になりました。嵐が吹いていました。足元では湖の水が嵐ではげしく波立っていました。彼がイエスから目を離して周りの状況を見たとたんに、彼は怖くなり、どうじに体は沈み始めました。私たちも、困難な状況に出くわすとき、それを乗り越える方法はただ一つです。主イエスをしっかり見続けることです。主イエスの約束をしっかり握りしめるときです。忘れないでください。主が言われたことを。
あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。
