礼拝説教 2007年10月7日 「結婚式での奇跡」(ヨハネ2:1-11)
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(イントロ)
ユダヤの結婚式は夕方に行われて、式の後に披露宴が行われました。式が終わると、新郎新婦はたいまつのあかりに導かれて自分たちの家に戻りますが、そのときに、二人はもっとも遠回りの道を通ります。それは一人でも多くの人々から祝福を受けるためでした。その後、二人はハネムーンに行く代わりに自分の家を開放して人々を招きます。当時の人々は貧しく、生活もいろいろと苦労が多かったようです。そのため、人々は結婚式を一生で一度の大イベントと考えていました。誰もが、子供のころから自分の結婚式は立派なものにしたいという夢を持っていました。
また、ユダヤの結婚式では「ぶどう酒」が重要なものとみなされていました。ぶどう酒が喜びとお祝いのシンボルだと考えられていたからです。詩篇の104篇14-15節に次のような言葉があります。「主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。」このように、ぶどう酒はお祝いの席では非常に重要でしたので、もし、披露宴でぶどう酒が出されないと、招待客は裁判を起こすこともできたそうです。しかも、普通、結婚の披露宴は1週間ぐらい続きますので、花婿は十分な量の食べ物や飲みものを準備しなければなりません。そのような背景を知っておくと、カナという村で行われた結婚式の状況がよく理解できると思います。
(1)問題
主イエスと弟子たちが結婚式に招待されて、そこには主イエスの母マリアも出席していました。その結婚披露宴で、問題のぶどう酒がなくなってしまったのです。この花嫁・花婿は貧しかったために、十分なぶどう酒を用意することができなかったのかも知れません。いずれにせよ、これは二人にとっても、二人の家族にとっても大変恥ずかしいことでした。そこで、イエスの母マリアがイエスのところに来て「「ぶどう酒がありません」と報告しました。マリアはイエスが30歳になって家族を離れて神の子としての働きをはじめるまで、30年間ずっと一緒に生活していましたし、何より、イエスを身ごもるときに、御使いからイエスが救い主であることを聞いていました。そしてイエスを信頼していました。マリヤは信仰の人でした。御使いから自分が救い主を身ごもると聞いたときも、神様の御心を受け入れました。そして「神にとっては不可能なことは何一つありません。」と大胆な信仰告白をしています。マリヤは新郎新婦と非常に親しかったのかも知れません。そして台所でいろいろと手伝っていたのかも知れません。それで、若い二人の名誉を守るために、主イエスに頼ったのです。
主イエスの答えは非常に冷たい言葉のように聞こえます。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」「女の方」という呼びかけも、母親に対して不自然な感じがしますが、ギリシャ語では、女性を尊敬して呼ぶときに使われる言葉で、ローマ皇帝アウグストがエジプトの女王クレオパトラを呼ぶときにもこの言葉を使ったそうです。ですから、主イエスはマリヤに対して非常に丁寧な言葉を使っているのです。そして、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」という表現も、マリヤを非難している言葉ではなく、イエスが意味したことは、「そうぞ心配しないでください。あなたにはよかう分からない状況ですが、私がこの問題を解決しますから、私に任せてください。」というようなことでした。このように言われたマリヤは、イエスを信頼して、問題の解決を主にすべてゆだねたのです。ここがマリヤのすばらしいところです。マリヤはイエスの言葉をよく理解できなかったでしょう。また、イエスが何をこれからするのかも分からなかったはずです。しかし、マリヤは何もイエスに言わないで、ただイエスを信頼しています。
このぶどう酒がなくなったと言う事実は、何を意味しているでしょうか。さきほども言いましたように、聖書ではぶどう酒は喜びのシンボルと見なされています。そのぶどう酒がなくなるということは、この世の生活において、私たちに喜びを与えるものも、いつかはなくなる時が来るのです。イエスキリストから離れて生きるならば、喜びや楽しみがなくなる時が必ず来ます。私たちが、今は、健康に恵まれていても、豊かな富が与えられていても、知識にあふれていても、私たちの人生は、悲しいことに、いつかは絶頂期を過ぎるとき、輝きが失われていくときが来ます。もちろん、この世の生活を喜んで生きることは大切です。しかし、この世のものは自分たちの外から喜びを与えるので、外から来るものがなくなると、そのような喜びは消えてしまいます。しかし、主イエスとともに生きるときに与えられる喜びは心の内側からあふれてくる喜びです。主イエスは、サマリヤという場所で出会った女性にこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」イエスキリストとともに生きるとき、喜びは泉のように湧き出るのです。自分を愛し、自分のためにいのちまで犠牲にしてくださった救い主と共に生きるとき、その喜びは、周りの状況に関係なく、いつもあふれてくるのです。
(2)問題の解決
私たちは、明日何が起きるかということさえ分かりません。分からないと不安になります。マリヤは自分と親しい若い新郎新婦が新しい人生の門出のときに、恥をかかせたくないという思いで心はいっぱいでした。それで、主イエスのところへ行ったのですが、主イエスは、ただ「私に任せなさい」というだけでした。そのような時、私たちはどのように行動するでしょうか。「主イエスには任せられないから、自分で何とかしなきゃ」と考えて、他の人に頼むでしょうか。マリヤは主を信頼していましたから、すべてをイエスにゆだねました。それで、マリヤは手伝いの人たちに「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と言ったのです。私たちには主イエスがどんなことをされるのか分かりませんが、主イエスは、自分のとき、自分の方法をちゃんと知っておられたのです。それで、しばらくすると主イエスは、手伝いの人たちに「水がめに水を満たしなさい。」と言われたのです。その家の入り口のところに多きな水がめが6つ置いてありませいた。ユダヤの家には必ず入り口に水がめがありました。水は2つの目的のために使われました。一つは家に入るときに足を洗うためであり、もう一つは食事の前に手を洗うためでした。主イエスが「水がめに水を満たしなさい。」と言われたとき、彼らはどう思ったでしょうか。「水がめに水を入れてどうするんだ。」と思ったことでしょう。大きな水がめに水をいっぱいに入れるのは決して簡単なことではありません。手伝いの人たちはマリヤの言葉に従って、主イエスが言われることを何でも行いました。主イエスの奇跡の業が行われるのに、人がその業に協力することを求めることがありました。5000人の人々に食べ物を与えられたときは、食べ物を配る人々がいました。一度死んだラザロが生き返ったときは、墓の入り口をふさいでいた大きな岩を転がす人がいました。主の言われる言葉に従った人だけが、主イエスの働き、主イエスの力を体験し、また目に見ることができるのです。水がめの水が主イエスの働きによってぶどう酒に変わったとき、結婚披露宴に来ていた人々のなかで、主イエスの働きを体験したのは、水を汲んだ手伝いの人々だけでした。私たちの人生に主イエスの奇跡が実現するための条件は一つだけです。主の御心に従うこと、主イエスが言われることであれば、何でもする覚悟が出来ていることです。
(3)喜びの結果
主イエスは手伝いの人々に水がめに水をいっぱいに入れるように命じた後、「その水を汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言われました。宴会の世話役は、手伝いの人々が持ってきた水を飲んでびっくりしました。それは、普通の披露宴では、最初に一番良いぶどう酒を出して、だんだん、安いぶどう酒が出されたからです。客たちが酒を飲むとだんだん味覚が鈍感になるので、そのころに安いぶどう酒を出していました。ところが、この世話役が飲んだ水は、上等なぶどう酒の味がしたのです。そして披露宴に出席していた人々は、この最上のぶどう酒という祝福を味わいました。彼らは誰も、この披露宴で主イエスの奇跡が起こったとは知りませんでした。ただおいしいぶどう酒を飲んで喜びました。しかし、水がめに水を入れた手伝いの人々だけは、この日、主イエスの大きな力を知ったのです。主の働きがあっても、それを体験するのは、主の言葉に従った人だけでした。おいしいぶどう酒を飲んだという喜びはその日だけの喜びです。しかし、若い新郎新婦と家族が大きな恥を経験する危機が迫ったときに、それを見事に解決した主イエスの力を知った喜びは一生忘れることができません。
ヨハネは、11節で「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。」と記しています。これが最初の主イエスの奇跡でした。人間的な考えであれば、私たちは自分の力を多くの人に認めてもらいたいと思いますから、たとえば、5000人の人に食べ物を与えるような、目立つ大きな働きをしたいと思います。しかし、主イエスの考えは違いました。主イエスは、カナという聖書では2回しか出てこない小さな村の、貧しい新郎新婦の結婚式という、ごく普通の生活の場面で、誰にも気づかれないような奇跡を行われました。しかも、その奇跡は人々に喜びを与える奇跡でした。さきほども言ったように、この世の喜びはいつか消え去って行きます。しかし、主イエスが私たちに与える喜びは誰をも奪うことができない永遠の喜びです。私たちが、人生の喜びが消えるように思えることがあったとしても、私たちは主イエスに頼ることができます。水をぶどう酒に変える力を持っておられる主イエスが、私たちの人生にも喜びをもたらす力を持っておられます。しかも、結婚披露宴の最後に最上のぶどう酒が出たように、クリスチャンの人生の最大の喜びは、人生の終わりにやってくるのです。健康が衰えても、財産が少なくなっていっても、頭や体の力が衰えても、私たちは何も心配する必要はありません。主イエスのところへ行けば、すべてが喜びに変わるのです。ただ、一つの条件は、主が言われることを何でもすることです。そのときに、あなたの人生は、これまでに味わったことのない喜びで満ち溢れるでしょう。
最後にヨハネの黙示録19章9節を読みましょう。「御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言いました。
(イントロ)
ユダヤの結婚式は夕方に行われて、式の後に披露宴が行われました。式が終わると、新郎新婦はたいまつのあかりに導かれて自分たちの家に戻りますが、そのときに、二人はもっとも遠回りの道を通ります。それは一人でも多くの人々から祝福を受けるためでした。その後、二人はハネムーンに行く代わりに自分の家を開放して人々を招きます。当時の人々は貧しく、生活もいろいろと苦労が多かったようです。そのため、人々は結婚式を一生で一度の大イベントと考えていました。誰もが、子供のころから自分の結婚式は立派なものにしたいという夢を持っていました。
また、ユダヤの結婚式では「ぶどう酒」が重要なものとみなされていました。ぶどう酒が喜びとお祝いのシンボルだと考えられていたからです。詩篇の104篇14-15節に次のような言葉があります。「主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。」このように、ぶどう酒はお祝いの席では非常に重要でしたので、もし、披露宴でぶどう酒が出されないと、招待客は裁判を起こすこともできたそうです。しかも、普通、結婚の披露宴は1週間ぐらい続きますので、花婿は十分な量の食べ物や飲みものを準備しなければなりません。そのような背景を知っておくと、カナという村で行われた結婚式の状況がよく理解できると思います。
(1)問題
主イエスと弟子たちが結婚式に招待されて、そこには主イエスの母マリアも出席していました。その結婚披露宴で、問題のぶどう酒がなくなってしまったのです。この花嫁・花婿は貧しかったために、十分なぶどう酒を用意することができなかったのかも知れません。いずれにせよ、これは二人にとっても、二人の家族にとっても大変恥ずかしいことでした。そこで、イエスの母マリアがイエスのところに来て「「ぶどう酒がありません」と報告しました。マリアはイエスが30歳になって家族を離れて神の子としての働きをはじめるまで、30年間ずっと一緒に生活していましたし、何より、イエスを身ごもるときに、御使いからイエスが救い主であることを聞いていました。そしてイエスを信頼していました。マリヤは信仰の人でした。御使いから自分が救い主を身ごもると聞いたときも、神様の御心を受け入れました。そして「神にとっては不可能なことは何一つありません。」と大胆な信仰告白をしています。マリヤは新郎新婦と非常に親しかったのかも知れません。そして台所でいろいろと手伝っていたのかも知れません。それで、若い二人の名誉を守るために、主イエスに頼ったのです。
主イエスの答えは非常に冷たい言葉のように聞こえます。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」「女の方」という呼びかけも、母親に対して不自然な感じがしますが、ギリシャ語では、女性を尊敬して呼ぶときに使われる言葉で、ローマ皇帝アウグストがエジプトの女王クレオパトラを呼ぶときにもこの言葉を使ったそうです。ですから、主イエスはマリヤに対して非常に丁寧な言葉を使っているのです。そして、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」という表現も、マリヤを非難している言葉ではなく、イエスが意味したことは、「そうぞ心配しないでください。あなたにはよかう分からない状況ですが、私がこの問題を解決しますから、私に任せてください。」というようなことでした。このように言われたマリヤは、イエスを信頼して、問題の解決を主にすべてゆだねたのです。ここがマリヤのすばらしいところです。マリヤはイエスの言葉をよく理解できなかったでしょう。また、イエスが何をこれからするのかも分からなかったはずです。しかし、マリヤは何もイエスに言わないで、ただイエスを信頼しています。
このぶどう酒がなくなったと言う事実は、何を意味しているでしょうか。さきほども言いましたように、聖書ではぶどう酒は喜びのシンボルと見なされています。そのぶどう酒がなくなるということは、この世の生活において、私たちに喜びを与えるものも、いつかはなくなる時が来るのです。イエスキリストから離れて生きるならば、喜びや楽しみがなくなる時が必ず来ます。私たちが、今は、健康に恵まれていても、豊かな富が与えられていても、知識にあふれていても、私たちの人生は、悲しいことに、いつかは絶頂期を過ぎるとき、輝きが失われていくときが来ます。もちろん、この世の生活を喜んで生きることは大切です。しかし、この世のものは自分たちの外から喜びを与えるので、外から来るものがなくなると、そのような喜びは消えてしまいます。しかし、主イエスとともに生きるときに与えられる喜びは心の内側からあふれてくる喜びです。主イエスは、サマリヤという場所で出会った女性にこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」イエスキリストとともに生きるとき、喜びは泉のように湧き出るのです。自分を愛し、自分のためにいのちまで犠牲にしてくださった救い主と共に生きるとき、その喜びは、周りの状況に関係なく、いつもあふれてくるのです。
(2)問題の解決
私たちは、明日何が起きるかということさえ分かりません。分からないと不安になります。マリヤは自分と親しい若い新郎新婦が新しい人生の門出のときに、恥をかかせたくないという思いで心はいっぱいでした。それで、主イエスのところへ行ったのですが、主イエスは、ただ「私に任せなさい」というだけでした。そのような時、私たちはどのように行動するでしょうか。「主イエスには任せられないから、自分で何とかしなきゃ」と考えて、他の人に頼むでしょうか。マリヤは主を信頼していましたから、すべてをイエスにゆだねました。それで、マリヤは手伝いの人たちに「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と言ったのです。私たちには主イエスがどんなことをされるのか分かりませんが、主イエスは、自分のとき、自分の方法をちゃんと知っておられたのです。それで、しばらくすると主イエスは、手伝いの人たちに「水がめに水を満たしなさい。」と言われたのです。その家の入り口のところに多きな水がめが6つ置いてありませいた。ユダヤの家には必ず入り口に水がめがありました。水は2つの目的のために使われました。一つは家に入るときに足を洗うためであり、もう一つは食事の前に手を洗うためでした。主イエスが「水がめに水を満たしなさい。」と言われたとき、彼らはどう思ったでしょうか。「水がめに水を入れてどうするんだ。」と思ったことでしょう。大きな水がめに水をいっぱいに入れるのは決して簡単なことではありません。手伝いの人たちはマリヤの言葉に従って、主イエスが言われることを何でも行いました。主イエスの奇跡の業が行われるのに、人がその業に協力することを求めることがありました。5000人の人々に食べ物を与えられたときは、食べ物を配る人々がいました。一度死んだラザロが生き返ったときは、墓の入り口をふさいでいた大きな岩を転がす人がいました。主の言われる言葉に従った人だけが、主イエスの働き、主イエスの力を体験し、また目に見ることができるのです。水がめの水が主イエスの働きによってぶどう酒に変わったとき、結婚披露宴に来ていた人々のなかで、主イエスの働きを体験したのは、水を汲んだ手伝いの人々だけでした。私たちの人生に主イエスの奇跡が実現するための条件は一つだけです。主の御心に従うこと、主イエスが言われることであれば、何でもする覚悟が出来ていることです。
(3)喜びの結果
主イエスは手伝いの人々に水がめに水をいっぱいに入れるように命じた後、「その水を汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言われました。宴会の世話役は、手伝いの人々が持ってきた水を飲んでびっくりしました。それは、普通の披露宴では、最初に一番良いぶどう酒を出して、だんだん、安いぶどう酒が出されたからです。客たちが酒を飲むとだんだん味覚が鈍感になるので、そのころに安いぶどう酒を出していました。ところが、この世話役が飲んだ水は、上等なぶどう酒の味がしたのです。そして披露宴に出席していた人々は、この最上のぶどう酒という祝福を味わいました。彼らは誰も、この披露宴で主イエスの奇跡が起こったとは知りませんでした。ただおいしいぶどう酒を飲んで喜びました。しかし、水がめに水を入れた手伝いの人々だけは、この日、主イエスの大きな力を知ったのです。主の働きがあっても、それを体験するのは、主の言葉に従った人だけでした。おいしいぶどう酒を飲んだという喜びはその日だけの喜びです。しかし、若い新郎新婦と家族が大きな恥を経験する危機が迫ったときに、それを見事に解決した主イエスの力を知った喜びは一生忘れることができません。
ヨハネは、11節で「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。」と記しています。これが最初の主イエスの奇跡でした。人間的な考えであれば、私たちは自分の力を多くの人に認めてもらいたいと思いますから、たとえば、5000人の人に食べ物を与えるような、目立つ大きな働きをしたいと思います。しかし、主イエスの考えは違いました。主イエスは、カナという聖書では2回しか出てこない小さな村の、貧しい新郎新婦の結婚式という、ごく普通の生活の場面で、誰にも気づかれないような奇跡を行われました。しかも、その奇跡は人々に喜びを与える奇跡でした。さきほども言ったように、この世の喜びはいつか消え去って行きます。しかし、主イエスが私たちに与える喜びは誰をも奪うことができない永遠の喜びです。私たちが、人生の喜びが消えるように思えることがあったとしても、私たちは主イエスに頼ることができます。水をぶどう酒に変える力を持っておられる主イエスが、私たちの人生にも喜びをもたらす力を持っておられます。しかも、結婚披露宴の最後に最上のぶどう酒が出たように、クリスチャンの人生の最大の喜びは、人生の終わりにやってくるのです。健康が衰えても、財産が少なくなっていっても、頭や体の力が衰えても、私たちは何も心配する必要はありません。主イエスのところへ行けば、すべてが喜びに変わるのです。ただ、一つの条件は、主が言われることを何でもすることです。そのときに、あなたの人生は、これまでに味わったことのない喜びで満ち溢れるでしょう。
最後にヨハネの黙示録19章9節を読みましょう。「御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言いました。

