礼拝説教 2008年3月30日 「全世界に宜べ伝えよ」 (マタイ28章16-20節)

2008.03.30

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 ジョン・ストットというイギリスの説教者は「キリスト教は本質的に復活の宗教であり、復活の概念がその根底にある。復活を取り除くと、キリスト教ではなくなってしまう。」主イエスが復活されたことには2つの大きな意味があります。一つは、主イエスの復活はイエスご自身言っておられたように神であることを証明するというものだということです。主イエスが十字架にかけられても、復活しなかったなら、単なる殉教者にすぎないということになります。もう一つの点は、主イエスの十字架の死は、私たちの罪を赦すためのいけにえとしての死であったのですが、主イエスがささげられたご自身の命は、全人類の罪が赦されるために完全ないけにえとして父なる神に受け入れられたという事実です。旧約聖書の時代は、イスラエルの人々の罪が赦されるために、毎年動物のいけにえをささげなければなりませんでしたが、主イエスの十字架の死は、ただ一度ささげられた私たちの罪を赦すためのいけにえだったのですが、それが完全なものであったので、もはや二度といけにえをささげる必要がなくなってしまったのです。このようにして、主イエスは十字架の死と復活によって、私たちを縛り付ける罪の裁きと死の恐れを打ち砕いてくださいました。

 復活は、キリスト教の土台となっていますから、人々を神への信仰から引き離そうとする悪魔は、復活を否定しようといろいろな考えを人々に植え付けようとしました。よくある考えの一つは、イエスの遺体を弟子たちが盗んだということです。しかし、これはありえない考えです。イエスの墓にはローマ軍の番兵が見張っていました。弟子達は、主イエスが逮捕されたときに、皆、恐れて逃げていきました。イエスが十字架につけられた姿を近くで見ていたのはヨハネただ一人です。復活の日曜日も、弟子達は、エルサレムにいた群集を恐れて部屋の中に隠れていました。そのような弟子達が当時最強のローマ軍の兵士を打ち負かし、墓の入り口をふさいでいた石を転がし、イエスの遺体を盗むということができたでしょうか。しかも、弟子達の中には、イエスの復活の知らせを聞いても疑った者もいたのです。第二の考えは、イエスは十字架で完全に死んでおらず、墓の中で意識を回復して墓から脱出したというものです。しかし、イエスの死刑を命じたローマ総督ピラトはローマ軍の百人隊長とともにイエスの死を確認してから、アリマタヤのヨセフというイエスの墓を提供した人物にイエスの遺体を引き渡して意います。たとえ、息を吹き返していたとしても、39回の鞭打ちの刑を受け、十字架に6時間かけられていた者が、大きな石を墓の中から転がし、外に出たときに、ローマの兵隊を打ち負かすことができたとは到底考えられません。

 主イエスの復活の後、エルサレムでともに祈っていた信者たちの数はわずか120人でした。しかし、それから30年後には、エルサレムから遠く離れたローマ帝国の都ローマには、当時の皇帝ネロが脅威を感じるほどにクリスチャンが増えていました。弟子達を見ると分かるように、人間は、だれでも自分を守ろうとします。弟子達や多くのクリスチャンが、死んだイエスが復活したということがもし偽りであったら、どうして、そんなばかげた考えに命をささげることができたでしょうか。ローマ帝国はクリスチャンに対して激しい迫害を繰り返しました。しかし、強大なローマ帝国の宗教となり、他の宗教は禁止されます。このように歴史を動かしたクリスチャンの信仰の中心は主イエスの十字架と復活です。

 主イエスが十字架につけられたときには、あれほど恐怖にとらわれていた弟子達を勇気ある伝道者に変えたのは何だったのでしょうか。それは主イエスが彼らのところに来られたからです。最初のイースターの日曜日の夕方、死んだイスカリオテのユダとトマスを除く10人の弟子達は他のユダヤ人を恐れて戸を閉めて隠れて集まっていました。その日の朝、彼らは女性たちから主イエスが復活したという知らせを聞き、ヨハネとペテロはイエスの墓が空であるのを見ています。また、その日の午後、主イエスは個人的にペテロの前に現れています。また、エマオという村に向かっていた二人の信者がイエスと出会ったという知らせを彼らに伝えました。それでも、彼はなお、ユダヤ人を恐れていたのです。そこへ復活の主が現れたのですが、主イエスが彼らに最初に言った言葉は何だったのでしょうか。(ヨハネ福音書20:19-23)「平安があなたがたにあるように、シャローム」と言われたのです。主イエスは、弟子達の不信仰をしかっても当然だと思いますが、主は信じる者たちのうえに「平安があるように」と訴えられたのです。詩篇には次のような言葉があります。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」主イエスは、それから弟子達に手と脇腹をお見せになりました。それは、復活の主は決して幽霊ではなく、体をもって復活した主ご自身であることを証明するためでしたが、同時に、この主イエスの傷跡は、私たちが罪が赦されて救われるために主が身代わりになってご自身をささげられたことを示すものであり、言い換えると、私たちが神とともに平和に生きることを保証するものでありました。キリストは私たちのために十字架にかかられ、私たちのために復活してくださり、今は、私たちに平安を与えるために生きておられます。


 さて、復活された主イエスは弟子達に「ガリラヤに行きなさい。そこであなた達に会います。」と言われました。主イエスが弟子達と主として働いたのはガリラヤ湖の近くの地域でした。それまで、主イエスはエルサレムの町の中で、弟子達の前に個人的に現れてくださったのですが、今度は、ガリラヤ湖という公の場所に現れてくださるのです。ガリラヤ地方は、多くの弟子達の故郷ですし、何よりも、弟子達はガリラヤ地方で主イエスとともに多くの時間を過ごしていました。エルサレムでは弟子達はユダヤ教の指導者たちに囲まれて、多くのプレッシャーを感じていたことでしょう。主イエスは、弟子達をそのようなプレッッシャーから解放し、一度は主イエスの十字架の死につまずいた彼らの信仰を回復させて、彼らがイエスの弟子としての使命を確信するようにと、このような命令を弟子達にお与えになったのだと思います。ある人は、第一コリントの十五章に書かれている「キリストが500人以上の兄弟たちに同時に現れた」という箇所は、このガリラヤで主が弟子たちに現れた出来事であると考えています。というのは、マタイの福音書の28章17節に「しかし、イエスにお会いしたとき、彼らは礼はした。しかし、ある者は疑った。」と書かれています。11人の弟子達は、すでに復活の主イエスと出会っていて、さすがに弟子達もこの時にはすでに主の復活を確信していたと思われるからです。

 主イエスは、弟子達の信仰をもう一度強めるために、この時に主が弟子達に言われた言葉が、マタイの福音書の最後に記されています。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らに教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなた方とともにいます。」第一に、ここで主イエスは、ご自身の「権威」について語っておられます。権威とは「力を使う権利や資格を持っている」ということを意味しますが、マタイの福音書では、主イエスの働きの最初からイエスの神の子としての権威が強調されています。主イエスの教えには権威がありました。主イエスは人を癒す権威、罪を許す権威を持っておられました。主イエスはサタンを支配する権威を持ち、弟子達を伝道の働きに送り出す権威をも持っておられました。そして、この福音書の最後のところで、主イエスは、ご自分が天においても地においても全てを支配する権威が与えられていることをはっきりと述べておられるからこそ、何も恐れ惑わずに、主イエスに従って行くことができるのです。権威があるということは、全てのものをご自身の支配下に置いておられるということですから、私たちは、この世で何が起こるとしても、何もあわてる必要がないのです。主イエスは十字架と復活によって、私たちの全ての敵を滅ぼし、そして、ご自身の権威を表してくださいました。今も生きておられる復活の主は、私たち信じる者のために、いつでも必要なときにこの権威を用いてくださるのです。権威を持っている人間についていればいりろなメリットがありますが(善くも悪くも)、キリストの権威に勝る権威を持っている人間はどこにもいません。しかも主イエスは、ご自身が持っている権威を自分のために用いたり、私たちに対して権威を乱用したりするということが一度もありません。むしろ、そのような権威を持っておられる方であるにもかかわらず、私たちのために命を捨ててくださったのです。だからこそ、私たちは、私たちのためにこのような犠牲を払ってくださった主イエスに対して、決して感謝を忘れてはならないのです。

 そのような権威を持っておられる主イエスが弟子達に最後の命令を与えられました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいた全てのことを守るように、彼らを教えなさい。」日本語では、行きなさい、人々を弟子にしなさい、バプテスマを授けなさい、教えなさい、と命令が続いているように思いますが、原語のギリシャ語では、主イエスが弟子達に命じておられることは一つだけです。それは、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」という部分です。これを主イエスは最も大切なこととして弟子達に命じられました。これは11人の弟子達だけに命じられたことではなく、全てのクリスチャンに対して与えられた命令です。神様は、一人の魂も滅びることを願っておられません。主イエスが十字架で命をささげられたのは一部の選ばれた人々が救われるためではなく、全ての人々が救われるためでした。それで、主イエスは私たちがどこへ行こうとも、どこにいようとも、その場所でイエス・キリストの証人として生きること、他の人をイエスのもとに導くことを願っておられます。弟子という言葉という言葉は、初代教会のクリスチャンに用いられた言葉です。弟子として生きるというのは、単に信仰を持つこと、教会の会員になることだけではありません。弟子とは、いま私たちがこの言葉を使うときにイメージするのは、相撲や落語などの世界です。弟子は師匠のところに入門し、師匠とともに生活をし、ただ教えを聞くだけではなく、実際に実践することで学びます。全てのクリスチャンはキリストの弟子として生きることが求められています。また、私たち先に救われた者は、他の人をキリストの弟子になるように導くという使命が与えられているのです。

 しかし、主イエスはただ、弟子たちに命令を与えられただけではありません。命令と同時に約束をも与えられました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」主は「世の終わりまで」と言われました。つまり、この世は何となく終わるとか、突然意味もなく終わるのではなく、神様の計画によって終わるときが来ることを意味します。神様は人間の歴史にも計画を持っておられます。私たちの人生もただ何となく終わるのではありません。全ては神様の計画の通りに進みます。その時まで、主イエスが与えられた約束は、いつも私たちと共にいてくださるということです。今私たち一人ひとりに対して、主イエスが、聖霊の働きを通して、共にいてくださいます。信仰を持っても、私たちは困難に出くわします。恐れを感じるときがあります。しかし、どんな時でも、私たちは祈りを通して、聖書の御言葉を通して、あるいはまぼろしを通して神が共におられること、神が私たちに語りかけてくださることを経験します。クリスチャンは絶対に一人ぼっちになるtこおはありません。たとえ、周りの全ての人間から反対されても、誤解されても、主イエスは私たちの味方です。復活の主イエスが、いつも私たちと共にいてくださるから、私たちは何も恐れる必要はないのです。初代教会に「クリソストモス」という有名な説教者がいました。彼は当時のローマ皇帝から迫害を受け、ついに捕らえられました。皇帝は彼に向かって言いました。「お前が信仰を捨てないなら、お前を牢獄に放り込むぞ。」すると彼は答えました。「主が共に牢獄へ行ってくださいます。」すると皇帝は言いました。「お前の全財産を取り上げるぞ。」彼は言いました。「私の財産は全て天に蓄えてあります。あなたは私の財産を奪うことはできません。」皇帝は少し困って言いました。「それなら、お前を帝国の片隅へ追っ払ってやる。」すると彼は少しも慌てず答えました。「地の果てまでも神の国の一部です。そこにも主はおられます。」私たちが生きていく時に最も必要なものは、主イエスが共におられることです。それを持っているなら、他の全ての必要は満たされます。復活の主イエスの約束を自分のものにして、キリストの弟子としての使命を果たす一人ひとりでありたいものです。