礼拝説教 2008年3月23日「主イエスの復活」
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(イントロ)
主イエスは週の六日目、金曜日の夕方、ユダヤ議会のメンバーであったアリヤマタヤのヨセフという人物が提供した墓の中に葬られました。主イエスは、週の六日目の金曜日に、十字架の上で、私たちの罪を赦すための働きをすべて完了されました。そして、週の一日目、すなわち日曜日の朝、復活されました。ですから、主イエスは、墓の中に36時間ほどいたと思われます。36時間という時間は、彼が確かに死んだことを示すには十分な時間であったのと同時に、主イエスの体が腐り始める目に主がよみがえられたという絶妙な時間でありました。そして、主イエスは金曜日に死んで日曜日に復活されたのですが、ユダヤの数え方では最初の日と最後の日を加えて、金土日の三日目によみがえられたことになります。主は、繰り返し、三日目によみがえると言っておられましたし、旧約聖書にも、預言者ヨナが三日目に助け出されたことや、預言者ホセアの言葉の中にも「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。」という言葉があるように、主の三日目の復活は、このような預言の成就でありました。
主イエスは週の七日目、すなわち土曜日は、一日中墓の中におられました。天地創造のときに、神がその働きを六日目に完了して、7日目を休まれたちょうに、主イエスもその日、休まれました。ユダヤ人は土曜日を安息日と呼び、特別な日、あるいは祭りの日として旧約聖書に記された律法の教えを硬く守っていました。その土曜日に主イエスが一日中墓の中にいたことは、律法の時代が終わったことを意味します。そして、次の週の最初の日、すなわち日曜日に、主イエスは死からよみがえられて、新しい時代が始まったことを示されたのです。もはや、私たちは、律法の決まりを守ることによって裁かれるのではなく、主イエスの十字架と復活を信じる信仰によって裁かれるようになりました。
(1)人々は主イエスが死んだと思っていた(1節)
最初のイースターの朝、二人の女性がイエスの墓に行きました。主イエスによって悪霊から開放されたマグダラのマリヤともう一人別のマリヤでした。もう一人のマリヤは、27章の56節に出てくる「ヤコブとヨセフの母マリヤ」でした。この二人は、61節を見ると、主イエスの体が墓に収められたときに、近くで墓のほうを向いて座っていました。実は、主イエスに仕えている女性たちのグループが存在していました。彼女たちは、裕福な家庭の女性たちで、主イエスによって病気を癒されたり、悪霊から解放された女性たちでした。そして彼女たちは主のあとについて行って、いろいろな形で主イエスと弟子たちを助けていました。ルカの福音書8章2-3節にその女性たちのことが記されています。
主イエスを心から愛していた彼女たちは、イエスの十字架の処刑が終わり、イエスの体が墓に入れられた後も、その場所から立ち去ることができずに、そこにとどまっていました。彼女たちは、イエスの死体に油を塗ろうと思って、香油を買って、朝早くに墓に来たのです。彼女たちはイエスが死んだと思っていました。主イエスは、何度も繰り返して、ご自身が十字架の苦しみを受けた後、三日目によみがえることを弟子たちに教えておられるのですが、弟子たちも、またイエスにいつも従っていた女性たちも、主イエスの復活を信じることができませんでした。2000年前の人間にとっても、一度死んだ人間が復活するなんてことは到底信じられないことだったのです。
しかし、新約聖書の教えは復活を信仰のもっとも大切な基礎として教えています。パウロはコリント人への手紙第一の15章17、19-20節で次のように述べています。「、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
それでは、主イエスの復活は私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。第一に主イエスの復活はイエスが確かに神の御子であったことの証拠です。主イエスは次のように言われました。「わたしには、いのちを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」第二に、主イエスの復活は、聖書の言葉が信実であることの証拠です。旧約聖書の教えの中にも、また主イエスご自身の教えの中にも、復活ということが明らかに教えられています。もし、主イエスが復活されなかったなら、聖書の言葉もイエスの言葉も偽りであったことになります。第三に、主イエスの復活は、主イエスを信じるクリスチャンたちが将来、主イエスと同じように復活することを確信させるものです。私たちは、クリスチャンになるときに、洗礼を受けますが、パウロは、洗礼とは、私たちをキリストに結びつけるものであると教えています。
イエスに結び付けられた私たちは、キリストとともに、罪を持って生きていた古い自分に死に、キリストともに、新しいいのちに生きる者としてよみがえるのだと教えています。(ローマ6章4-11節)第四に、イエスの復活は私たちに新しく生きる力を与えてくれます。主は私たちの肉眼では見えませんが、今も生きておられます。そして聖霊というお姿を通して私たち一人一人に働いてくださいます。主イエスは、そのことを約束して、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、そのときに、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わすからです。」と言われました。クリスチャンの力は、今も生きておられる復活の主がともにいてくださるという確信から来ます。自分がどんなに弱くても、全能者であるお方が一緒にいてくださるということを知っているので、生きる力が与えられるのです。
(2)彼女たちは主がよみがえれたことを聞いた(2-8節)
主イエスの復活は特別な出来事でした。そして、不思議な現象が伴いました。2-4節には次のように書かれています。「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りてきて、石をわきへ転がして、その上に座ったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」主イエスの墓にはローマ軍の番兵がいました。誰かが主イエスの遺体を盗んでいかないように見張っていたのです。しかし、人間は誰一人として主イエスの復活をとどめることはできません。誰も気がつかないうちに主イエスは復活され、すでにその墓場から離れていました。
そこへ、御使いが番兵たちの前に姿を現したのですが、彼らは、御使いたちの白く輝く姿を見て驚きのあまり気を失ってしまいました。御使いは墓場に来ていた女たちの心を知っていました。彼女たちは主イエスの復活を確認するためではなく、イエスの遺体に油を塗るために来ていました。彼女たちは主イエスの十字架の死によって戸惑っていました。それで、御使いが彼女たちに言った言葉は「恐れるな」という言葉だったのです。彼女たちは主イエスによって病気を癒され、悪霊から解放されるという体験を持っており、イエスの教えに感動して、主についてきた女性たちです。それだけに、主イエスの十字架の死は彼女たちを失望させました。
もし、彼女たちが主イエスの復活を知らないまま生き続けたならば、彼女たちがどれほど主イエスを愛していたとししても、その生活はまったく無意味です。主イエスの復活がなかったならば、主イエスは罪を穂滅ぼすことがなく、ご自身も死によって滅ぼされたことになります。しかし、感謝なことに、主イエスは確かに三日目によみがえられました。そして私たちを束縛する罪と死の力を打ち破り、ご自身が確かに神であることを証明されました。主イエスが復活した日曜日は、ユダヤ教の暦では、「過ぎ越しの祭り」が行われている日曜日でした。このお祭りは過去の出来事を祝うこととともに、麦の収穫を祝う祭りでもありました。エルサレムの神殿では、大祭司が、各地でとれた麦の初穂を並べて、主に収穫の感謝を表しましたが、これらの初穂は、その後収穫されるすべての麦を代表するシンボルでした。聖書には、主イエスは私たちのための初穂として死からよみがえられたと書かれています。
復活された主イエスは、見た目は復活前と同じでしたが、実質はまったく異なる栄光の姿にかえられていましたので、時間にも空間にも縛られない自由な体になっていました。このことは、私たちも、やがて、世の終わりのときに、主イエスと同じように、栄光の体を受けて復活することを約束するものです。そのとき、私たちは、本当に自由なものとなり、もはや、二度と病気になったり、痛んだり、くちたりすることのない者へと変えられるのです。
(3)彼女たちは復活の主イエスと出会った
御使いから「主が復活されたことを弟子たちに伝えなさい」と言われた彼女たちは、その言葉に従って弟子たちのところへ向かいました。すると、その途中で彼女たちは復活の主イエスに出会いました。復活の主イエスが彼女たちに言った言葉も御使いと同じく「恐れてはいけません。」という言葉でした。復活の主イエスを信じるわたしたちにとって一番力強いことは、主が全能者であるほどお方が私たちに声を掛けてくださること。私たちと交わりを持ってくださることです。弟子のヨハネも主から声を掛けられて大いに励まされる経験をしています。それはヨハネの黙示録の1章に書かれています。ヨハネは弟子たちの中で一番長生きをしたのですが、激しい迫害を受けて現在のトルコ沖に浮かぶパトモスという島に流され監獄に幽閉されました。そのとき、彼はすばらしい幻を見ました。天国にいる復活の主イエスの姿です。しかし、その姿があまりも偉大だったので、ヨハネは恐ろしさのあまり倒れて死人のようになりました。主イエスの墓を守っていた番兵と同じです。
倒れたヨハネに主イエスが近づいて右の手をヨハネの上に置いて「恐れるな。わたしは最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」栄光と一切の権威と力に満ちたイエスが、恐ろしさで倒れているヨハネに近づいてヨハネにそっと手を置かれました。そして「恐れる必要はない」と保証してくださるのです。復活の主は今も生きておられます。そして、私たち一人一人に「恐れるな」と声を掛けてくださるのです。私たちは、聖書を読むとき、祈るとき、瞑想するとき、いつでも復活の主イエスと出会うことができます。だから、私たちは何一つ恐れる必要はありません。主は今も、あなたの肩に手を置いて「恐れるな」と言って下さるのですから。
(イントロ)
主イエスは週の六日目、金曜日の夕方、ユダヤ議会のメンバーであったアリヤマタヤのヨセフという人物が提供した墓の中に葬られました。主イエスは、週の六日目の金曜日に、十字架の上で、私たちの罪を赦すための働きをすべて完了されました。そして、週の一日目、すなわち日曜日の朝、復活されました。ですから、主イエスは、墓の中に36時間ほどいたと思われます。36時間という時間は、彼が確かに死んだことを示すには十分な時間であったのと同時に、主イエスの体が腐り始める目に主がよみがえられたという絶妙な時間でありました。そして、主イエスは金曜日に死んで日曜日に復活されたのですが、ユダヤの数え方では最初の日と最後の日を加えて、金土日の三日目によみがえられたことになります。主は、繰り返し、三日目によみがえると言っておられましたし、旧約聖書にも、預言者ヨナが三日目に助け出されたことや、預言者ホセアの言葉の中にも「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。」という言葉があるように、主の三日目の復活は、このような預言の成就でありました。
主イエスは週の七日目、すなわち土曜日は、一日中墓の中におられました。天地創造のときに、神がその働きを六日目に完了して、7日目を休まれたちょうに、主イエスもその日、休まれました。ユダヤ人は土曜日を安息日と呼び、特別な日、あるいは祭りの日として旧約聖書に記された律法の教えを硬く守っていました。その土曜日に主イエスが一日中墓の中にいたことは、律法の時代が終わったことを意味します。そして、次の週の最初の日、すなわち日曜日に、主イエスは死からよみがえられて、新しい時代が始まったことを示されたのです。もはや、私たちは、律法の決まりを守ることによって裁かれるのではなく、主イエスの十字架と復活を信じる信仰によって裁かれるようになりました。
(1)人々は主イエスが死んだと思っていた(1節)
最初のイースターの朝、二人の女性がイエスの墓に行きました。主イエスによって悪霊から開放されたマグダラのマリヤともう一人別のマリヤでした。もう一人のマリヤは、27章の56節に出てくる「ヤコブとヨセフの母マリヤ」でした。この二人は、61節を見ると、主イエスの体が墓に収められたときに、近くで墓のほうを向いて座っていました。実は、主イエスに仕えている女性たちのグループが存在していました。彼女たちは、裕福な家庭の女性たちで、主イエスによって病気を癒されたり、悪霊から解放された女性たちでした。そして彼女たちは主のあとについて行って、いろいろな形で主イエスと弟子たちを助けていました。ルカの福音書8章2-3節にその女性たちのことが記されています。
主イエスを心から愛していた彼女たちは、イエスの十字架の処刑が終わり、イエスの体が墓に入れられた後も、その場所から立ち去ることができずに、そこにとどまっていました。彼女たちは、イエスの死体に油を塗ろうと思って、香油を買って、朝早くに墓に来たのです。彼女たちはイエスが死んだと思っていました。主イエスは、何度も繰り返して、ご自身が十字架の苦しみを受けた後、三日目によみがえることを弟子たちに教えておられるのですが、弟子たちも、またイエスにいつも従っていた女性たちも、主イエスの復活を信じることができませんでした。2000年前の人間にとっても、一度死んだ人間が復活するなんてことは到底信じられないことだったのです。
しかし、新約聖書の教えは復活を信仰のもっとも大切な基礎として教えています。パウロはコリント人への手紙第一の15章17、19-20節で次のように述べています。「、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
それでは、主イエスの復活は私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。第一に主イエスの復活はイエスが確かに神の御子であったことの証拠です。主イエスは次のように言われました。「わたしには、いのちを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」第二に、主イエスの復活は、聖書の言葉が信実であることの証拠です。旧約聖書の教えの中にも、また主イエスご自身の教えの中にも、復活ということが明らかに教えられています。もし、主イエスが復活されなかったなら、聖書の言葉もイエスの言葉も偽りであったことになります。第三に、主イエスの復活は、主イエスを信じるクリスチャンたちが将来、主イエスと同じように復活することを確信させるものです。私たちは、クリスチャンになるときに、洗礼を受けますが、パウロは、洗礼とは、私たちをキリストに結びつけるものであると教えています。
イエスに結び付けられた私たちは、キリストとともに、罪を持って生きていた古い自分に死に、キリストともに、新しいいのちに生きる者としてよみがえるのだと教えています。(ローマ6章4-11節)第四に、イエスの復活は私たちに新しく生きる力を与えてくれます。主は私たちの肉眼では見えませんが、今も生きておられます。そして聖霊というお姿を通して私たち一人一人に働いてくださいます。主イエスは、そのことを約束して、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、そのときに、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わすからです。」と言われました。クリスチャンの力は、今も生きておられる復活の主がともにいてくださるという確信から来ます。自分がどんなに弱くても、全能者であるお方が一緒にいてくださるということを知っているので、生きる力が与えられるのです。
(2)彼女たちは主がよみがえれたことを聞いた(2-8節)
主イエスの復活は特別な出来事でした。そして、不思議な現象が伴いました。2-4節には次のように書かれています。「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りてきて、石をわきへ転がして、その上に座ったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」主イエスの墓にはローマ軍の番兵がいました。誰かが主イエスの遺体を盗んでいかないように見張っていたのです。しかし、人間は誰一人として主イエスの復活をとどめることはできません。誰も気がつかないうちに主イエスは復活され、すでにその墓場から離れていました。
そこへ、御使いが番兵たちの前に姿を現したのですが、彼らは、御使いたちの白く輝く姿を見て驚きのあまり気を失ってしまいました。御使いは墓場に来ていた女たちの心を知っていました。彼女たちは主イエスの復活を確認するためではなく、イエスの遺体に油を塗るために来ていました。彼女たちは主イエスの十字架の死によって戸惑っていました。それで、御使いが彼女たちに言った言葉は「恐れるな」という言葉だったのです。彼女たちは主イエスによって病気を癒され、悪霊から解放されるという体験を持っており、イエスの教えに感動して、主についてきた女性たちです。それだけに、主イエスの十字架の死は彼女たちを失望させました。
もし、彼女たちが主イエスの復活を知らないまま生き続けたならば、彼女たちがどれほど主イエスを愛していたとししても、その生活はまったく無意味です。主イエスの復活がなかったならば、主イエスは罪を穂滅ぼすことがなく、ご自身も死によって滅ぼされたことになります。しかし、感謝なことに、主イエスは確かに三日目によみがえられました。そして私たちを束縛する罪と死の力を打ち破り、ご自身が確かに神であることを証明されました。主イエスが復活した日曜日は、ユダヤ教の暦では、「過ぎ越しの祭り」が行われている日曜日でした。このお祭りは過去の出来事を祝うこととともに、麦の収穫を祝う祭りでもありました。エルサレムの神殿では、大祭司が、各地でとれた麦の初穂を並べて、主に収穫の感謝を表しましたが、これらの初穂は、その後収穫されるすべての麦を代表するシンボルでした。聖書には、主イエスは私たちのための初穂として死からよみがえられたと書かれています。
復活された主イエスは、見た目は復活前と同じでしたが、実質はまったく異なる栄光の姿にかえられていましたので、時間にも空間にも縛られない自由な体になっていました。このことは、私たちも、やがて、世の終わりのときに、主イエスと同じように、栄光の体を受けて復活することを約束するものです。そのとき、私たちは、本当に自由なものとなり、もはや、二度と病気になったり、痛んだり、くちたりすることのない者へと変えられるのです。
(3)彼女たちは復活の主イエスと出会った
御使いから「主が復活されたことを弟子たちに伝えなさい」と言われた彼女たちは、その言葉に従って弟子たちのところへ向かいました。すると、その途中で彼女たちは復活の主イエスに出会いました。復活の主イエスが彼女たちに言った言葉も御使いと同じく「恐れてはいけません。」という言葉でした。復活の主イエスを信じるわたしたちにとって一番力強いことは、主が全能者であるほどお方が私たちに声を掛けてくださること。私たちと交わりを持ってくださることです。弟子のヨハネも主から声を掛けられて大いに励まされる経験をしています。それはヨハネの黙示録の1章に書かれています。ヨハネは弟子たちの中で一番長生きをしたのですが、激しい迫害を受けて現在のトルコ沖に浮かぶパトモスという島に流され監獄に幽閉されました。そのとき、彼はすばらしい幻を見ました。天国にいる復活の主イエスの姿です。しかし、その姿があまりも偉大だったので、ヨハネは恐ろしさのあまり倒れて死人のようになりました。主イエスの墓を守っていた番兵と同じです。
倒れたヨハネに主イエスが近づいて右の手をヨハネの上に置いて「恐れるな。わたしは最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」栄光と一切の権威と力に満ちたイエスが、恐ろしさで倒れているヨハネに近づいてヨハネにそっと手を置かれました。そして「恐れる必要はない」と保証してくださるのです。復活の主は今も生きておられます。そして、私たち一人一人に「恐れるな」と声を掛けてくださるのです。私たちは、聖書を読むとき、祈るとき、瞑想するとき、いつでも復活の主イエスと出会うことができます。だから、私たちは何一つ恐れる必要はありません。主は今も、あなたの肩に手を置いて「恐れるな」と言って下さるのですから。
