礼拝説教2008年3月2日  「神の生ける石」第一ペテロ 2章1-10節

2008.03.04

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 今日読んだペテロの手紙によれば、神は今日、別の神殿を建てておられます。しかし、それは石でできた神殿ではなく、生ける石による神殿だとペテロは言っています。私たちを取り巻く社会が石切り場であり、そこから神は生ける石を切り出されるのです。「神様は今、私たちの世界で何をしているのか?」と尋ねる人がいると思います。その問いに対する私の答えは「神様は今、神殿を建てておられます。そしてあなたも私も、その神殿の建設に携わることができます。」です。その答えには三つの理由があります。


(1) 神の神殿は石を必要としている

 第一に、神の神殿は石、生ける意思を必要としています。ここで分かることは、建物はまだ完成していないことです。主イエス・キリストという栄光に満ちた土台はすでに据えられました。そして壁が立ち上がっています。しかし、この建物が完成するにはさらに多くの石が加えられることが必要なのです。

 神の神殿のための石が岩から切り出され、据えられるべき場所に置かれなければなりません。まず第一に、石は切り出されなければなりません。石切り場を訪れたり、その現場の写真を見ると、大きな石を切り出す仕事が大変なもので危険を伴う作業であることが分かります。また、大きな力も必要です。神様は、神の民に神様が彼らのためになされたことを思い起こさせるために、イザヤ書51章1節で、「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」と言われました。2節にはアブラハムやサラのことが書かれているので、切り出された岩とはイスラエルの民の先祖を表しています。クリスチャンとして、私たちは神様が私たちのためにしてくださったことを思い返すことは大切なことです。神様が私たちを罪深い人間という岩から私たちを切り出してくださり、神の神殿に用いられる生ける石へと作り変えてくださいました。

 神が今建てられている神殿に用いられる石は、普通の石ではなく、生ける石でなければなりません。神様は文字通りの石や木材を使って神殿を建てておられるのではありません。人々を用いて神殿を建てておられるのです。ペテロは人々のことを生ける石と呼びました。この生ける石とは誰のことでしょうか。ペテロは4節で「主は人には捨てられたが、神の目には選ばれた尊い、生ける石です。」主イエスは死からよみがえられ、今も生きておられ、永遠に生きておられる方です。また、イエスを信じる人々に永遠の命を与えてくださる方なので、ペテロは「生ける石」と呼びました。そしてさらにペテロは5節で、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築きあげられなさい。」と言っています。これは、キリストのもとへ来た人は、キリストに結びつくことによって生ける石になるという意味です。あなたはキリストのもとへ来ましたか。クリスチャンとは、永遠の神であり、私たちを愛してくださるキリストに結びついて生きる人のことです。主はあなたを招いておられます。そして主の約束は、ヨハネの6章37節には、「私のもとへ来る人を、私は決して見捨てることはない。」と書かれています。キリストのもとへ来られましたか。キリストのところへ来てはじめて私たちは神の神殿の生ける石になることができるのです。

 神の神殿で生ける石は、互いに似たものでなければなりません。使徒パウロが神の神殿について、次のように述べています。「キリスト・イエスご自身が礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し神の宮となるのです。」私たちは神様が神殿において、私たちのために備えておられる場所にぴったりはまるために、私たちが作り変えられる必要があるのです。聖霊が私たちを削り、信徒たちが神殿の中で互いにうまく組み合わされるように形を整えてくださるのです。それは時には痛みをともないます。しかし、神様の目的を考えてください。私たちを神がお住みになる場所としての神殿の一部に組み入れるという目的です。天において、この建築の働きが完成することになります。天においては、もはや金槌やのみの音は聞こえません。石の形を整える働きはすでに完了しているからです。

 あなたは他の生ける石である人と、トラブルを経験していますか。兄弟姉妹との交わりに困難を感じていますか。それでは、神様に、あなたのうちにあるとがった部分を削ってもらうように祈ってください。問題は周りの人にあるのではなく、自分にあるかもしれないからです。あなたこそ、神殿の一部に組み入れられるために、形を整えてもらう必要があるかもしれないのです。


(2) 神の神殿は聖なる祭司を必要としている

 第二に、神の神殿は聖なる祭司を必要としています。祭司という言葉にびっくりするかもしれません。ご存知のように、クリスチャンはキリストの学校の弟子であり、キリストの軍隊の兵士であり、キリストのためのレースを走るランナーです。しかし、私たちが祭司とはどういう意味でしょうか。ペテロは何と言っているでしょうか。ペテロは、「私たちは生ける石として霊的な建物、聖なる祭司として建て上げられる」と言っています。また9節でも彼は信者たちが王の祭司であると繰り返しています。

 しかし、信徒が祭司であると述べているのはペテロだけではありません。黙示録1章5,6節で、ヨハネはキリストは私たちを王とし、神に仕える祭司とされたと書いています。ペテロと同じように、ヨハネもこのことを黙示録5章10節で繰り返しています。ペテロとヨハネが信徒たちを祭司と呼んだとき、彼えらはクリスチャンの中に特別なレベルに属する人がいることを意味しているのではありません。新約聖書では、すべての信者が神に仕える祭司であると教えています。そして、神様は聖なる祭司を捜し求めています。

 第一に、6節から、祭司は水で洗われた者であることが分かります。これは、神の言葉という水による洗いを表しています。神の言葉は わたしたちが従うときに、わたしたちの罪を洗い清めてくれます。エペソ5章25節に、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をお与えになったと書かれていますが、それはキリストが教会を清め、言葉を伴う水の洗いによって清めるためでした。また、詩篇119篇9節で、詩篇の記者は尋ねています。「若者はどのようにして自分の道をきよめられるか」そして、その問いに対する彼自身の答えは、「御言葉のとおりに道を保つこと」と述べています。

祭司は水によって洗われるだけではありません。祭司には血が塗られます。(レビ記8章24節) モーセが、いけにえの雄羊の血を取って、それを祭司の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗りました。その理由は簡単です。モーセは祭司の体のこの三つの部分、耳と手と足です。この3つの部分に血を塗ることによって、彼らは罪から清められ、この三つの部分が神に捧げられるとモーセは言っています。あなたは神があなたの耳、手、足に触れられたことに気づいていますか。神はあなたが神の声を聞くこと、神のために働くこと、神の道を歩くことを望んでおられます。イエスの血は私たちを清め神のために仕えることができる者とします。

 旧約時代の祭司は水によって洗われ、血が塗られましたが、さらに油注ぎを受けました。レビ記8章30節を見ると、モーセは聖別の油を取り、それを祭司の衣服の上に振りまきました。このようにして、モーセは祭司を聖別したのです。そこで、新約聖書がわたしたちが祭司であると述べていることの意味を知ることができます。わたしたちは、神の言葉による水の洗いを受け、主イエスの血を塗られ、聖霊のシンボルである油の注ぎを受けるのです。聖なる祭司になるとはこのようなことを意味します。わたしたちが神に召され、神によって清められ、聖別されることを意味します。


(3) 神の神殿は自発的な献身を必要とする

 神は神殿に生ける石を必要としています。また、神は神のために働く聖なる祭司を探し求めています。しかしそれだけではありません。ペテロは、神は自発的な献身を捜し求めておられると述べています。このことに関して神の思いははっきりしています。生ける石として、わたしたちは霊的な建物に組み入れられます。聖なる祭司として、イエス・キリストを通して神に受け入れられる霊的な捧げものをすることが求められています。

 この点について説明を加えます。新約聖書の祭司として、わたしたちは自分の罪のなだめの供え物として血をささげるようにとは命じられていません。そのことは、主イエスが十字架の上ですべて完了してくださいました。ヘブル9章26節「世の終わりにただ一度、ご自身をいけにえとして捧げて罪を取り去るために現れてくださいました。」28節「キリストは多くの人の罪を負うためにただ一度身を捧げられました。」わたしたちは、このような捧げものを神に捧げることはできません。また、捧げる必要もありません。なぜなら、キリストがすでにご自身を捧げられたからです。」


 それでは、神はどのような種類の捧げものを探し求めておられるのか。いくつか例を挙げたいと思います。わたしたちが神に対してささげる最高の捧げものはローマ書12章1-2節に記されています。パウロは私たちが自分自身を神に受け入れられる聖なる生きた供え物として捧げるように勧めています。そして、それこそがわたしたちの霊的な礼拝だとパウロは言っています。あなたはこのように自分自身を捧げているでしょうか。あなたの体を生ける捧げものとして祭壇に置きましたか。あなたが生ける石であるならば、神はあなたがたが、自分自身を捧げることを望んでおられます。

 神がわたしたち神の民から求めているもう一つの献げものは良い働きという捧げものです。ヘブル13章16節に「善い行いと施しを忘れないでください。このようないけにえこそ神はお喜びになるのです。」と書かれています。また、使徒10章38節に「主イエスは、方々を巡り歩いて善い働きをされた」書かれていますが、わたしたちがキリストのようになりたいと思うなら、わたしたちは良い働きをし、神から受けたものを他の人々と分かちあわなければなりません。

 神が喜ぶ第三の捧げものはわたしたちの献金です。ピリピ教会がローマにいたパウロに金銭の贈り物をしたときに、パウロは次のように述べています。ピリピ4章18節「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロデトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」

 エペソにあるアルテミスの神殿が建てられたとき、エペソの女性たちが自分の宝石を売って献金しました。わたしたちは神の神殿がこの日本や世界で立てられていくときに、何を捧げることができるでしょうか。

 他の捧げものを考える人もいるでしょう。その一つは賛美です。ヘブル書13章15節はこう述べています。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に捧げましょう。」賛美とは神に向かって歌うことだけではありません。神に向かって語られた賛美と感謝の言葉も賛美です。

 わたしたちはもう一つの捧げものとして祈りを忘れてはなりません。詩篇141篇2節で、詩篇の記者は神に向かってこう言いました。「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を夕べの供え物としてお受けください。」あなたが聖なる手を上げて神に向かって祈りをささげるたびに、あなたは神に捧げものを捧げているのです。もし、その一人が義なる心から出たものであるならば、神はその祈りを点で受けてくださいます。

 わたしたちは神がご自身が住まわれる場所として神殿を建てておられることを御言葉で学びました。その神殿のために、神は生ける石を必要とし、聖なる祭司を必要とし、自発的な捧げものを必要としておられます。わたしたちクリスチャンは皆、神の神殿が建てられるために何かをすることができます。あなたは神殿の壁を作る生ける石です。祭司として神の神殿で働くことができます。そして、あなたの捧げものをさ捧げることができるのです。