礼拝説教 2008年2月3日 「主イエスの苦悩」(マタイ26章36〜46節)
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(イントロ)
主イエスにとって、弟子たちとの最後の食事は結局のところ、主を失望させるものとなりました。主イエスは12人の弟子たちと3年半生活を共にし、彼らを教え、彼らを訓練し、さまざまな働きに彼らを用いられました。しかし、この最後の食事の最中に、イスカリオテのユダは主イエスを裏切る計画を実行するために部屋から出て行きました。弟子たちの間では、ライバル意識が強く誰が一番偉いのかという議論を繰り返しています。また、主は弟子たちに、「今夜、あなたがたは、みな私につまずくだろう」、彼らの失敗を預言されました。それに対してペテロは力をこめて反論しましたが、ペテロには彼が失敗することをはっきりと言わなければなりませんでした。また、ルカの福音書22章37節では、主イエスは「『彼は罪びとたちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。」と言われたのですが、すると弟子たちは「主よここに、剣が二振りあります。」と答えています。主イエスは十字架のことを語っておられるのですが、弟子たちは主の言葉の意味が分からず、この世の力で戦おうとしています。弟子たちは十字架の時が来ても、いまだに霊的なことが分かっていませんでした。それで、主は弟子たちに「もう十分だ」と言われました。霊的なことを理解しない弟子たちに、もう何も語るなと言われたのです。
(1)主イエスの苦しみ
主イエスは弟子たちとの最後の食事を終えられると、祈りをするために弟子たちを連れてゲッサマネの園と呼ばれる庭へ行かれました。ゲッセマネとは「油絞り」という意味ですが、そこはオリーブ山のふもとにあって、たくさんのオリーブの木が生えていて、そこでオリーブオイルが作られていました。主はゲッセマネの園で血の汗を流すほどの苦しみを味わわれました。37,38節で、主イエスはひどく苦しんでおられます。「それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。その時、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。」この姿は、いつもの主イエスとかけ離れています。主イエスは地上では神の子として3年あまり働かれましたが、その最初から最後まで、主は決して恐れることなくいつも堂々としておられました。公の働きを始める前に、主は荒野でサタンから40日の間誘惑を受けられました。しかし、どんな誘惑にも決して揺れることなく、聖書の言葉をもって退けられました。また、神の子としての働きを始めて間もない頃、故郷のナザレで人々の怒りを買い、町の外れの崖から突き落とされそうになりましたが、イエスはまったく動じることなく、彼らの真ん中を通りぬけて立ち去って行かれました。嵐に襲われても嵐を沈め、悪霊に取りつかれた人々を解き放ち、宗教的な偽善者には厳しい言葉で非難されました。また、自分が死ぬことに対しても全く恐れる様子はありませんでした。ルカの福音書の9章には、十字架の日が近づいて来たころ、イエスはエルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられたと書かれていますし、その後、主イエスは弟子たちに繰り返して、ご自分が多くの苦しみを受け、殺され、三日目に蘇らなければならないことを話しておられるのです。それなのになぜ、主イエスはゲッセマネの園で「悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われたのでしょうか。そして、ルカの福音書の記述によれば、「イエスは、苦しみ悶えて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」と書かれています。初代教会の時代、多くのクリスチャンは激しい迫害を受けていました。ローマのコロッセオは、最初は剣士たちの戦いを見せる場所でしたが、クリスチャンへの迫害が激しくなると、そこはクリスチャンの処刑の場所となりました。多くのクリスチャンが投げ込まれ、そこへ、腹をすかしたライオンが放たれました。また、多くの信者が木に張り付けになり、火がつけられました。その様子をローマ市民は見世物のように楽しんで見ていたのです。クリスチャンが処刑されるとき、いつもコロッセオには賛美歌の歌声が聞こえていたそうです。クリスチャンは神様に讃美歌を歌いながら殺されていきました。それ以外にも、堂々とした態度で死を迎えた人はクリスチャン以外でも数多くいます。それなのに、主イエスはなぜ、ゲッセマネの園であのようにひどく苦しまれたのでしょうか。
主イエスは、40日間断食をしている時に、サタンから誘惑を受けられました。「あなたが持っている神の力を使って、石をパンに変えてみなさい。そうすれば、あなたの空腹は消えるだろう。」しかし、主イエスはこの奇跡を行われませんでした。十字架に貼り付けになった時は、イエスを見ていた群集が「お前は他人は救えても自分は救えないのか?十字架から降りてみろ。そうすれば、お前のことを信じるぞ。」とイエスを罵りましたが、主は十字架から降りられませんでした。主イエスは自分のいのちを守るために奇跡をすることはありませんでした。ですから、主が苦悩しておられたのは死ぬことが怖かったからではないことは明らかです。主が苦しまれた理由は第一に、この十字架の死が罪の結果としての死であることを知っておられたからです。主イエスは神です。神は聖なる方で、罪とはまったく関わりのない方です。神がもっとも嫌うのは罪です。罪を持っている人は神の怒りを受けなければならないと聖書に書かれています。そのような聖なる方が、罪の刑罰としての死である十字架の刑罰の恐ろしさをひとつも漏らすことなく味わおうとしておられたのです。罪びとである私たちには、罪と一切のかかわりを持たない神が罪を背負うことの深刻さを十分に理解することができません。主イエスは自分のためではなく、私たちのために、私たちが受けるべき恐ろしい刑罰をこのような苦悩の中で受けてくださいました。第二に、十字架の死は、神の裁きの結果としての死でした。御子イエスは、ヨハネの福音書10章で次のように言われました。「私と父とはひとつである。」(30節)「父がわたしのうちにおられ、わたしが父の内にいることをあなたたちは知り、また悟るであろう。」(38節)御子イエスは父なる神と完全にひとつであり、完全な交わりを持っておられました。その御子が父なる神の怒りを受け、神の裁きを受けなければならなかったのです。第一ヨハネ2章2節にはこう書かれています。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」神であるお方がわたしたちの身代わりのいけにえとなってくださったのです。肉体の苦しみは主イエスにとって問題ではなく、魂の苦しみ、霊的な苦しみを何一つ残さず味わってくださったのです。
実はわたしたちが神の怒りを受けるということは、このときに主イエスが味わわれたような苦しいことなのです。多くの人は肉体的な苦しみだけを考えていますが、実は霊的な死の苦しみのほうがはるかに大きいのです。迫害を受けた多くのクリスチャンがなぜ堂々とした態度で殉教することができたのでしょうか。それは、魂の死の問題が主イエスの十字架によって解決しているので、その苦しみから解放されていたからです。クリスチャンは肉体は死んでも魂は神のもとへと移され、永遠に神に守られ、神とのすばらしい交わりの中に生きることを知っていたから、死をも恐れることがなかったのです。それは、主イエスがわたしたちの変わりにこの魂の滅び、罪の裁き、神の怒りの恐ろしいすべてのものを身代わりにすべて味わってくださったからなのです。イエス・キリストの苦しみのゆえに、わたしたちは罪を赦され、癒されたことを忘れてはなりません。
(2)イエスの祈り
イエスは、3人の弟子を残して、一人で祈られました。最初に主イエスの口から出た言葉は「わが父よ。」という呼びかけの言葉でした。これは御子イエスと父親の親しい関係を表しています。「わが父」と訳されているのは「アバ」という言葉ですが、これは幼い子供が父親を呼ぶ時の言葉です。イエスは神であり、神と等しい方であり、神と共におられた方ですが、何よりも父なる神の子供という関係の中に存在されました。「アバ」という呼びかけの言葉は、主イエスが父なる神を全面的に信頼していることを現わしています。ある神学者は次のように言いました。「基本的にクリスチャンの祈りは、聖霊の働きを通して御子イエスによって父なる神に届けられる。そして父なる神の基本的な働きは子を守ることである。」私たちも、主イエスが十字架の苦しみを味わってくださったことによって、本当は近づくことのできない、父なる神様に直接祈りをささげることができるようになりました。私たちが祈る時にいつも「愛する天のお父様」と呼びかけて祈りますが、これは私たちが父なる神に直接祈ることが許される新しい関係に入ったことを意味します。私たちにはどんなに困った状況になっても、人間的には絶体絶命のような状況に陥っても、いつでも「アバ父よ」「天の父なる神様」と祈り叫ぶことが許されているのです。
次に主イエスは「できますならば」と言われました。つまり、「あなたがそれを行う気持ちを持っておられるならば」という祈りです。主はある時、「人にはできないことが、神にはできるのです。」英語の訳では、「人には不可能なことでも神には可能なのです。」ですから、主イエスは、父なる神がその心ひとつでどんなことでも出来ることを知っておられました。ただ、父なる神の御心を確認しておられるのです。もしも、他の方法があるならば、父なる神がその方法を取ることを願っておられます。続いて主イエスが言われたことは「この杯を過ぎ去らせてください。」という願いでした。この杯とは、神の怒りの杯です。全人類の罪と汚れのすべてが詰まった杯です。罪を最も嫌い、罪とは一切のかかわりを持っておられない主イエスが、罪と汚れに満ちた恐ろしい杯を飲み干さなければならないのです。その汚れた杯を前にして、聖なる神の御子であるイエスの心が揺さぶられているのです。それほどに十字架に表される人間の罪の汚れは、神の目にはどこまでも毒々しいものなのです。しかし、主は続けて言われました。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」イエスの心には二つの思いがありました。ひとつは神の裁きや神の怒りから逃れたい思いであり、もう一つは、父なる神の御心を行いたいという願いです。そして、イエスは父の御心を行う道を選ばれました。その覚悟ができていました。イエスの弟子ペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢屋であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と断言しましたが、彼にはその言葉を実行する覚悟も、心の準備もできていませんでした。しかし、主イエスはこれから自分が味わわなければならないものが、どんなものかよく知っておられました。主がこの祈りを祈ってくださったからこそ、私たちのために、罪から救われる道が開かれたのです。へブル書5章7節〜9節には次のように書かれています。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そして、その経験のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して救いを与える者となられました。」主イエスが、完全に父なる神の御心に従ってくださったので、私たちに救いが実現したのです。
イエスの祈りを見てわかることは、祈りとは神との交わりのプロセスだということです。確かに、私たちは祈りの中で神に願い事をし、多くの場合、神はその願いを聞き入れてくださいます。しかし、何よりも祈りは、私たちと神との交わりを深めます。祈ることによって神様への信頼が深まり、私たちの神への従順が深まります。そして、大切なことは、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」と祈ることです。神の御心に従う用意ができている人の祈りを、神様は聞き届けてくださるのです。主イエスはゲッセマネの園での祈りを終えられると、新しい力が与えられていました。46節で、主は眠りとぼけていた弟子たちに言われました。「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」祈りを終えた主イエスは、自分のために神が供えられた、たたきの道へと出発されました。バークレーという人はこう言いました。「神の前に祈る者は、人の前に確信を持って立つことができる。祈りにおいて天国に入る者が、地上で戦うことができるのである。」
(イントロ)
主イエスにとって、弟子たちとの最後の食事は結局のところ、主を失望させるものとなりました。主イエスは12人の弟子たちと3年半生活を共にし、彼らを教え、彼らを訓練し、さまざまな働きに彼らを用いられました。しかし、この最後の食事の最中に、イスカリオテのユダは主イエスを裏切る計画を実行するために部屋から出て行きました。弟子たちの間では、ライバル意識が強く誰が一番偉いのかという議論を繰り返しています。また、主は弟子たちに、「今夜、あなたがたは、みな私につまずくだろう」、彼らの失敗を預言されました。それに対してペテロは力をこめて反論しましたが、ペテロには彼が失敗することをはっきりと言わなければなりませんでした。また、ルカの福音書22章37節では、主イエスは「『彼は罪びとたちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。」と言われたのですが、すると弟子たちは「主よここに、剣が二振りあります。」と答えています。主イエスは十字架のことを語っておられるのですが、弟子たちは主の言葉の意味が分からず、この世の力で戦おうとしています。弟子たちは十字架の時が来ても、いまだに霊的なことが分かっていませんでした。それで、主は弟子たちに「もう十分だ」と言われました。霊的なことを理解しない弟子たちに、もう何も語るなと言われたのです。
(1)主イエスの苦しみ
主イエスは弟子たちとの最後の食事を終えられると、祈りをするために弟子たちを連れてゲッサマネの園と呼ばれる庭へ行かれました。ゲッセマネとは「油絞り」という意味ですが、そこはオリーブ山のふもとにあって、たくさんのオリーブの木が生えていて、そこでオリーブオイルが作られていました。主はゲッセマネの園で血の汗を流すほどの苦しみを味わわれました。37,38節で、主イエスはひどく苦しんでおられます。「それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。その時、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。」この姿は、いつもの主イエスとかけ離れています。主イエスは地上では神の子として3年あまり働かれましたが、その最初から最後まで、主は決して恐れることなくいつも堂々としておられました。公の働きを始める前に、主は荒野でサタンから40日の間誘惑を受けられました。しかし、どんな誘惑にも決して揺れることなく、聖書の言葉をもって退けられました。また、神の子としての働きを始めて間もない頃、故郷のナザレで人々の怒りを買い、町の外れの崖から突き落とされそうになりましたが、イエスはまったく動じることなく、彼らの真ん中を通りぬけて立ち去って行かれました。嵐に襲われても嵐を沈め、悪霊に取りつかれた人々を解き放ち、宗教的な偽善者には厳しい言葉で非難されました。また、自分が死ぬことに対しても全く恐れる様子はありませんでした。ルカの福音書の9章には、十字架の日が近づいて来たころ、イエスはエルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられたと書かれていますし、その後、主イエスは弟子たちに繰り返して、ご自分が多くの苦しみを受け、殺され、三日目に蘇らなければならないことを話しておられるのです。それなのになぜ、主イエスはゲッセマネの園で「悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われたのでしょうか。そして、ルカの福音書の記述によれば、「イエスは、苦しみ悶えて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」と書かれています。初代教会の時代、多くのクリスチャンは激しい迫害を受けていました。ローマのコロッセオは、最初は剣士たちの戦いを見せる場所でしたが、クリスチャンへの迫害が激しくなると、そこはクリスチャンの処刑の場所となりました。多くのクリスチャンが投げ込まれ、そこへ、腹をすかしたライオンが放たれました。また、多くの信者が木に張り付けになり、火がつけられました。その様子をローマ市民は見世物のように楽しんで見ていたのです。クリスチャンが処刑されるとき、いつもコロッセオには賛美歌の歌声が聞こえていたそうです。クリスチャンは神様に讃美歌を歌いながら殺されていきました。それ以外にも、堂々とした態度で死を迎えた人はクリスチャン以外でも数多くいます。それなのに、主イエスはなぜ、ゲッセマネの園であのようにひどく苦しまれたのでしょうか。
主イエスは、40日間断食をしている時に、サタンから誘惑を受けられました。「あなたが持っている神の力を使って、石をパンに変えてみなさい。そうすれば、あなたの空腹は消えるだろう。」しかし、主イエスはこの奇跡を行われませんでした。十字架に貼り付けになった時は、イエスを見ていた群集が「お前は他人は救えても自分は救えないのか?十字架から降りてみろ。そうすれば、お前のことを信じるぞ。」とイエスを罵りましたが、主は十字架から降りられませんでした。主イエスは自分のいのちを守るために奇跡をすることはありませんでした。ですから、主が苦悩しておられたのは死ぬことが怖かったからではないことは明らかです。主が苦しまれた理由は第一に、この十字架の死が罪の結果としての死であることを知っておられたからです。主イエスは神です。神は聖なる方で、罪とはまったく関わりのない方です。神がもっとも嫌うのは罪です。罪を持っている人は神の怒りを受けなければならないと聖書に書かれています。そのような聖なる方が、罪の刑罰としての死である十字架の刑罰の恐ろしさをひとつも漏らすことなく味わおうとしておられたのです。罪びとである私たちには、罪と一切のかかわりを持たない神が罪を背負うことの深刻さを十分に理解することができません。主イエスは自分のためではなく、私たちのために、私たちが受けるべき恐ろしい刑罰をこのような苦悩の中で受けてくださいました。第二に、十字架の死は、神の裁きの結果としての死でした。御子イエスは、ヨハネの福音書10章で次のように言われました。「私と父とはひとつである。」(30節)「父がわたしのうちにおられ、わたしが父の内にいることをあなたたちは知り、また悟るであろう。」(38節)御子イエスは父なる神と完全にひとつであり、完全な交わりを持っておられました。その御子が父なる神の怒りを受け、神の裁きを受けなければならなかったのです。第一ヨハネ2章2節にはこう書かれています。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」神であるお方がわたしたちの身代わりのいけにえとなってくださったのです。肉体の苦しみは主イエスにとって問題ではなく、魂の苦しみ、霊的な苦しみを何一つ残さず味わってくださったのです。
実はわたしたちが神の怒りを受けるということは、このときに主イエスが味わわれたような苦しいことなのです。多くの人は肉体的な苦しみだけを考えていますが、実は霊的な死の苦しみのほうがはるかに大きいのです。迫害を受けた多くのクリスチャンがなぜ堂々とした態度で殉教することができたのでしょうか。それは、魂の死の問題が主イエスの十字架によって解決しているので、その苦しみから解放されていたからです。クリスチャンは肉体は死んでも魂は神のもとへと移され、永遠に神に守られ、神とのすばらしい交わりの中に生きることを知っていたから、死をも恐れることがなかったのです。それは、主イエスがわたしたちの変わりにこの魂の滅び、罪の裁き、神の怒りの恐ろしいすべてのものを身代わりにすべて味わってくださったからなのです。イエス・キリストの苦しみのゆえに、わたしたちは罪を赦され、癒されたことを忘れてはなりません。
(2)イエスの祈り
イエスは、3人の弟子を残して、一人で祈られました。最初に主イエスの口から出た言葉は「わが父よ。」という呼びかけの言葉でした。これは御子イエスと父親の親しい関係を表しています。「わが父」と訳されているのは「アバ」という言葉ですが、これは幼い子供が父親を呼ぶ時の言葉です。イエスは神であり、神と等しい方であり、神と共におられた方ですが、何よりも父なる神の子供という関係の中に存在されました。「アバ」という呼びかけの言葉は、主イエスが父なる神を全面的に信頼していることを現わしています。ある神学者は次のように言いました。「基本的にクリスチャンの祈りは、聖霊の働きを通して御子イエスによって父なる神に届けられる。そして父なる神の基本的な働きは子を守ることである。」私たちも、主イエスが十字架の苦しみを味わってくださったことによって、本当は近づくことのできない、父なる神様に直接祈りをささげることができるようになりました。私たちが祈る時にいつも「愛する天のお父様」と呼びかけて祈りますが、これは私たちが父なる神に直接祈ることが許される新しい関係に入ったことを意味します。私たちにはどんなに困った状況になっても、人間的には絶体絶命のような状況に陥っても、いつでも「アバ父よ」「天の父なる神様」と祈り叫ぶことが許されているのです。
次に主イエスは「できますならば」と言われました。つまり、「あなたがそれを行う気持ちを持っておられるならば」という祈りです。主はある時、「人にはできないことが、神にはできるのです。」英語の訳では、「人には不可能なことでも神には可能なのです。」ですから、主イエスは、父なる神がその心ひとつでどんなことでも出来ることを知っておられました。ただ、父なる神の御心を確認しておられるのです。もしも、他の方法があるならば、父なる神がその方法を取ることを願っておられます。続いて主イエスが言われたことは「この杯を過ぎ去らせてください。」という願いでした。この杯とは、神の怒りの杯です。全人類の罪と汚れのすべてが詰まった杯です。罪を最も嫌い、罪とは一切のかかわりを持っておられない主イエスが、罪と汚れに満ちた恐ろしい杯を飲み干さなければならないのです。その汚れた杯を前にして、聖なる神の御子であるイエスの心が揺さぶられているのです。それほどに十字架に表される人間の罪の汚れは、神の目にはどこまでも毒々しいものなのです。しかし、主は続けて言われました。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」イエスの心には二つの思いがありました。ひとつは神の裁きや神の怒りから逃れたい思いであり、もう一つは、父なる神の御心を行いたいという願いです。そして、イエスは父の御心を行う道を選ばれました。その覚悟ができていました。イエスの弟子ペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢屋であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と断言しましたが、彼にはその言葉を実行する覚悟も、心の準備もできていませんでした。しかし、主イエスはこれから自分が味わわなければならないものが、どんなものかよく知っておられました。主がこの祈りを祈ってくださったからこそ、私たちのために、罪から救われる道が開かれたのです。へブル書5章7節〜9節には次のように書かれています。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そして、その経験のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して救いを与える者となられました。」主イエスが、完全に父なる神の御心に従ってくださったので、私たちに救いが実現したのです。
イエスの祈りを見てわかることは、祈りとは神との交わりのプロセスだということです。確かに、私たちは祈りの中で神に願い事をし、多くの場合、神はその願いを聞き入れてくださいます。しかし、何よりも祈りは、私たちと神との交わりを深めます。祈ることによって神様への信頼が深まり、私たちの神への従順が深まります。そして、大切なことは、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」と祈ることです。神の御心に従う用意ができている人の祈りを、神様は聞き届けてくださるのです。主イエスはゲッセマネの園での祈りを終えられると、新しい力が与えられていました。46節で、主は眠りとぼけていた弟子たちに言われました。「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」祈りを終えた主イエスは、自分のために神が供えられた、たたきの道へと出発されました。バークレーという人はこう言いました。「神の前に祈る者は、人の前に確信を持って立つことができる。祈りにおいて天国に入る者が、地上で戦うことができるのである。」
