礼拝説教 2008年1月13日 『裏切り者の取引き』(マタイ26章14-16節)
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今年のカレンダーでは、主イエスの復活を祝うイースターは3月23日です。そして主が十字架にかかられた金曜日は3月21日です。今日から、しばらく、マタイの福音書の最後の部分、十字架に関する記事を読みたいと思います。マタイの福音書では26章から、いよいよ主イエスは十字架の苦しみと死を味わう準備を始めます。26章では3つの段階、3つの場所で、主イエスと主に敵対する人々の間の対立がますます激しくなって行きます。この3つの場所とは、最初がベタニヤという小さな村での出来事です。第2は、エルサレムにあった2階の部屋の中での出来事です。そして第3はゲッセマネの園と呼ばれたオリーブの木が植えられた庭でした。今日は、特にベタニヤでの出来事を中心に考えたいと思います。26章の2節で、主イエスは弟子たちにもう一度、やがて起ころうとしている出来事について語られました。「「あなたがたの知っているとおり、二日経つと過越しの祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
そのころ、ユダヤの指導者たちはイエスを殺そうと考えていました。しかし、ちょうどこの時、ユダヤ人にとって最大のお祭りである「過越しの祭り」が近づいていました。過越しの祭り自体は一日で終わるのですが、次の日から7日間は、「種を入れないパンの祭り」が続くため、この1週間全部を過越しと呼ぶことも多かったようです。この祭りには海外に住むユダヤ人たちも大勢参加したため、エルサレムの町は、その間、非常に多くの群集で少し異様な雰囲気になっていたようです。ある年の記録ではこの1週間に200万人以上の人がエルサレムに来ていけにえの動物をささげたそうです。そのためユダヤの指導者たちは、ひそかにイエスを捕らえる方法を考えていました。このとき、ユダヤ教の最高指導者である大祭司はヨセフ・カヤパという人間でした。この人は大祭司を任命する権限を持っていたローマ政府にうまく協力をしていたためAD18年から35年まで、大祭司の地位についていました。これは、大祭司としては異例の長い期間でした。ところが、主が十字架につけられたおよそ2年後に、カヤパはローマ皇帝によってピラトとともにその地位を奪われます。彼は、この屈辱に耐え切れず、また、イエスを十字架につけたことに罪悪感を感じていたのか、その年に自殺しました。カヤパをリーダーとして、ユダヤの指導者たちは過越しの祭りが終わり、エルサレムが落ち着きを取り戻してから、イエスを捕らえようと考えていたように思われます。
そのようなユダヤ指導者たちとの関係が緊迫していたとき、過越しの祭りの6日前に、主イエスは弟子たちとともにエルサレム郊外のベタニヤという村に来られました。そして、前にらい病を患っていたシモンという人が彼らのために食事を用意しました。ユダヤ教の指導者たちはイエスを殺そうとしていましたが、主イエスの友人たちは主に自分たちの愛情を表そうとしています。この人は他の福音書の記事と合わせて読むと、主イエスと親しいマルタの夫だと考えられます。そのとき、ヨハネによると、マルタの妹マリヤが主のそばに来て、主イエスの頭と足に非常に高価な匂いの良い油を注いで、自分の髪の毛で拭きました。女性にとって髪の毛は非常に大切なもので、女性はいつも髪の毛をきれいに束ねていました。人前で髪の毛をほどくことは大きな恥だったのです。しかし、マリヤは主イエスのために、自分が持っていた宝物のような高価な油を主イエスに惜しみなく注ぎ、そして人の目を気にすることなく、人前で髪の毛を解きました。マリヤは福音書に3回出てきますが(ルカ10、ヨハネ11、ヨハネ12)いつも、主のそばで主の話をじっと聞いていました。そのため、マリヤは主イエスがまもなく十字架に掛けれられることをはっきりと理解していました。12弟子たちは、何度も主イエスから十字架のことを聞いても、その意味を理解できずにいました。マリヤだけが、主イエスの思いと計画を理解していたのです。それで、彼女は、このような方法で、自分の主に対する愛を表すとともに、主イエスの死の準備をしたのです。人が誰かを愛するときは、計算することを忘れます。マリヤがイエスに注いだ香油は1年間の収入に相当するほど高価なものでしたが、それを注ぐことを彼女は少しも惜しいとは思わず、もっと何かをささげたいと思ったことでしょう。
しかし、その様子を見ていた弟子たちは、彼女の行為を愚かなことと非難しました。特にイスカリオテのユダは厳しく非難しました。ヨハネの福音書12章5節で「なぜ、この香油を300デナリで売って貧しい人々に施さなかったのか。」しかし、次の6節にはこう書かれています。「彼がこう言ったのは、貧しい人のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 ユダは、弟子たちの中で会計係りを担当していました。ユダが会計という大切な役割を任されていたのは、彼がそれだけ信頼されていたことを示しています。ユダは他の弟子たちと同じように、主イエスご自身から声をかけられて12弟子の一人となるように任命されました。また、ユダは他の弟子たちとともに、主イエスから汚れた霊を追い出し、病気や患いを癒す力をも与えられていました。おそらく、ユダも、ほかの弟子たちとともに病気の人々を癒し、汚れた霊にとりつかれて苦しんでいる人を救ったと思います。しかし、信仰において大切なことは、自分がどれだけ大きな働きをするかということではなく、どこまで主の言葉に従うことができるかということにあると思います。ユダは非常に有能な弟子であったと思いますが、完全に主イエスに従うことができず、自分の考えにとらわれていたために、悲劇的な行動に出ることになります。彼は貧しい人を助けたいという気持ちよりも、その香油を主にプレゼントすれば、それが彼の会計の中に入れられて、彼がその金の一部を自分のものにすることが出来たと考えていたからでしょう。
第1テモテ6章で、その手紙を書いたパウロは金を愛することの危険について述べています。6章の6節から10節を読みましょう。パウロは自分の息子のように育てていたテモテに向かって貪欲の危険について4つのことを書いています。第一に金銭を愛する心は「満ち足りる」ということを知りません。「満ち足りる」という言葉の定義は、「自分を取り巻く状況にかかわらず、いつも心に平安を与える心の中の満足感」です。この満ち足りる心は、手に財産を持つことで得られるのではなく、神様を絶対的に信頼することによって得られるのです。第二に、富はいつまでも続くものではありません。私たちはこの世に生まれてくるときには何も持ってきません。そして、私たちが肉体の死を迎えるときに、私たちの霊が肉体を離れるのですが、その時に、私たちは自分の品性以外のものを何も一緒に持っていくことはできません。それ以外のものはすべて、この世に残していかなければならないのです。第三に、私たちの基本的な必要を満たすことは難しいことではないということです。パウロは「衣食があれば、それで満足すべきです」と言っています。今の時代は、ほとんどの人が満ち足りた生活をしていますが、それでも何か不満や不安を持って生きています。先日の産経新聞に曽野綾子さんが「足し算の人生と引き算の人生」という文章を書いておられました。今日、戦争も食糧危機も学校へ行けない物理的経済的理由もないのに、30代40代のひとの40%が心に不安を感じているという結果が出たそうです。曽野綾子さんの指摘は、自分が健康ですべてが十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができるともう許せず耐えられなくなる。それを曽野綾子さんは「引き算の人生」と名づけています。一方、欠落と不遇が人生の出発点であり原型だと思って生きる人は、なんでもそれより良ければありがたいと感じる。この生き方を「足し算の人生」と呼んでいるのです。食べるもの、寝る場所、水道、清潔なトイレ、安全正確な交通機関、健康保険、救急車があり、なによりも日常生活に爆発の音がない日本、それだけでも天国と感じる。このような生き方です。
ある人がこう言いました。「多くの人はものの値段は知っているが、ものの価値を知らない。」第四に、金銭を愛することが人を罪へと導くということです。9節、10節に書かれています。あるドラマのセリフに「欲望を持ち続けると、最後には欲望に縛り付けられる。」というのがありました。金銭を愛する心は人を自由にするのではなく、人を欲望でしばりつけます。おそらく主イエスを裏切ったイスカリオテのユダも、転落の人生のきっかけは金銭を愛する心であったのだと思います。
マタイの福音書を見ると、ユダがイエスを裏切ることを決心するのは、ベタニヤでマリヤがイエスに香油を注いだという出来事の直後です。ユダは、おそらく、他の弟子たちと同じように、イエスが何かの運動を起こして、ユダヤを支配しているローマ帝国から支配権を奪ってくれるものと期待していたと思います。そして、彼は自分が会計を任されていたので、主イエスが新しい支配者になるときには、自分を高い地位につけてくれるものと思い込んでいたかもしれません。しかし、マリヤが一年分の給料に相当するほど高価な香油を主イエスの頭と足に惜しげなくそそいだのを見て、主イエスがマリヤを褒めた。そのことを通して、彼はようやく主イエスがいつも言っていた神の国とは、政治的な国や、目に見える国のことではなく、霊的なこと、信仰的なことであることに気がつきました。そうなると、主イエスの弟子であり続けても、出世するわけでもなく、社会的な権力や地位が手に入るわけでもないとユダは悟ったのです。
主イエスの弟子のままでいるよりも、イスラエルにおいて、人々から尊敬されていたユダヤ教指導者になるほうが、将来出世する可能性ははるかに高いことを知るのでした。それで、彼は、ユダヤの指導者がイエスをひそかに捕まえようとしていることを知って、彼らにイエスを売る話を持ちかけるのです。「主イエスをあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」ユダは指導者たちに尋ねました。すると彼らの答えは「銀貨30枚」でした。それは出エジプト記21章32節の記事によると、奴隷を買い取るときの金額でした。彼はあまりにも安い金額で、王の王、主の主、イザヤの預言によれば「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれた主イエスを奴隷の金額で売ってしまったのです。パウロがテモテに宛てて書いた手紙に書かれているように、金銭を愛することが人を滅びと破滅へと陥れるのです。ユダは、主イエスの弟子として働いていましたが、純粋な信仰心から主イエスに従っていたのではありませんでした。イエスを愛するよりも、自分を愛し、金銭を愛したのです。イエスの命令や御心に従うのではなく、主イエスを利用して、自分の願いを実現させようとしたのです。クリスチャンは、自分の願いのために、動かそうとするなら、それは本当の信仰ではありません。私たちは、主イエスによって新しい人に変えてもらって、イエスに用いられる者として生きるのです。
私たちも、ユダと同じように、主を裏切る可能性を持っています。そのような弱さを持っています。私たちは、今日、礼拝後に聖餐式を行います。主イエスが十字架で裂かれた体を表すパンと流された血潮を表す葡萄酒を受けますが、これは、もう一度私たちが自分の罪について問い直す時です。自分の信仰が純粋なものか、ユダのように表面的なものか、吟味しなければなりません。何よりも、主イエスの愛に満ち足りる者として歩みましょう。ユダのように、金銭を愛する心を持ち続けることによって、滅びの道に落ち込まないように気をつけましょう。
今年のカレンダーでは、主イエスの復活を祝うイースターは3月23日です。そして主が十字架にかかられた金曜日は3月21日です。今日から、しばらく、マタイの福音書の最後の部分、十字架に関する記事を読みたいと思います。マタイの福音書では26章から、いよいよ主イエスは十字架の苦しみと死を味わう準備を始めます。26章では3つの段階、3つの場所で、主イエスと主に敵対する人々の間の対立がますます激しくなって行きます。この3つの場所とは、最初がベタニヤという小さな村での出来事です。第2は、エルサレムにあった2階の部屋の中での出来事です。そして第3はゲッセマネの園と呼ばれたオリーブの木が植えられた庭でした。今日は、特にベタニヤでの出来事を中心に考えたいと思います。26章の2節で、主イエスは弟子たちにもう一度、やがて起ころうとしている出来事について語られました。「「あなたがたの知っているとおり、二日経つと過越しの祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
そのころ、ユダヤの指導者たちはイエスを殺そうと考えていました。しかし、ちょうどこの時、ユダヤ人にとって最大のお祭りである「過越しの祭り」が近づいていました。過越しの祭り自体は一日で終わるのですが、次の日から7日間は、「種を入れないパンの祭り」が続くため、この1週間全部を過越しと呼ぶことも多かったようです。この祭りには海外に住むユダヤ人たちも大勢参加したため、エルサレムの町は、その間、非常に多くの群集で少し異様な雰囲気になっていたようです。ある年の記録ではこの1週間に200万人以上の人がエルサレムに来ていけにえの動物をささげたそうです。そのためユダヤの指導者たちは、ひそかにイエスを捕らえる方法を考えていました。このとき、ユダヤ教の最高指導者である大祭司はヨセフ・カヤパという人間でした。この人は大祭司を任命する権限を持っていたローマ政府にうまく協力をしていたためAD18年から35年まで、大祭司の地位についていました。これは、大祭司としては異例の長い期間でした。ところが、主が十字架につけられたおよそ2年後に、カヤパはローマ皇帝によってピラトとともにその地位を奪われます。彼は、この屈辱に耐え切れず、また、イエスを十字架につけたことに罪悪感を感じていたのか、その年に自殺しました。カヤパをリーダーとして、ユダヤの指導者たちは過越しの祭りが終わり、エルサレムが落ち着きを取り戻してから、イエスを捕らえようと考えていたように思われます。
そのようなユダヤ指導者たちとの関係が緊迫していたとき、過越しの祭りの6日前に、主イエスは弟子たちとともにエルサレム郊外のベタニヤという村に来られました。そして、前にらい病を患っていたシモンという人が彼らのために食事を用意しました。ユダヤ教の指導者たちはイエスを殺そうとしていましたが、主イエスの友人たちは主に自分たちの愛情を表そうとしています。この人は他の福音書の記事と合わせて読むと、主イエスと親しいマルタの夫だと考えられます。そのとき、ヨハネによると、マルタの妹マリヤが主のそばに来て、主イエスの頭と足に非常に高価な匂いの良い油を注いで、自分の髪の毛で拭きました。女性にとって髪の毛は非常に大切なもので、女性はいつも髪の毛をきれいに束ねていました。人前で髪の毛をほどくことは大きな恥だったのです。しかし、マリヤは主イエスのために、自分が持っていた宝物のような高価な油を主イエスに惜しみなく注ぎ、そして人の目を気にすることなく、人前で髪の毛を解きました。マリヤは福音書に3回出てきますが(ルカ10、ヨハネ11、ヨハネ12)いつも、主のそばで主の話をじっと聞いていました。そのため、マリヤは主イエスがまもなく十字架に掛けれられることをはっきりと理解していました。12弟子たちは、何度も主イエスから十字架のことを聞いても、その意味を理解できずにいました。マリヤだけが、主イエスの思いと計画を理解していたのです。それで、彼女は、このような方法で、自分の主に対する愛を表すとともに、主イエスの死の準備をしたのです。人が誰かを愛するときは、計算することを忘れます。マリヤがイエスに注いだ香油は1年間の収入に相当するほど高価なものでしたが、それを注ぐことを彼女は少しも惜しいとは思わず、もっと何かをささげたいと思ったことでしょう。
しかし、その様子を見ていた弟子たちは、彼女の行為を愚かなことと非難しました。特にイスカリオテのユダは厳しく非難しました。ヨハネの福音書12章5節で「なぜ、この香油を300デナリで売って貧しい人々に施さなかったのか。」しかし、次の6節にはこう書かれています。「彼がこう言ったのは、貧しい人のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 ユダは、弟子たちの中で会計係りを担当していました。ユダが会計という大切な役割を任されていたのは、彼がそれだけ信頼されていたことを示しています。ユダは他の弟子たちと同じように、主イエスご自身から声をかけられて12弟子の一人となるように任命されました。また、ユダは他の弟子たちとともに、主イエスから汚れた霊を追い出し、病気や患いを癒す力をも与えられていました。おそらく、ユダも、ほかの弟子たちとともに病気の人々を癒し、汚れた霊にとりつかれて苦しんでいる人を救ったと思います。しかし、信仰において大切なことは、自分がどれだけ大きな働きをするかということではなく、どこまで主の言葉に従うことができるかということにあると思います。ユダは非常に有能な弟子であったと思いますが、完全に主イエスに従うことができず、自分の考えにとらわれていたために、悲劇的な行動に出ることになります。彼は貧しい人を助けたいという気持ちよりも、その香油を主にプレゼントすれば、それが彼の会計の中に入れられて、彼がその金の一部を自分のものにすることが出来たと考えていたからでしょう。
第1テモテ6章で、その手紙を書いたパウロは金を愛することの危険について述べています。6章の6節から10節を読みましょう。パウロは自分の息子のように育てていたテモテに向かって貪欲の危険について4つのことを書いています。第一に金銭を愛する心は「満ち足りる」ということを知りません。「満ち足りる」という言葉の定義は、「自分を取り巻く状況にかかわらず、いつも心に平安を与える心の中の満足感」です。この満ち足りる心は、手に財産を持つことで得られるのではなく、神様を絶対的に信頼することによって得られるのです。第二に、富はいつまでも続くものではありません。私たちはこの世に生まれてくるときには何も持ってきません。そして、私たちが肉体の死を迎えるときに、私たちの霊が肉体を離れるのですが、その時に、私たちは自分の品性以外のものを何も一緒に持っていくことはできません。それ以外のものはすべて、この世に残していかなければならないのです。第三に、私たちの基本的な必要を満たすことは難しいことではないということです。パウロは「衣食があれば、それで満足すべきです」と言っています。今の時代は、ほとんどの人が満ち足りた生活をしていますが、それでも何か不満や不安を持って生きています。先日の産経新聞に曽野綾子さんが「足し算の人生と引き算の人生」という文章を書いておられました。今日、戦争も食糧危機も学校へ行けない物理的経済的理由もないのに、30代40代のひとの40%が心に不安を感じているという結果が出たそうです。曽野綾子さんの指摘は、自分が健康ですべてが十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができるともう許せず耐えられなくなる。それを曽野綾子さんは「引き算の人生」と名づけています。一方、欠落と不遇が人生の出発点であり原型だと思って生きる人は、なんでもそれより良ければありがたいと感じる。この生き方を「足し算の人生」と呼んでいるのです。食べるもの、寝る場所、水道、清潔なトイレ、安全正確な交通機関、健康保険、救急車があり、なによりも日常生活に爆発の音がない日本、それだけでも天国と感じる。このような生き方です。
ある人がこう言いました。「多くの人はものの値段は知っているが、ものの価値を知らない。」第四に、金銭を愛することが人を罪へと導くということです。9節、10節に書かれています。あるドラマのセリフに「欲望を持ち続けると、最後には欲望に縛り付けられる。」というのがありました。金銭を愛する心は人を自由にするのではなく、人を欲望でしばりつけます。おそらく主イエスを裏切ったイスカリオテのユダも、転落の人生のきっかけは金銭を愛する心であったのだと思います。
マタイの福音書を見ると、ユダがイエスを裏切ることを決心するのは、ベタニヤでマリヤがイエスに香油を注いだという出来事の直後です。ユダは、おそらく、他の弟子たちと同じように、イエスが何かの運動を起こして、ユダヤを支配しているローマ帝国から支配権を奪ってくれるものと期待していたと思います。そして、彼は自分が会計を任されていたので、主イエスが新しい支配者になるときには、自分を高い地位につけてくれるものと思い込んでいたかもしれません。しかし、マリヤが一年分の給料に相当するほど高価な香油を主イエスの頭と足に惜しげなくそそいだのを見て、主イエスがマリヤを褒めた。そのことを通して、彼はようやく主イエスがいつも言っていた神の国とは、政治的な国や、目に見える国のことではなく、霊的なこと、信仰的なことであることに気がつきました。そうなると、主イエスの弟子であり続けても、出世するわけでもなく、社会的な権力や地位が手に入るわけでもないとユダは悟ったのです。
主イエスの弟子のままでいるよりも、イスラエルにおいて、人々から尊敬されていたユダヤ教指導者になるほうが、将来出世する可能性ははるかに高いことを知るのでした。それで、彼は、ユダヤの指導者がイエスをひそかに捕まえようとしていることを知って、彼らにイエスを売る話を持ちかけるのです。「主イエスをあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」ユダは指導者たちに尋ねました。すると彼らの答えは「銀貨30枚」でした。それは出エジプト記21章32節の記事によると、奴隷を買い取るときの金額でした。彼はあまりにも安い金額で、王の王、主の主、イザヤの預言によれば「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれた主イエスを奴隷の金額で売ってしまったのです。パウロがテモテに宛てて書いた手紙に書かれているように、金銭を愛することが人を滅びと破滅へと陥れるのです。ユダは、主イエスの弟子として働いていましたが、純粋な信仰心から主イエスに従っていたのではありませんでした。イエスを愛するよりも、自分を愛し、金銭を愛したのです。イエスの命令や御心に従うのではなく、主イエスを利用して、自分の願いを実現させようとしたのです。クリスチャンは、自分の願いのために、動かそうとするなら、それは本当の信仰ではありません。私たちは、主イエスによって新しい人に変えてもらって、イエスに用いられる者として生きるのです。
私たちも、ユダと同じように、主を裏切る可能性を持っています。そのような弱さを持っています。私たちは、今日、礼拝後に聖餐式を行います。主イエスが十字架で裂かれた体を表すパンと流された血潮を表す葡萄酒を受けますが、これは、もう一度私たちが自分の罪について問い直す時です。自分の信仰が純粋なものか、ユダのように表面的なものか、吟味しなければなりません。何よりも、主イエスの愛に満ち足りる者として歩みましょう。ユダのように、金銭を愛する心を持ち続けることによって、滅びの道に落ち込まないように気をつけましょう。

