礼拝説教 2008年1月6日 『偉大なる神を見よ』(イザヤ40章12-31節)

2008.01.07

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 イザヤ書の40章は、ユダヤ人にとって歴史の中で最も屈辱的な出来事であったバビロン捕囚を経験した人々に向かって語られた神の言葉として書かれています。そのころ、メソポタミアでは、大国が支配していましたが、最初に台頭してきたのがアッシリア帝国、その次にバビロン帝国が支配権を握りました。しかし、バビロン帝国も思ったほど長くは続かず、80年で滅んでしまいました。その後、300年にわたってメソポタミアを支配したのはペルシャ帝国でした。そのような状況の中でユダヤ人たちは、つねに異教徒であるこれらの国によって常に支配されていました。そのため、ユダヤ人の中にも、自分たちの神よりも、異邦人が信じている神のほうが強いと思う人もいたようです。また、これらの大国の力をユダヤ人は恐れていました。しかし、預言者イザヤは、そのような状況に直面していたユダヤ人たちに、聖書の神の偉大さを思い出すように働きかけているのです。

(1) 聖書の神と諸国民

 人間は、本当の自分の力を知らずに、もっとはっきり言えば、自分の無知と弱さを知らずに、あるいは、自分の無知と弱さを隠して、自分を自慢しがちです。しかも、私たちは神様の本当の大きさ、強さをも知らないので、神様の前で、大きなことを言うのです。それで、預言者イザヤは、私たちに神の大きさを知らせようとしています。イザヤは私たちに尋ねています。「あなたは、手のひらで全世界の水の量を測ることができるのか?」「あなたは手を広げて親指から小指までの幅で天の大きさを測ることができるのか?」「地のチリの数や、山や丘の重さを量れるのか」人間は、目に見える世界を創造することができないだけではなく、神によって造られたこの世界を測ることもできない存在なのです。また、私たちは、神に対して何かを教えることもできず、神が行うことに対してアドバイスやカウンセリングを与えることさえできません。ところが、人間は、神の前に、自分を高くし、自分が賢い者であると、誇らしげに言うのです。傲慢な態度は、私たちの無知を暴露するものです。15節が語っていることは、私たちは、世界の中で、アッシリア、バビロン、ペルシャ、あるいはローマ帝国など、強大な国を見ると、恐れおののいてしまいます。しかし、そのような大国であっても、神の前にはバケツの中の1滴の水のようであり、はかりについているチリのように、何の力もないのです。16節には、レバノンのことが書かれています。レバノンには良質の杉が数多く生えていて、当時の建築のための木材のほとんどがレバノンの杉でした。それほど有名な杉でしたが、それでも神の前では、すべての杉を集めても薪にするのには足らず、そこに住む獣も、礼拝のための捧げものにするには全く足りないのです。人の目には多いと思えるものも、神の前には全く足りません。イザヤは結論として、この世界とその中にあるすべてのものを創造された神と比べると、私たち人間は、無に等しいのです。ところが、私たちは、自分自身を実際以上に、強く大きな者だと思い込んで、傲慢になっています。それは、私たちはいつも、聖書の神と比べて自分を見ないで、自分よりも弱い人、自分よりも小さな人を見つけて、その人と自分を比べるからです。私たちは、神を通して自分自身を見なければ、本当の自分の力を知ることができません。

(2) 聖書の神と偶像

 預言者イザヤは、さらにユダヤ人に問い正しています。あなたたちは、どうして、天地の造り主、全能の神を、人の手で作った偶像と比べるのか。ユダヤ人たちは、モーセの時代に、エジプトで奴隷として非常に苦しい生活をしていましたが、神様が彼らの助けを求める祈りに答えて、ユダヤ人はエジプトを脱出して、約束の地、現在イスラエルの国があるカナンという場所に導かれて来ました。ユダヤ人たちがカナンの地に入ったときに、すでにそこにはカナン人が住んでおり、彼らの文化、彼らの宗教、神がありました。カナン人たちは、一つの場所に住んで農業を行っていましたので、その場所に移って来たユダヤ人たちも、一つの場所に定着して農業を行うようになりました。農業は天気によって大きな影響を受けますので、カナンの人々は豊作を願って偶像の神、バアルを信仰して拝んでいました。ユダヤ人たちは、聖書の神を信じていましたが、実際の生活で農業を行う中で、カナン人たちが行っているように、自分たちも豊作のために祈ることが必要だと思い込んで、聖書の神を礼拝すると同時に、偶像の神をも拝んでいました。ユダヤ人たちは、聖書の神を捨てたとは思わず、バアルの神を拝むことは、生活のために必要なこととで仕方がないことと考えていました。しかし、それはユダヤ人の勝手な理論で、神は彼らの姿勢を夫婦が不倫をする姿勢にたとえて激しく非難しました。ダビデ、ソロモン王の後、イスラエルの国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しましたが、どちらの国でも多くの王たちが偶像を礼拝していました。イザヤの時代、すでに北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされて消滅していました。南ユダでは、ホセアという王様が支配しており、彼もまた偶像礼拝に走り、彼は自分の息子に「アモン」という偶像の神の名前をつけるほど信仰的に堕落していました。

 そのような時代の人々に向かって預言者イザヤは厳しく問いただしているのです。「神と比べて無に等しい人間の職人が作った偶像にどんな力があるのか?」実力のない偶像は、表面を金で覆ったり、銀の鎖で飾ったりして、いかにも力があるかのように見せかけています。しかし、どんなに飾り立てても、神の前に無に等しい人間が作った偶像には、力がありません。自分で動くこともできず、偶像の神は人間や家畜が背負って運ばなければならないのです。それで、イザヤはユダヤ人に尋ねます。「聖書の神が天と地を創造された神であることを聞いていないのか?」今、科学の世界ではどのようにしてこの世界ができたのか、その現象については分かっています。この世界はビッグバンと呼ばれる大きな爆発によって作られ、私たちが住むこの宇宙は今もなお膨張をつづけています。しかし、科学でどうしても説明できないのは、なぜ、この爆発が起こったのか?誰が、この爆発を引き起こしたのか?ということです。どんな現象、出来事にも原因があるはずです。聖書は、最初に書かれた時から、この世界が神の力と神の計画によって始まったことを教えています。この宇宙を造られた神は、永遠の存在者で今も生きておられ、この宇宙のはるか上おられて、地上に住む私たちをいつも見ておられます。神の目からすると、私たちはイナゴのような虫けらに等しい存在です。それなのに、なぜ人は神を忘れて偶像に走るのでしょうか。偶像とは、ただ単に、木や金属でできた神の像を意味するのではありません。私たちが、聖書の神以外に頼ろうとするすべてのものを偶像と言います。ある人は財産を頼りとし、ある人は自分の会社での地位に頼ろうとします。ある人は自分の知識に頼り、ある人は自分の体や能力に頼ります。しかし、この世のものや人間が自分の力で獲得したものは、この世界を造られた神の目にはまったく頼りにならないものなのです。

 神は、作られた存在である私たち人間とはまったく次元の異なる存在です。人間をはるかに超えた絶対者です。私たち人間が向き合わなければならない唯一の絶対者と言えます。人間との関係においては、嫌な人は避けることができます。ぶつかることを避けて生活することができますが、絶対者である神様から私たちは逃れることはできませんし、避けることもできません。私たちが信じる信じないに関らず、私たちは神によって命が与えられてこの世に生きる者となりました。また、神様は私たちの人生の最後がどうなるのかを決定する権威をも持っておられます。聖書には、人は一度死ぬことと、死んだ後、神のさばきを受けることが定まっていると書かれていますが、私たちは、この神と向き合わなければならないのです。従って、私たちが本当に頼りにしなければならないのは、人間が作り出した神ではなく、この世界を造り、また私たち一人一人の命をも造ってくださった神なのです。

(3) 偉大な神を見上げよ

 そこで、預言者イザヤはユダヤ人に対して「目をあげて、高い所を見よ」とチャレンジしています。周りの状況を見ないで、周りの人間を見ないで、周りの国々を見るな。また、高い所におられる全能者の神を見上げよと命じています。というのは、私たちの心は私たちが見ているものの中にあるからです。神様は私たちの心を高くあげてくださいます。最初のユダヤ人となったアブラハムという人は、もともとウルという名前の町に住んでいた人ですが、神から呼び出され、家族とともにウルからカナンの地に移ってきました。カナンの地に、アブラハムの知り合いはおらず、彼には、将来自分や妻はどうなるのかという不安があり、また、妻との間に子供が与えられず落ち込んでいました。そんなある日、神様がアブラハムを呼んで言われました。それは夜のことでしたが、神様はテントの中にいたアブラハムを外に呼び出して、「あなたの目を上げて、空の星を見なさい」と言われました。太陽も月も星もすべて、神様が創られました。ただ創られただけでなく、すべての星は永遠の昔から今日に至るまで、全く変わることなく同じスピードで、同じ軌道を動いています。神様は、アブラハムに、これらの星を見て、星を創り星を動かしておられる神の力を思い出すように言われています。神様は、今の私たちにも目をあげて高い所におられる神様を思い出すように、その力を知るようにと言われています。

 このメッセージが語られたとき、ユダヤ人たちは、自分たちの国も永遠の都と言われていたエルサレムもバビロン軍によって滅ぼされ、自分たちは外国のバビロンに人質して連れてこられて、大きな悲しみと苦しみを味わっていました。彼らは希望を失い、神様は自分たちのことを忘れてしまった、神様はもはや私たちの祈りを聞いてくださらない、そのように感じるようになっていたのです。神様は預言者イザヤを通してバビロンにいたユダヤ人たちに言われました。「目をあげなさい。私が永遠の神であることを思い出しなさい。地の果てまでも創造したのは私である。私は疲れることがないのだ。むしろ、私は疲れた者に力を与え、弱い者を強くする力を持っている。」私たちは、何を見て生きているでしょうか。何を頼りとして生きているでしょうか。神様は、私たちにも「目をあげて創造主であり全能者である神を見よ。」と言われます。エペソ書1章3節には次のように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」神様は、私たちに、すでに天においてすべての霊的祝福を注いでくださいました。神様が私たち人間をお造りになったのは、天にあるすべての霊的祝福を与えるためなのです。私たち人間には自分の力や自分の努力によって得ることができるものと、それだけでは得られないものがあります。たとえば、この世の財産を築くとか、社会的な地位を獲得することは自分の力や努力によって手に入れることができるでしょう。しかし、心の平安、消えることのない喜び、真実の愛などは、自分の力だけで得ることはできません。実は、それらは、神様だけが私たちに与えることができるものなのです。だからこそ、私たちは常に、神を見上げ、この世界を造り、また、私たちを造ってくださった創造主である神をいつも見ておかなければならないのです。