礼拝説教 2007年12月30日 「主の守りと導き」(マタイ2章13-23節)

2007.12.30

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 主イエスの誕生を祝うクリスマスが過ぎました。主イエスがベツレヘムでお生まれになった出来事は、その当時の社会では、誰にも気づかれずに起きた出来事でした。その誕生によって何も変わることがなく、ベツレヘムに住む大部分の人々は、その日、世界の歴史を変える大きな出来事後があったとは夢にも思っていませんでした。その誕生を祝ったのは、御使いからの知らせを聞いた羊飼いだけでした。
 それから、だいぶたって、東の国から博士たちが「ユダヤ人の新しい王」を拝みにエルサレムにやって来ました。実は、この頃、オリエント諸国一帯に新しい王を待ち望む気運が高まっていました。ローマ帝国の歴史家でスエトニウスという人も、自分が書いた歴史書の中に「東方諸国一帯に、昔から、ユダヤから世界を支配する者が現れるという信仰があった」と書いています。そのような中、東の国からユダヤ人の新しい王を礼拝するために博士たちがエルサレムにやって来ました。それに驚いたのが、ユダヤの王、ヘロデ大王でした。彼は、ローマの指導者アントニウスと仲がよかったため、ローマの支配を受けていても、王というタイトルを認めてもらっていました。彼は知恵と策略を使い、邪魔な人間を殺して、王と言う地位を手に入れていました。ですから絶対にその地位を奪われたくなかったのです。それで、彼は、博士たちが探しているユダヤ人の新しい王を恐れました。彼は、博士たちには、「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」と言いましたが、心の中では、その幼子を殺すことを決めていました。幼子イエスを礼拝した博士たちに、神様が夢の中で「ヘロデのところは戻るな」と警告をしたので、博士たちは、エルサレムに戻らずに別の道を通って自分たちの国へ戻りました。いつまでたっても博士たちがエルサレムに戻ってこないので、ヘロデ王はだまされたことに気づきました。彼は激しく怒り、博士たちから聞いていた星が最初に現れた時間から計算して、ベツレヘムにいる2歳以下の男の子を皆殺しにしました。ヘロデは病的なほどに疑い深く、これまでにも、自分を裏切るのではないかと感じた人々を次々に殺していました。ですから、2歳以下の男の子をころすことなどまったく平気だったのです。

(1) エジプトへ逃げる
ヘロデ大王は人間的な知恵と、権力を使って神様の計画を妨げようとしましたが、人間が神様の計画を変えることはできません。神様は夢の中でヨセフに警告の言葉を語りました。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」エジプトは、ベツレヘムから遠い外国のように思いますが、だいたい10日間で行くことができました。しかも、そのころエジプトには大勢のユダヤ人が住んでいました。特にアレキサンドリアには100万人ものユダヤ人が住んでいたと言われており、町の一部は完全にユダヤ人の地域になっていたほどです。ですから、ヨセフとマリヤが逃げたところにもユダヤ人たちがいたと思われます。急な旅行になりましたが、その旅行に必要なお金は、博士たちがくれたプレゼントが助けになったはずです。マリヤの夫ヨセフは聖書にあまり出てきませんが、彼の信仰姿勢の特徴は、神様の命令にすぐに従う姿勢でした。彼は、自分の町を離れてベツレヘムに来ていました。そろそろ自分の町に帰りたいと思っていたはずですが、そのときに、御使いからナザレとはまったく反対の南側にあるエジプトへ行くように言われたのです。しかし、彼は御使いの言葉にすぐに従いました。14節に「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ち退いた。」と書かれています。ヨセフは夜のうちに急いでベツレヘムの町を出てエジプトに向かいました。彼らがエジプトへ逃げるときのことに関して一つの伝説があります。ヨセフがマリヤが幼子イエスを連れてエジプトへ行く途中、日が暮れて、疲れ果てた彼らは洞窟の中で休むことにしました。寒い夜でしたが、その洞窟の入り口にいた小さなクモが、幼いイエスを見て、何とか寒い夜を暖かく過ごさせたいと願って、自分にできることを精一杯しようと思いました。クモにできることはただ一つ、洞窟の入り口にクモの巣を張って、少しでも冷たい風から幼子イエスを守ろうとしたのです。やがて、ヘロデ王に使わされた兵士たちが、彼らを捜しにやって来ました。洞窟を見つけた兵士たちは中に誰か隠れていないか確かめようとしましたが、そのときに隊長が洞窟の入り口にクモの巣が張り巡らされているのを見つけました。そして、部下たちに、「おい、入り口にクモの巣がある。破れていないから、穴の中には誰もいないはずだ。」このようにして兵隊たちは通り過ぎたので、彼らは殺されずにすんだという物語です。クリスマスツリーに銀のモールを飾るのは、このときのクモの巣を表しているという説もあります。どんなに小さな人であっても、力のない動物であっても、神様のために何かをしたいと願うとき、神様はその働きを大いに用いてくださいます。
 このようにして、ヨセフとマリヤと幼子イエスはエジプトに滞在することになりました。彼らがエジプトにいるときに、ヘロデ大王は死にました。どんなに権力を誇っている人間であっても死に勝つことはできません。彼の家族は悲惨な状態になっていました。10人の妻によって15人の子どもを得ていたヘロデですが、跡継ぎ問題で大いにもめて、王座を狙ういろいろな人の言葉で猜疑心をいっそう深めていた彼は、自分の最愛の妻との間の二人の息子を殺し、死ぬ5日前には最初の妻の子、ヘロデの長男をも殺してしまいました。その5日後、ヘロデ大王は国民からも、親族からも憎まれながら、猜疑心と病気の苦しみの中で死んでいきました。紀元前4年のことです。ここから、主イエスの誕生は、紀元前5年か6年と見られています。

(2)ナザレへ戻る
 ヘロデが死ぬと、再び主の使いがヨセフの夢の中に現れました。そしてヨセフに次のように言いました。「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」このときも、ヨセフはすぐに神様の命令に従って、イスラエルに戻って来ました。ヘロデ大王はローマ皇帝と良い関係を築いていたので、イスラエルの広い領土を支配することを許されていましたが、彼は、自分が死んだときに、ローマ帝国が息子たちに自分と同じ権限を与えないことを知っていました。それで、彼は死ぬ前に遺言を作っていました。それは、王国を、ユダヤ地方、ガリラヤ地方、北東部とヨルダン川の東側の3つに分けて、残っていた息子に与えました。ユダヤ地方を与えられたのはアケラオ、ガリラヤ地方はヘロデ・アンテパス、そして北東部とヨルダン川東部地方はピリポに与えられました。ユダヤ地方の支配者となったアケラオは父親のヘロデ大王以上に残忍な性格の持ち主で、ユダヤ地方の有力者3000人を計画的に殺したと言われています。あまりの残忍さに、ユダヤ人もサマリヤ人も絶えられなくて、人々はローマ帝国に訴えました。その結果、皇帝はアケラオの地位を剥奪し、彼をゴール地方に流刑にしました。それで、ユダヤ地方はローマ帝国が直接支配することになりました。ヨセフとマリヤがイスラエルに戻ってきたとき、彼らは「アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めている」と聞いたので、非常に恐れました。アケラオが残忍な人間であることを知っていたからです。彼らは恐ろしさのために、ベツレヘムに戻ることが出来ずにいました。彼らは、どこか小さな村か町に留まり、この後どうすればよいか考えていました。ヨセフとマリヤは共に祈り、待ちました。神様の御心がはっきり分かるようにと祈り続けました。私たちは、次にどこへ進んで行けばよいのか分からなくなることがあります。そんな時、私たちは忍耐を持って待つことが必要です。詩篇42篇は「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」という有名な言葉で始まりますが、これは、敵対する人々から罵られ、攻撃されて深い悲しみを経験していた人が書いた詩です。42篇の5節に「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」神を待ち望めとあります。英語では「Put your hope in God」となっています。つまり、あなたの希望を神様に置きなさいということです。信仰とは、神の力を信頼すること、神の約束を信頼すること、この世界を支配しておられるのは神であることを確信することです。その時、周りの状況が非常に厳しいものであっても、主に希望を置くことができるのです。ヨセフとマリアも、エジプトから戻ってきて、イスラエルに入ってみると、ベツレヘムのあるユダヤ地方は残忍なアケラオが支配していることを知って、ひどく恐れました。しかし、二人は神を信頼しました。神を待ち望みました。そのとき、主の使いが再び現れて、彼らに「ユダヤを離れて、ガリラヤ地方へ退くように」という命令を受けました。それで、ヨセフはすぐに神様の言葉に従って、ガリラヤ地方にあった、自分たちの故郷の町ナザレへ行ったのです。

ヨセフとマリヤにとっては、人口調査の登録をするためにナザレからベツレヘムに向かって出発した時に想像もしなかったような長い旅であり、また、様々な危険や試練が伴った旅でした。ユダヤの王ヘロデはイエスを殺そうとしましたが、幼子イエスのいのちは守られました。それは、彼らが旅をしている間中、神様が共にいて彼らを守り導いてくださったからです。神様は、必要があるたびに、夢の中に現れて、ヨセフに必要な命令を与えられました。今日読んだ箇所だけでも、御使いが3回ヨセフの夢の中に現れました。そして、ヨセフは、主の命令にすぐに従いました。ヨセフにとって、ナザレからベツレヘム、ベツレヘムからエジプト、そしてナザレに帰ってくるまで、本当に厳しいときでした。時には、なぜ、自分たちにこのような危険が迫ってくるのかと思い、苦しむこともあったはずです。しかし、彼はいつも神の命令に従いました。神様の命令に従ったからこそ、彼らは危険を乗り越えることができたのです。神様は、私たちのために最善のことをしてくださる方です。私たちを愛しておられる神様は私たちにとって一番よいことをしてくださるのです。イザヤ書46章の最初に偶像の神と、聖書の神の違いが書かれています。

1「ベルはひざまづく、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

 偶像の神は人間によって背負われて運ばれる神です。しかし、聖書の神は私たちを背負って運んでくださる神です。神様は私たちのいのちを造ってくださっただけではなく、私たちを背負ってくださり、また運んでくださる方です。私たちは神様を喜ばすために何かをしなければ成らないのではありません。神様が私たちを守り、導き、運んでくださるのです。私たちは、ただ、神様に導かれ、持ち運ばれることを喜べばよいのです。神様の約束を信じて。私は幼いときに、母親におんぶしてもらったことがあります。病気のときは、いつも母が私をおんぶして病院まで連れて行ってくれました。そのとき、子供心にとてもうれしかったことを覚えています。親に持ち運んでもらっていることがうれしかったのです。神様は私たちを持ち運んでくださいます。今年1年間、私たちは、いろいろな場面で神様に持ち運んでもらったのではないでしょうか。いろいろなことがありましたが、今、神様の前で、多くの方と一緒に全能者であり、私たちを愛してくださる神様を礼拝できることは何と幸いなことでしょう。ヨセフのように神様を信頼して、神様の導きを待ち望んで、新しい年も歩み続けましょう。このときもまた、主の使いが現れて、彼らにユダヤに留まらずにガリラヤへ行くように言いました。それで、彼らは、自分たちの故郷であるナザレに戻ることにしました。彼らは、ナザレに落ち着き、幼子イエスはナザレで成長しました。