礼拝説教 2007年9月30日 「互いのために祈る」(ヤコブ5:13-20)

2007.10.25

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 神様は、私たちに口を与えてくださいました。そして言葉を与えてくださいました。自分の気持ちや考えを言葉に表すことができることは本当にすばらしい祝福です。私の家にはペットのウサギがいます。とてもかわいくて、えさを持っていると私から離れようとしません。ところが、ちょっとウサギをからかうと「くーっ」と言って怒ります。そんな時に、ウサギと話ができたらどんなに楽しいだろうかと思います。しかし、ヤコブがこの手紙で書いているように、私たちの口から出る言葉は人を生かすこともできますし、人を殺すこともできます。ヤコブは3章10節で、「賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」と言っています。神様が私たちの祝福のために与えてくださった口を、良いことにも悪いことにも使うことができるので、私たちは注意しなければなりません。ヤコブは5章の終わりのところで、口を用いる最善の方法について述べています。それが13節に書かれています。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」祈ることと讃美すること、これが口を用いる最高の方法なのです。特にヤコブはさまざまなことについて祈るように勧めています。クリスチャンにとって祈ることはもっとも大きな特権だと思います。アメリカ大統領に会うには招待状をもらっているか、ホワイトハウスに入る許可証を持っていなければなりません。非常に、厳しいセキュリティチェックがあります。しかし、まったく許可証を持たずに大統領に会える人がいます。それは大統領の家族です、子供です。私たち、クリスチャンは神の子供となる特権が与えられています。だから、私たちは大胆に神に近づくことが赦され、神様に私たちの必要や願いを言い表すことが許されているのです。ヤコブは当時さまざまな困難や試練を経験していたクリスチャンたちに、なによりもまず祈ることを勧めています。しかも、それぞれが自分のことを祈るのではなく、お互いにほかの人々のために祈るように勧めています。他の人のために互いに祈りあうことによって、教会の歩みが強くなるのです。私たちも、ヤコブの勧めにしたがってお互いのためにいろいろなことを祈ることが神様の御心です。


(1) 苦しみのために祈る

 この手紙が書かれた時代、初代教会の時代のクリスチャンは、誰もが、さまざまな試練や苦しみを経験していました。私たちは苦しみや試練を味わうと、口からつぶやきの言葉が出てきます。そして、誰か他の人を批判したり、あるいはこんな試練を与えた神様に向かってつぶやきます。しかし、どれだけつぶやいても、批判しても、神様に怒りをぶつけても自分が置かれている状況は変わりません。私たちは、困難なこと、思いがけないことが生じたとき、まず神に祈るべきです。神様に、困難な状況を理解し、それを耐え忍び、乗り越えるための神の知恵を求めることが大切です。もし、神様の御心であれば、苦しみを与える情況を神は変えてくださり、苦しみがなくなります。しかし、いつもそうだとは限りません。パウロは自分がわずらっていた思い病気を取り除いてもらいたいと思って、何度も何度もその病気のために祈りました。しかし、彼の場合は、その病気はいやされませんでした。苦しい状況は変わらなかったのですが、神様はパウロに豊かな恵みを与えました。それは重い病気を経験した人にだけ与えられる特別な恵みでした。それで、パウロは、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」という信仰告白ができる人物に変えられました。人間の本当の強さは、体力にあるのでも武力にあるのでも、また知恵の力にもあるのではありません。

自分が弱いときにこそ、私は強い」と告白できる人は、自分に頼るものがないので、完全に神により頼んでいます。神の力と人間の力は比べ物になりません。私たちがどんなに体力や能力が乏しくても、嘆く必要はありません。神様の恵みは弱いところに、足りないところに完全に働くからです。主イエスも十字架にかかる直前にゲッセマネの園で祈られました。主は十字架の苦しみから逃れることはできませんでしたが、その祈りによって、十字架の恥と苦しみに立ち向かう力が与えられたと思います。私たちが苦しいとき、試練にあっているとき、あきらめずに祈り続けましょう。また、私たちはいつも苦しんでいる人々のために祈りあうことが大切です。主にある家族が互いに祈りあうことによって私たちはしっかりと信仰の道を歩み続けることができるからです。


(2) 病気のために祈る(14-16)

 初代教会の人々は病気の人々のためによく世話をし、彼らのために祈っていたようです。ヤコブは、病気の人は教会の長老たちを招いて、オリーブ油を塗って祈ってもらうように勧めています。長老とは、初代教会の中で霊的に成熟した人々で、メンバーたちの世話をする責任が委ねられていた人々です。また、オリーブ油を塗ってとありますが、当時は、病気の人々のために祈るとき、よくオリーブ油を塗って祈っていたようです。オリーブ油には二つの意味があります。一つは、当時油は薬として用いられていました。よきサマリヤ人のたとえ話の中でも、怪我をして倒れている人を助けたサマリヤ人は怪我をした人の体に油とぶどう酒を塗っています。また、聖書の中では、油は聖霊のシンボルとして用いられています。ですから、油を塗って祈ることは、実際の薬の働きとともに、聖霊の働きがあることを意味しています。しかし、人の病気を癒すのは長老の特別な力でも、油の力でもありません。癒されるのは神様です。だから、15節に「信仰による祈りは、病む人を回復させます。」と書かれているのです。信仰の祈りとは、第一ヨハネ5章14-15節に書かれている祈りを意味します。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」信仰の祈りとは、神の力、神の御心を絶対的に信頼する祈りです。ただ、間違えてはいけないのは、病気の人のためにいのったら必ず癒されるとは限らないということです。先ほど述べたパウロの場合がそのことを現しています。彼は世界最初のキリスト教宣教師として働きましたが、おそらく目に関する重い病気を持っていました。そのため、彼の言葉は力がありましたが、彼の姿は弱々しかったようです。この病気がなかったら、パウロはもっと多くの人に、もっと力強く福音を宣べ伝えることができたはずです。パウロもそう考えていたと思います。それで彼は何度も自分の病気の癒しのために祈ったのですが、彼の場合は癒されませんでした。ですから信仰の祈りとは、神の力に対する絶対的な信頼に加えて、神の主権、神の御心に対する絶対的な信頼をも含みます。私も時々、入院している人を訪れてその人のために祈るときがあります。毎回毎回、「主の御心なら癒されると信じます。御心ならば癒してください。」と祈り、その後は主にゆだねます。年に一回大阪から来るポール・サンデーという私の友達の宣教師がいます。彼は20年ほど前に、ひどい大腸がんになって、医者からは助からないと言われていました。彼は私より2つ年上ですので、そのころ30歳くらいでした。仲間で集まって彼の癒しのために祈りました。すると、感謝なことに、医者が奇跡としか思えないと言うような癒しが起こりました。一方、以前シンガポールの宣教師であった横内先生の場合、長い時間がかかってようやくシンガポールの市民権が取れたというときにガンに倒れました。私はきっと神様が癒してくださると思っていたのですが、横内先生の場合は主が天に召されました。なぜ癒される人と癒されない人がいるかは分かりません。でも、一番大事なことは、その人が永遠のいのちを持っているかどうかということです。私たちの中には長く生きる人もいれば、人よりも早く生涯を終える人もいます。でも、長く生きた人が短く生きた人よりも必ず幸せだとは言えません。人の一生は長さで決まるのではなく、どのような生き方をしたかで決まるからです。私たちは、生まれることも死ぬことも神様の主権の中にあることを覚えることは大切なことです。


(3) エリヤの祈り

 17節と18節にエリヤという人物の祈りが出て来ます。彼はイエス様よりも800年以上前に活躍した旧約時代の偉大な預言者でした。彼が活躍した時代、イスラエルは北王国と南王国に分かれていましたが、北王国の王様はアハブという旧約聖書の中でももっとも悪い王様の一人でした。彼と彼の妻イゼベルがイスラエルに外国の神を持ち込み、旧約聖書を信じる多くの預言者を殺しました。神は、そのために北王国にエリヤを通して罰を与えたため、この国には3年半の間雨が降りませんでした。その後、エリヤは外国の神、バアルの預言者たち450人と別の神アシェラの預言者400人と自分ひとりだけで対決をし、どちらの神が祈りに答えてくださることか勝負をしました。バアルとアシェラの預言者たちは踊ったり叫んだりして自分たちの神に祈りましたが、何の応答もありませんでした。しかし、エリヤが一人で祈るとたちまち祈りが聞かれ神の力がはっきりと現れました。その勝負が終わってから、エリヤは国が必要としていた雨を求めて、カルメル山という山に登って祈りました。ある程度祈ると、彼は召使に海のほうを調べさせました。しかし、雨が降る気配はありません。エリヤはそれを7回繰り返しました。雨が降るような気配はまったくありませんでしたが、彼はあきらめずに祈りました。すると、7回目に、遠い水平線に手のひらぐらいの雲が現れました。やがて、3年雨が降らなかった国に、大雨が降ったのです。

 ヤコブはエリヤの祈りを通して私たちに何を教えようとしているのでしょうか。エリヤは北イスラエル王国のために祈りました。国が偶像礼拝の罪を犯して神から離れようとしていた時に、そのような人々が神に立ち返るように、神の裁きを祈りました。しかし、その後は、国が必要としていた雨を求めて祈りました。彼はイスラエルの優れた預言者でしたが、ヤコブは「エリヤは、私たちと同じような人でした」と書いています。彼は特別な人間ではありません。預言者でしたが、私たちと同じような人でした。弱さも持った人物でした。彼は雨を求めて祈りましたが、彼は7回も召使を送って空の様子を調べさせました。6回目に召使を使わしたときも、まったく雨が降る様子はありませんでした。エリヤが祈り始めてから、神様が動き始めるまで7回の見張りが必要でした。今は何でもインスタントの時代なので、私たちは、祈りも1回祈ったら答えが欲しいと思いがちです。しかし、信仰の祈りは忍耐して待つ祈りでもあります。祈りの答えは、私たちがよいと思うときに答えられるのではなく、神様が良いと思われるときに与えられるものです。このように忍耐して祈るうちに、私たちの祈りが変わっていくことがあります。最初は自己中心的な祈りをしていたのが、忍耐して祈り続けるうちに、自己中心的な考えが取り去られて、本当に祈るべきものを求め祈るようになることが多いです。だから、時間がかかる祈りというのは私たちの霊的な成長にとって大切なのです。また、7回目に見えたのは水平線のうえに手のひらぐらいのほんの小さな雲だけでした。私たちは、祈るときに、大きな答え、神様のドラマティックな答えを期待しますが、神様の働きは小さなところから始まることが多いと思います。私たちも、国ため、政治家のために祈る必要があるでしょう。今の日本、本当に心が病んでいる人、苦しんでいる人が本当に多いです。物質的には満たされていても、心が満たされていない人がとても多いのです。そのような国ために祈ることはクリスチャンの責任です。また、他の国のためにも祈ることが必要です。世界中のすべての人がイエス・キリストを信じることが必要です。主イエスを信じなければ天国に行くことは絶対にできないからです。一般の市民が苦しんでいる国のために、ミャンマーや内戦が続く国のためにも祈ることが必要でしょう。


(4) 教会から離れた人のための祈り

 最後にヤコブは19節、20節で、信仰から迷い出た人々のために祈ることを勧めています。激しい迫害にさらされていたユダヤ人クリスチャンの教会の人々の中には、信仰から離れる人がいたようです。そして、中には罪の生活に逆戻りしていた人もいたようです。私たちは、その人たちの救いのために祈らなければなりません。罪とは神から離れて生きることを意味します。だから、信仰から離れた人々のためには、神様のところへ戻るように祈らなければなりません。

このように、私たちには祈ることが数多くあります。神様は、全能なる方です。悩めるときに、呼び求めると答えてくださる方です。もし、私たちが銀行の口座に1億円持っていたとしましょう。それだけたくさん持っているのに、毎日10円だけを引き出そうとするのはおかしいですね。神様は、私たちに向かって、今日も「求めなさい」とチャレンジを与えておられます。何かが起きたときに、パニックにならないように、自分で何かしようとする前にまず神に祈りましょう。神があなたを助け、導いてくださるからです。ファニークロスビーという賛美歌の作詞家がいます。彼女はこどもの時に失明しました。そのような中で彼女は8000曲もの歌詞を書きました。彼女は、いつも歌詞を書く前に祈ったそうです。彼女の生涯の多くの時間が祈りに捧げられました。あるとき、W.H.ドーンという人から曲が彼女のもとへ送られてきたのですが、彼女はなぜか歌詞が書けませんでした。その時、彼女は、祈っていなかったことに気がついたので、すぐにひざまずいて祈り始めました。祈りが終わると、彼女のこころに次々と言葉が浮かんできたので、彼女はすぐにいつも筆記をしてくれる人を呼んで、その人に歌詞を書き取らせました。このようにしてできたのが聖歌の369番「十字架のかげに」です。「おらせたまえ主よ。十字架のかげにとこしえまで」彼女は、心から神に無向かってこのように祈ったのです。

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